2019/10/5, Sat.

 ちがう
 ぼくが言う くだけちったガラス
 あらゆるものが萎れるんだ
 ほんとうに宇宙は
 なにもない
 一人の女から産まれて
 ここにいる それじたいが 暴動だ
 (岡本啓『グラフィティ』思潮社、二〇一四年、7; 「コンフュージョン・イズ・ネクスト」)

     *

 地上の紫の夜は
 やっと
 こみあげてくるほどすずしくなった
 だからか、どんな男女も
 まあたらしい精霊のふりだ
 (18~19; 「濃いピンク」)

     *

 ふいにぼくは
 ここにいないやつのことを
 ここにいないからこそ書かなくてはとおもう
 さっきまで
 肩をぶつけあってたやつらを
 背のたかい少年は
 ひかりのぐあいでみうしなって
 つばをのむ
 広大な駐車場をすべりきり
 それでも まだ、ひとりなら
 たぶん
 股間をたしかめる
 その一瞬の ふかい青空

 ぼくはなにもいうことがない
 ひろがりに
 ひとはきえていくのに
 ひろがるそれをまえにすると
 なぜことばがうしなわれてしまうのか
 砂ぼこりをしずめるのではない
 ただ、むねをひく
 雨のにおいがした
 (28~29; 「ペットボトル」)


 七時半に目覚めた。四時半に床に就いたので三時間ほどの睡眠、そのわりに頭も身体も軽く、意識は晴れていて、カーテンを開ければ空も晴れ晴れと、雲の一片もなくて見事な秋晴れ、しかし今日はまた三二度くらいまで上がると聞いたから秋晴れと言うには少々暑さが勝るかもしれず、夏の名残りが長く続く年である。床を抜けると部屋を出て、便所に行けば母親は既に上階にいるようで、父親も起きたところで衣装室でラジオを流しながら着替えをしていた。トイレで放尿し、出ると手を洗い、口を濯いで顔も洗って室に戻れば、窓から入口まで一直線に、朝陽が床を這うようにして床に宿っている。コンピューターを点けると早速日記に取り掛かった。何と勤勉なのだろう! 何の無理もなく、腹が減れば自然と食事を取るように、消化をすれば自ずと排泄に向かうように、文章を吐き出している自分にびっくりするくらいだ。ひたすら文を綴り、生を記録するだけの自動筆記機械になる日も近い。一時間弱で前日分を仕上げてこの日のものもここまで綴り、八時半を回ったところである。
 寺尾聰のライブ音源を流し、"I Call Your Name"を合わせて歌ったあと、英文記事を読みはじめた。Jonathan Beale, "Wittgenstein’s Confession"(https://www.nytimes.com/2018/09/18/opinion/wittgensteins-confession-philosophy.html)とRobert Zaretsky, "What We Owe to Others: Simone Weil’s Radical Reminder"(https://www.nytimes.com/2018/02/20/opinion/simone-weil-human-rights-obligations.html)で五〇分くらいだろうか。後者の、シモーヌ・ヴェイユについての記事の途中で、何となくMr. Big『Get Over It』を思い出して、と言うか実は何となくではなくて"succor"という単語が出てきた時に"Suffocation"という語が連想されて、Mr. Bigにこのタイトルの曲があるものだからそれの入っている『Get Over It』を想起して流したのだったが、実際には"Suffocation"が収録されているのは『Get Over It』ではなくて次の『Actual Size』だった。それで『Get Over It』を、数年ぶりどころか一〇年ぶり以上になるかと思うが流してみると、これがなかなか良い作品だった。このアルバムはMr. Bigの作品のなかではおそらく一番地味な扱いをされているもので、こちらも入手した当時、ハードロックに明け暮れていた頃でも大して聞きもせず、確かに地味だなと簡単に払ってしまっていたように思うのだが、今になって聞いてみると地味と言うよりはむしろ滋味深いようなブルージーさ、ソウルフルな色合いが心地良く、加えて明朗なキャッチーさが上手い具合に添加されてまとまっている佳作ではないか。それで聞いている途中で、LINEでT田に向けて、もの凄まじく久しぶりに聞いているがなかなか良い作品だぞと送っておいた。以下に英単語リストを載せ、一つ目の、ウィトゲンシュタイン信仰告白についての記事からの引用も付す。

・unsparingly: 容赦なく
・reverence: 畏敬
・interrogation: 尋問、取り調べ
・acclaimed: 高く評価された
・perjury: 偽証
・ruminate: 時間を掛けて真剣に考える、熟考する
・beyond measure: 計り知れないほど、並外れて
・injunction: 禁止命令
・askesis: 自己鍛錬、克己
・ascetic: 禁欲的な
・penance: 自己処罰
・elicit: 引き起こす
・no man's land: 緩衝地帯、中間地帯
・precipitate: 引き起こす、促進する
・relish: 享受する、味わう
・executor: 遺言執行人
・exemplar: 模範、手本
・assembly line: 工場の組み立てライン
・succor: 援助する
・blurt: うっかり喋る、口走る
・sanity: 健全さ、正気
・seminal: 影響力の大きい、独創性に富んだ
・position paper: 方針説明書、政策方針書
・entrenched in: 定着している、凝り固まった
・enshrine: 祀る
・codify: 成文化する
・vendible: 販売可能な
・clout: 影響力
・browbeat: 威嚇する
・ludicrous: 滑稽な、馬鹿げた
・electronic benefits transfer card: カード形式の困窮者用食料切符
・fetus: 胎児
・panacea: 万能薬、解決策
・predicament: 苦境、窮状
・barrage: 弾幕放火、集中砲火、一斉射撃

Despite the reverence Wittgenstein inspires in intellectual history, he remains an enigmatic figure. But a few biographical points are helpful here. In 1919, straight out of the Austro-Hungarian army, he trained to be an elementary-school teacher and taught in Austria from 1920 to 1926. Believing he’d solved all the problems of philosophy in his soon-to-be-published “Tractatus Logico-Philosophicus” (1921), his focus turned to self-improvement. Influenced by Tolstoy’s romanticized vision of the self-cultivation developed by working and living among peasants, Wittgenstein began teaching in poor, rural villages.

Like Socrates, Wittgenstein saw philosophy as at least as much an exercise in self-honesty as an intellectual endeavor. In a 1931 remark among the collection of notes posthumously published as “Culture and Value” (“Vermischte Bemerkungen,” 1977), Wittgenstein writes that philosophy’s difficulty lies “with the will, rather than with the intellect.” The same goes for confession. Wittgenstein didn’t lack the insight to locate and define his own failings; rather, as Rhees says, Wittgenstein found it difficult to recognize that he had been behaving “in a character that was not genuine … because he hadn’t the will.” To escape self-deception Wittgenstein needed to do “something that needed courage” — to confess.

Admitting wrongdoing and seeking forgiveness weren’t Wittgenstein’s main concerns; his concerns were escaping self-deception and changing himself. Confession fulfills this role because it requires courage and askesis — self-discipline. Wittgenstein’s demands on himself were high: during his confession Pascal asked, “What is it? You want to be perfect?” — to which he proudly replied, “Of course I want to be perfect.”

 さらに続けて、「週刊読書人」のウェブサイトから、「特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」」(https://dokushojin.com/article.html?i=1580)を読む。なかなか興味深い論点が色々と見られる対談である。『中動態の世界』も買って以来積んであるので、さっさと読みたいものだ。

大澤 この本でいろいろな方について言及されていて、一番重要な役割はバンヴェニストですが、彼を別にすると、スピノザともう一人の重要な主役としてハンナ・アレントが出てきます。アレントによる意志の定義が素晴らしくて、意志の概念は実はギリシャにはなくて、アリストテレスには意志の概念はないんだと。よく似たような概念はあるけれど、それは我々の言っている自由意志の概念とは違うんだということをアレントは言っていて、なるほどとすごく納得しました。國分さんもそれを利用しながら進めていくのですが、しかし結果的にアレントと國分さんは真逆の立場になる。アレントはある意味で意志の概念を救い出そうとしていますが、國分さんはむしろ意志は特殊な世界観の中でしか現れないものであって、それを立てた途端見えなくなるものがあるんだという立場で考えていく。國分さん風の考え方のラインのほうが普通だと思いますが、アレントは逆方向で行く。國分さんから見たときにアレントをどういうふうに評価するのか。ハンナ・アレントの立場から考えてみると、アレントは新しいものを人間が創り出すことにものすごく高い価値を与える。

偶然にもシンクロしていて面白いなと思ったのですが、僕はひと月前から朝日新聞の書評コーナーで「古典百名山」というエッセイを書いていて、担当の第一回はカール・マルクスの『資本論』、第二回はハンナ・アレントの『革命について』を書こうとしていたんです。そうしたら、この本の一番最後も『革命について』で終わる。能動・受動・中動の問題と少し関係があって、簡単に言うと、アレントフランス革命よりもアメリカ独立革命の方が偉いと書いてあるわけです。なんで偉いかというと、彼女がすごく重視している問題があって、アメリカはヨーロッパと違う仕方でポリティカル・ボディを立ち上げていると。どういうことかというと、アレントは新しい政治のシステムを創ることは素晴らしいことだと思っていて、それがなぜ正統性、権威を持つかということに関心を持っている。例えばフランス革命だと王権もカトリックも潰して正統性の調達に苦しんで、「理性の祭典」をやったりする。最後には、エキセントリックな展開になっていってテロの嵐に至る。 それに対してアメリカ独立革命はどうしたのか。アメリカはヨーロッパから離れているのでヨーロッパ風の方法で自分たちを正当化できない。ここで能動態の問題が出てくる。つまり彼女はゼロから建国したことが、えも言われぬオーソリティーを宿すんだと。簡単に言えば神が世界を創造したのと同じようなことを人間が行う、永続性のあるものを人間が作ることがものすごく素晴らしいんだと。そこにオーソリティーが宿っていくのだと彼女は言う。彼女からすると本当は中動態の発見というのは困ることです。でも彼女は勘がいいからアリストテレスの中に意志の概念は無いんだと発見してしまう。でも彼女はむしろ意志の概念を救い出したいんです。ゼロからの創造を支える意志を救い出そうとする、それがある種人間を価値付けることだと。アメリカの憲法は能動態的に作られていて、そこに独特の輝きがある。アメリカで最高裁が重要な意味を持つのは、憲法を能動態で作った記憶を裁判所が保存し続けているという方法で人間は政治が出来るんだと。

