2014/3/11, Tue.

 東京の西の端から上野まで、雲をひとつも見かけなかった。
 そんな日はいままでに絶えてなかった。その下を歩いているだけで気分が浮き立って自然と笑みがこぼれるような、あさましいまでの晴れ空だった。何もないまっさらな晴天をただ飛行機だけが白線をたなびかせながらゆっくりと飛んでいった。彗星のように斜めに軌跡を刻むそれが見えなくなるのが惜しくて、追いかけるように林をあがった。
 果てまでつづく青空の均質さを乱すものはなく、電車が高架に上がっていくにつれて街々の彼方に横たわる山脈が姿をあらわした。その稜線に散らばる雪まで見えた、と思うと、青い山並みのうしろから、それよりも目を引く真っ白ないただきが顔を出した。富士らしかった。東京の真ん中から遠く西にそびえたつ巨山まで、空を遮るものは何もなかった。
 上野駅を出て道を渡り、植えこみを囲む段に腰掛けて岩田宏を読んでいた。鳩は人慣れしていて、道ゆく人々のなかを平気な顔で歩きまわっていた。首を突きだしながらこちらの足下にも歩いてきたけれど、触れるかどうかの距離へ来るとすぐに向きを変えてしまった。そのくせまた近づいてきたりする。そしてまた通りすぎる。横断歩道の向かいでは福島の犬猫たちの避難所を運営しているけれど活動資金が枯渇してきて街頭募金をしなくてはならない、そのボランティアを募集している、と男女二人組が訴えていた。街頭募金そのものをしているのではなくて、それをしてくれる人員を探しているらしかった。男性のほうが震災から三年経ちましたがまだまだみなさんのご協力が必要です、とかこのままではわんちゃんねこちゃんたちの行く場所がなくなってしまいます、とか口上を述べる合間に、女性のほうがご協力をお願いします、と声を上げていたけれど、「ご協力を」の「を」を少し伸ばして上ずらせる言い方のせいで、繰りかえされる声が絶妙な合いの手として機能し、全体が妙に芝居めいた響きを帯びていた。きっと練習したんだろうと思った。
 横断歩道を渡ってくるMさんTさんの姿が見えて本をしまった。開口一番、Fくん、ややこしいわ、あそこにな、昨日のFくんの格好とそっくりな人おるねん、なんかメモもとってるからな、日記書いとるんかなと思って、俺もう少しで声かけるとこやったわ、とMさんが指すほうを見れば、たしかに駅の柱の脇にこちらと似た感じの人影が見えた。そんじゃいくか、ということで公園に入った。国立西洋美術館はしばらくのあいだ休館しているようだったが、あいていてもこの日に見にいく時間はなかっただろう。そのくらい国立科学博物館だけでも多くの展示があってすべては回れなかった。
 日本館と地球館の二つの棟があって、来たことのあるTさんが言うには地球館のほうがいいんじゃないかということでそちらから回ることにした。一階は海洋生物と、昆虫や植物のフロアだった。ここだけでもかなり盛りだくさんで、標本が腐るほどあって、これあかんわFくん、とMさんはつぶやいた。これは日記に書ききれんわ。クワガタやカブトムシや蝶だとか貝殻を見て、あれがきれいだ、あの色合いがいい、などと言いあった。みんなさまざまな記憶が喚起されて、昔はカブトムシをとって飼っていたとか、地元ではコウモリが田んぼの上を飛ぶとか、蛇はだめだ、蛇は嫌いやねんとか、沖縄行ったときこれと同じ模様の貝殻を集めたとか、前の家で靴をはいたらナナフシが三匹入っていたとか、ヘラクレスオオカブトが子どものころめっちゃ欲しかったとか、色々な思い出話が語られた。オニテナガエビとかオウゴンオニクワガタとか、安直な名前がついているものにオニってつけりゃいいってもんじゃねえぞとMさんと二人で突っこんで笑った。水槽のなかに巨大な脳みたいな肌色のしわしわの物体が浸けられているものがあって、それはクジラだかなんだかの胃だか腸だかよく覚えていないけれどとにかく内臓だったけれど、そこから細いケーブルのようなものが無数に生えていて、なにかといえばそれが寄生虫なのだという。その脇の壁にはやはり腸だかなんだかが伸ばした形で展示されていて、そのいたるところからも植物の芽が生えて育つように寄生虫が出現していて、うねうね動いたりはしていないもののかなりおぞましい光景だった。できれば正視を避けたいくらいグロテスクで、これ置いていいのか、小さい子どもが見たら下手したらトラウマものじゃないかと危惧した。
 地下一階と二階は化石がたくさん置かれてあって、恐竜の化石にはやはりみんな興奮した。こんなに馬鹿でかい生きものがいたなんて信じられなかった。こいつ格好いいよなとか、こいつの顔間抜けやなあとか、ステゴサウルスの背中のあれって一体なんのためにあるんだとか、こいつの尻尾どんだけ長いんだとか、色々言いあった。正直そこらへんの子どもたちより我々のほうがよほど楽しんでいた。Tさんがこちらの方面についてはよく知っていて知識をいくつか披露してくれた。地下二階のほうは三葉虫とか恐竜以前の生物の化石があって、宝石みたいにきれいなやつとか、石のなかに残った生物の影と全体の色合いが美術品みたいになっているやつとかを見て、これいいなあほしいなあと言いあった。岩みたいなアンモナイトの殻の化石があって、こんなでかい貝がいたら恐ろしすぎるわと笑った。通路の両側に大きな化石が揃っている一角があって、そこの天井に二つ長く伸びた魚と蛇の中間みたいな生物の骨にみんな驚いた。二〇メートルくらいはあったのではないか? その下には馬鹿でかい亀が手を広げて飛ぶような姿勢で天井からつるされていて、Mさんはあれマジで格好いいなあと何度も見ていた。
