2014/2/4, Tue.

 今日もまた十時半に起床するという体たらくだった。半熟のハムエッグを焼いて米にのせ、味噌汁、サラダ、焼き鮭を食べた。今日は雪が降るらしいと母が昨日悩ましげにくり返すのを聞いていたが、雪ではなく雨降りの昼前で、窓外の景色は灰一色で寒々しいことこの上ないものの、このときはまだ気温はそれほど低くはなく、実際の寒さは嘆くほどではないと感じていた。
 食後から午後一時半過ぎまでギターをひたすら弾きつづけた。Richie Kotzen "Where Did Our Love Go"のリフを何度もくり返し弾いた。しばらくギターから離れていたため指の肉が薄弱になったのか、それとももう長いこと張り替えていない弦が硬度を増したのか、左手指に食いこむ細い鉄の刺激は刻々と鋭くなったが、むしろその痛みにいくらかの快感を覚え、同時にもっと痛めつけたいという加虐的な気持ちが混じり、構わず弾きつづけた。十二時半を過ぎて雨がいつの間にか雪に変わっていることに気づくと、白い寒さが身体の底へ入りこんだような冷えこみを認識した。
 皿を洗い、風呂を洗い、Virginia Woolf, Kew Gardensを聞きながらシャツやエプロンにアイロンをかけた。母が買ってきた肉まんを食べて部屋に戻り、Otomo Yoshihide's New Jazz Quintet『Live』を流した。ずいぶん正統的なフリージャズであるという印象を得た。聞きながらHさんの『惑星探査隊』を五十一頁まで読み進めた。雪はすでに積もって屋根や裸樹を白く覆っていたが、さらに勢いを増し、川向こうの木々は朧げにかすんでほとんど見えなくなった。窓際に寄り、冷えた窓枠に手をやって外を見上げると、無数の泡のような雪片が果てしなく白い空を縦横無尽に行き交っていた。Theo Hobson "Atheism is an offshoot of deism"(http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/feb/03/jean-jacques-rousseau-atheism-deism)を読んで随所に思考を加えながら要約すると午後四時をむかえた。Milt Jackson『At The Museum of Modern Art』を流しながらノートに英文をひとつ足し、六十三個あるそれらを音読した。
 『古井由吉自撰作品 二』を読んでいると独特の汗臭さを放つサックスが耳に飛びこんできて音楽が『Bags' Opus』に移ったことを知った。豪気な暑苦しさを持つBenny Golsonとは対照的に、Art Farmerは決して声を荒げない上品さを保ち、丸みを帯びた音で朗々と歌った。五時半に近づいて薄青い暮れ空が広がり、音楽が終わると、読書も中断し、上階へ上がって豚汁をつくった。久々に包丁を握った手は寒さのせいかいくらかおぼつかなかった。土から生まれたものらしいややくすんだ白と緑を持つ大根や、すらりと伸びた体躯とすじが美しいねぎなどを危うげな手つきで切った。凍りついた肉を押さえた左手はしばらく麻痺した。炒めて煮こむところまではこなして、あとの味つけは母にまかせた。部屋へ戻るころにはすでに夜が広がりはじめ、窓のすぐ外に張られているネットには雪が積もり、しつこく絡まり残っているゴーヤの枯れ草は濡れてしぼんでいた。
 ギターを手にとって昼間と同じフレーズを午後七時までくり返してから夕食にした。すき焼きが大変美味で、牛肉や玉ねぎもさることながらその汁に米をつけるようにして食べると食が進み、どんぶりに二杯食べて満腹になった。最近は食欲がいや増しているように思われ、風呂に入る前に体重を量ると五十五キロぴったりだった。Milt Jackson『Jazz 'N' Samba』を流しながら私的音楽年表を作成し、入浴をすませた。母の愚鈍さは今にはじまったことではないが、それが妙に障る午後九時で、ざるに入れた米をぶちまけたい衝動をおさえて研ぐのに苦心した。もっと距離のある他人だったらこんな風に苛立つはずはなく、肉親だからこそこちらの胃を突いてくるということがあるものだが、それにしても常ならずこらえ性がない日で平静を保てないのが不思議だった。なぜかLed Zeppelin "Since I've Been Loving You"を思い出すとひどく聞きたくなり、部屋に戻って流した。名曲だった。リピート再生しながら日記を書いた。