大澤 実は、意図があって聞いているのですが……我々の憲法である「日本国憲法」が念頭にあるんです。アレントアメリカの憲法がなぜ権威を持ったのか考えている。憲法の正統性に関して普通は神様に与えられたとか、自然法に適っているとかそういう法や政治の外部にある絶対的なるものに参照する方法をとっている。つまり受動態なんです。それに対してアメリカはヨーロッパのように伝統に頼ることができなかったから、創設したということが権威の源になった、ゼロから能動的に創ったということがえも言われぬオーラを発揮したんだという説明なんです。

そこで僕は我が国の憲法のことを思った。この国の憲法がうまくいかない理由はアレントを読むとよくわかる。我々日本人は戦後体制を創った時に創設したという感覚は持っていない。創設するということが持っている輝きがゼロなんです。アメリカが能動的に作った憲法に対して、日本人は押し付け憲法と言うように受動態なんです。受動態だから自分たちは何となく気に入らないということになっている。しかし、第三の態として中動態的に我々の憲法というものを我がものにする手があるのではないかと僕は内心思っているんです。そういうふうに考えるとこの概念、言葉は一つの哲学としても文法の理論としても面白いけど、日本人にとってすごくポリティカルな意味を持ってくるという気がしている。

國分 非常に興味深いご指摘です。伺っていて思ったのは、アメリカの憲法がなぜそこまで権威を持つことができるのかというと、自分達で自分達に憲法を与えたから、つまり、能動態というより中動態で記述されるべき過程がそこにあったからではないでしょうか。日本国憲法の場合は、仮にそれが押しつけられたものだとすると、押しつける側と押しつけられる側の対立、つまりいわゆる能動態と受動態の対立にあることになる。すると、能動と受動の対立の中にあるものを、なんとかして中動態のもとで引き受けられるようになったとき、憲法を権威あるものとして受け止められるようになるのかなと、いまお話をお伺いしながらそのようなことを考えていました。

大澤 本書でアレントのカント批判に少し触れていますが、カントは実践理性において人間の意志の自律について徹底的に考える。そしてそれは定言命法、厳格な法則に従っていることなんだとなるのですが、アレントからすると意志の自由を救い出そうとしているのに、カントの定言命法では意志がないということになっているということで否定するわけです。能動性の極限に徹底した受動性があるといった構造になっている。つまり、カントでは能動の方を追求すると受動に到達するという形式で、見ようによっては中動態に到達しているわけです。印欧語の一番古い、プレ・ソクラテスよりもさらに前みたいなところに中動態のオアシスがあるんだけれど、同時にこれほど遠く離れたところはないというところに辿り着いたら(カント)また中動態に出会っているようなことがある。

大澤 アレントにはどう付き合ったらいいかわからないところがあるんです。例えばアレントの師のハイデッガーは難しいけれど、西洋の思考の体系、形而上学からどうやって抜け出すかみたいなことにすごくこだわっていて、そのプロセスに乗っかりたい、身を委ねたい気持ちになるから読みやすい。アレントはあまりにも西洋を基本は全面的に肯定してしまっているので、思考の全体に付き合うことは難しい。ところが彼女はすごくセンスが良くて、例えば「あらわれ」とか「あらわれの空間」というアレントの言い方、これは一人ひとりをかけがえのないものとして尊重しましょうということなんだけど、「あらわれの空間」なんて言われるとグッとくる。

國分 詩的なところがありますよね。

大澤 彼女のそういう言い方に惹かれてしまう感じがあります。ただ、アリストテレスギリシャ哲学に彼女が見つけ出したかった「無からの創造」がないということに気付いたとき、急にクリスチャンになってキリスト教アウグスティヌスの研究をしたりする。狙いを定めて外して迷走する。そのアレントが揺れていく感じというか、迷走感が面白い感じがする。

國分 彼女自身が迷走していてそれがある意味では親しみやすさを感じさせるのかもしれない。

大澤 アレントの創設という考え方は全体としてみれば中動態の構造なんです。でも彼女としては「無からの創造」という能動性を強調する感がある。

憲法の話に戻ると日本人は自分の憲法について押し付け、使役感が強い。細かい論点になりますが、柄谷行人さんが『憲法の無意識』(岩波書店)を書かれたときに対談したのですが、その本のあとがきのエッセイが面白くて、押しつけ問題のことなんです。押し付けだから納得できないというのが僕らの憲法に対する感覚ですが、それに対して柄谷さんは押し付けこそ真実だと。具体的には内村鑑三のことが書いてあって、内村鑑三は最初はキリスト教が受け入れられなくて結局押し付けられる。ところがその後状況が変わったときに押し付けた方はみんなキリスト教を捨てていくのに、一番押しつけられ感が強かった内村鑑三だけが最後までキリスト教を貫いた。柄谷さんは、押しつけられたものだから我がものではないというのは本当だろうかということを問題にしていて、結論が書いてあるわけではないのだけれど、そのエッセイについては昔、加藤典洋さんが「柄谷の奇説」と引用している。普通の人は憲法をどうやって主体化するか考えているのに、柄谷さんは主体化できない方が偉いんだみたいなことを書いているわけです。

 一〇時一〇分に記事を読み終えたあとはLINEでT田としばらくやりとりをした。『Get Over It』を貸してくれと言うので、ディスクは多分売り払ってしまったと思うと答え、代わりにデータを送ることにした。ついでに今日は七時半に起きてもう日記を済ませた、何と勤勉なのか! と自画自賛すると、T田はもう読んだと言う。こちらも早いが、あちらも早いものだ。
 それから上階に上がって、母親を探せば玄関の外にいるようなのでサンダル履きで扉を開けて、家の前の水場で何やらまごまごしているのに、先ほど彼女が部屋に来た時に蕎麦でも食べに行こうかと言っていたので、蕎麦屋に行くのかと訊けば行かないと笑うが、こちらは店の蕎麦というものを久しぶりに食いたかったので行こうと押した。行くなら早めに、一一時頃には行かなくてはと言うのを受けて屋内に戻り、上階に来たついでに風呂を洗って下階に戻ると、蕎麦屋に行くつもりで服を着替えた。赤褐色の幾何学模様が入ったTシャツに、下は最初は黒一色のスマートなズボンを履いたのだが、シャツとの色合いがあまり相応しないように感じられたので、いつも通りオレンジ色のパンツに替えた。そうして一〇時半から日記。途中で母親が部屋にやって来て、蕎麦屋に行きたくはないようだったがこちらが行こうよと我儘を言うと、宅配便が来ると思うから一一時半くらいまで待とうと言うので了承した。それからすぐに今度はベランダに続くガラス戸がどんどん叩かれたので、開けて母親とともに布団を干し、ついでにコート二着も日に当てるということで物干し竿に吊るした。音楽はMr. Big『Actual Size』を流しはじめている。
 四曲目の"Arrow"を歌ったのが一一時直前である。それから音楽を止めて上階に行き、冷蔵庫のなかで冷やされた水をコップに注いで飲むと、下階に戻って階段下のスペースに置いてある掃除機を取り、自室に持って行って床の埃を手早く軽く吸い取った。掃除機を元の場所に戻しておくと、蕎麦屋に出掛ける一一時半までまた記事でも読むかというわけで、奥泉 光×小森陽一「二十世紀文学の流れを先取りしていた漱石」(https://dokushojin.com/article.html?i=1996)をひらく。夏目漱石の『草枕』も早いところ読んでみなくてはならない。これは確か三宅さんが漱石のなかで一番好きな小説だと言っていた作品でもあったはずだ。二つ目の引用でいわゆる「意識の流れ」を漱石が取り入れた実践例として取り上げられている『坑夫』はこちらも読んだことがあって、と言って当時はまだまだ目が磨かれていなかったからその真価は掴めていなかったはずで、この作品もいずれまた読み返したいものだ。『坑夫』がなかなか変な小説だったという話は、前回Mさんと通話した時にも話題に上がったと思う。

小森 『吾輩は猫である』の集大成が『草枕』というのはすごい認識ですね。『草枕』はこの『漱石辞典』の中でもいろいろなところに登場していて、その旅がなかなか面白いのだけど、その中で私の同僚の松岡心平さんという能の専門家が『草枕』は能そのものだと書かれているのです。確かに実際に能仕立てになっていて、能舞台で演じるように那美さんは行ったり来たりしている。それで能の世界だと考えてみると、能では旅の僧であるワキが画工で、この場所にはこういう言い伝えがあると説明する茶屋の婆さんが前ジテ。そして後ジテとして那美さんが出てくる。

奥泉 であるならば、本当は那美さんは死者の霊を担って出てこなくちゃいけない。

小森 そこで大転換があって、彼女はこれから死にに行く久一さんを送っていく。しかも那美さんはシェイクスピアのオフィーリアとも重なる。

奥泉 長良の乙女=オフィーリアという死者たちを担って、つまりシテとして彼女が登場するのが本来の能の構造なんだけど、しかしそれはやらない。

小森 岩から飛び降りるのかなと思うと向こう側に飛び移るだけ。長良の乙女は二人の男に惚れられたから自ら身を投げて自殺するのだけど那美さんは、二人とも「男妾にするばかりですわ」と。

奥泉 漱石は物語の構造をわざと脱臼させているんですね。

奥泉 ですね。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」と同じで、あの二つは降りてきた感がある。それともう一つは『坑夫』です。あれもやっぱり突発的に出てきた感じがする。漱石の小説の創作に理解できる流れはいちおうあるんですよ。『草枕』を書いて、それから新聞社に入って『虞美人草』を書いた。『虞美人草』は『草枕』の流れをくんでいるんだけれど、あまり評判が良くなかった。

