2019/10/27, Sun.

 ここまでくれば、民主主義とポピュリズムの主要な差異が明らかになっただろう。民主主義は、マジョリティが代表に権限を与えることを可能にする。その際、代表の行動は、市民のマジョリティが望んでいたものと一致したり、一致しなかったりする。他方でポピュリズムの場合、ポピュリスト政府の行動は、「人民」がそう望んだからという理由で、異議を唱えることはできないと主張される。民主主義においては、マジョリティの判断は誤りうるし、議論の対象になりうると想定され、マジョリティの交替が前提とされている。他方でポピュリズムにおいては、あらゆる制度の外にある同質的な実体の存在が前提とされ、そのアイデンティティと理念は完全に代表されうると想定されている。民主主義は、どちらかと言えば、諸個人から成る人民(a people of individuals)を想定し、最終的には数のみが(選挙で)重要とされる。他方でポピュリズムは、程度の差はあれ、神秘的な「実質(substance)」を前提とし、多数の諸個人も(マジョリティでさえ)その実質を適切に表現できないことを当然視する。民主主義は、決定が民主的な手続きを経て形成されたからといって、それが「道徳的(moral)」というわけではないこと(逆に言えば、あらゆる反対派が非道徳的と見なされねばならないわけではないこと)を前提としている。他方でポピュリズムは、道徳性(および政策)に関して深い亀裂が存在する状況であっても、ひとつの正しい道徳的な決定があることを前提とする。最期に――そしてこれが最も重要な点だが――、民主主義においては、「人民」は非制度的な方法では決して現れることはないと考えられ、さらに、議会における多数派は(ウラジーミル・プーチンのお気に入りの言葉である「圧倒的な多数派」でさえ)「人民」ではなく、人民の名において語ることはできないということが受け入れられている。他方でポピュリズムは、ちょうど逆のことを想定しているのだ。
 (ヤン=ヴェルナー・ミュラー/板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、二〇一七年、96~97)


