どうして生き延びることができたか、ということですが、答えは簡単です。要するに、ただ運が良かったのです。こんなことがありました。マイダネクには、当初少年のグループがありました。その頃わたしは一三歳だったのです。ある日、ドイツ人が、年長の少年たちの一団を厨房の仕事に従事させるといって連れていきました。わたしはその場にいなかったので、メンバーにはいれませんでした。みんなが厨房にいるとわかると、わたしはそこへ行って泣きながら「僕も入れてくれ」と頼みました。厨房の仕事とは、何か食べ物を得られるということを意味したのです。でもわたしは蹴りだされてしまいました。男の子は間にあっているというのでした。
二~三日後、厨房に行ったその子たちがガス室で殺されたことを知りました。わたしはたまたま(運良く)その中にはいらずにすんだのでした。
運が良かったという話なら、他にもありますよ。(マイダネクの次におくられた)スカルジスコ(収容所)では、ちょうどわたしがチフスにかかっているとき、「選別」がおこなわれました。そのときも、(昔)近所に住んでいた医者が、わたしを寝台から引きずりおろして、寝台の下にかくまってくれたのでした。他にもそんな話はたくさんあります。とにかく運が良かったのですね。それにつきます。
(花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』東海大学出版会、二〇〇八年、47~48; ヤクブ・グデンバウムの記憶)
- 一〇時を過ぎたあたりで意識を定かに取り戻し、精神の霞を晴らすことに成功した。布団を退[の]けると、仰向けに転がったまましばらく顔面に陽の光を吸収する。
- 新聞に川崎燎の訃報。エストニアに渡ったジャズ・ギタリストで、立川図書館に一作あったのをむかし借りた覚えがある。多分『My Reverie』というやつだったはずだ。
- 美容室に髪を切りに行った。翌日、オンライン授業の説明を受けるために職場に出向かなければならなかったので、もうあまりにも伸びすぎているしさすがに切っておこうと思って正午過ぎに電話を掛けたのだ。それで明日の出勤前、一時くらいにやってもらえる見込みでいたところが、今は午前中で店を閉めさせてもらっていると言う。まあ考えてみればそりゃあそうだろう。妥当な対応だ。午前中ならとあちらは言ったが、正直午前のうちに目覚める自信がなかったので諦めて、ちょっとまた考えさせてくださいと残して電話を切った。するとしかし、すぐに折り返し掛かってきて、今日これからではと提案してくれる。もう営業終了後だろうに、わざわざ有難い話だ。それで礼を述べ、伺いますと返答して、注いだばかりだった茶を一杯、急いで飲み干し服を着替えた。抽象的な落書きめいた絵柄のTシャツに、ガンクラブチェックのスラックスとグレンチェックのブルゾン、例によって似非セットアップ風の格好である。そうして階を上がり、トイレに入って糞をひり出したのだが、まだ便意が高くなかったところに訪れを待って無理矢理出したので、それにちょっと時間が掛かった。
- 出発。林のなかの坂道を上っていく。前夜の散歩で最後に下りたのと同じ道で、昨日見つけた桜の花びらをまた踏み、源を求めて見上げてみるが、きょろきょろ視線を回しても緑ばかりで桜の色はちっとも見えず、一体どこから降ってきたのか、やはり起源がわからなかった。
- 店に着いて散髪。客が高齢者ばかりだから万一のことがあったらまずい、評判にも関わって困るから、と短時間営業のわけを説明する。(……)は二人ですってねとこちらは話を合わせ、うちも今休みなんですよと明かした。――ただ、オンライン授業を始めるとか言って、明日行かなきゃならないんで。その前にさっぱりしておこうと思ったのだ、と語る。
- 一通り切ったあと二度目の洗髪の際、(……)さんにお子さんは今……と訊いてみると、下の二人の娘さんは家にいると言う。その一番下の子は一月から働き出したばかりだと言うので、ちょっと驚いた。まだ大学生くらいの、何だったら高校生くらいの認識でいたのだ。それで、もうそんなになるのかと、ほとんど不可思議にも似た感を得た。ついこのあいだまで高校で勉強が、とか(……)さんは漏らしていて、こちらもそれに応じて是非塾に来てくださいとか言っていたような気がする、と話す。