小森 というか自分でもあれは失敗したと判断したのだと思います。

奥泉 それでもうちょっと都会風俗など入れ込んだ『三四郎』を書く。『三四郎』にも『草枕』っぽいところがいっぱいあるんだけれど、しだいにリアリズムに近づくような形で『それから』や『門』が書かれていく。しかし『坑夫』だけは全然違うじゃないですか。あのスタイルは相当変ですよ。

小森 ごく僅かな時間差の中で、「私」がここまで理解したことを語るという、非常に限定された世界の作り方ですね。微妙な語りの位置と現在進行系の物語の位置をずらすという、この技はやはり『坊っちゃん』で獲得しているわけですが、その意味では漱石の小説の中では『坑夫』が一番新しいですよね。ほとんど意識の流れ小説で、もっとも二十世紀的な小説だ思います。

奥泉 意識の流れの技法を漱石は学んで書いたということでいいのかな。

小森 それは意識していたと思いますよ。文学理論ベースの一つがウィリアム・ジェイムズだから、弟のヘンリー・ジェイムズが意識の流れ小説家。まあどこまで実証できるか課題ですけれど、そのあたりもこの辞典を交錯読みすると見えてくると思います。

奥泉 でも意識の流れの技法をその後は漱石はそんなに使わないですよね。

小森 それは新聞小説でどこまでやれるかということがあったのではないですか。それと『虞美人草』で作者というのを前面に出したけど、世界を構築出来ず、ある種敗北するわけです。小説は作家の思い通りにならないものなのだという経験が大きかったんのではないか。だからむしろ設定だけ作っておいて、中の言葉の自然体に任せてどこまで行けるかというのが『坑夫』で、その両方がやれたので、『三四郎』で急にうまくなった感じがするわけです。でもそのベースはやはり『坊っちゃん』の一気書きにあるというか、あれは漱石の無意識が吹き出していると思います。

 それから続けて「柄谷行人氏ロングインタビュー 「ルネサンス的」文学の系譜 『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=2104)を読み出したのだが、あとほんの少しで読み終わるというところで天井が鳴って、行こうという母親の声が聞こえたので、中断してコンピューターをスリープさせ、クラッチバッグに財布と手帳のみ入れて階を上がったが、予期された通り母親はまだ支度を済ませておらず、また何やらぐずぐずとするものだから、そのあいだ卓に就いて新聞を読んだ。一面には香港で抗議活動の過激化を受けて緊急条例とやらが発動されたという報があって、これは行政府に立法権限を与えるものらしく理解したが、それでマスクをつけて顔を隠しながらデモに参加すると罰則というような禁令が早速発布されるらしくて、最悪ではないかと思った。二面をひらけばそちらにも香港関連の記事があって、その末尾には、警察の武器使用基準に関してもちょっと変更があって、正確な文言は忘れたが、警察官が死亡したり重傷を負ったりする恐れがあると判断される場合は銃火器を使っても良い、というような感じになったらしくて、これも結構やばいのではないか、乱用されるのではないかと思われた。
 新聞を読むと、母親はまだぐずぐずしているので先に外に出た。家の前の道路には日向が敷かれて、向かいの家を縁取る垣根の、一部葉が真っ赤に色づいているあれは何という名前の植物だったか、ともかくその葉の緑の上に光の白さが乗って随分明るく、一〇月とは思えない。振り向いて我が家の屋根を越して空を見上げれば、青空に雲は厚みなく希薄で、白粉をはたいたように淡く流れている。陽のなかに出てみると、ちょうど風が通って林が揺れて、色を薄めた葉がぱらぱらと落下するが、林全体で見ればまだまだ青く、と言って一番外縁の木の、毛細血管状に垂れて分かれた枝についた葉は水気を失って萎んでいるように映る。
 じきに母親が来たので車を出してもらい、助手席に乗り込めば実に暑く、完全に夏時の車内の空気である。発車して、裏道を辿っていき、途中母親は、K.Hさんという同級生の家に寄りたいようなことを言っていて、何でも以前菓子を貰ったのでそのお返しとして朝に獲ったミョウガを持って行きたいということだったが、その人の宅の前まで来るとしかし車がないから出掛けているのだろうと素通りして、表道に出ると一路西へ走る。M田さんの話などを母親がするのを聞き流しながら到着を待っていると、二俣尾駅が近くなった頃、母親が、新緑がどうのと言って、それは新緑ではなくて紅葉と言いたかったらしく、兄かT子さんが写真を送ってきたのだろうロシアではもう紅葉が始まっているとかいう話だったが、こちらは「新緑」という語に釣り込まれて彼方に連なる丘陵に目を振れば、青さは残っているもののさすがにそろそろ盛りも過ぎて幾分黒っぽく、深いような色になっているのに、新緑の逆を考えるならば差し詰め、そんな言葉があるのか知らないが、「晩年」のような用法を援用して「晩緑」というところだろうかと考えた。そうしてじきに目的地、二俣尾傍の「かわしま」という店に入った。混んでいるのではないかと母親は頻りに言っていたが、案に反して駐車場に車は、おそらく従業員のものだろう店舗の脇に停まった一台しかなくて、客のものはまだ一つも見られなかった。降りてなかに入れば、中年の女性がにこやかに、丁寧に迎えてくれて、しかし暖簾を分けて客席のフロアに入るとやはり客は一人もいない。隅の二人掛けに入ろうとしたところ、店員が、どうぞ広いお席へと言ってくれたので好意を受けて四人掛けに移り、蕎麦茶を受け取って天せいろと野菜の搔揚げせいろを注文した。待つあいだは手帳を取り出してメモを取り、向かいの母親も何やら手帳に書きつけている。店内のBGMはアコースティック・ギターで奏でられるイージー・リスニングの類で、曲目は「ふるさと」などの童謡をやっているようで、穏やかと言うか非常に微温的だった。じきに母親が、昨日は二時二〇分頃だったね、と呟く。父親のことである。ソファで寝ていたと言うので、上がったのかと訊けば、ちょっと目が覚めたから見に行ってみたら眠っていたのだと言った。それで何だかばたばたしていたのかとこちらは受けて、一二時頃に俺が茶を注ぎに上がった時には本を読みながらうとうとしていたようで、ぐったりと頭を落としているのに声を掛けても返事がないから一瞬死んでいるのかと思ったが、それから起きたので安心したと笑った。お前は何時に寝たのと訊くので四時半と言い、それで七時半に起きたと続ければ、じゃあ三時間しか寝てないのと言わずもがなのことを訊く。それは良くない、と母親は言ったがそれ以上特に苦言は続かなかった。
 じきにこちらが頼んだ天せいろが届く。母親の野菜搔揚げせいろは結構遅れて届いて、来た頃にはこちらはもう半分以上食い終わっていたが、店員はきちんと、遅くなって申し訳ありませんと愛想良く声を掛けてくれた。蕎麦など食いつけないし、舌も肥えていないから、上等な品なのかどうかこちらには判断がつかない。普通に美味いが滅茶苦茶に美味いというほどでもなく、果たして一四三〇円を出す価値があるのかどうかはわからなかった。天麩羅はエノキダケに鱚、オクラに人参、南瓜に茄子に海老で、あと一つくらい何かあったような気もするが、記憶が蘇ってこない。先に食べ終えたこちらは蕎麦茶を啜り、また蕎麦湯で割ったつゆも口にしながら、また手帳にメモを取って待ち、母親が結構お腹いっぱいになるねと言って、搔揚げを食べて良いと言うのでほんの少しだけ頂いて、つゆに浸けて食った。会計は合わせて二七一〇円で、こちらが全額払うつもりが、母親は細かい銭があると言って七一〇円を揃え、さらに一〇〇〇円札も取り出して、こちらの分は一〇〇〇円で良いと言うので甘えることにした。それでこちらが席を立って、ぴったり揃った金と伝票を持ってレジへ行き、会計を済ませてありがとうございました、ごちそうさまでしたと頭を下げて退店した。外はまだまだ陽射しが染みて、一〇月には似つかわしくない語だが炎天と言うに相応しい。車に戻れば車内もふたたび温まっていて、随分と暑い。
 近くに餡ドーナツの美味い店があると聞いたとか言って、そこに寄ることになった。店の前に着けば、たくさん立ち並んだ旗には「きび大福」と記されていて、今時黍とは、昔話みたいではないかとこちらは口にした。母親が店に行っているあいだは車内で待ってまたメモを取る。戻ってきた母親に訊けば、餡ドーナツはもうやっていないらしく、と言うのもどうも細君が亡くなったらしく主人一人でほそぼそ回しているのでということで、代わりに素甘に大福、それに青梅煎餅を買ったと言った。店内には天皇陛下、と言ってこれは勿論現天皇ではなくて前天皇のことだろうが、その写真がたくさん飾ってあったと言うが、こんな田舎の店に皇族がわざわざ立ち寄るだろうか、とそんな話をしている頃には軍畑駅付近の橋まで来ていて川を見下ろせば絹糸を流したように光が細い筋となって水面を流れている。川向こうへ渡ると、スーパーマーケット「パーク」に向かい、着くとそれほど買うものはないと言うのでこちらは車内に残ってまたメモを取ることにしたところが、陽射しが強すぎてとてもでないがなかにいられないので、母親が置いていってくれた車のキーをポケットに入れて外に出て、軒下の日蔭に入って自販機の横に寄り、立ったままペンを紙上に走らせた。
 母親が戻ってくると車に乗って帰路へ就く。道中、バス停などに中学生の制服姿が目につく。信号で停まっているあいだ、オレンジ色の蝶がひらひらとフロントガラスの向こう側、車のすぐ目の前を横切っていった。橋を渡りながらまた川に目をやって、水面を彩る微細で緻密な襞模様のその精妙さに、川というものはまこと凄いものだなと思った。裏道に入って進んで行って、Kさんの宅を通りすがりに見てみれば今度は車があったので帰っていると見えて寄りたかったが、狭い道に生憎後続車が来ていて停まれない。坂を下って道が広くなったところで脇に寄り、後ろから来た車をやり過ごし、Uターンして停まると母親は先ほど買った菓子をいくつか取り上げて紙袋に取り分けていた。そのあいだこちらは外を眺めて、黄色の蝶が漂うその背後の草木が白昼の光に照らされて、明るすぎるくらいに艶々と輝いているのに、まるで春の情景だなと思った。坂を上ってKさんの宅の横につけると、こちらはまたメモを取って待ち、用事が済んで母親が戻ってくると帰途に就き、坂をまた下りれば道の先にY田さんの家の前の柿の実の、空間に点々と描かれたオレンジ色が周囲の緑のなかで際立っているのに、あの橙を、あの鮮やかさを、例年この時期、見落としてきたかとまた不思議に思った。
 帰宅して降りると母親のバッグを持って玄関を入り、持ったものを手近の台の上に置いておくと戻って買い物袋を受け取りなかへ、冷蔵庫に品物を入れると下階に下った。時刻は一時頃だった。LINEでT田から、書抜きを打ち込むのは時間が掛かるだろうにと来ていたのに、まあもう習慣だからと受けて、柄谷行人のインタビュー記事をふたたびひらいて五分で読み終えた。

