2023/1/24, Tue.

  ローレライ

 どうしてこんなに悲しいのか
 わたしはわけがわからない
 遠いむかしの語りぐさ
 胸からいつも離れない

 風はつめたく暗くなり
 しずかに流れるライン河
 しずむ夕陽にあかあかと
 山のいただき照りはえ

 かなたの岩にえもいえぬ
 きれいな乙女が腰おろし(end217)
 金のかざりをかがやかせ
 黄金 [こがね] の髪を梳いている

 黄金の櫛で梳きながら
 乙女は歌をくちずさむ
 その旋律 [メロディー] はすばらしい
 ふしぎな力をただよわす

 小舟をあやつる舟人は
 心をたちまち乱されて
 流れの暗礁 [いわ] も目に入らず
 ただ上ばかり仰ぎみる

 ついには舟も舟人も
 波に呑まれてしまうだろう
 それこそ妖しく歌うたう
 ローレライの魔のしわざ

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、217~218; 「ローレライ」(Loreley); 『歌の本』)



  • 一年前は通話で(……)くんから音楽をおしえられている(かれももともと(……)さんからおしえてもらったもの)。Ubiratan Marques・Orquestra Afrosinfonica『Orin, a Lingua dos Anjosというのと、Lourenço Rebetez『O Corpo de Dentro』というやつ。現代ブラジルの音楽で、前者はビッグバンドでとうじ何度かながした。後者はまだ聞いていなかったはずなのでメモしておく。
  • 往路。そこそこの書きぶり。

五時すぎで道へ。きょうは気温が高いようで、バッグを持つ手や顔につめたさが寄ってこなかった。空は暮れ方の希薄さにまっさらで、あるかなしかの淡青にひらいたその縁では白く透きとおり、この時刻の色や質感だとそこに雲がひそんでいるのか否かみわけられないが、おそらく曇天が終わってくまなく晴れたのだろう。路上の明暗はたそがれにはいる数歩前、あかるさをまだのこした宙に街灯はすでに灯って白くかたまり、みなれた近間のようすが馴染みのないべつの町にいるかに映る叙情味が一点そこににじまないでもない。十字路の向こうには何年かまえに越してきた白人の一家(奥さんが日本人のようだ)が住んでいるが、家屋前の細い通路から道に出るその脇にちいさなバスケットゴールが設置されており、そこで父と子がボールをつかってあそんでいた。父親が子にかける激励などのことばがしずかな夕べの道に渡るが、やはりおおかた英語だったようである。

坂道をのぼって最寄り駅へ。ホームの屋根のしたから出てさきのほうへ行き、電車が来るあいだ数分立ち尽くした。空気がぴたりとしずまっており、風どころかながれも揺動すらもなく、マスクをつけた顔の肌になんの感触も生まれない。街道を行く車の音のみ風の代替のようにまがいもののようにつたわってくるが、線路のまわりのもはやとぼしくなった草も振れないなと見ているうちに、ようやくわずかなながれが来て顔に触れ、草の音も一息立ったが、ほの暗んだ視界の底でうごきも見えなかったし、それは大気によるものではなく、なにか小さ虫がいたのではないかという気がする。申し訳ばかりの涼気はすぐにおさまった。北西では丘や樹々の黒く均されたシルエットをまえに置きつつ天涯がかすかなごりのつやを浮かべている。

来た電車に乗って優先席の端につき、瞑目のうちに到着を待つ。着くと出て駅のそとへ。駅前を行きながらロータリーのほうを見渡せば、西空はきょうもトワイライトの青さに浸って玲瓏としずまり、それをいただくむかいのビルは縦にながい窓がいくつも差しこまれているのが白黒の縞模様に似てモダンに映り、ここでもふだんかんじない興趣を地元の景色におぼえたようだ。職場に行って労働をする。

