2016/8/21, Sun.

 だらだらと眠り続けて起床は一一時四五分になったのだが、夜更かしをして就寝が四時半だったので、睡眠時間自体は七時間一五分と、むしろ一般的な適正に近い。起きてからすぐのことは何を食ったかということも含めて覚えていないが、そもそも記憶するほどのこともなく、食事を済ませたあとは一時から四時四〇分まで、ひたすら『失われた時を求めて』三巻を読んでいたのだ。大層暑く、汗がひっきりなしに湧き溢れる日だった。読書の最中にふと意識が本から逸れて、自分の位置している空間に向いた瞬間があり、家中に何の動きもかすかな気配もなく――母親は隣の部屋にいるらしかったが、少しの物音も聞こえなかった――、日曜日の昼下がりらしく空気が穏やかに静止しているなかで黙々と読書をしているこの時間に、まさしく休日を満喫しているという安息を感じた。ツクツクホウシが棕櫚が梅の木にでも止まっているらしく、随分と近くで鳴いていた。先に述べたように四時四〇分まで読書を続けたあと、夕食の準備をしに階を上がった。鶏肉があったので野菜と炒めれば良かろうと決めて、Donny Hathaway『These Songs For You, Live!』をラジカセで流しながら、ナスにピーマン、玉ねぎを切った。鶏の笹身も切り分けると、フライパンに油を引き、その上に生姜をすりおろしてかき混ぜた。それから野菜を投入し、熱したあと続いて鶏肉も放りこみ、火が通ると醤油を垂らして砂糖も撒いた。醤油を蒸発させると完成として、次に母親に頼まれていたのでインゲンを茹で、それを取りあげてからは味噌汁に取り掛かった。先ほど切った玉ねぎの一部を取り分けておいたので、それを茹で、卵を溶いて用意しておいて玉ねぎが柔らかくなるのを待っていると、インターフォンが鳴った。受話器を取らずに直接、開放していた玄関に出ていくと、薄手のワンピースを着て肩の周りを晒した軽装の、若い女性が入ってきた。下に住んでいる者です、と言った。隣家の老婆が管理している家にしばらく前に越してきた男女の女性のほうで、両親は外に出ているので時折り顔を合わせていたらしいが、室に籠ってばかりいるこちらは初対面だった。初めまして、と言い、何と自己紹介していいかわからずに、息子です、とわかりきったことを告げる間抜けな言いようになった。先日実家に帰っていたが、そこで作っているスイカを持ってきた、出来に自信がなかったので割ってしまったが、するとなかが赤かったので大丈夫だと思う、と丸々とした果物を手に話すので、礼を言って受け取った。ご両親によろしくお伝えくださいと言うのに再度礼を言って戻り、貰ったものにラップを掛けて冷蔵庫にしまったあと、味噌汁に味付けをした。溶き卵を投入して完成、下階に戻って母親に貰い物を報告してから、ここ数日の新聞記事の写しを始めた。時刻は五時四〇分、Miles DavisRelaxin'』を流して取り組んだ。新聞に載っている情報などまことに限定的でほんの上澄みに過ぎず、そればかりをいくら読んでも写しても知見というほどのものなど身に付かないし、参照用の記録という用途を挙げてみてもインターネット検索で過去記事を容易に見つけることができるのだから、それに比べてそこまでの有効性もない、そういうわけで基本は読むのみに留めて写すのはよほど興味を惹かれた部分に限ることにしたので、一八日から二〇日までの三日分があったがそれほどの時間は掛からなかったはずだ。終えて振り向くと、外の空気が妙な色を帯びている。暮れ方の太陽光が雲によって調整された結果だろう、やや薄暗くなった空気に黄色いような赤っぽいような色味が混ざっていて、それは近所の白い家壁を見るとよくわかった。ベッドに乗って見上げると、アサガオの口を閉ざした白い蕾と葉の網目の向こうに、飴を溶かしたような雲が流れて、茜色の反映をはらんでいた。