柄谷 (……)最初に書いた漱石論は、冒頭にも書いてあるけれど、漱石の小説、特に長編小説の主人公が、小説の構造から言えば、やるべきことがあったのにやらないで、途中で逸脱していく。そうしたねじれ、構造的亀裂について論じたものです。たとえば『門』がそのひとつの例です。主人公の宗助はいろいろ問題があったはずなのに、すべてを放り出して参禅してしまう。そういうところが、漱石のどの長編においても当てはまるのです。『こころ』の先生も、一人で自殺してしまう。そのような共通性に気づいて、それが何なのか考えるようになった。そういう意味で、「わかりかけてきた」と言っているんでしょうかね。

その頃の漱石の長編小説への批評では、江藤淳の『夏目漱石』が典型的ですが、主人公の振る舞いを、「他者からの遁走」と言って批判していました。しかし、「他者」と言っても、「他なるもの」は様々です。たとえば、『門』の主人公は、ある意味では、「他なるもの」に向かったのです。それが妻のような他者を無視することになるとしても。しかし、それによって、漱石の小説が破綻していると言うことはできません。それで、僕はエリオットの『ハムレット』論を引用したのです。

エリオットはシェークスピアの『ハムレット』は、「客観的相関物」が欠けているから失敗作だと言っている。たとえばハムレットは復讐しなければいけないのに、変なことを考え始めて、復讐の課題をめちゃくちゃにしてしまう。しかし、そこが『ハムレット』のおもしろいところです。たんに復讐を実行するのであれば、よくある復讐劇、勧善懲悪の道徳劇です。それが『ハムレット』では、とんでもない方向にずれていった。しかもシェークスピアは、おもしろくしようと思ってそうしたのではない。そこはシェークスピア自身の感受性から出てきたんだと思います。同じような問題が漱石の小説にもあるのではないかと、僕は考えた。漱石の長編小説は、根本的には『虞美人草』のような道徳劇なのですが、それがいつも壊れてしまう。道徳的な次元と存在論的な次元の亀裂がそこに露出する。

それ以後も漱石については沢山書きました。観点は大分変っていますが、基本的に、最初に抱いた関心の延長です。たとえば、漱石に関して、「ルネサンス的」という見方をするようになった。それはバフチンの影響です。しかし、最初の「漱石試論」でも、「ルネサンス的」なものを見ていたと思います。“ルネサンス”は、極めて近代的な面をもつと同時に、あくまで前近代的です。つまり、それは前近代と近代のあいだの亀裂においてある。『ハムレット』もそうです。中世的でありつつ、極めて近代的に見える。ある意味で、前衛的に見えるけれども、古めかしいものでもある。『虞美人草』に始まる漱石の長編小説も同様です。その意味で、漱石は「ルネサンス的」な作家だと思います。そして、今回の「文学論集」をまとめたときに気づいたのは、漱石だけではなく、これまで自分が好んで対象に選んできた作家たちが、総じて名付けるとすれば「ルネサンス的」であったということですね。

――一部と二部、両方で取り上げられている作家が、漱石坂口安吾です。漱石と同様に、安吾に関しては、柄谷さんは繰り返し評論を書かれています。柄谷さんにとって、なぜ坂口安吾が「特別」な存在であるとお考えでしょうか。

柄谷 坂口安吾のメインの仕事というのは、すべて一六世紀の日本に関するものです。彼はまさに日本の「ルネサンス的」時代について考えようとした人だった。後に花田清輝が同じ時代について書きますが、これも安吾の影響であり、「ルネサンス的」ということを、戦前から安吾を通して考えるようになったんだと思います。一方で、フランス文学者の渡辺一夫が、フランス・ルネサンス期のラブレーをやっている。「ルネサンス的」という点から考えると、いろんな繋がりが出てきます。戦前に左翼が弾圧された時期に、そこに可能性を見ようとした人たちがいたということです。ただ、ルネサンスというと、やはり、イタリアやフランスに限定されてしまう。そして、狭い感じになってしまう。

僕は、日本文学における「ルネサンス的」なものは、むしろ別の地域から来たと思うのです。先ず、イギリスです。それがシェークスピアですね。もっと後では、ジョナサン・スウィフトとローレンス・スターンです。これらを日本にもってきたのは誰か。漱石です。さらに、ロシアにも「ルネサンス的」作家がいました。ゴーゴリです。そしてゴーゴリの「『外套』の下から出てきた」と自称したドストエフスキー。彼らを日本にもってきたのは誰か。二葉亭四迷です。その意味で、漱石と二葉亭はルネサンスについて一言もいっていないが、誰よりもルネサンスにかかわる者です。
ルネサンス的」という観点に立つと、普通の文学史においては、バラバラに存在していた作家たちが一斉に並んで見えて来ます。しかも、そこに、東西を区別する必要はありません。その点で、たとえば、中国の魯迅も「ルネサンス的」な作家だと言えます。魯迅漱石のものも読んだでしょうが、特に柳田国男の影響を受けた。自分で郷里の昔話の採集をしています。だから、彼の小説は、近代小説家にはないような多様な要素を含んでいて、簡単には扱えない作家なんです。