 ここまでですでにかなりお腹いっぱいというか濃密な時間を過ごした感があって疲れたし、実際の胃のほうは空腹だしということで中二階にあるレストランで少し休もうとなった。それなりに広くてきれいなレストランで、メニューは場所にちなんだものがいくつかあった。外に置かれてある看板のオムライスを見た瞬間からそれ以外を食べることは考えられなくなった。Tさんはトマトスパゲッティ、Mさんは迷ったあげく恐竜の足型ハンバーグというものを頼んだが、出てきたハンバーグはちんまりとしたもので、オムライスや、オムライスが正解やったわ、と嘆いた。注文をとったウェイトレスは奇妙に滑舌よくしゃべる人で、まくった袖から見える腕の皮膚は荒れていた。食後もおのおのコーヒーやケーキを頼んでだいぶおしゃべりした。Tさんのこれからについて、Hさんについて、こちらの文章について、Mさんの同級生の写真家についてなど話した。Mさんの以前の職場の同僚の浪費家のおっさんのエピソードがおもしろかった。アイドル狂で、チケットをたくさんためてAKBの握手会に行き、お気に入りの子と何度も握手してきたその帰り道、駅で加山雄三を発見して思わず握手してもらったという。しかもそのとき一緒にいた友人が「若大将」をまちがえて、「アオダイショウや! アオダイショウや!」と叫んでいた、という二段構えの落ちだった。アオダイショウって蛇やん! あの人ほんまだめな人やけど、その話は聞いたときマジで笑えたなあ。
 四時を過ぎてそれじゃまたいきますか、となった。二階は説明を見た感じパスすることにして、三階にあがった。さまざまな獣、哺乳類や鳥の剥製がやはり腐るほどあって、物量で圧倒してくるのがここの基本的な展示方針らしかった。四時半になるとあと三十分で閉館のアナウンスが流れて、そこで五時でしまることを知った。オオワシの凛々しい姿を見て、でっかいなあ格好いいなあ、あいつが一番強いわまちがいない、と言いあった。鳥の剥製のなかでもっとも大きくて、王者の風格が漂っていた。普段鳥を間近でじっくり眺める機会なんてそうないから、スズメとかメジロとか身近な鳥を見ていてもおもしろかった。フロアの中心を占める巨大なガラスケースを取り囲むようにして通路があり、そのなかには鹿や牛や豹などサバンナにいるような動物たちがところ狭しと並べられていて、やっぱり角だよなあ、角があると格好いいよなあと言いあった。その角にもすっと伸びたものや、段になっているものや、いくらかぐねぐねとうねっているものなど色々なかたちがあった。
 閉館間際になったので帰ることにしたけれど、最後に売店を見ていこうとなった。昆虫や恐竜のフィギュアがあったがばらでは売っておらずセットで二千いくらとかで、MさんとTさんは惜しがっていた。クジラの小さなフィギュアが六千円とかしたのには恐れいった。Tシャツやマフラーやネクタイなどもあった。Mさんはこのあと会う友人の結婚祝いにおみやげを見つくろってチョコレートを買っていた。こちらもせっかく来たしたまには買って帰るかと思ってクッキーと小さなカスタードケーキをみやげにした。Fくんあっちで化石売ってたで、と聞いて見にいくと隕石なんかも売っていて、普通に安くて何個も買える石だったり、リアルに手の届く値段だったりのなかに、六十何万とか百万とかあって笑っていると閉館をむかえた。
 終日晴れた空にはようやくちぎれ雲が浮かびはじめていたが、それもいまにも消えてしまうようなかすかなものだった。西空が一面明るいオレンジ色に染まって光を放つのを見た。上野駅の階段上でMさんと別れのあいさつをした。とにかく小説書きや、と言われた。何度もあいさつをくり返して、このさよならのタイミングがどうもつかめん、と照れくさそうに笑ったあと、じゃあな、とひときわ大きく声を出して、階段を下っていった。我々も階段を下り、向かいのホームに立ったMさんを見た。手に持った赤い本に目を落として集中していた。こちらの電車が先に来て、駅を去った。扉脇に向かいあって立った。この二日間、とても楽しかった。Tさんが、Tさん東京に来ればいいのになあとしみじみとした様子でつぶやいて、いま自分も言おうとしていたところだと思いながら同意した。そうなればいいと心底思った。TさんとはLed Zeppelinの話や民族音楽の話やクラシックの話をした。一度お互いに色々な音源を聞かせあって音楽の話をしたらひどく楽しいだろうと思われた。新宿で別れて、ひとり帰路に聞いたのはなんだったのか、もう忘れてしまった。