2014/1/18, Sat.

 昨日の日記を書き終わったあとに軽く腕振り体操をし、それからガルシア=マルケス予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語』を読んだ。四つ目の篇まで読み終わったが、どれも嫌味がなく引き締まった文章でよく書けているものだった。短い瞑想をしてから眠った。近く遠くなるパトカーのサイレンと不明瞭なアナウンスの声を聞いた。
 暗い部屋のなかで何度か目覚めながらまだ大丈夫だろうと思っていたら久しぶりに設定した携帯のアラームが鳴りだして七時過ぎに起床した。台所にはゆでたうどんがざるにあげておいてあったので鍋に水とめんつゆを入れて熱し、玉ねぎとねぎを切ってうどんと一緒に煮込むあいだにキャベツを大雑把にざくざくと切った。昨日の夕食のときには食べなかった柳葉魚を二本電子レンジであたためてそれらと一緒に食した。冷たい曇り空の朝だったが、八時になる前には雲間から光が洩れはじめて、シーツ洗っちゃったけど大丈夫そうだ、と母は安心してつぶやいた。
 出勤までに残された一時間半のうち一時間と十分をガルシア=マルケス予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語』を読むことに費やし、残り二十分で爪を切り、歯を磨いて出かける準備をした。ガラス細工のように透きとおった冬の光が部屋に入りこみ、お湯をついだ湯のみからもれる湯気を浮かび上がらせるのを見た。
 Miles Davis『Four & More』のほとばしるエネルギーに驚嘆するほかない出勤の途上だったが、音楽に集中しようとするとどうしても周囲への注意がおろそかになり背後からの自転車や車の接近に気づかないという実際上の危険もさることながら、書くべきものとの出会いの機会をみすみす逸しているのではないかという気もした。午前中の一時限をこなし、午後の準備をすませて一時を過ぎると図書館へと電車を乗った。せっかく借りたのにゆっくりと眺める時間をもてなかった『エドワード・スタイケン写真集成』を返却し、CDを眺めた結果、Wayne ShorterNative Dancer』、Weather Report『Black Market』というフュージョンの二枚を借りた。階を上がった新着図書コーナーでめぼしかったのは、ル=クレジオ『隔離の島』、黒田夏子『感受体のおどり』、明治書院の『史記』十三、ワシーリー・グロスマン『万物は流転する』などであり、クレジオは言うまでもなくいつかは読まなければならないだろうし、黒田夏子芥川賞をとった作もさることながら新作もぱらぱらとめくって目についた断章めいた形式が気になるし、『史記』はいつか読みたいと思いながら読めずに人生が終わりそうな気がする。グロスマンは新作よりはむしろ『人生と運命』のほうが惹かれるのだが、三巻本であるため手を出すタイミングをつかめずにいる。借りたまままったく手をつけていない本が三冊残っているため新しく借りるのはやめようとこういうときはいつも思うが図書館に実際来てしまえば借りるだけならただなのだからと容易に気持ちは翻る。それだから今日もフアン・カルロス・オネッティ『別れ』とジョン・バンヴィルプラハ 都市の肖像』の二冊を借りた。教室に戻って一時限をこなしてパン屋に寄ってから帰宅した。
 帰宅して五時だったが昼食を食べていないので腹は完全に空であり、はやめの夕食をとった。煮込みうどんの残り、肉まん、買ってきたメロンパン、クリームパン、カレーパンを食らった。あまり健康にいいとは言えない食事だった。Clare Carlisle "Bertrand Russell on the science v religion debate"(http://www.theguardian.com/commentisfree/belief/2013/nov/25/bertrand-russell-science-religion)を読んでから五十八の英文を音読した。Jimmy Smith『Salle Pleyel 28th May 1965』を流し、風呂をはさんでガルシア=マルケス予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語』を読み終わった。Jimmy Smithには"Who's Afraid of Virginia Woolf"という曲があってこれはいうまでもなくエドワード・オールビーの戯曲名であり、検索してみるとSmithは同名のアルバムまでつくっているらしいのだが二つのあいだに直接の関係はないようだった。マルケスを読了してそのまま続いて『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 ポートレイト 内なる静寂』を読み、というか眺めつつ、あいだに母のデジタルカメラを持ってきてPCに接続したのだがどうにも認識せず、付属であるらしいソフトをインターネットから落としたりドライバをインストールしたりとやってみても変わらず、Jimmy Witherspoon『Olympia Concert』を流しながら十時すぎまで苦戦したあとにもういいやこんなことにいつまでも時間を使っていられないとなって諦めて放り出し、写真集を読了した。ニコル・カルティエブレッソンがソファベッドに寝転がっている写真にぐっときて一文をものした。写真から文章をつくりあげるということをぜひとも続けたい。この写真集ではジャン=リュック・ナンシーがそれをやっていて比べると話にならないが自分なりにやってみるしかなかった。若いころのル=クレジオとその妻ジェミアが美男美女でびっくりした。ジェミアは不健康に見えるほど白く美しい人形のような顔だった。美しさとかわいさが共存し双方を強めているような、思わずどきっとするほどの魅力を写しとったマリリン・モンローの写真があった。他にアルベルト・ジャコメッティ、キュリー夫妻、エズラ・パウンドアンドレ・ブルトンマルセル・デュシャンウィリアム・フォークナーマーティン・ルーサー・キングパブロ・ネルーダロバート・オッペンハイマーロラン・バルトジャン・ジュネジャン=ポール・サルトルアルベール・カミュアラン・ロブ=グリエシモーヌ・ド・ボーヴォワール、エミール・ミシェル・シオランスーザン・ソンタグトルーマン・カポーティ、ミシェル・レリス、カール・グスタフユングフランシス・ベーコン、サミュエル・ベケット(表紙になっている)などがいた。明日(……)図書館にこれを返しにいくことを思い、せっかく(……)に出るのだから誰か人に会いたいものだと考えると、そもそも最近は誰にも会っていないのではないかと思われ、記憶をたどってみるとちょうど元旦にHと会ったことが思い出されたのだが同時にあれからもう半月以上も経っている事実にも気づき、性懲りもなく時の飛ぶはやさの実感をいくらかのそら寒い感覚とともに覚えた。

