いま一一時。きのうははたらき、ひさしぶりに電車に乗ってかえってきて、一〇時ごろアパートについた。夜ならひとがほとんどいないので乗れる。きょうはおおかぜの日で、まことに風がつよく、ぐちゃぐちゃぐしゃぐしゃというかんじで建物にぶつかっているおとがときどき聞こえ、まえにもつかった比喩でいえば、巨大な蛇とか、それこそ龍のたぐいが通りを行き来し大気を練りながら飛んでいるようなイメージもわく。
 「塔のある街」はあたまのなかにあるのこっている場面をどうつなぐかというのがだいたいかたまった気がする。日曜日の夜に携帯で、Notionにメモしてある最新版を音読したところ、まあここまでうまく書けているだろうというかんじだったが(二、三、表記をなおそうかなとおもった箇所はあったが)、直近で書いた塔内図書室の描写は、あれ? これだめだな、ここだけぎこちないな、という調子だった。たぶん、土曜日に、これから実家にうつるというなかで、時間の余裕があまりない状態で書いたからだろう。この作品は推敲はしない。健康にわるいので。いま書きすすめながら読みなおしてたしょう加筆したり手直ししたりはしているのでそれでOK。
 「五つの聖なる物語」についていうと、日曜日の朝起きて一〇時ごろ、トイレにはいってクソをしているときに、「おそろしきうみをたたえよひとら」というフレーズがおもいついたので、四つめの海辺の篇の題はこれでいいやとなった。で、おそろしいわけでしょう。ってことは恐怖なんで、三つ目の歌い手のやつにも恐怖をいれようとおもって、じゃあ主人公的歌い手をパニック障害にしようとおもった。パニック障害ということばじたいはもちろん出さないが、人種差別的な暴力にまつわってステージに立てなくなる、うたがうたえなくなるようにしようと。五つ目の山のやつは魔法使いになるための試練のはなしと決めたので、タイトルはそれこそ「魔法使いのさびしい目つき」にしたいなとおもった(岩田宏の原詩では「魔法使」だったはずだが、「い」はほしい)。しかしそうすると、総タイトルを「やさしいひとはおしなべてうつむき」にするのはやりすぎで、この二行を両方つかうのはくどい。なので、総タイトルはやっぱりシンプルに、「五つの聖なる物語」にしようかなとおもった。各篇の題をならべてみると、1. 塔のある街 2. Black Is The Color of My True Love's Hair 3. 孤独のなかの神の祝福 4. おそろしきうみをたたえよひとら 5. 魔法使いのさびしい目つき というわけで、三つ目いこうのコテコテぶりがすごい。
 3については男女の観念、男らしさや女らしさという観念をなにかしら揺さぶるような篇にならなければならないはずなので、そういう意味で表記は「おとこ」「おんな」「かれ」「かのじょ」にする。人物はおおくなりそう。まず主人公的位置づけにはおとこの歌手。とくにイメージもとはいまないんだが、しいていえばやっぱりBillie Holidayなのかな。その歌手のバンドはボーカルいがいに三人、ピアノ、ベース、ドラム。もうひとつ、先輩の歌手のバンドもあって、このふたりはおなじクラブでよく出番がいっしょになる。先輩のバンドはピアノ、サックス、ベース、ドラムのカルテットで、このピアノをThelonious Monkっぽいやつにする。サックスはおだやかで地味な、朴訥とした、Charlie Rouseみたいなスタイルのサックスでもいいかなとおもっている。ピアノがMonkなので。それか、Charles Lloydみたいなふわっとしたやつか。サックススタイルはLloydで、性格がRouseのサックスみたいなかんじにしようかな。Monkっぽいやつのなまえはニジェットで、このひとにはパロットというつれあいがいるが、たぶんほぼなまえしか出てこない。先輩歌手は人種差別反対運動にコミットしていて、ラングストン・ヒューズ(つづりがわからない)が詞を書いてNina Simoneがうたった"Backlash Blues"みたいな告発的なうたをうたったことでおそわれて、そこで死ぬのか怪我をするだけなのかはわからないが、ともかく歌手活動はできなくなるか、いったん休むことになる。主人公の歌い手はその事件を受けてこわくなってじぶんもうたえなくなる。ここまでで人物は、九人。