 それから便所に行って糞を垂れると、トイレットペーパーの芯が放置されていたので持って階を上がり、玄関の戸棚のなかの雑紙用の紙袋に入れておき、戻って寺尾聰『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流して、窓を閉めてエアコンを点け、いつものように"HANABA EXPRESS"、"渚のカンパリソーダ"、"ルビーの指環"と歌うと、さらにMr. Childrenの、"PRISM"、"アンダーシャツ"、"#2601"と『DISCOVERY』からの曲目を歌う。"#2601"はMr. Children史上おそらく最も激しく毒々しい曲ではないかと思われて、この曲を聞けば軟弱なポップバンドとしてのイメージも幾分刷新されるのではないだろうか。何だかんだ言ってもそこそこ幅の広いグループではあり、もっとこういう曲もやれば良かったのにとも思われる。次に"ファスナー"を歌い、最後にcero "Yellow Magus (Obscure)"を歌って一人歌唱大会は終いにすると時刻は二時前、コンピューターをシャットダウンしてリュックサックに入れ、しかしこの陽射しのなかをリュックサックを背負って歩くのは難儀だなとクラッチバッグと迷ったが、立川に出て書店に行くつもりだったので本を買ったら入れやすい方が良いかとやはりリュックサックを取って、荷物を持って上階に上がり、ハンカチを取って母親に、行ってくると告げて玄関に向かえば、戸を開けるその前から林の葉擦れが耳に届いて、風は吹いているなと扉をくぐれば午後二時でもよほど陽が下がるようになったか、家の周りの路上には日向はもう少ない。道を歩いていき、公営住宅の前まで来るとしかしここにはまだまだ日向がひらいており、なかに入れば当然暑く、光線が重く、逃げるように木の間の坂に入って上っていると、足もとを緩慢に動くものがあって、見れば細く小さな円柱に柏の葉を隈なく巻きつけたような形と色の芋虫で、先端に濃い緑色の部分が、顔なのか何なのか僅かに覗いているのが男性器を思わせてグロテスクだが、それにしてもあと一月二月で冬も来ようというこの時季に芋虫かと過ぎて、汗を搔き搔き駅へ上っていく。
 駅前は道路工事を執り行っており、整理員が三人いて、そのうちの一人は髭を生やしてサングラスを掛けた、これは市民会館跡に出来たあの施設、何と言うのか名前が一向に覚えられないのだが、文化交流センターみたいな名目のあの建物を造っていた現場にも出張っていた老人で、母親が「亀仙人」と呼んでいた人だがその人だった。ホームに向かって階段通路を行きながら、風が通ってTシャツをくぐって脇腹を涼めてくれるその感触に、陽射しは夏だが空気はやはり秋だなと季節の汽水域を思って、ホームに入ると人が何人か就いているベンチの端に入り、汗を乾かしながら手帳にふたたびメモを取る。電車がやって来ると手近から乗り、山帰りらしい格好の人々が席を埋めてあたりにはあの独特の、香水と汗が混ざったものなのだろうかそのような臭いが漂って鼻につくなかを渡って行き、先頭車両まで来ると扉際に寄って持っていたリュックサックを床に置き、引き続き手帳を埋めたがすぐに発車したので読む方に移行し、一九二三年一一月にミュンヘン一揆とか一九一九年七月にヴェルサイユ条約調印とか頭に入れて、青梅に着けば乗換え、外国人が散見されるホームを歩いて向かいの電車の先頭車両に入って座るとまた記録である。じきに発車して、揺れで文字が書けないので読んでいたが、河辺と拝島ではちょっと停まる時間があったのでその隙をついてまたメモを進めた。床には光の矩形がひらくがそれが以前見たのとは違って北側の、こちらの座っている席の方に寄っており、前回見た時にはもっと南側に近かったのだがあれを見たのはいつの日の何時頃だったかと思っても記憶は覚束なく、その時には光のなかに席に座る乗客の影が立っていたのだが今日はないのは土曜日のわりに空いていて、七人掛けの席の端しかほとんど埋まらず窓の前に人がいないからだ。手帳を読んでいると、さすがに三時間ではさもありなん、睡気が湧いて頭が落ちて目が閉じて、微睡みながら立川に着いたので道中あっという間だったような感が残った。電車は東京行きだったので三・四番線ホームに降りて、階段を上がって改札を抜けると、ごった返す人波のなかで傘を深く被って顔の見えない雲水が一人、杖を突きながら覚束なく歩いていて、停まったと見ればその杖で何やら床に貼りついている小さな、あれは何なのかガムを包んだ紙か何かに見えたが、それを剝がそうとしているのは一体何の意図なのか。こちらは人の川を渡ってATMに辿り着き、既に今月は赤字なのに五万円を下ろしてますます乏しくなった残高に嘆息し、財布を仕舞うと踵を返して歩きはじめたところに、立川駅のコンコース内で献血を呼びかけているのはいつものことだが、今日は一人なかに威勢の良い職員があって、威勢の良いと言うよりは拡声器を通じてざわめきを割って響き渡るその声の、男なのだが妙に甲高く、お時間を作って献血をお願いしますと悲痛気に訴えかけているのが物珍しかった。厚いざわめきのなかを北口広場に出て、高架歩廊を進んで歩道橋を渡り、高島屋の前まで来れば何やらサウンドシステムから流れ出るらしき巨大な音楽の、重いビートが聞こえてきて、ビルのなかからと聞こえたが違うなと見ればどうやら歩廊の下の、一階入口の正面で何かイベントを催しているらしく、ビル側面のあれは何と言えば良いか鏡のようになっている部分があるのだがそこに下方の様子が映りこんで、人が集まり蛍光色のベストをつけた警備員も立っているのが見える。音楽は太いビートのヒップホップだった。それを聞き流しながら高島屋に入館すると、館内は都会的な雰囲気のポップスが掛かってヒップホップも届かなくなり空気が変わって、街という場所のこうした明確な切断線のない時空情報の素早い切り替わりというのには時に面食らうなと思いながらエスカレーターに乗った。数階上って淳久堂書店に入ると、まずは詩の棚を見に行った。MUさんに贈る詩集を見繕いに来たのだった。例によって日本で最もメジャーな詩人、谷川俊太郎のキャッチーさに頼ることにして彼の作品を見分して、なかに『あたしとあなた』だったか『あなたとあたし』だったかそんなような名前の小さな本があって、帯に「贈る詩集」とか書かれていたからこれが良さそうではないかと思ったがビニールが掛かっていてなかを覗けなかった。それから棚の前をずれていって文芸批評の区画をちょっと見て、さらに壁際に移って海外文学を見分すれば、書架の端のあれは幻想文学とかが集まっているあたりと思うが、そこに若い男女のカップルがあって男性の方が女性の方に、得意気にと言うほどでないけれどこれはどうとかあれはどうとか語っていた。こちらは棚を見て、プリーモ・レーヴィの『リリス』を買ってしまおうか、あるいはベケットの新訳かなどと考え、そう言えば最近新訳された『ブヴァールとペキュシェ』も大変欲しいのだがこの時は見かけた覚えがないのは見逃したのか売れてしまったのか、ともかくほかに海外文学評論の欄も見ていると、なかに巽孝之『メタファーはなぜ殺される 現在批評講義』という作を初めて見つけて、この巽という人は確かポール・ド・マンなどを研究している人でやや注目しているのだが、やはり批評、と言うかテクストをどう読むかということについては興味があるからこれがなかなか面白そうで、裏面を見れば値段は税別で二七〇〇円だからわりあい手頃であって、頭に入れておくことにした。
 それから次に、フロアを渡って思想の棚に行く。書架の入口にあるみすず書房の取り揃えられた棚をちょっと見て、新着も瞥見し、それからポストコロニアルスタディーズあたりの区画を見分し、サイードもやはり欲しいなとか今福龍太の著作が結構あるなとか見たなかに、正確な名前を今失念したが苗字は確か早尾と言って、イスラエルパレスチナ関連の本を訳したりしている人だったはずだが、その人がイスラエルパレスチナ問題に取り組んだらしき著作があって、これも三〇〇〇円弱でまあそこまで高くはないし欲しいものだ。それから表紙を見せて置かれている新着の本を中心に見ていき、日本の現代の思想の区画に至って、東浩紀の『ゲンロン10』が重ねられてあって、これはTwitterなどでも結構評判になっているからちょっと読みたいが、しかし『ゲンロン』は『0』と『4』が積んであるのでまあまずはそちらを読んでからだろうというわけで今日は捨て置き、それで思想の棚は出て、そろそろ四時も近いので買うものを買ってさっさと喫茶店に行こうと詩の区画に戻り、谷川俊太郎の先の著作を取ろうとしたところが、先ほどは気づかなかったが表紙を見せられて置かれてある本のなかに、文庫の『愛について/愛のパンセ』があって、詩集とエッセイを一つにまとめたものらしく、これで良いではないかと気を変えた。値段も九〇〇円と廉価で、先の本は二〇〇〇円だったので比べれば随分と安い。それでこの文庫本を、贈る本を自ら読まないというのも何だか変な話だから、自分が読む分と合わせて二冊取り、それから海外文学の棚に寄って、先ほど見つけた巽孝之『メタファーはなぜ殺される』をこれも出逢いだと購入することにして、合わせて三冊を持って会計に行った。レジの前に着くと坊主頭の、ほかの店員と違って深緑色のエプロンと言うか腰巻きと言うか、あれをつけていない人なので役職が上なのだろうか男性が、手を挙げて招いてくれたので本を差し出し、カバーは掛けますかと言われるのにリュックサックを下ろして財布を取り出しながら、カバーは良いのだが、文庫本の方を一冊、包装して頂きたいと申し述べ、先に会計を済ませれば四九五〇円、包装は紙のものと布袋に包むものとあるがと言われるので紙の方を選び、リボンの色のみ決めてくれと言うのは愛が主題の本だからと、安直だけれど緑を措いて赤に定めて、それで七番の札を渡されてレジカウンター近くのベンチに腰を掛け、手帳にまたメモを取りながら包装が終わるのを待った。しばらくすると店員がやって来て、このような形で包装しましたと差し出すのに頷いて、ビニール袋に入れてくれたのを礼を言って受け取ると、相手は綺麗で丁重な礼を返してカウンターの裏に戻っていった。
 エスカレーターを下りて退館すると、下のイベントはまだ続いているようで、相変わらず重いビートのヒップホップが掛かっているなかを歩廊を通り、歩道橋を渡りながら催し物の方に首を曲げるが、見えるのは客の集団のみで詳細はわからず、歩道橋を渡ったところで左に折れて階段を下り、ビルの合間の細道を抜けて表に出ると、時刻はちょうど四時頃なので書き物に二時間で六時、そこから青梅まで三〇分と考えて、帰宅は七時だなと計算した。PRONTOの二つほど隣の、鰻の寝床めいて小さな細い入口のビルに、新しく「Tapista」という店が出来たと見えて人が並んでいるのは、どうやら昨今流行りのタピオカの飲み物を提供する場所らしいが、当然こちらに興味はない。PRONTOに入店し、階を上がって見回せばカウンターが空いていたので、フロアの奥の一番端から一つ隣の席にリュックサックを置き、財布だけ持って階段を下り、いつもだったらココアを頼むところだが、カフェインを摂っても平気な身体になったからたまにはほかの品でも飲んでみるかとメニューを見下ろし、カフェモカを注文してみることにした。こちらの声が低くて飛ばず、聞き取りにくかったらしく、女性店員はサイズを聞き返してきたので、Mで、アイスでと答えて四四〇円を払う。レシートは貰えなかった。深緑色のトレイの上に背の高いグラスが乗って、そこになみなみ注がれたカフェモカを受け取り、礼を言って場を離れ、零さぬように注意しながらゆっくり階を上って席に行った。座るとコンピューターを取り出し、マウスとモニターとキーボードをハンカチで拭いてからスイッチを押して、起動を待つ間に飲み物の上に乗った生クリームの、さらにその上からチョコソースを格子状に掛けられたものをちょっと掬って舐め、啜ってみればなるほど確かにココアとは違ってほろ苦い。余った生クリームをストローで突いて液体に混ぜ、そうしてコンピューターの準備が整うと早速日記を始めたのが四時五分だった。手帳を傍らに置いて参照しながら苦もなく書いていく。途中、BGMで、コンガか何か入ったちょっとラテン風の、詰まって弾力的なビートが始まったのに、Stevie Wonderの原曲ではないがこれは"Don't You Worry 'Bout A Thing"だなと聞けば女性ボーカルが歌い出したのは果たしてそうだった。PRONTOはわりあい音楽のセンスが良い。
 カフェモカを時折り吸い込みながら打鍵を進めていたのだが、そのうちにどうも腹に内から圧迫感が生まれ、突き上げてくると言うと言葉が強すぎるが胃のなかから圧が掛かって、昔は空きっ腹に茶を飲んだ時によくなったが空気が上がってきて喉がぐるぐると鳴り、吐き気とまでは行かずとも愉快でない。それで結局、やはり慣れないことはするものでなかった、カフェインは駄目だったと後悔して飲み物を残した。しかもやはりコーヒーのためかいつか尿意が高くなっていて、それでも勢いを削ぎたくないので打鍵を続けていたところが、一息ついてそろそろトイレに行こうと思った時になかには人が入っていて、それが何をやっているのか随分と長く待てども出てこない。尿意の高潮が身に響くなか、頭から今日の日記を読み返しながら待っているその頃には席を一番端に移っていたが、それは途中で女性客が隣にやって来たので、あちらも狭苦しく隣り合うのでなくて一席あいだに空いていた方が良かろうとずれたのだった。そのうちにようやくトイレが空いたのでなかに入り、長々と放尿して水を流し手を洗うと、ハンカチは使わず備え付けのペーパーを使って水気を取って、席に戻るとふたたび作文に邁進したが、六時を越えた頃、突如としてバッテリーが残り五パーセントしかないと警告が表示された。まだ現在時に追いついていなかったが、計算通りぴったり二時間文を進めたことになり、しかし二時間でエネルギーが尽きるとはこちらの相棒ももはやよほど衰弱している。絶息するのも近いかもしれない。