それから書き抜き(『サミュエル・ベケット短編小説集』)に入って、しばらく打鍵してからふとまた振り向くと、六時半頃だったかと思うが、黄昏れがよほど進んで、外はだいぶ暗んで今度は紫の色合いが混ざり、家壁や雲に僅かに残っている陽の色は熟して薔薇色がかっており、自分の姿がガラスにもよく映るようになっていた。Miles Davisのあとは、Mathias Eick『Skala』と共に書き抜きをしてから、夕食に行った。自分で作った料理を食べると戻ってきて、腹がこなれるまでのあいだ日記を読み返そうとしたのだが、合間にインターネット検索を挟んでいると九時を迎えてしまった。昨年の八月一九日から二一日までの三日間については、何ら特筆するべきことは記録されていない。そうして入浴に行き、戻ってきても即座に書き物を始めることができず、セネカやネロ帝についてのウィキペディア記事を眺め、そこからノーベル文学賞受賞者リストに飛んだりしてまた時間を食い、一〇時一五分からようやく始めた。The Modern Jazz Quartet『The Last Concert』を流した。やたらと時間を掛けて、丁寧なようにゆっくりと綴ってしまい、零時一〇分になっても前日の記事が終わらなかった。一筆書きのように自然に書きたいという目標はどこへやら、ここ最近はまた正確に書かなくては、書けるだけのことを十全に書かなくてはと例の病気が復活しているような気配があるが、以前のようにそれで言葉に悩んで精神を消耗するようなことはなくなった。と言うのはおそらく、以前は一日の隅々までなるべく拾いあげなければならないという強迫観念めいた思いを持っていたのだが、いまでは覚えている限りのことを書ければ良いのだし、覚えていないことに関しては書かないか、あるいは「覚えていない」と書けば良いのだと一つの割り切りが付いたからだ。毎日繰り返している類の最も習慣的な事柄については、偶然の導きによって何かしらの新しい要素が導入され、意識が改めてそれへと向かなければ知覚に刺激がもたらされず、必然、記述を膨らませようもない。そうした事柄はむしろ覚えていないのが当然なのだから、忘れてしまっても一向に構わないし、書くとしても短く、過去と何の違いもない純粋に反復的な文言になるのが通常である。重要なのは知覚と感受性に何らかの震えをもたらしたもの、具体性の発露というような言葉で以前は呼び習わしていたこと――この術語も自分の考えている観念を適切に言い表しているものなのかいまとなっては疑わしいのだが――、それらの意味の豊かさと厚みを充分に捉え、それに接して己が感覚しあるいは思考したことを十全に翻訳することである――なぜならそれこそが、単調な生活の連続平面上に起伏を生じさせ、至極退屈な反復に過ぎない個々の一日のなかに、それでもほかといくらかは異なった固有の模様を描きこみ、すなわちこの一日がこの一日であることを保証するからだ――。以前は、人生におけるあらゆる瞬間、この世界のあらゆる事物が本来はそうした厚みと強さと豊かさを備え持っているのだと本気で信じていたので――そしていまもそれは変わらないのだが――、一日の最も些細な隅々までを言葉にし、なおかつ生き生きとした瑞々しさで満たすことができるはずだと思っていたのだが、しかしやはりそれは不可能事、少なくともこうした過ぎていく日々を毎日追い続けなければならない形式の文章においては無理なことなのだ。なぜなら、我々の認識能力がこの世界の豊穣さに比してあまりにも貧困で、粗雑で、精緻さを欠いているものだからである。もし人間が、この世界が秘めているもの、しかし隠されているわけではなく、常にそこに見えているはずのものを十全に認識することができたならば、極々日常的なただの一日を対象にしても『失われた時を求めて』全篇を遥かに超える大長編を――それどころかほとんど無限に続く言葉の連なりを――拵えることが可能であるに違いないのだが、それは言ってみれば神の領域であり、人間の手の及ぶ範囲ではなく、所詮下賤の民である我々は我々に見える限りのものを貧しく書き綴るしかない。