 ほかにまずもうひとり、「おとこ」なのに「ぼく」もしくは「おれ」という一人称で男性っぽい(「おんならしい」)しゃべりかたをする人物を出す。つまり、この3番の篇は逆転世界だから、「おとこ」は女性的なふるまいかたをして、それが「おとこらしい」ととらえられているわけで、現実の世界のこちらのように、生物学的に男性でかつジェンダー的にも男性、そういうかたりかたをする、いわゆる「ふつう」の男とされるにんげんが、そのままクィアな存在だということになる。あとここに人種問題をからめると、赤いひとみの民族と青いひとみの民族という対立を決めてあったわけだけれど、迫害されているのは赤のほうにする。それでバンドメンバーはとうぜん、全員が赤か、あるいはほぼ赤。で、この「おとこ」なのに「ぼく」という「おんな」っぽいしゃべりかたをするクィアなひとは青の民にする。そして主人公の歌い手と親友になり、同性愛的な関係にまではいたらないが、そのかたむきがあるようなあいまいな関係をもつことになる。
 もうひとり、「おんな」なのに「あたし」という一人称をつかうシスターを出そうかなという気がしている。シスター、と呼ぶと、「あたしをシスターと呼ぶんじゃねえ」とこたえる、漫画的なかんじ。この世界で「おんな」はマジョリティである。だから現実におきかえてかんがえると、男性が一人称だけ「あたし」をつかいながらいかにも男性らしい、あらいしゃべりかたをしているようなことになるはず。でもそれは、うえのクィアな「ぼく」よりは、へんなやつだというとらえかたはされていない。なんかそういう半端な要素も入れたほうがいい気がするというのと、これもある意味現実と逆転しているのかもしれない。ここは微妙なところで、こちらの偏見なのかもしれないけれど、たとえばファッションの面をかんがえたときに、女性が「男装」をするのと、男性が「女装」をするのとでは、後者のほうがより「へん」だとみなされる度合いがたかい気がするのだ。いいかえれば、ある意味でリスクがたかい。それはなぜかというと、やはり男性がマジョリティだからで、男性と対比したときにマイノリティだとみなされる女性が「男装」をするのは、マジョリティ側に同化する志向をもつ行為だから、境界侵犯の衝撃度が、あくまで相対的にではあるが、低い気がする。たいして、マジョリティである男性がマイノリティである女性に同化するようなかたちで侵犯する「女装」行為は、より衝撃度がたかくうつる、ということではないか。「男装の麗人」みたいないいかたがあるでしょう。つまり女性の「男装」は、ばあいによっては、肯定的な価値を帯びることすらある。もちろん、そこでいう「男装」が社会的に許容されるかたちの「男装」だということは前提だろうが。そしてまた、そのときそれに肯定的な価値をかんじる主体はいったいだれなのか? という問題もあるが。もうひとつ、ことばの方面で例をかんがえてみると、「男まさり」ということばがある。男性よりも男性らしいような、男よりもつよいような女性についてつかわれることばだが、これもやはりばあいによっては、肯定的な価値を帯びる可能性があるとおもう。「男まさり」でかっこういい、と。しかし逆をかんがえたときに、男性側にはそういうことばはない気がする。「女々しい」という語がたとえばあるけれど、これが肯定的なニュアンスをふくむばあいはないとおもう。うじうじしてて女みたいになよなよしているやつ、という侮蔑語だからだ。もっとひどいやつだと、「女のくさったようなやつ」なんていういいかたもある。もともとうじうじしている「女」がもっとうじうじして湿気まみれになって腐ったみたいな野郎、ということだろう。この例をかんがえるとよくわかるのだが、女性について「男まさり」といったばあい、男より上だ、という意味だから、それはやはりもともと男のほうが上だという観念を前提しているのだ。女より上であるはずの男よりまさってしまうからすごい、かっこういい、という。たいして、「女々しい」とか「女のくさったようなやつ」とかいういいかたは、女が男より下だという観念を前提している。その下である女よりもさらに下方で腐っているくらいおまえはだめなやつだ、といういいかたなのだ。