  • 九時二〇分に時刻を確認。曇天の気配。きょうだかあしたからめちゃくちゃ冷えこむとか職場で聞いたおぼえがあるし、(……)さんから来ていた返信のメールにもふれられていたとおもうが、すくなくともきょうの午前の時点ではたいして寒くはなく、布団のしたにあるからだが冷えてもいなかった。Yahoo! の天気予報のページをみてみるとたしかに「この冬一番の寒波 大雪と寒さに警戒を」という文言がみられ、あすの水曜日は最高気温が五度となっている。起きた時点では曇天だった空が昼前にかけて次第に青さをとりもどしたようで、カーテンにひかりのつやがいくらかみえたので洗濯もして、その後また曇ることがありつつも午後のはやいうちはおおかたうすあかるく、洗濯物もそれなりに乾いてよかったのだが、おそらく三時くらいから風がはげしく吹き荒れるようになり、あるいはもっとはやくから走っていたかもしれないが、すさびかたが近頃まれにみるいきおいで、台風かという響きでそとの宙を重く鳴らして騒がせていたし、アパートの建物ぜんたいもそれに衝突されて波が襲ってきたかのよう、窓をガチャガチャいわせる瞬間もままあって、午後八時前現在もつづいている。洗濯はすべては洗わず、タオルや肌着、ワイシャツ二枚にとどめた。たくさん干すのがめんどうだったので。寝床をいったん立つと水を飲んだり用を足したりしてからまた腕をちょっと振り、臥位にもどるとウェブをみてから一年前の日記を読んだ。「読みかえし」ノートはきょうはなんとなく読む気にならず、Guardianをのぞいたりしてから再度床をはなれたのが一〇時五〇分だか、屈伸したり腕を振ったりしてからだの上下とも血をめぐらせて、瞑想はサボって食事を用意した。温野菜とインスタントの味噌汁と冷凍のソーセージ二本。ソーセージはこれで尽き、その他の食べものももうとぼしいので買い物に行こうとおもっているのだが、吹き荒れるこの風のなか夜道をあるくとなるとさすがに少々寒気がおもいやられる。いっぽうであまりないこの風のなかをあるくのは、それはそれでおもしろそうだという気もするが。
  • 食後は食器をかたづけたり歯を磨いたりはすぐにするのだけれど、それからなにをするでもなくしばらくだらだらする。やはりからだがセットアップされないとやる気が出ない。一二時半だか一時だったか、そのくらいで湯を浴びた。髭もようやく剃ることができた。伸ばしてしまうとそのぶん毛がつよくなるから剃りづらいのだが、みじかい時点ではなかなかあたる気にならない。今回、鼻と上唇のあいだの部分はやはりすこし固くて剃りづらかったのだけれど、顎のほうはたいした抵抗でもなかった。鼻の右の穴のしたにできている出来物は、もうほぼなくなりそうなくらいではあるものの、膿の溜まった白っぽさの点がすこしだけのこってほんのわずかふくらんでいる。湯を浴びて出て、服を身につけ髪を乾かすと、また腕や手を振ったりしていたのだけれど、そうするとさいきんこんな眠気をおぼえたことはなかったというほどにねむくなってきて、こりゃだめだとおもいたたみあげていた布団をおろして横になり、本格にねむるつもりはなくてまどろむくらいにとどめたかったが、けっきょく四時まで夢魔にやられた。めちゃくちゃきもちがよかった。昼寝というのをながいことしていなかったが、夜寝にはないあたまの芯をしびれさせるような甘美さがあかるいうちのねむりにはたしかにある。ときどき意識がもどっても窓にのぞく空が青くてひかりもあるから、ああこんなあかるい昼にまさしく惰眠をむさぼってしまうとは、というおもいがないではなかった。
  • 四時に意識をとりもどすと水を飲んだりして、しかしまだ床をはなれきりはしなかったのだ。そのころには西陽の恩恵もとどかず、刻々とうす青さにつつまれて暗んでくる部屋のなかで、Guardianの記事を読んだりしつつ脚をやわらげ、五時で起きるとあかりをともして、体内が空で寒々しかったのでなにはともあれものを食うことにした。温野菜と、母親がもってきてくれた天麩羅ののこり。キャベツはもうなく、白菜しかなかったので、タマネギを温野菜にはくわえた。白菜もこれで切れたし、やはり調達してこなくては。その他バナナとヨーグルトを食って腸をおもんぱかり、食後はからだがおちついてくるまでウェブをみたり英文記事を読んだり。七時前くらいから音楽を聞くことに。先日Nick Drakeの『Pink Moon』を聞き終えたので、『The John Peel Sessions』というのをながす。これはゆいいつのライブ音源、というか生演奏を収録した音源のようで、Amazon MusicにあるNick Drakeのアルバムはあとはコンピレーション。『A Treasury』というのはただのベスト盤のようだからべつによいが、『Made To Love Magic』というのはアウトテイクやリミックスをあつめたものらしく、そちらはちょっときいてみてもよいかもしれない。John PeelというひとはBBCでPeel Sessionsという番組をもっていたらしく、そこに出たときの演奏というわけで、”Time of No Reply”, “River Man”, “Three Hours”, “Bryter Layter”, “’Cello Song”の五曲すべてバッキングはギターのみで、弾き語りのうえに終わりの二曲ではフルートとチェロが乗るかたち。六九年の録音なのでそんなに明晰ではないが、スタジオ盤よりDrakeの声が残響を帯びてふくよかに伸びてわるくない。”River Man”の弾き語りも聞けるし。”Three Hours”はやっぱりちょっと変で、よくこんな伴奏で歌をつくろうとおもったなとおもう。