 久しぶりに一時半まで糞みたいな寝坊をした。昨晩は二時に床に入ったので、ほとんど半日分を睡眠に費やしてしまったわけだ。夢を何種類か見たと思うが、どれも説明のしづらい類のもので、記憶も薄れているので書き記すことは出来ない。身体がとても重かったが、一時半に至って何とか布団を剝ぎ取って起き上がり、ベッドの縁に腰掛けて肩を回しながら少々息をついたあと、上階に上がっていった。母親は既に昼食を取り終えており、テレビでは『パネルクイズ アタック25』が始まったところだった。まずトイレに行って、濃い黄色に染まった尿を長々と放ち、それから洗面所に向かって台所を通過する際、フライパンを覗きこんでみるとカレーが作られてあって、鯖カレーだと母親は言った。洗面所に入ると顔を洗い、櫛付きのドライヤーで髪を梳かすあいだ、前髪のなかに一本、白いものが浮かび上がってきたので指先で掴んで引き抜いた。そうして室を出てくると冷蔵庫から前夜の残り物である餃子を取り出し、電子レンジに入れて二分の加熱を設定、カレーのフライパンも火に掛け、一方で笊に入っていた生サラダ――サニーレタスや水菜のもの――を大皿にすべて乗せてしまい、卓に運んだ。それぞれ品の準備が整うと食卓に移動して椅子に腰掛け、新聞を引き寄せて食事を始めた。新聞には外山滋比古のインタビューがあった。九五歳だと言う。外山滋比古という人にさしたる関心はないものの、何となくインタビューを流し読みし、それから国際面に入ってみれば、中東やアフリカの諸国で反政府デモが続発していると言う。そのほか、パレスチナ自治区ガザで薬物が蔓延しているという報もあり、依存症の割合は男性に限ると一〇〇万人のうちの五万人、つまり五パーセントを占めるとあって、これは米国(三. 四五パーセントだったか)を越えて世界一の多さだとのことだった。引き続くイスラエルの占領や空爆のために常に危機に瀕さざるを得ず、将来の見通しも立たないことによって人心が荒廃しているということなのだろう。食事を終える頃には『アタック25』も終わりに差し掛かっていて、今日の番組は二人の挑戦者の同点決勝となってその問題を聞いていると、紀元前四世紀からエジプトに存在した王朝、とかいう文言が聞こえて、プトレマイオス朝エジプト、と口にすると果たして正解だった。ハワイ旅行を掛けた最後のクイズの答えは鳴門市で、鳴門市と言えば渦潮で有名だけれど、それが徳島県にあるのだということはここで初めて知った。食べ終えて食器を運ぶと、皿洗いは良いから、電灯の電池を替えてくれと母親が言う。電池はどこかと訊くと母親は自ら仏間に入って引出しから単三電池を取り出したので、彼女を引き連れて玄関を抜けた。トイレの窓の外側、柵のようになっている箇所に、母親が「目玉の親父」と呼ぶ球型のライトが引っ掛けられているのだ。それを取ろうとするとしかし母親が、下――と言うのは家の横にあるちょっとした窪みのようなスペースで、そこにはバイクだとか工具だとかジャガイモだとかが雑多に保管されてある――からもう一つのライトを持ってくると言うので、しばし階段の柵に凭れ、陽射しを浴びながら待った。左方に目をやれば、隣家の前の空中に蜘蛛の糸が張り巡らされているのが陽のなかに浮かび上がって、その手前の宙には秋晴れに誘われたようで微細な羽虫が無数に飛び交っている。じきに母親が戻ってきたので、彼女が持ってきた方のライトが点くのを確認し、階段の柵にサンダル履きの左足を乗せて身を目一杯伸ばして、トイレの窓外に取りつけられたライトも取った。そちらは電池が切れているようで常時点灯の設定にしてみても明かりは点かない。もう一つ、駐車場側の隅にもライトは設置されているのだが、それも取り替えてほしいと言うので元祖父母の部屋に移り、家の正面に面した窓を開け、窓外に設けられているこれも柵のようなスペースの縁にやはり足を乗せて身を伸ばし、雨樋の接合部に掛けられているライトを取ったところが、これはまだ点くようだったので、母親が雑巾で汚れを拭ったあとにそのまま同じ場所に戻しておいた。そうしてそれから風呂場に行って浴槽を洗い、出てくると下階に下りて、自室でコンピューターを点けた。Evernoteを立ち上げて前日の記録を付けたあと、この日の記事も作成しておくと、水を足しておいた電気ポットがそろそろ沸いただろうということで緑茶を支度しに行くことにしたが、その前にまず燃えるゴミの箱を台所に持っていき、主に鼻水を吸ったティッシュからなるゴミたちをそこのゴミと合流させておいた。それで戻ってきて、次に急須と湯呑みを持ってふたたび上に行き、緑茶を仕立てて戻ると、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 1)を流してこの日の日記を書き出した。ここまで綴ると既に三時が目前、あと二時間半もすればもう暮れてしまうわけで、ちょっと今日は明らかに眠りすぎた。今しがたLINEにアクセスしてみると、グループ上でMUさんがこちらに向けて、今日は神保町でブックフェスティバルを催しているみたいだよ、職場の外が賑やかだよと呼びかけていたので、それに対して返信しておいた。「今日だったのか」「しかし神保町は遠いし、もういい加減本は買いたくない笑」「今あるものを読まなくては……」「しかし今あるものを全部読めるとしても、それには多分一〇年くらいは掛かるのではないか……」「どうせ生きているあいだに読みたい本を全部読むことなど出来ないのだから、いくら増やしても問題ないのではないか?」「と、こういう思考の道筋で蔵書家が生まれるわけだ」。
 日記を終えたあとは、(……)。途中、Bill Evans Trioの音楽はディスク一の最終曲、"Solar"に差し掛かったが、この曲の演奏はやはり素晴らしい。音楽は続けて、三時一七分からBlack Sabbath『13』を流し、四時一九分まで(……)だらだらと過ごした。そこで切りとすると、過眠のせいもあろう、肉体が全体として硬くこごっていたので、本を読みながらベッドに横たわって休むことにした。それで辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を持って寝床に仰向けになり、最初のうちは右脚の臑を左の膝で擦って刺激しながら『城』の文章を追っていたのだが、予想されたことながら二頁も読まないうちに睡気が差してきて、全集を身体の脇にひらいたまま置いて目を閉じる仕儀となった。そのまま部屋に暗く薄闇が満ち、窓の近くにあっても頁の上の文字も見て取れなくなる五時過ぎまで休んでいた。布団を掛けていなかったので、小さな寒気を覚えていた。起き上がると上階に行き、飯の支度は既に母親が済ませてしまったようだったので、アイロン掛けをすることにした。炬燵テーブルの端に台を用意したその傍で、ソファに就いた父親は何やら妙な器具をドライバーで弄っていて、それは何かと訊けばマッサージ機だとか言ったが、とてもそうは見えない。良くも見なかったが薄い記憶によれば、持ち手の下部に鉄板のようなものがついていた気がするが、それを身体に当てて低周波とかを放つということだろうか? テレビは『笑点』の大喜利が始まるところで、それをぼんやり見ながらシャツやエプロンの皺を伸ばしていると、母親が一一月三〇日のことを口にする。その日、山梨の祖母宅に集まって、彼女を囲んで食事会をしようという話が持ち上がっているらしいのだ。一一月三〇日と言えば冬期講習前の教室会議の日だから自分は参加できないかと思っていたところ、父親もその日は午後六時から何やら用事があるとかで、それに間に合うように帰らなければならないと言うので、こちらの会議も六時半から、それだったら参加できるかと思い直した。そういうことを話しているあいだに母親が父親に、参加できるのね、昼は何もないのねと繰り返し訊いて、父親がそれに対して、休みだって言ってるだろと、不機嫌そうな声音で答えて、わからないやつだなと漏らすのに、やれやれと思った。アイロン掛けを終えると下階に帰り、Black Sabbath『Live Evil』を流しながらリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の情報を手帳に写す。コンピューター前に立ったまま腹のあたりに手帳を引き寄せて傾け、読書ノートに取ってあるメモと本の文章を参照しながら頁上にペンを滑らせ、三〇分で仕舞えるとこの本から吸収するべき情報はすべて手帳にまとまったので、これで図書館に返却することが出来る。時刻は六時一〇分、そこから日記をここまで書き足して六時二四分を迎えている。
 それから昨日のことを大雑把にメモに取っていき、七時過ぎから音楽はBlack Sabbath - Black Sabbath Full Album HQ(https://www.youtube.com/playlist?list=PL5lmIbuJ_sMdsearaCl31bkW9ajZwl5wJ)を流した。空腹を覚えながらも記憶を言葉に落としていく作業を続け、七時四〇分からさらにBlack Sabbath - Paranoid (Full Album)(https://www.youtube.com/watch?v=fWvKvOViM3g)を掛けて、八時を回ったところで一旦切りとして食事を取るために上階に行った。夕食のメインはおじやだと言う。台所に入り、おじやを丼いっぱいに盛って電子レンジに突っ込んだことは確かだと思うが、そのほかのメニューについての記憶がどうも判然としない。何か豚肉を炒めた料理があったのではなかったか? しかしそれは別の日のことだったような気もする。生野菜のサラダもおそらくはあっただろう。結局、おじや以外の食事が何だったか思い出せないのだが、ともかく卓に就いて飯を食いはじめる傍ら、テレビは『ポツンと一軒家』を流していて、酒を飲んだらしい父親がそれを見ながら機嫌良さそうに笑いを漏らしていた。新聞からどんな記事を読んだかも良く覚えていない。食事を終えると食器を洗って入浴へ、髭が段々伸びてきており口の周りが不精で汚らしいが、今週は火曜日から五週目に当たり塾は休みなので金曜日まで労働もないからと放っておく。髪もそろそろ切らなくてはならないが、散髪代が勿体ないような気もするし、電話を入れて予約をするのも何となく面倒臭いので、このままもう少し行けるところまで行くつもりである。湯のなかでは前日の記憶を一つ一つ跡付けていくのだが、事柄を思い出すうちに様々な連想が働き道筋がたびたび脇に逸れていって、しばらく寄り道をしてから逸れた箇所まで立ち戻ってくるという迂回を繰り返しながら段々と進んでいった。それで風呂を上がった頃には九時に至る頃合いだったかと思う。下階に下って、九時一〇分から一〇分間ほど読書の時間が記録されているのは、これは過去の日記の読み返しだろうか。(……)流していた『Paranoid』が終結したので、続いて第三作、Black Sabbath - Master of Reality(https://www.youtube.com/watch?v=1fqGIpkp2NU)を流した。
 一〇時を回ってお遊びの時間は切りとして、音楽もちょうど終わったので便所へ行き、用を足すと便器を拭いておいて戻ってきて、キリンジの"ロマンチック"と"銀砂子のピンボール"の二曲を歌ってから、『RMX』を流した。途中でヘッドフォンに移行しつつ、小谷野敦×綿野恵太「連続トークイベント「今なぜ批評なのか」第3回 昭和・平成・令和――改元直後に、天皇天皇制・皇室について考える」(https://dokushojin.com/article.html?i=5618)を読む。