 こういうことをかんがえてきたときに、じっさい現実のあらわれかたとしてどうなのかちょっとわからない、微妙なのだけれど、マイノリティ側がマジョリティ側に同化的に侵犯するような行為のほうが、社会的許容度がたかいのではないかとおもうのだ。それにたいしてマジョリティ側がマイノリティ側に侵犯するのは、いわばじぶんの地位を捨てて階層をくだるような意味合いを帯びるから、社会的許容度がひくい。侵犯というのは社会をなりたたせている二分法を動揺させるということなので、その侵犯の度合いがおおきいほど、社会からの許容度はひくくなる。もうひとつ例をおもいついたけれど、「ボーイッシュな女性」といういいかたはするでしょう。たいして、「ガーリッシュな男性」といういいかたは、すくなくともいまのところは一般的ではないはず。まとめると、マイノリティである女性は、男性優位の社会がみとめるかたちでの、二分法秩序をあやうくしない範囲での境界侵犯を、男性優位の社会から許容されている、ということになる。
 で、3番の篇にまつわっていいたかったのは、この篇のなかでは、現実のうえのようなありかたも逆転するのかもしれない、ということなのだ。マイノリティである「おとこ」なのに、「ぼく」とか「おれ」みたいな、マジョリティの「おんな」っぽいしゃべりかたをする人物はかなりへんなやつとみなされるのにたいして、マジョリティの「おんな」でありながら「あたし」という「おとこ」の一人称をつかうシスターはそういうものとして認知される。ただこのへんはほんとうによくわからないというか、じっさいにはもっと複雑なはずで、うえにも記したように、女性が男性的になるのは社会から許容されるかぎりでのことなのだから、男性的になれないばめんや行為のほうがはるかにおおいはずだし、また男性が女性っぽくふるまうのも、とくにいまの時代ならより許容されるようになってきているだろう。むしろ、やはりマジョリティである男性のほうが、より自由に女性化できるのかもしれないという気すらしてくる。
 ここはだからあまり一般的な図式をみさだめることは困難だし、それにこだわることもなく、要は、なにか半端な要素を入れたほうがいいんじゃないかというはなしなのだ。それでいえばクリティカルになってきそうなのがセックスで、この世界のセックスのかたちをいったいどうするのか? という問題がある。現実では男が「入れる」ほうで、女が「入れられる」ほうである。それが基本的には、主体と客体、能動と受動の二分法にむすびついている。これをそのまま逆転するなら、おとこは「入れられる」ほうで、おんなは「入れる」ほうになる。ただ生物学的な特徴を変えるつもりはないので、おんなにペニスはない。なので、双頭ディルドかなにかをつかってじぶんの膣に入れながら、同時におとこのケツにぶちこむのが逆転した快楽のかたちということになる。そのほうが倒錯度はたしかにつよいとおもうのだけれど、なんかこれちがうんじゃないか? とおもったのだ。ここで逆転を貫徹しないほうがいいんじゃないかと。なぜかはわからないが。そうじゃなくて、「入れる」のはたしかにおとこのほうなのだけれど、それはおんなからの許可を得てはじめて「入れさせてもらう」という半端さのほうがなんかいいのでは? という気がしたのだ。おとこが「入れられる」のがいいのか、それとも「入れさせてもらう」のがいいのか、という問題である。ただここはまだわからない。それに、ふたつのセックスのありかたをわけて両立させる案もありうる。つまり、おんなが「入れ」ておとこが「入れられる」のは、ペニスが膣にはいらないわけだから、あくまでも快楽としてのセックスとなる。たいして、おとこが「入れさせてもらう」のは、ペニスが膣にはいるので妊娠することができる、つまり、子作りする目的をもったときだけ、後者のセックスをすることになる、というふうにするのも良いかもしれないとおもった。しかしそもそもセックス描写を作中に入れるのか? という問題もある。おれ童貞だぞ。けれど、こういう設定の作品でセックスをえがかないというのは、それこそ片手落ちどころではないんでは? というかんじもある。