 それで仕方がないので帰ることにして、コンピューターを落として仕舞い、外してトレイに置いてあった腕時計を手首に戻し、リュックサックを背負うとトレイを持って席を離れ、厨房近くにいる店員に寄っていけばその女性がありがとうございますとトレイを受け取った声がやたらと大きく元気だった。礼を言って階段を下り、カウンターの向こうの店員にも会釈を送って退店すると、時刻は六時過ぎだが既に暮れきって空は宵の黒さに浸ったなかに雲の姿形が淡く見分けられるほど、通りの端にはバス待ちの人々がまっすぐ列を成しており、歩いていくとスーツ姿の男が二人、何やらティッシュを配っていて、何の店のものか仔細に見なかったがその格好の、一見折り目正しく決まっているものの何となく胡散臭い。過ぎてエスカレーターに乗るとすれ違う下りの段に乗っている人から中国語らしき言葉が聞かれた。高架歩廊に上がれば駅前はオレンジ色のライトが宙に通っていかにも街の明るさで、眼下には黒塗りのタクシーが集まっている。駅舎に入りながら、正直に言って、俺の日記は、なかなか面白いのではないか? と思った。最近は何だか知らないが記述に勢いがあるなと思いながら人波のなかを泳いでいる途中、グランデュオに寄っていくかと決めたのは、母親がいちじくチョコとやらを買ってきて、とか言っていたのを思い出したからだ。グランデュオのなかに「銘菓銘品」という店があってそこに売っているのだった。それで改札の前を過ぎて駅ビルの方に運ぶその足取りが、随分と確かに踏まえるようになっていてのろく、こちらのように暢気に生きていない人々は足早に周囲を抜かしていく。入館すると最初に目についたのは婦人用の服飾店かと思えばずらりと並んでいるのは帽子で、続いてスカーフやマフラーが出てきて、さらに『ダロウェイ夫人』を想起されるが手袋も多数陳列されて、そこを過ぎると財布やハンカチが現れる。それらに目をやりながらフロアを進むあいだ、目指すべきはやはり小島信夫だなと考えていた。別にとぼけたような、生理的な破格を文章に取り入れたいわけでなく、推敲をまったくせずにほとんど一筆書きのようにして書いていたというその軽さ自然さを見習いたいのだ。しかしあるいは、さらに目指すべきは小島信夫と、古井由吉のハイブリッド、と言うか二人のあいだのような位置なのかもしれないとも思いついた。つまりは一筆で一気に流れながらも、同時に文の密度もそれなりに保って、古井のように日常の、機微と言うと彼の場合少々違う気がするが、差異の襞に細密に分け入るような文章を書きたいとそんなところだ。
 「銘菓銘品」に着いたところで気づいたのだが、自分はいちじくチョコという語を考えていながらその実想起していたのは別の品で、「ポーム・ダ・ムール」と言って林檎のチョコレートだった。そもそもいちじくチョコは以前来た時も売っていなくて、代わりにこちらも母親が好きな「ポーム・ダ・ムール」を買って帰ったのだったが、その品を念頭に置いていたところ、こちらも今日は何と完売しているとの表示があった。それで別に、何も買わなくたって良かったのだが、折角来たから何か買っていくかと定めて、以前も買った「夕子」という生八ツ橋を一つまずは選び取り、もう一品を何にしようと迷って店内を回り、良い品を探ったが決定打が見つからない。一つ気になったのはフルーツチョコボックスというもので、直方体の容れ物に小さなチョコレートが無数に詰まったもののようだが、一粒がよほど小さく、それらの包装をいちいち剝がして食わねばならないのも面倒そうだと思い直して、代わりに隣に「プティ・ガトー」というクッキーがあったので、値段も六〇〇円ほどだしこれにするかと手に取ってレジに行った。一二四二円を払って礼を言って去り、通路の脇でリュックサックに袋を入れて、そうしてビル内から続く改札を通って、遠くの電光掲示板に悪い目を凝らせば、電車は六時三一分のようだ。一番線のホームに向けて階段を下りると、下段の方で実に小さな幼児が一人、まだ歩きはじめていくらも経たない年頃だろうか母親に両手を取られていたいけに、ゆっくり足を持ち上げて段を上って微笑ましい。ホームに入ると一号車の位置に立ち、手帳を出してメモを取っていれば電車はじきにやって来て、席に座って文字を書き続け、発車してからも書いていると、座って手帳を腰のあたりに置いていれば意外と揺れず、綴れることが判明したので読む方に移行せずに記録を続けた。そもそも多少字が乱れたって読めれば良いのではないか、記録を取ることの方が優先されるべきではないのか。
 途中で記録が現在時に追いついたので読みに移り、ホロコースト関連の情報を頭に入れていく。青梅に着くと降りて乗換え、奥多摩行きは何故か結構混んでいて席に隙間もあまりなかったので、扉際に立って読み続け、最寄りで降りれば今しがた読んだ情報を脳内で想起し反芻しながら駅を抜けた。細い月が夜空の高みに、白々と映えて刻まれている。坂道に入ってからも頭のなかでぶつぶつ呟きながら下りていき、平ら道に出た頃ようやく手帳のことは忘れてあたりに耳を張れば、風の動きがほとんどなくて静かな夜道で、公営住宅を過ぎるとしかし、どこか川向こうでやっているものか祭りに集まる人々のような明るいさざめきが伝わってきた。
 帰って家に入ると母親に挨拶して、買ってきた品を取り出し、いちじくチョコは売っていなかった、「ポーム・ダ・ムール」も売り切れだったと告げてカバー・ソックスを脱ぎ、洗面所の籠に入れると塒に帰って、コンピューターを取り出して机上に据えながらズボンを脱いだ。起動するとTシャツに下着の妙な格好でTwitterを覗き、Evernoteをひらいて今日の支出を記録して、二〇一九年に購入した書籍も記事を作って一覧にしているからそこに情報を書き加えて、今日の分を足せば今年は既に一二六冊を買っていて、いくら使っているのかは明かせない。さすがに阿呆でないかと思うがこれも業、どうせ一生掛けて読むのだからと言い繕おう。それで記録を終えると勤勉なことに日記の続きを書き出して、音楽は伴わず無音のなかでここまで記せば始まりから一時間弱が立って八時半を前にしている。
 食事へ。上がって行くと父親の姿がない。先ほど帰ってきた気配を確かに聞いたと思ったのだが、訊けば帰宅後ふたたび出たと言う。自治会長なので運動会の練習に顔を出さなければならないとか。食事はフライパンにエノキダケとはんぺんを炒めたものがあったので、半分皿に取って電子レンジへ、ほか、素麺に生野菜のサラダ、サラダには茹でた豚肉を載せ、さらに冷蔵庫を覗けば前日にこちらが作った葱と舞茸の味噌汁も残っていたのでそれも火に掛けた。それぞれ卓に運んで席に就き、テレビは男子バレーボールがワールド・カップを開催中らしく、日本とアメリカが試合しているのを、そんなに興味はないけれど見やりながらものを食べる。途中で父親が帰ってきた。時間は前後するが、一度目に帰ってきた時にはYさんから野菜を色々と貰ったらしく、茄子などが入った紙袋が炬燵テーブルの上に置かれてあった。
 食事を終えるとアリピプラゾールを飲み、セルトラリンの方はもう残りが少ないのでこの夜は省くことにした。月曜日か火曜日には医者に行かなければならない。それから食器を洗って、風呂は父親が入っていたので緑茶を用意して下階へ、九時過ぎからFISHMANSCorduroy's Mood』とともにMさんのブログを読み出した。読んだのは一〇月三日と四日の記事だが、なかに学生らから誕生日おめでとうのメッセージを送られたという情報があって、それで今日、一〇月五日が彼の誕生日であることを思い出したので、こちらもTwitterのダイレクトメッセージで言葉を送っておいた。昨年と一昨年はAmazonのギフト券を贈ったのだったが、毎年それでも味気ないし、また冬にでも彼が来京した際に、何か贈りますよと付け加えておき、それからSさんのブログに移行して、緑茶を飲んで汗を背中にだらだら搔きながら読むその頃には、音楽はSonny Rollins『Saxophone Colossus』に移っていて、Rollinsのソロに合わせてメロディを、勿論追い切れないが口ずさみながら五日分を読み、二曲目の"You Don't Know What Love Is"の途中で切ると急須と湯呑みを持って階を上がった。すると階段の上にいた寝間着姿の父親が、お母さんが先に入るからと言ってくるのだが、当の母親の方は髪を染めるからそのあいだに入れるでしょと言うので湯を頂くことにして、下着を持って洗面所に行き、裸になって浴室に入るとまず窓をひらく。そうして湯に浸かり、昼間はあれほど暑かったが夜を迎えればやはりよほど涼しくて、ひやりとした涼気が漂って身に触れるなか、脚を前に伸ばして両腕を浴槽の縁に置き、拳は緩く握って身は低くせず、背はわりあいに立てて頭は縁に預けず、そうした姿勢で静止しながら食事の時間のことを思い返していると、そう言えばエノキダケを電子レンジで温めたままなかに忘れたのではないかと気づいて、扉の向こうの洗面所で何やらがさがさ音を立てながら髪を染めている母親にその旨伝えれば、父親が見つけて食べるとそういうことだった。それからまた静止して目を閉じ、物思いに入って、いくつかの事柄に思い巡らせた。一つには、書くことの対象にならないものなどこの世には何一つないという言わば「信仰」を、自分は二〇一四年かその頃から抱いていて、当時のような熱情はさすがになくとも今も基本的にそれは保たれているのだが、この頃ますますそのことがわかってきたと思った。しかしこの世はほとんど無限だから、自分の手腕が習熟して世界の襞に細かく分け入れば分け入るほどに、しかしその奥の襞がさらに見えてきて記述は止めどなく膨張し、勿論人間としての限界はあるが途方もない。もう一つには、日記も突き詰めて行けばいわゆる「意識の流れ」に近くなると言うか、その瞬間瞬間の自分の知覚や認識を常に追って脳内で反芻しながら実況中継するようなことになってくる。しかしそれは、「意識の流れ」と言うと主体の内面的な心理ばかりに焦点が当たってしまう気味があるから、言葉をちょっと変えてこの世の差異の生成の流れを追いかけていると言うか、自分自身もそのうちの極小の一片として属している世界の流れを追っているようなものかなと考えた。そのようなこちらの日記は、前にも書いたことがあるけれどそれを通してテクストと主体とのあいだに相互関係を、絶え間ない往還を打ち立てるようなものであって、それによって自己を芸術作品のように磨き抜いていくという機能をおそらく持つ点で、ミシェル・フーコーの言うところの「生存の技法」に当て嵌まるだろう。そのあたりをもう少し掘り下げて考えるために、やはり晩年のフーコーの主体論を読まねばならないなと改めて認識した。
 そのようなことを考えながら頭を洗い、身体も擦って、そうして出ようと立って浴槽の蓋を閉じれば、洗面所にまだいた母親がそれを聞きつけて、もう出るのと言うので肯定すれば、ちょっと待ってと来るので扉の前で、フェイスタオルで身体を拭いて水気を除き、母親が洗面所を出た音がしてから扉を開けた。バスタオルで身体を拭って、髪のもう伸びてきて鬱陶しい頭をがしがしと擦って、それから灰色にドットの模様が入ったパンツを履いてドライヤーを取り、頭を乾かすと室を抜けて便所に行った。膀胱を軽くしてからふたたび緑茶を用意していると、母親が、あれを飲んでよ、飲むヨーグルト、と言って、期限はいつまでかと訊けば今日までと言うが、今は冷たい飲み物を貰う気にはならないと払って、温かい緑茶を湯呑みに注ぐ。テレビはレイドローとか言ったか、スコットランドラグビー選手らしい人を映して、「甘いマスク」で日本でも人気と伝えてみせるのを、炬燵テーブルに置かれた膳を前にした父親が、昨晩とは変わって今日はいつも通り、うんうん頷いて声を漏らしながら見ている。
 時刻は一〇時ぴったり、まず一年前の日記を読んだ。冒頭に、フローベールの手紙からの引用があって、曰く、「いくらか仕事ができるようになりました。今月の終りには、宿屋[﹅2]の場面がおわるだろうと思います。三時間のあいだにおきたことを書くのに、二カ月以上かけることになります。(……)」(工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年、168; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五二年十月七日〕木曜夜 一時)と言って、この人も大概だが、しかし今『双生』の初稿を終えようとしているMさんの方も、まるで前世がフローベールその人であったかのように、なかなか負けていないのだろうなと思い、日記本文を読んでみれば、Mさんの誕生日について言及されていて、続けて鬱症状に襲われていた時期の時間の空虚さを漏らしている。