綿野  『とちおとめのババロア』の読者は必然的に眞子と小室圭の結婚問題や佳子ブームを想起するはずですが、皇族であるヒロインは読者が恋い焦がれる「情動」の対象になってない感じがしました。藤枝静男も書いていますが、中野重治『五勺の酒』は、共産党の立場から天皇制をボロクソに書いていた中野が、志賀直哉にブチ切れられて反省して書いた小説ですよね。天皇制批判の小説として知られますが、中野がいう「天皇個人にたいする人種的同胞感覚」は、いまや「おいたわしい」という天皇への国民の感激や憐憫になって、天皇制を支えているのではないか。「おいたわしい」と哀れに思うがゆえに、天皇制を人権に即したものにしよう、という木村草太みたいなトンチンカンな議論が出てくる。「皇室典範では天皇に決定権がないうえ、人権条項も適用されない。そんな法形式を認めている以上、内閣や国会、国民には、天皇に過度の負担をかけず、できるだけ人権に配慮する責任がある。天皇陛下が退位をにじませたお気持ちを表明したのは、我々が責任を果たさなかった結果だ。そこまで追いつめてしまったことを反省し、陛下の問題提起に向き合うべきだ」(「特例法、違憲の疑い残る」『朝日新聞』二〇一六年一二月二一日」)。たいして、『とちおとめのババロア』は天皇皇族を恋い焦がれたり、「おいたわしい」と哀れに思うような、国民的な情動の対象として描かなかった点が強みである気がします。『不敬文学論序説』では、天皇はタブーだからこそ「描写しろ」と言われていました。しかし、ネットや週刊誌などの天皇・皇族をめぐる言説を見ればあきらかなように、「不敬」は天皇制に国民的な感情や情動をかき立てる装置となっている。結局のところ、「不敬」とは「おいたわしい」という国民的な哀れみの裏返しにすぎないのではないか。その意味では、むしろ、石原慎太郎的な無関心のほうが興味深い気がします。「私は陛下より1つ年上だが、それでも頑張っている。本当に陛下には、もうちょっと頑張っていただきたい」(「BSフジ「プライムニュース」二〇一六年七月一三日」)という発言とか、天皇にたいしてなんの興味もない。