 もうすこし3の篇についてつづけると、Monkみたいなやつはちょっとインテリというか、「ドクター」と呼ばれていて、妙な知識をいろいろもっていて、ピアノスタイルもふくめて、みんなから天才かいかれポンチのどっちかだといわれている、みたいなかんじで、それで作中どこかでこいつに、むかしはおんなは「たおやめ」、おとこは「ますらお」と呼ばれていたんだぜ、みたいなことをいわせる。そこでついでに「わだつみ」ということばを出す。これがもしかしたら、4の篇にほんのちょっとだけつうじる要素になるかもしれない。つまり、海はむかしは「わだつみ」とか「わだつうみ」とか呼ばれていた、と3のなかにあって、それから4を読むと、あれ、これはもしかして3の時代からかなりむかしのべつの時代のことなのかな、みたいなかんじになる、かもしれない。したがって、4で海の表記は「うみ」でなければならない。
 あと3でじぶんは大衆歌をつくらなければならない。しかもジャズスタンダードみたいなやつを。ひとつは先輩歌手がうたって暴力を受けることになる、Backlash Bluesみたいなやつ。しかしこの世界にブルースはないので、ブルースということばはなしに、ブルースっぽいやつにしなければならない。もうひとつはふつうにラブソング。あと一曲なにか出したい。ふたつめのラブソングは「ただようひかりの季節になれば」というタイトルでいいや。うたいだしは、「知ってるの? 時の行き先を」みたいなかんじで、あなたはどうおもってるの、なんとかとかかんとかについて、なんとかかんとかかん、「ただようひかりの季節になれば/あなたはなにか言ってくれるの/わたしがそれまで待てなかったら/ゆるしてちょうだい ゆるしてちょうだい」みたいなかんじ。英語でかんがえると、Do you know where the wind flows? からはじまって、When the season comes of travelin' light / Would you tell me something of you? / Until then if I can't wait / forgive me, forgive me, please かな。the season comes of travelin' lightは、the season of travelin' light comesの倒置だけれど、comes ofを熟語としてとれば、「生じる」みたいな意味があるので、季節がただようひかりから生まれてくるころには、みたいなかんじにもなるかも。この構成を三連つづける。それでさいごはたぶん、「ただようひかりの季節になれば/わたしのうたもいらなくなるわ/わたしがそれまで耐えられたなら/愛してちょうだい 愛してちょうだい」かなやっぱ。ラブソングなのでやっぱり愛の語はいるかな。あんまり入れたくはないけれど。べつあんとしては、「キスしてちょうだい」か、「褒めてちょうだい」。ただ「褒めて」は弱い気がする。愛かキスかどっちかがやっぱり必要だろう。ただlove meとかkiss meだとforgive meと合わせづらいな。べつに英語でかんがえなくてもいいんだけれど。さらにもうひとつ、さいごを、「あなたがそれまで耐えられたなら/愛してあげる 愛してあげる」とする案もある。このばあいは、when the season comes of travelin' light / There'll be no need for my song / Until then if you can't stand / I'll love you, I'll love you, dear。ちなみにこのtravelin' lightはBillie Holidayがうたっているその題の曲が好きなので、そこからもらった。で、このうたを、ステージをおりてまだ復帰できていない歌い手が親友といっしょに海辺の元砦みたいなところにいって、海をまえにうたうという場面をおもいついている。かなりコテコテだけれど、この篇はそういう、センチメンタルでくさい物語になるかもしれない。