MさんがTwitterで誕生日だと呟いていたので、本日一〇月五日が彼の生誕日であることを思い出した。それで、Amazonのギフト券を贈る(中国にいてはあまりAmazonを利用しないのかもしれないとも思ったのだが、ほかに手段もないし構うまいと振り切った)。前年と同様、味気の無い簡素なプレゼントだが、あれからもう一年が経ったのかと、そう思わざるを得なかった。この一年、正確に言えば年末年始以来の今年二〇一八年の九か月は、自分が何一つ目立ったことをしなかったように、空白の時間のように思えてならない。実際、少々狂った頭を抱えながらも曲がりなりにも労働を続けていた三月まではともかく、少なくとも四月以降は、精神の変調にやられて休んでいたばかりで、進歩や肯定的変容の不在、むしろ退化の実感、というわけだろうが、そういうことでもなく、うつ症状に苦しんでベッドに寝転がってばかりいたあの夏場の時間までもがまるでなかったことのように、記憶の、過去の手触りが稀薄だとでも言おうか。

 それからfuzkueの「読書日記」を一日分読んだあと、書抜きに入った。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』である。BGMはRollinsが終わったあとはConrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis』、それに続けて最近のジャズでも何か聞くかというわけで、Mark Guiliana Jazz Quartet『Family First』を繋げて、打鍵を進めているうちに、何か興が乗ったと言うか、集中力がやたらと続いて気づけば一時間以上文を写していた。最近は何だかやたらと意気軒昂で、あまり怠けもせずにやるべきことを出来るだけやれているのは良いのだが、この活発さは、自分がまさか双極性障害なのであって、今が躁期に当たっているのではないだろうなとちょっと疑いが過ぎったりもする。
 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の記述によれば、一九四一年当時のゲットーの食料事情はとんでもなく悪い。五月二九日から六月二九日には、ウーチ・ゲットーに一九万二五二〇個の卵が供給されたと言うが、ウーチ・ゲットーの人口は一五万人ほどだからそれで割ると、一か月に一人当たり一・二八個しか卵が貰えなかったということになる。信じられない、とても想像できない窮状である。
 さらに、SS少佐のヘップナーという者が一九四一年の七月一六日に、アイヒマンに書簡を送っているのだが、そのなかに次のような発言が見られる。「この冬にユダヤ人全部にはもはや食事をあたえることができなくなる危険がある。労働配置が不可能なユダヤ人はなにか速効性のある方法で始末するのがもっとも人道的な解決ではないのか、真剣に考慮する必要がある。いずれにせよ、このほうが彼らを餓死させるよりも気持ちがいいだろう」。ここにおいては「人道的」という言葉の意味が完全に剝奪され、概念が根底から捻じ曲げられてしまっている。究極的に独善的な理屈である。この発言をTwitterに引用して投稿すると、M.Yさんという方からリプライが来て、恐ろしい発言だと言うので返信を送り、そこから二、三、やりとりを交わし、そのなかで、人類の苦難の歴史を自分に出来る限りで広く、かつ深く知ることが一人の人間としての責務のように感じていると大袈裟なことを言ってしまって面映く、ちょっと大きなことを言い過ぎたなと思う。
 零時前、Mark Guilianaの音楽をヘッドフォンで聞いていたその外から何やら響くものがあって、片耳の覆いを外してみれば窓外はいつの間にか雨らしく、しかも大雨と言って良いくらい結構な降りで、ちょっと経つと濡れた土と草の匂いが漂ってきたが、じきに止んだ。零時頃にはMさんからダイレクト・メッセージの返信が届いており、やりとりをしながらこの日の書抜きの最後の箇所を写したのだが、ゲットー撤去作戦に対する各ゲットーの指導部の対応を記したもので、これは四頁分もあるから非常に長々しくて恐縮だが、是非読んでほしい。せめて後半の、仲間を売ることを良しとせずに自ら死を選んだ指導者たちの記録だけでも読んでいただきたい。これがまさしく地獄というもの、極限状況というものだ。Mさんが先日ブログで、トロッコ問題の思考実験を取り上げてその空虚さについて批判していたけれど、そうしたほとんど抽象的とも思える条件、誰かを助けるために必ず誰かを殺さなければならないという状況が現実化してしまったのが一九四二年のゲットーだった。

