しかしその年寄りの背に、まだ幼い子供の影が添ってくる。いくら食糧の足らぬ時代でも、子供にそんな居候のような思いはさせたことはないはずだ、とこれは亡き親に代わって言える。食膳に就く時には、銘々膳でなくても、子供も正坐させられた頃のことである。膳の前にまがりなりにも畏まって飯を搔きこむ子供の垂れた項は、往年の品をまつわりつかせて御飯を頂く零落の年寄りと、その姿がどこか似るものか。食事は家の内の日々の儀式、あるいは失われた儀式をたどっているようなものでもあった。生まれた家を戦災で焼かれて引っ越しを重ねた子供と、世を渡る方途[たずき]も絶えて人の世話になった年寄りとは、そのあわれさに相通じるところがあるようだ。習いとなった行儀のよさにせよ、食べられていて、生きていられて、ありがたいという、心のあらわれなのだろう。ありがたいと感じさせられるのはそのまま哀しみであり、遠くへ置き忘れられた子供の哀しみと、遠からぬ先の我が身かとも疑われる年寄りの哀しみとがいまここで、晴れた晩秋の正午頃に熱い味噌粥などを啜る、行儀もよくなければありがたいとも思っていないこの背に付いて、出会ったことになるか。
(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、101~102; 「時の刻み」)
- 一〇時二〇分に至って現世に戻った起床の身を、春の太陽が強烈に射抜く。肌の面[おもて]に弾ける、刺激的な光だ。のちほど布団を干すことができたが、午後から段々曇ってきて夜にはちょっと雨も通ったようだった。
- Lee Ritenourのライブ盤、『Overtime』を久しぶりに流した。高校生の時分から大学時代に掛けては結構よく聞いた覚えがある。いま耳を向けてみても、充分良質と思う。各曲のパーソネルはDiscogsを参照(https://www.discogs.com/ja/Lee-Ritenour-Overtime/release/7650726)。二〇〇四年録音で翌〇五年発売なので、一五年前に当たる。こちらは当時、一五歳だ! 信じられない。
- Wes Montgomery『Full House』を掛ける。Johnny Griffin(ts)、Wynton Kelly(p)、Paul Chambers(b)、Jimmy Cobb(ds)という面々でのライブ。一九六二年六月二五日、カリフォルニアはバークリーのTsuboというジャズクラブにて。
- 後藤明生『挾み撃ち【デラックス解説板】』(つかだま書房、二〇一九年)を読み進める。評判の高い作だが、確かに物珍しいと言うか、ところによって奇妙な動き方をする言葉の連なりを具えている小説のようだ。怜悧さと、すっとぼけたような風情の軽妙さを併せ持っているらしく感じられる。
- ハンガリーのヴィクトル・オルバーン政権についての記事に少々触れる。いわゆる「ストップ・ソロス法」についてなど。
- Room ElevenのLive In Carreの音源をyoutubeでそのうちに聞くこと。