そういうわけで、この零時過ぎの時点で電車内で目撃した光の戯れまで描写を終え、印象に残ったことは大方記し終えたので、今日はこれで良かろうと中断した。四四〇〇字を足していた。その後、後醍醐天皇とか大覚寺統についてのウィキペディア記事を読みつつ歯を磨き、それから読書に入った。翌日はまた朝からの労働なので早起きをしなければならないが、二時に眠れば四時間の睡眠で目覚めることができる。それで一時四〇分過ぎまで読書をし、便所に行ってきてから瞑想を始めた。少し前から、雨が降りはじめていた。一度ざっと拡散していまは和らいでいるようだったが、虫の音の奥から雷らしい遠い唸りが響いてきた。その虫の音はと言えば、聴覚を占めるのはほかの虫たちを取り巻きにして差し置き、前面に出ている一つの鳴き声ばかりで、その音のなかに含まれている摩擦の感触は刻みの入った板を擦って奏でる民族楽器を思わせるのだが、ペースも音色も変化させずにひたすら八分音符を連ねる単調さのせいで、また鋸で何かを切っている様をも連想させるのだった。二時一〇分まで、二三分座ると、明かりを消して床に就いた。ところが目が妙に冴えていて、自律訓練法めいた姿勢を取っても一向に眠りが寄ってこない。それどころか、久しぶりのことだったが、眩みのような感触が頭のほうへと上ってくるのが感じられ、それを放置してなすがままにさせておくと意識が薄くなって飛ぶのではないかと恐れられるので、姿勢を解いて横を向き、やり過ごした。それでまた仰向いていると今度は、突如として暗闇の一点に焦点が合ってしまい、非常に細かく粒が詰まって、鱗のようにざらざらとしている視界を見つめているのがやはり不安を惹起するので――と言って、過去の不安たちのかろうじて残していった切れ端のような、ほんの僅かなものに過ぎないのだが――、聴覚に意識を逸らして外の虫の音を聞き、逃れた。そうこうしているうちに、結構時間は掛かったが寝付いていた。



 (……)機械的に覚えた祈禱の文句は魂が消え去るまでのどんな目的にでも使えるもので、言葉を失った老いた口のなか、聴くことをやめた老いた頭のなかに今もなおでたらめに浮かび上がってくる、わたしも年をとったものだ、ラテン語を習った洟垂れ老人をつくるのに暇はかからぬ、彼はアサス通りの角にある定員二名の共同便所にいる、水は今も六十年前と同じ音を立てて流れている、ママが赤ん坊にシーシーとおしっこを促すような音を立てるこの水音のために好きだった便所、仕切り壁の落書きのまっただなかに額をもたせかけ、前立腺を締めつけ、アベ・マリアの数珠のように痰を吐き、ズボ(end154)ンのボタンははめたまま、わたしは何も考え出さない、放心からか疲労困憊からか、無関心か、わざとか、それとも液体の出るきっかけ――わたしがなんのことを言っているかはわたしにはよくわかっている――を促すためか、または片腕の不具者になって、このほうがよい、両手両腕を失って、このほうがもっとよい、世界と同じように古く、世界と同じように見るも無惨なありさまで、手足を切断され、残った部分の上に立って、古い小便、古い祈禱、古い宿題、つまり肉体と魂と頭蓋が仲良くそろって迸り出る、痰唾は言うまでもなく、じゃ言わずにおこう、心臓を出発して出てくるあの粘液と化したすすり泣きのことは、おやこれでわたしにも心臓があることになった、これでわたしも完全だ、端々が少し足りないが、ラテン語を習い、兵役をすませ、その上なんのてらいもなく何一つ要求するでもなく、ときどき、急に身を震わせて叫ぶのだ、主よ、イエズスよと。(……)
 (片山昇・安藤信也訳『サミュエル・ベケット短編小説集』白水社、二〇一五年、154~155; 「反古草紙」)

     *