 最初の試練はユダヤ人評議会によるリストの作成・提出である。リストはウーチのように撤去要員のみを記載したリストをユダヤ人評議会が作成・提出する場合と、年令、職業、労働可能性などを記載した全員のリストをユダヤ人評議会が作成・提出して、ドイツ側が選別する場合の二つがあったようである。このリストによってゲットーのユダヤ人一人一人の運命が決まる。労働が運命を分ける基準である。労働によって自らを救おうとするものは、我が身を救うために同胞と、結局のところ、我が子を差し出さなければならなくなる。しかし、圧倒的多数のユダヤ人評議会はリストを提出した。
 東部オーバーシレジエン・ユダヤ人共同体中央ユダヤ人評議会議長メリンは、一九四二年五月のソスノヴィエツ・ゲットーの撤去行動を前にして、約三〇人のおもだったものを招いて会議を開いた。会議の冒頭にメリンは、ドイツ側が要求するものは何であれユダヤ人自身が行なうべきであるというのが原則であり、この原則に従わなければならないと述べた。これにたいして、ベンジンユダヤ人評議会員ラスキエールは、ユダヤ人の歴史にいまだかつて、数千人もの同胞を敵に差し出した例はない。ドイツ側が選別のために示した基準、すなわち、「病人、不具者、老人」は、何がおこなわれるかについて疑いを抱かせない。ドイツ側自身に選別させるべきだ、と反対した。数人がこれに賛成した。しかし、ベンジンユダヤ人評議会議長モユチャツキーはメリンの意見に賛成した。メリンは、ゲットーが社会的に無用な分子から解放されるか、それとも外国人にそれをやらせて、最も価値のある個人を失うかであり、彼は、真面目で賢明な政治家として、選択する道に迷いはないと強調した。それにもかかわらず、ソスノヴィエツではドイツ人に選択させる道が選ばれたようである。
 五月半ばに今度はベンジン・ゲットーの番になった。メリンはまず移送の志望者をつのった。誰も志望しなかった。次いで、彼はラビたちの意見をきくための会議を催した。メリンは、ゲシュタポの命令に自分が従えば、多くのユダヤ人が救われ、通報者、泥棒、不道徳者、病人、精神病者、知恵遅れ児童を選別して移送することができる。そうでなければ、ゲシュタポはソスノヴィエツで行なわれたようにアトランダムに多くの「尊敬すべき人たち」を連れ去るであろう、と述べた。会議では、ユダヤ人は移送にかかわるべきでないとの意見も出されたが、支配的な雰囲気は、メリンが実行したほうが良いということであった。最後に、ラビ・グロイスマンがラビを代表して、メリンの提案は基本的にユダヤ人の倫理と宗教に反しているが、しかし、さしあたりより小なる悪をとる以外ない、と述べて、これを支持した。こうして、メリンとユダヤ人警察はベンジンユダヤ人の移送を自らの手で積極的に実行したのである。
 しばしばラビの意見が聞かれた。すでに一九四一年一〇月末に、ハイデミューレ・ゲットーで移送者のリストを作成するよう命令があったとき、ユダヤ人評議会議長は四人のラビに意見をきいている。彼らの意見は政府の命令に従うのは義務である、ということであった。カウナス、オシミアナ、ソスノヴィエツでも同様であった。ヴィリニュスのラビだけは絶対に従うべきでないと主張したが、しかし、彼の意見は無視された。ヴィリニュス・ゲットーのユダヤ人評議会議長ゲンスは、撤去行動の間中、ゲットーの出口に頑張って行動の指揮をとり、誰が移送され、誰が残るべきかを決定した。
 ビアウィストク・ゲットーのユダヤ人評議会議長バラシュは、「もしひとが毒に侵されて手足を切断しなければ命が危ないということになれば、そうするであろう」と述べて、自ら移送者のリストを作成した。ズオチュフ・ゲットーの評議会は、「劣等な分子(病人、虚弱者、老人)だけが引き渡され、若者、健康者、インテリが助かるのだから、……むしろ有益であろう」として、ゲシュタポに協力した。
 スカウァト・ゲットーのユダヤ人評議会の多くも、人間は死ななければならないのだから、老人が最初にゆくべきだ、彼らはすでに十分生きたのだから、として、ユダヤ人警察とともに老人と乞食の狩りだしに熱中した。しかし、スカラトでは第一回の行動のあと、三人の評議会員から異論が出され、激しい議論となった。結局、評議会はゲシュタポに賄賂を贈って交渉してみようということになり、そのための金をもう一度集めてみることになった。
 おそらく、この賄賂作戦が一定の成果をあげたのであろう。スカウァト・ゲットーでは一九四二年一〇月二一・二二日の撤去行動に際して、SS中佐ミュラーと評議会及びユダヤ人警察の代表者との間に取引が成立した。ミュラーは彼らが協力すれば、彼らとその家族の安全は保証すると約束した。評議会とユダヤ人警察のおもな仕事はユダヤ人を隠れ家から発見することであった。行動が終わったあと一群のSS隊員はユダヤ人評議会へ出かけた。宴会が彼らを待っていた。楽しそうな高笑い、音楽、歌声が夜通し聞こえた。その時、約二〇〇〇人のユダヤ人があるいはシナゴーグに封鎖され、あるいは寒さのなかを草原の道路添いに監視されて、移送を待っていた。
 ソスノヴィエツ、ベンジンの撤去行動に際しての議論からも明らかなように、ユダヤ人評議会が自ら撤去行動に協力しようとする理由の大きな一つは、ゲシュタポに任せたのでは「尊敬すべき人たち」――その中には当然、評議会員やラビが入る――が移送される危険があるからである。彼らが移送に協力しようとするのは決して自らを移送するためではない。しかし、ここには少なくとも一つの例外があった。一九四一年八月、ロシア・ユダヤ人の射殺が行なわれていたときのことである。ヴォルヒニアの小都市カミエン・コシュラーキのユダヤ人評議会議長ヴェルブレは、ドイツ側の命令にしたがって、八〇人のゲットー住民のリストを提出した。彼はその用途を知らなかったのであるが、あとでそれを知ったとき、彼は出頭して自分もリストに加えてほしいと頼んだ。ドイツ側は彼の願いを受け入れ、彼は八一人目に射殺された。
 ユダヤ人評議会が撤去行動とリストの作成に抵抗した少数の例は、一般に人間関係が相互に緊密な中小都市のゲットーに限られている。ルブリン地区の小都市ビユゴラーユのユダヤ人評議会の副議長ヤノヴァーと三人の評議会員は、移送者リストの作成を拒否したかどで、移送の前日に射殺された。バラノヴィッツェ・ゲットー評議会議長イジクソンはリスト作成を拒否したため、秘書とともに射殺され、カルーシン・ゲットー評議会議長ガンズはリスト提出を断固として拒否し、自宅で射殺された。ドンブローヴァ・ゲットー評議会議長ワインバークは移送リストの提出を拒否したため、家族全員とともに移送された。ルヴネ・ゲットー評議会議長ベルクマンは、ドイツ側から移送者リストを提出するよう命じられたとき、彼が引き渡すことのできるのは、かれ自身と彼の家族だけであると答えたが、その直後自殺した。
 ルヴネ・ゲットー評議会員スハルチュクは、移送者リスト作成のための会議で、いかなるリストも提出するべきでないと強く訴えたが、評議会の圧倒的多数は提出を決定した。彼はひとり家に帰り、自殺した。グロドゥノ・ゲットー評議会員兼統計部長マルダーは、彼の統計資料がドイツ側に移送者決定の資料にされることがわかったとき、これに抗議して辞任した。評議会は彼を次の移送者リストに加えた。マルダーはこれを知って自殺した。残った彼の家族は移送された。
 ベレザ・カルトゥスカ・ゲットーは、一九四二年一〇月一五日に「ロシアでの労働」のために広場に出頭するよう命じられた。ユダヤ人評議会は直観的になにが行なわれるかを悟った。一〇月一四日の評議会の席で、評議会員ほぼ全員が首をくくって自殺した。一九四二年一一月一日、プルジャーナ・ゲットーがドイツ人によって封鎖されたとき、評議会員を含む四一人が評議会副議長シュライブマンの家に集まり、毒を呑んで集団自殺をはかった。しかし、明らかに毒は不十分であった。翌朝、この光景を見た人々の介抱で一人を除いて全員蘇生した。しかし、彼らは二ヶ月余りのちの一九四三年一月には「行動」によって絶滅されたという。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、194~197)

 書抜きに区切りを付けると時刻は零時四六分、そこから日記を書き足しておよそ一時間、未だにパンツ一丁の格好で肌を夜気に晒しているが、暑くもないし、と言ってさほど涼しくもない。ここ数日日記のなかの引用の量が甚だしくて、こんな調子だと一年後に自分が読み返すのも大変だと思うのだが、読者の皆さんにおいては無理に頑張って全部読もうなどとはせずに、軽く斜め読みで流すか、断片的に拾い読むか、やりやすい方策を選んでいただきたい。こちらも出来ればやはり、どうせなら長くお付き合いしていただきたいと思っているから、流し読みだろうが拾い読みだろうが、自分が読み続けられるやり方で読んでくださるのが、この日記との上手い付き合い方だと思う。
 それから二時ちょうどから読書を始めた。文学大系のカフカの巻を読んでいる途中だが、一時そこから離れて、TとKくんに贈る予定の谷川俊太郎編『祝婚歌』を、やはり自分で読んでいないものを贈るのも妙だから、読んでしまうことにして、閉じたコンピューターの上に本をひらき、立ったまま、時折り前屈みになってテーブルに肘をついたりしながら読んでいくと、二時四〇分頃読了した。それからカフカに移行したが、この夜は立って読んでいてもどうも睡気が湧いてきて、読みながら目が閉じてくるような調子だったので三時二〇分で切って床に就いた。そういうわけで僅か三、四頁しか読み進められなかったが、今日読んだその箇所というのはKに対する弁護士の「訓話」が非常に長々と続く場所で、三段組の版で六八頁冒頭から七三頁の二段目まで及んでいるから結構なものだ。この「訓話」が、訴訟手続きの詳細や弁護士や役人の役割などについて述べているのだが、しかし全体として何を言っているのかさっぱりわからず、煙に巻かれているような感じで、読んだそばから前の内容が失われていき、あとにはほとんど何も残らない、といった調子である。全体的に内容を俯瞰して要約出来ない、つまりは一つの意味の秩序が形成されない見通しの悪さがそこにはあり、言わば迷宮的と言うか、地図のない迷路に放り込まれて彷徨っているような感覚である。カフカの作品に特有の特徴というものは色々あると思うが、最もカフカらしい記述というのは、文章が横滑りしながら絶えずひらいて意味が新たに付け加えられていくけれど、それが決して明瞭な全体像を結ぶことのない、このような「攪乱」の記述なのではないか。それはおそらく、サミュエル・ベケットなどにも受け継がれているものだろう。


・作文
 7:46 - 8:31 = 45分
 10:29 - 10:48 = 19分
 16:05 - 18:04 = 1時間59分
 19:35 - 20:24 = 49分
 24:51 - 25:47 = 56分
 計: 4時間48分

・読書
 8:53 - 10:10 = 1時間17分
 11:00 - 11:20 = 20分
 13:00 - 13:05 = 5分
 21:05 - 21:30 = 25分
 22:00 - 24:46 = 2時間46分
 25:59 - 27:19 = 1時間20分
 計: 6時間13分

・睡眠
 4:30 - 7:30 = 3時間

・音楽

  • Mr. Big『Get Over It』
  • FISHMANSCorduroy's Mood』
  • Sonny Rollins『Saxophone Colossus』
  • Conrad Herwig『Another Kind Of Blue: The Latin Side Of Miles Davis
  • Mark Guiliana Jazz Quartet『Family First』