- 散髪は、何と去年の一〇月三一日から来ていなかったらしい。半年弱に当たる。だから当然相当伸びて、煩わしくもさもさとしていたわけで、髪を切り終えてさっぱりすると良かった良かったとこちらは漏らし、これでようやく務めを済ませたって言うか、刑期を終えて娑婆に出てきたぞ、みたいな、と冗談を吐いた。そうして二人にそれぞれ頭を下げて礼を送りながら退店。
- 出てきたついでに遠回りで散歩しながら帰ろうと思っていたところ、途中で雨粒が散ってきたのでやはりさっさと巣に戻ることに。車が途切れるのを待って街道を渡り、今はもう閉ざされてしまったが、家のすぐ前に続く林のなかの道を下りる。以前なら曲がりなりにも階段の用を果たしていた木の段も、今や半ば以上、自然と同化している。人はほとんど入らないはずなので降ってそのままの落葉が豊かに堆積した上を踏んでゆっくり下っていくあいだ、風がよく吹き通って、樹々の唄を大気中にばら撒いていたはずだ。
- 三月三一日と四月一日の日記を書き上げることができた。
- 夕食後に歩きに出た。雨降りのあとで、ざらざらと微細な陥没を無数に帯びたアスファルトの表面は全部濡れきって、より黒々と深く沈みこみ、同時に街灯の純白光もその上でより明るく踊り、つややかに反射される。雨は闇をより闇らしく、光をさらに光らしく、各々強く増幅させて、顕著な対比を拵える。夜気は結構冷ややかだったが、煮込んだ蕎麦を食べてきて身体が内から温んでいたので、涼しさはむしろ心地良いほど、実際、吐息も白く濁るくらいの気温だけれど、肌に寒さは感じなかった。雨後なので、空は当然薄墨に曇って隙なく閉ざされているものの、あまり暗いとは見えずむしろ明るめなようで、黒漆色の夜の影にのっぺり同一化した林の樹々と空との境も、あやふやに入り混じろうとはしていない。
- 公営住宅の公園の桜を下から見上げつつ過ぎる。花はもう消えて替わりに葉が湧き、枝先など既に結構広く育って、赤子の手のひらよりも大きいだろう。そのなかに、あれは萼なのかそれとも花柄というやつなのか、毎年見かけていながら未だに知らないのだが、落花のあとに残った切片の渋紅色が点じられていて、それを見ながら歩む足もと、道の端には、華やぎの残滓で、白い花弁がいくらか撒かれて濡れていた。
- 坂を上った先にまっすぐ伸びた裏道の奥、水っぽい空気が街灯の光を吸って溶かして、浅い夢の趣でぼんやりと籠ったようになっている。そのなかを通り抜けて突き当たった街道は、今日も車が少なく容易に渡れて人の姿も見えないが、ただ消防署の前まで来るとジョギングに励む若い男性が現れた。歩道を行ったり来たり、繰り返し辿っているようだ。
- 車道の脇を行きながら、今日もまたもう夜に至ってしまった、と考えた。一日はまったく短いわけだが、そもそも一日という区分で時空を捉える必要もないのでは? ともちょっと思った。今まで継続主義者などと嘯いて、営みを営むならば毎日続けるということを最重要視してきた自分だが、一日単位で行動を決めず、時々の心身の志向性にただ従えば良いのでは? と。そもそも世界の生成を一日ごとで分割する根拠など、大してありはしないのだし――いやまあまったくないではなくて、よくも知らないけれど大いなる星辰の運行とか、いくらかなりとそれに基づいているだろう肉体組織の生理的・生物的恒常性とかが根拠なのだろうが、いずれにしてもそれは完璧に絶対的なものではないはずで、従って時間の分割というやつはこの世においておそらく最も巨大で強固な制度、まさしくほとんど普遍的なイデオロギーだろう。前々から折に思ってはいることなのだが、抽象観念としての数的時間ではなく、より実体的な、と言って良いのか、少なくともより具体的な時間感覚に、より具体的に近づき触れるためにはどうすれば良いのだろう。抽象の縮約作用に抵抗する具体感を探るというテーマなわけだから、これは多分いかにも形而上学的な問題だと言えるはずで、歩くうちに、部屋のスピーカーの上に積んである檜垣立哉の時間論、『瞬間と永遠』というドゥルーズについての著作の名前を思い出したりもするわけだけれど、この種のことを考えるためにはきっと、まずはベルクソンあたりを読む必要があるのだろう。あとはそれを引き継いだらしいドゥルーズ、他方日本人では、よくも知らないが大森荘蔵とかを読むべきなのだろうか? 時間論をやっているという印象があるのだが。さらには事は数的分割の認識に関わるわけだから、当然数学の、少なくとも一分野には及んでくるはずだと思う。数学についてなど、何一つ知りゃあしないけれど。
