2014/6/22, Sun.

 なにも下書きしなかったからこの日のことはあまりおぼえていない。前日夜更かしして遅く起きたけれど、たぶん十時にはなっていなかった。朝食に何を食べたのかおぼえていない。日曜日で母がいたからなにかつくってあったのかもしれない。自分で卵を焼いたおぼえはない。思いだした、スパゲッティがつくってあった。具のほとんど入っていないナポリタンを食べた。おいしかったからもう一杯食べた。父はまだ寝ていた。ソファでなにか読んだ。たぶん『表層批評宣言』だった。母は十一時から出かける予定があった。母がまだいた時間だから十一時になる前には下におりた。それから何をしたのかおぼえていない。だらだらしていたのか、それとも何か本を読んでいたのか。たぶんだらだらしていた。というかそう、ギターを弾いていた。ギターを弾きつつだらだらしていた。お茶をつぎに上にいったとき、車がなかったから父が出かけていることに気づいた。しばらくするといつの間にか帰ってきて、ごみの整理かなにかやっていた。昨日帰ってきたときにテーブルの上に医者の診察券があったから、父が風邪でもひいたのかと聞くと、それで医者にいってきたと母が答えた。一日たっていまはもう外で動いていた。だいぶだらだらしたあとにようやく日記を書きはじめた。Walter Smith Ⅲ『Live In Paris』を流していた。書き終わって、古井由吉で検索して出てきた動画を見はじめたらもう帰ってきていた母に呼ばれた。上にいって米をといで、夕飯を一品つくった。面倒だから野菜炒めにした。玉ねぎと人参とキャベツを切ってもやしと混ぜて炒めるだけだからすぐにできた。さっさとつくって部屋におりて、動画をみはじめた。風花といういわゆる文壇バーの名前はだれかの対談で知った。そこでやっている古井由吉朗読会の最後の動画がUstreamにあった。画質音質ともあまりよくなかった。古井由吉町田康柄谷行人が朗読した。古井由吉は自作の連句を読んだ。他人に伝わるものとも思いませんが、声を聞くつもりで聞いてくださいといっていた。次は町田康で、前置きもあいさつもしないでいきなり読みはじめた。たしか苦虫なんとかいうエッセイをたくさん出していて、それの何巻かわからないけれどみんなが本音で話すようになったら、みたいな話を読んでいた。最後に柄谷行人が出てきた。インド帰りだといった。インドで夢を見た。ひとつは中上健次が出てきて、娘の仲人をしてくれといった。もうひとつはマサオ・ミヨシという日本人でアメリカに渡って英文学を教えていた人が出てきて、自分のことを話せといったから話すといってその人についての文章を朗読した。夕食をはさんでだったか、夕食の前にすべて見終わったのだったか、古井由吉東京大学で講演した映像もあって、これがすごくよかった。内容もさることながらゆっくりと間をおいた話しぶりが非常によくてひきこまれた。還暦を過ぎてからドイツ語をまた読みはじめた。日本の古典も読んで、フランス語も読んで、ギリシャ語も文法書からやりなおしたといった。極度に研ぎ澄まされて狂気に至るような感覚の描写をする作家だから、はじめて読んだとき、この人は神経症にならなかったんだろうかと疑問に思った。それはわからないけれど、言葉に対する神経症的なこだわりはあるようだった。執拗なまでに書きなおすといっていた。ムージルブロッホを翻訳していたときも、言葉に苦心してだんだん理解できていた文脈も意味がとれなくなってくる、そういうことがよくあったといった。これはこっちもKew Gardensを訳すときに少し体験した。言葉と言葉のあいだで、外国語と母国語のあいだで宙に迷う、そこに長くとどまることはできるものではない、気が狂いますよ、といっていた。夕食を済ませて風呂に入って、出てからはプルーストの書きぬきをおこなった。Walter Smith Ⅲをまた流して、終わってからはSonny Rollins『Newk's Time』、Miles Davis『Steamin'』と流した。プルーストが終わって、柄谷行人『批評とポスト・モダン』も書きぬきはじめたけれど一箇所抜いたところでつかれたからやめた。歯ブラシをとりに洗面所にいくと、鏡のなかの目がうっすら赤くなっていた。ミシェル・レリス『幻のアフリカ』を忘れずに読んで、Jonathan Culler, "Literary Theory"も少し読んでから眠った。