小谷野  昭和天皇が病気の時に、二重橋前で額づいている人を見て、「自分はなんという「土人」の国にいるんだろう」と、浅田彰が言いましたよね。ただ、今回の方が事態は深刻だと、私は思っている。まず天皇がテレビで、「老齢なのでもう引退したい」と言った。それに対して、平川さん含めて異論を唱える人が相次いだ。退位する自由も認めない。なおかつ退位するのに二年もかけて、さらに今回は特例であり、他の人は退位できないことになっている。この点は、片山杜秀大塚英志が書いていることに同意しますね。生身の個人が苦しんでいる、その姿を見て「まずい」と思うのが普通でしょう。それが違った。原武史は「令和フィーバー」だと憤っていたけど、国民がノンシャラン過ぎる。鬼畜じゃないかと思いましたね。結局、井上達夫も言っているけど、奴隷天皇制なんですよ。それを見ない振りしちゃう国民は、いくらなんでもまずい。

小谷野  そこは橋爪と同意見です。左翼の天皇制反対論者がダメなのは、戦争責任論と、もうひとつは差別の根源論ですね。「天皇制は身分差別であり、そこから様々な差別が出てくる」と、ツイッターに書いている人がいました。そんなこと言ってしまえば、インドは天皇がいないけどカースト制度がある。そうじゃなくて、「天皇制は身分制度である。それを認めるのか」と、この一点だけで追及していくしかないんです。話は変わりますが、綿野さんは原武史の『平成の終焉』を褒めてましたね。私は前から「寸止め天皇論者」だと批判していて、結局最後の最後で、原は天皇制を批判しない。

綿野  平成の天皇制は戦争責任への批判を乗り越えたという話をしましたが、その点で原武史が面白い指摘をしている。天皇・皇后はグアムのバンザイクリフや沖縄を訪問しましたが、ノモンハンや盧溝橋といった日本軍が攻撃をしかけた場所には訪問していない。平成の天皇はリベラルといっても、それは日本人の目からみて好ましいリベラルにすぎないわけです。