  • それからBrad Mehldauの独演をあつめたあれを聞き出すか? とおもっていったんホームにもどると、おすすめ欄みたいなところにNick Drakeとならんで出てきたもののなかで、John Martyn『Solid Air (Deluxe Edition)』というのと、Jackson C. Frank『Jackson C. Frank』というのが気になってタブでひらいておき、それぞれ二曲ずつだけ聞いた。前者は”Solid Air”, “Over The Hill”。一曲目はちょっとおもしろいというか、けむたいような音像のなかでアコギが跳ねたり、右でテナーがしずかに息をふきこんだり、あと左にも鍵盤かなにか装飾されていたとおもうのだが、ボーカルの声も妙に残響をともなってけだるいような歌いぶりで、I’ve been walking on solid airとかいちおうある程度聞き取れはするのだけれど、なんだかやたらもごもごしたような発音でうたっており、しかもその声がけっこう中心でおおきい位置を占めて迫ってくるいっぽうで小声になってとおく引く部分もあるから、なんだかあまり聞いたことのないような、ちょっとおもしろい音像だなとおもった。音楽的にもきらいでない。二曲目は一転してあかるくなって、かんぜんにカントリーじゃん、とおもった。ひだりでせわしなくやっているのはバンジョーじゃないかとおもうし。これもこれでわるくなく、アルバムぜんぶ(デラックス・エディションで三三曲あるのだが)聞いてもよいかもしれない。Jackson C. Frankというひとももろカントリーという印象で、しかしカントリーやブルーグラスなどほぼ聞いたことがないので合っているのか? ともおもうが、一曲目の”Blues Run The Game”はアコギがアルペジオをまじえた一連のコードバッキングをひたすらくりかえしながら歌もほぼおなじかたちでなんども周回していくもので、どこにいても行ってもブルースはおなじとか言っていたようだし、いかにも「味わい深い」といわれそうな古き良きアメリカの音、という印象だけれど、この曲は牧歌的にすぎてそんなにとおもった。この翳の色が一瞬たりとも出てこないコードワーク。二曲目の”Don’t Look Back”もあかるさの度合いとしてはそう変わらず、ストレートな弾き語りだが、冒頭からジャカジャカやられるコードがきもちよくて歌もちからづよいので、これだったらアルバムぜんぶ聞いてみてもいいかなとおもった。なんというか、Woody Guthrie直系、みたいな印象。Woody Guthrieもほぼ聞いたことないので正当かわからんが。Woody Guthrieともうひとり、Bob Dylanいぜんのアメリカのフォークレジェンドみたいなひといなかったっけ? Pete Seegerだ。”Last Train to Nuremberg”というのがまえ聞いてよかったおぼえがある。Jackson C. FrankはいまWikipediaをみてみたところ、音源は二〇〇一年リマスターとなっていたけれどもともとは六五年のもので、Paul Simonがプロデュースしたといい、しかしその後は統合失調症と診断されたりしてキャリアをつづけられず、六五年のデビュー作がゆいいつの作品となってしまったらしい。〈Though he only released one record, he has been cited as an influence by many singer-songwriters, including Paul Simon, Sandy Denny, Bert Jansch and Nick Drake. Rolling Stone journalist David Fricke called Frank "one of the best forgotten songwriters of the 1960s.”〉とのこと。
  • あたらしく知ったこれら二作と、Nick Drakeの未発表音源と、Beth Ortonと、あとうえにメモしたLourenço Rebetez『O Corpo de Dentro』というやつと、そのへんもいろいろ聞きたいが、そろそろジャズを耳にしたいきもちもあり、Mehldauのソロライブをあつめたあれをやはり聞きたい。しかしそのまえに『Live In Marciac』を聞くのもよいかもしれない。あちらはぜんぜん聞いたことがないので。しかしやはり音楽をちゃんと聞けると生のなにかがちがう。じぶんがいちばん充実するというか、解放とかおちつきとかこころゆたかな感じになるのは、音楽をちゃんと聞いているときかそとをひとりでゆっくりあるいているときだとおもう。読み書きはしょうじき言ってそうはならない。本は文学にせよその他のものにせよもちろんおもしろいけれど、そういう感じではないのだよな。