 3の篇でいちばん重要でむずかしいポイントというのは、ひとつはからだや身振りやしぐさの描写で、そこに「おとこ」「おんな」があらわれるようにしなければならない。細部の緻密なリアリズム的書き込みが必要で、つまりそれがないと、ことばのうえでは、ただ「あたし」という口調でしゃべっているだけの「おとこ」という認識になってしまうからだ。身体性がまざまざとイメージできるようなていねいな記述が確保できなければ、この篇はなりたたない。もうひとつが、これはどんな物語でもそうだけれど、類型性との距離感で、こういう安直な設定でやるわけだから、むしろある程度類型性にかたむくことは必要だとおもっている。そうでないと「男」「女」の観念が動揺しない。ただ、だからといってあまりそっちに引き寄せられても問題で、現実の「男」や「女」、「男らしさ」「女らしさ」のありかた、そして個々人のそれにたいする距離感やかんがえかたが千差万別で、グラデーションやニュアンスがあるように、この世界においてもやや類型的になりながら、同時にそのグラデーションやニュアンスをえがきだせないと、これはただの安直な一篇で終わる。それはふつうにこの現実にそくしたリアリズムをやるときもそうではあるのだけれど、こういう設定の篇ではとりわけそうだろうと。おそらく、このふたつのポイントがていねいに、緻密に、繊細にできるかどうかがこの篇の重要なところで、極端なはなし、それいがいはぜんぶベタでもいいのかもしれない。
 うえのようなことが重要だとはいえ、それをあからさまにやっても、それを強調するだけの作品になってしまう。だからむしろ、テーマや物語として前面に出てくるのは、人種差別の問題のほうがいいのかもしれないなともおもった。そっちが目につきやすいおおきな、広範囲を占めるいろとしてありつつ、おとことおんなの問題、性の問題が、そのしたにつねに伏在しているひじょうに繊細微妙な網目のようなものとしてあり、それが人種問題のほうにもからみついていると。ただ人種方面の要素はまだぜんぜんおもいついていない。なにかしら神話的な民族の起源についての物語はほしい。たぶんそれが人種差別にかかわっている。それぞれの人種の呼び方は、シンプルに「赤目」「青目」でいいかな。「赤の民」「青の民」という古風ないいかたがあってもいいかもしれない。「黒んぼ」に相当する侮蔑語は、「赤っちょろ」でいいや。こういう設定上、「赤ん坊」「赤子」「赤ちゃん」ということばはつかえなくなる。
 さらに、語りについて。三人称でウルフみたいな語りで、いろんなひとの内面を縫っていくふうにやりたいとおもっていたのだが、イメージされてくる語りがどうもそういうかんじではない。むしろ、主人公の「あたし」の独白ばかりイメージされる。それでおもったのは、「あたし」もしくは「わたし」の回顧的な独白と、三人称による過去の物語を交互にかたるような構成になるかもしれないということだ。その過去の物語がウルフ的な自由間接話法で内面をすくいとるものになるかどうかはちょっとよくわからない。それに、こちらももしかしたら「あたし」の一人称になるかもしれない。群像劇風にしたいきもちもあるのだが、ちょっとそのイメージがつかめない。また、回想というのはそれだけでくさいので、こういう構成じたいどうかなあ、というきもちもある。ただ、もしこれでいくとしたら、書き出しは、「まあ、ゆっくり、きいてちょうだい」にする。これはMiles Davisが自叙伝で、「まあ、聞いてくれ」でかたりだしていたはずなので、それを借りる。
 4の篇についてはなにもイメージはすすんでいない。ただ、島ではなくて大陸の端にするかも。5は、魔法使いの試練を終えたあとか、そのとちゅうの少年が書いた手記という設定にすることにした。かたりはひらがなおおめ。しかしぜんぶひらがなというのはさすがに無理がある。ここでひとつ問題が生まれる。この少年は日本人じゃないのに、ひらがなと漢字をつかいわけて書いてんの? という疑問だ。まあそこはそういうもん、そういう設定、としてもいいのだけれど、これを解決する方法をおもいついた。つまり、この文章は、この少年が書いた手記を翻訳したものである、という設定にすればよい。「魔法使いのさびしい目つき」というタイトルのしたにでも、「――(少年のなまえ)の手記から翻訳」という文言をくわえておくだけで、うえの問題は解決できる。しかしそれいがいの物語の内容はなにもおもいついていない。