綿野  やはり、天皇制が最大の障壁になるでしょうね。憲法改正を規定した九六条には「天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」と書いてありますよね。天皇制廃止の改憲天皇が公布するわけです。日本国憲法は当初から天皇制を廃止できるように設計されてないのではないか。まさに天皇憲法は「一体を成す」ように思えます。

 続いて古井由吉『ゆらぐ玉の緒』の書抜きを行ったのだが、不思議と手指が急がず、鷹揚にゆっくりと、間違いもあまりなく動き進むようになっている。コンピューター前に立ち尽くしたまま指を動かす身が、どこか静まったようになっていた。三箇所を写して切りとすると、Andy Beckett, "The new left economics: how a network of thinkers is transforming capitalism"(https://www.theguardian.com/news/2019/jun/25/the-new-left-economics-how-a-network-of-thinkers-is-transforming-capitalism)を読みはじめて、読了した。全部で五日くらいは掛かっただろうか。The Long Readシリーズの記事は如何せん長い。英文の難易度自体は、思いの外にさほど小難しくはなかったものの、しかしまずはもっと短い記事を選んで数をこなしていき、語彙を着実に身につけたいものだ。

・settle for: ~でよしとする、甘んじる
・arguably: ほぼ間違いなく、
・hard sell: 押し売り; 受け入れるのが困難な提案
・barge pole: 船竿
・would not touch ~ with a barge pole: 関わりたくない、まっぴらだ
・enticing: 心を引き付けられる、魅惑的な
・protege: 弟子、庇護を受けている人
・skirt: 避けて通る、敬遠する、回避する
・strand: 撚り糸、髪の房
・slick: 口先だけの、調子の良い
・scuffed: 擦り切れた
・austere: 真面目な; 質素な、簡素な、飾り気のない

 さてそうして、一一時半過ぎからKIRINJI『愛をあるだけ、すべて』に音楽を移行して、前日のメモをふたたび取った。零時を過ぎて音楽は、ライブラリでKIRINJIの直下にあったKISS『Destroyer』に替えて、これが意外と格好良いハードロックだったのだが、まもなく二六日の記録は終えたので音楽を止めて洗面所へ行った。歯ブラシを咥えて戻ってきて、歯磨きをしながら辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』を読み出す。コンピューターを閉じたその上に全集を乗せてひらき、立ったまま歯ブラシを持った右手を動かすとともに文字を追う。このあとカップヌードルを食うつもりだったのだが、それにも関わらず歯磨きをしたのは口内や歯の表面が滓に塗れた感触があって気持ち悪かったためである。
 歯磨きを終えると上階へ行き、まず玄関に出てトイレで尿を排出した。便器の中蓋の裏に、あれは大便の汚れなのだろうか、茶色い染みが何箇所か小さくついていたのでトイレットペーパーで拭いて取り除いておき、それから出ると戸棚から日清のシーフードヌードルを取り出した。居間のテーブルの隅で電気ポットから湯を注ぎ、蓋の口にシールを貼って留め、包装のビニールを台所のゴミ箱に捨てておくと、左手に容器を持って食卓灯を消し、階段を下りた。塒に戻ってカフカ『城』を読み進めながら麺を啜り、塩気の強い汁も飲み干すと容器をぐしゃりと潰してゴミ箱に突っ込んでおき、引き続き書見に傾注したのだが、この夜のあいだに『城』をすべて読み終えてしまいたいと思っていたところ、二時を前にして睡気が耐えがたくなってきて、瞼が落ち、どうしても頭に文の意味が入らないようになってきたので、仕方ないと諦めて本を閉じ、電灯のスイッチを押して部屋を真っ暗にすると寝床に移った。眠りは容易だったらしい。


・作文
 14:24 - 14:56 = 32分
 18:10 - 18:24 = 14分
 18:24 - 20:03 = 1時間39分(メモ; 26日)
 23:37 - 24:13 = 36分(メモ; 26日)
 計: 3時間1分

・読書
 16:19 - 16:30 = 11分
 17:38 - 18:09 = 31分
 21:10 - 21:21 = 11分
 22:20 - 22:39 = 19分
 22:42 - 23:12 = 30分
 23:14 - 23:35 = 21分
 24:15 - 25:51 = 1時間36分
 計: 3時間39分

・睡眠
 2:00 - 13:30 = 11時間30分
 16:30 - 17:20 = 50分
 計: 12時間20分

・音楽