 さらに一段と弱まっていく、ついにわたしを作りえなかった老衰した声が、それはしだいに遠ざかっていく、ここを去ってよそでもう一度やって見ると言わんばかりに。それは低くなっていく、どうしてそれがわかる、もうこれで打ち切って再度の試みはやめると言わんばかりに。それのほかにはわたしの人生には声というものはなかった、とその声が言う、もしわたしについて語りながら人生について語りうるならば。ところでその声にはそれができる、まだまだできる、人生について語るのでなければ、そのとき声は死ぬ、これなら、あれなら、声は死ぬ、わたしについて語りながらなら声は死ぬ、しかし大をなしうるものは小をもなしうる、わたしについて語りうる者何についてでも語れるはずだ、ある程度まで、ある時期までは、声が、ここであろうとよそであろうと、わたしについて語ることに耐えられなくなり、死にそうになるその程度まで、その時期までは、と声が言う、声が囁く。誰の声なのだ、誰もいはしない、あるのは声だけ、口のない声だけだ、そしてどこかに耳のない聴覚のようなものが、聞くべく義務づけられた何かが、そしてどこかに一つの手が、声はそれを手と呼ぶ、手を作りたいのだ、要するにいま起こりつつあることの、言われている(end163)ことの痕跡をどこかに残す何かを作りたいのだ、これだけはどうしても必要な最小限だ、いや、これは一種の小説なのだ、小説以上の何かだ、登場人物は声だけ、囁きながら痕跡を残していく声だけなのだ。痕跡、声は痕跡を残したいのだ、そう、木の葉の茂みを吹き渡る風が、草の上、砂の上を吹き過ぎる風が残すような痕跡を、それを集めて声は一つの人生を作りたいのだ、だがもう間もなくおしまいだ、人生は生まれないだろう、生まれずじまいになるだろう、生まれるのは沈黙だけだ、最後にひととき震えてから永久に凍りついてしまう空気やひととき舞い上がって地上に落ちる塵のような沈黙。空気、塵、ここには空気もなければ塵を作るようなものもまったくない、それからひとときなどと言ったがこれもなんの意味もない、だがそれらは声が用いる言葉なのだ。声は語り続けた、これからも語り続けるだろう、存在しない、または、お望みなら、これでも存在するということになるなら、よそに存在するものについて。だが困ったことにはよそは問題ではなくてここが問題なのだ、やれやれやっと声が出てきたぞ、また出てきた、ここから外へ出てよそへ行くべきだった、時間が過ぎ去り原子がひととき集合するところへ、声の故郷へ、あんなにたくさんの作り話が語れるのだからきっとそこから来たのだろうとときたま声が言うところへ行くべきだった。そうだ、ここから外へ出るんだ、だが困ったことにはここはからっぽだ、塵一つない、息づかい一つ聞こえない、声の呼吸だけはあるが、いくら呼吸が仕事に励んでも何一つ作れはせぬ。もしわたしがここにいるのなら、もし声がわたしを作りえたのなら、声がさんざんむだ話を続けたことについて声をうんとあわれんでやるのだが、いや、それじゃまずい、わたしがここにいるのなら、声は(end164)むだに話をしたことにはなるまい、声がわたしを作ったとすればわたしが声をあわれむことはなかろう、それじゃ呪ってやろう、または祝福してやろう、声はわたしの口のなかで呪ったり祝福したりするだろう、誰を、何を、声にはそれは言えまい、声はわたしの口のなかではもうたいしたことは言えないだろう、かつてはあんなにたくさんむだ話ができたというのに。ほら、声の風船があんなにたくさん、飛んでいくがよい、これが最後の風船だ。だがこのあわれみの情は、それにしてもこの空中に漂うあわれみの情はどうしたことだ、ここにはあわれみの情を漂わせられるような空気はないのだが、これは言葉の綾だ、しばしとどまってこのあわれみの情がどこから生まれたのかを自問すべきだろうか、と声は自問する、そしてそれはむなしい灰のなかで意地悪く輝く希望の光、これも言葉の綾、ではなかろうかと自問する、結局これはかすかな存在のかすかな希望ではなかろうかと、人間のように人情深く、まだ何も見ぬ前から早くも目に涙をいっぱいためて、いや、だめだ、それがなんであろうと、もうなにものにも立ち止まってはならぬ、もうなにものも声を立ち止まらせてはならぬのだ、下降の途中であれ、上昇の途中であれ。