 仰向けに寝転がった彼女の身体に引っ張られてソファベッドのシーツはひだをつくっているが、そこに重さの印象はない。ふわりと形を変える枕に頭をあずけた細身の体躯は静かに波打つ海面の上を浮遊しているようにも見える。袖をまくった白のジャケットから伸びて頭の横に投げ出された左腕は影をまとっていてもなお透きとおった白さをうかがわせ、光輝く肘から猫の手のように曲げた指まで続く曲線は彫像のように滑らかである。すらりと伸びた身体に緊張はなく黒のスカートをまとった下半身の先は新聞で覆われ脚が見えることはない。背景の壁となっているソファベッドの背もたれの上には弾力のある花柄の布団がその身をなかば乗り出している。柔らかなものたちに囲まれたなかで彼女の表情だけが引きしまった身体と同じ凛々しさを放ち、いたずらめいた蠱惑的な笑みやおのれの美を見せつけるてらいは微塵もなく、ただ力強さと優しさの入り混じったすべてを受け止めるような女の眼差しがそこにあった。

 今日はなぜだかここ最近にしてはよく書けた感触があった。単純に三千字という最近にしてはわりと多めの量をかけたのもいいが、写真を一応は言葉におとしこめたのがよかった。日記とはちがうひとつの文章を一応はつくったという満足感があった。事実だけを書くとほとんど変わり映えしない毎日になってしまうが、そこで生ずる感情にもっと注意深く目を向ければ、いくらかは毎日をちがった風に書くことができるのかもしれない。とにかくひとつひとつ丁寧に考えながら書くこと、惰性におちいらないこと、それしかなすべきことはないようだ。しかしたかが日記にそこまでの強度を傾けるのはまちがっているのかもしれない。本当だったら小説、自分の作品にたいして傾けるべき態度だろう。Mさんはあれをほとんど手癖で書いているらしい。せめてそのくらいにはならないと話にならない、そしてそのためには今はよく考えながら書かなくてはならないだろう。