Fumio Kishida is not a politician given to dramatic pronouncements. But this week he issued a stark warning to the Japanese people: have more children, or risk dragging their country into the depths of dysfunction.

His shift in persona from bland career politician to doomsayer in chief is a reflection of the demographic crisis facing Japan, one of the fastest-ageing countries on earth.

As he pointed out in a 45-minute speech to parliament on Monday, the number of births in Japan is estimated to have sunk below 800,000 last year.

     *

The population of the world’s third-biggest economy has been in decline for several years, and suffered a record fall of 644,000 in 2020-21, according to government data. It is expected to plummet from its current 125 million to an estimated 88 million in 2065 – a 30% decline in 45 years.

The birth rate remains at 1.3 – the average number of children a woman will have in her lifetime – way below the 2.1 needed to keep the population stable. And the number of over-65s continues to grow – now accounting for more than 28% of the population.

     *

Because Imai is not alone. A survey by the Nippon Foundation released just before he addressed MPs found that only 16.5% of peopled aged 17 to 19 believed they would get married, even though a much larger proportion wanted to do so.

As the Mainichi Shimbun pointed out, young Japanese have not suddenly become preternaturally resistant to marriage and family life. The problems arise, the newspaper said in a recent editorial, when their ambitions meet economic reality.

“In Japan, families with children bear a heavy economic burden,” it said. “The high cost of education, such as cram school and university tuition, is a major reason why people are not having an ideal number of children. Child allowances help families raising children, but they do not lead to a fundamental correction of economic disparities.”

  • その後スーパーへの外出をはさんでBrad Mehldau『Live In Marciac』を四曲聞いた。"Storm", "It's All Right With Me", "Secret Love", "Unrequited"。行くまえに三曲で、帰宅後に一曲。さいしょの"Storm"を聞くあいだ、そうそうこういうのが聞きたくなっていたんだ、とおもった。要するにジャズということで、ほかのジャンルももちろんよいけれど、フレーズがつらつら連ねられて駆けながらときに色合いを変え、いままさに生成されつつあるその音のながれにじぶんの意識が同期する感じというのはやはりジャズ特有のものだろう。"It's All Right With Me"もかなり展開的で、けっこう本気を出している感はあり、Brad Mehldauは理知的なほんにんのイメージとか、曲によってはアブストラクトな色合いがあるいっぽうで、意外と、ではないのかもしれないが見世物的にやるのがうまく、盛り上げ方、多彩なアプローチを駆使した構築のしかたは卓越していて、均整をたもったまま熱するような瞬間もあり、ピアノのことはわからんがテクニック的にはたぶん最高峰に位置しているひとりと言ってもよいのだろうし、こういう種類の演奏をやるとまま圧巻のものになる。三曲目は一転してメロディを抑え気味にして余計なことはなにもやらず、センチメンタルとロマンティックに徹したバラードで、派手な部分はなにもないが二曲目のような演奏をされたあとにこのシンプルさが来ると対比にやられる。四曲目はどういう感じだったかわすれてしまったが、ちょっとクラシカルな色だったんだっけか。これもおもしろかったとおもうのだが。Mehldauがつくるようなこういうオリジナル曲は、たぶん現代音楽の方面とあまり差がないのだとおもう。ジャズのばあいはそれをアドリブで展開させるわけだけれど。そういやNikolai Kapustinという超絶技巧の、ジャズっぽい感じも入れたクラシックのピアニストがいて、あれもすごかったからまた聞いてみたい。
  • 外出したのは九時ごろだったか? 風がとてつもない日なのでさすがにきょうはストールを巻く。それで道に出て、おもての車道に抜けるとさっそく強風が身を押してきて、ひどくつめたいので顔をしかめずにはいられない。(……)通りに向かうあいだもなんどか吹いてそのたび苦しめられたが、通りにはいってからはいっそうで、ときおり激しく疾駆してくるとそのいきおいでまえにすすむことをなかばひるんでしまいほとんど足をとめられるくらいだし、不可視の水が空中にながれているのかという冷え方でモッズコートもつらぬいてきて、ふれられればそれだけで心臓の動悸がすこし上がるかのような刺激のつよさ、じつに強力な寒気であり、通りを行くあいだ、ことによると倒れるんじゃないか、この風はおれの意識を刈り取りに来ているんじゃないかとおもうくらいだった。それでもそのなかを自転車に乗って行くひともいる。すこしでもからだをあたためようとマスクのしたで息を吐きながら風に抵抗して行った。スーパーに停まっている自転車もさすがにすくないと見え、はいれば入り口のマットのうえには落ち葉がたくさん散らばっており、籠はあつめられ補充されたばかりなのか、客もすくなくて余裕があるのかたくさん積み上がっており、いま会計を終えて品を詰めているひともとぼしく整理台のまわりはさびれた空気だったが、まわっているうちに意外と客は増えた印象だった。品々を籠にあつめて会計に行き、台のうえに置きながらすみません、お願いしますと年嵩の女性店員に声をかけると、いきおいが足りなかったようで、え? と聞き返されたので、あ、お願いします、と言いなおした。品物の読みこみが終わって確定された値段が読み上げられると、レジ台の側面、支払い機のまえにうつり、店員が籠をそこに移動させてくれるのを待つが、そのさい近間の入り口がひらいたので、ひゃー、ここはさむいな! とか女性は言っていた。礼のことばをかけて機械で支払い。


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  • 日記読み: 2022/1/24, Mon.