おそらく声は金切り声の絶叫で息絶えるだろう。なるほどハートが切り札になったことは、本義的にも比喩的にも、あまりなかったが、だからと言って、希望を、なんの希望、上のほうへ送られて影絵芝居のなかで破裂するハートが一つくらいはあるだろうとの希望を抱いてよいということにはならぬ、残念ながら。だがいったい声はこの上何を待っているのだろう、決まったことなのに、もう選択の余地はないというのに、ごろごろ鳴っている臨終の咽喉[のど]を閉じないで、またしても言葉の綾、何を待っているのだろう、楽(end165)曲にふさわしいコーダにするために持てるかぎりのでたらめを集大成しようとでもしているのか。永遠の問題の最後のもの、死期の迫った少女の衰弱した最後の寝姿、最後の心像、夢の終わり、生まれ来る存在の、過ぎ行く存在の、過ぎ去った存在の終わり、虚妄の終わり。ありうることだろうか、それは結局ありうることだろうか、ありえぬ闇に包まれたこの暗黒の虚無が消え去るということは。結局それはなしうることだろうか、なしえぬことが終わり、沈黙が沈黙するということは。声はそれを自問する。この声は沈黙なのだ、またはわたしなのだ、どうしてそれがわかる、正真正銘のわたしのわたしなのだ。どれもこれも優劣のない同じ夢、同じ沈黙だ、声とわたし、声と彼、わたしと彼、そしてわたしたちの行列、そして彼らの行列、そして彼らの行列、みんなそうだ、だが誰の、誰の夢、誰の沈黙なのか、古い疑問、最後の疑問、夢と沈黙であるわたしたちのだ、だがもうおしまいだ、わたしたちは終わった、一度も存在したことのないわたしたちは終わったのだ、いまだかつてなにものも存在したことのない場所にやがてなにものも存在しなくなるだろう、これが最後の心像だ。そして、あんなに多くの嘘を、いつわって打ち消された同一の嘘を、あんなにたびたび聞かねばならぬことに、もっとも小さな囁き声よりもっと小さな囁き声で言わねばならぬことに、無音の百万分の一音綴[シラブル]ごとに恥じ入り、臍の緒を嚙みに嚙んで傷口のいよいよ深まる癒しがたい無限の悔恨に責め苛まれるのは誰なのか、その絶叫する沈黙がしかり[ウイ]の傷口と否[ノン]のナイフであるその人は誰なのか、と声は自問する。だが知ろうとする意欲はどうなってしまったのか、と声は自問する、それはここにはいない、頭はここにはいない、誰も何も感じない、何も尋ねない、何も(end166)捜さない、何も言わない、何も聞かない、あるものは沈黙だけだ。それは真実ではない、いや、真実だ、それは真実であって真実でない、沈黙があって沈黙がない、誰もいなくて誰かがいる、無はなにものをも妨げない。それからあの声、年老いた消えゆく声、よしんばその声がほんとうにこれきりで消えるとしてもそれは真実ではない、声が話しているということが真実でないのと同じように、声は話すことができず、沈黙することができない。そして歳月のないある日、場所でないここに、ありえぬ声から作りえぬ存在が生まれ出で、黎明の微光がさしそめようとも、すべては沈黙と空虚と暗黒であるだろう、今もそうであるように、これからもそうであるように、すべてが終わりすべてが言い尽くされたときには、と声が言う、声が囁く。
 (163~167; 「反古草紙」; 一三章全篇)

     *

 (……)いや、わたしは何も後悔はしない、わたしの後悔はこの世に生まれてしまったということだ、死ぬということは結局のところとても長くかかる厄介な仕事だということを常日ごろ痛感している。(……)
 (176; 「断章(未完の作品より)」)