- 牛乳屋の前に置かれた自販機裏のゴミ箱に、昨日ここで買ったDydoのコーラの空き缶を捨て、南に渡って東へ歩く。車の流れは時折り生まれて、それらが引き寄せてきた風が、商店のシャッターに当たって転がり、過ぎ去りながらがたがた揺らす。空はやはり曇りながらも明るいと言って良いほどで、大きな樹の細かく分かれた枝振りがはっきり宙に浮かび上がり、まったく暗夜の様相ではない。肉屋の傍から下り坂に入ると、頭上の葉先の水滴がダウンジャケットの上に落ちるが、音は聞こえない。道に沿った木叢のなかに沢が流れて段になっていて、弾ける水の音[ね]が立っているのでそれに紛れてしまうのだ。
- 管啓次郎『ストレンジオグラフィ Strangeography』(左右社、二〇一三年)を進める。八〇頁に、「歩くアーティスト」の一例として、ハミッシュ・フルトンという名前が挙げられている。「「作品」としてフルトンが提示するのは歩くことの中で撮影された写真と最低限の言葉、それだけなのだ」ということだ。このフルトン及び美術家リチャード・ロングと同種の、「まるでかれらの精神的な弟のような現代日本の写真家」として、津田直という人の名前も次の頁に記されている。
- 一〇九頁から一一一頁に連詩の紹介がある。二〇一二年の一〇月一五日、橘上、斉藤倫、三角みづ紀、管啓次郎、柏木麻里という五名で集まり詩を作ったと言う。「ひとつの出来事を誰かと共有することについて」という田中功起が提出したテーマを巡って、順番を変えながら一人一行ずつ書き連ねていくという形でやったらしい。それで出来上がったのが次の詩篇。
水を飲んだ、別に水だから飲んだってわけじゃないけど
なんてちょっといいすぎたかもしれないな
わたしたちは円になっているだけで
惑星同士のような引力にとらわれてしまう
砂と水を見分けろ。
砂がわたしにそう言ったわけじゃないけど
あきらかなる感覚です。
たとえば、窓のむこうだよ
けんけんぱであんなとこまでいけるんだ
四谷四丁目東と月面が近接する
1987年12月19日にやったけんけんぱと月面が近接する
月に氷はないのになぜあんなに輝くの
垂直な月光が私を立たせる
そのあしのうらにかくれていた半分のもの
残欠と残欠が教えてくれる瞬間
月光という出来事
引かれあうのではない引力をさがして円になる動物
獣としての私は水を飲み砂に眠る
この夜。
獣にだって影はあるよ。夜にだって影は出る
夜の水と影の光に裏切られては
四谷四丁目東と月面が近接する
この夜。
砂漠を流れる水と中庭の噴水から噴き出す砂
水に許される日まで水を飲み続けよう。
- 一人一行ずつを書いて繋げて詩を作るというのはなかなか面白そうだなとまず単純に思った。それと同時に、なるほど詩というものはこんな感じで作れば良いのか、ということが何故か何となくわかったような気がした。詰まるところ、一行と一行を繋げていく行為なのだ。それで詩を書いてみたくなったので、読書を切り上げたあと、午前二時から久しぶりに言葉とイメージを練った。日記を片づけなければならないのに、またこうして寄り道をしてしまうわけだ。この連詩の話が紹介されていた管啓次郎のエッセイは「その場で編まれてゆく危険な吊り橋」という題なのだが、その文章の最後の一文が、「そしてこの五人からしか生まれなかったことばの群れを二枚の大きな紙に書きつけて、夜がはじまるとともに、全員が姿を消したのだ」というもので、「夜がはじまるとともに、全員が姿を消したのだ」という一節が何だか格好良く感じられたので、それを冒頭に借りて一篇拵えることにした。そうして三時半まで続けてしまう。
- その後、就寝前にふたたび書見をしたわけだが、詩に意欲が向いたために、本を読む時にも何かその端緒になるような言葉を探すと言うか、それを引き寄せるような感じが生まれていて、言葉がこちらの印象帯のなかに浮かび上がってくるその有り様が細かくなったようだった。今までだったら別にメモするほどでもないと払っていたような、そこまで大したこともない表現や語でも拾っておこうという気になるのだ。本を読むという行為は、まだまだ面白くなりそうである。