何度も浅く覚醒しながらも寝過ごして、起床は正午ちょうどとなった。上がっていくと、母親はパソコン教室か何かの用事で出かけており、洗面所に入ってうがいをしていると父親も居間に入ってきたので挨拶をした。飯を食ったかと訊けばもう食べたと言う。こちらは前夜の残り物などを用意し、釜の米をすべて払って水を入れておいてから卓に就いた。新聞を読みながら食事を取り、下階に帰ると、一時八分からジュリア・アナス/瀬口昌久訳『古代哲学』の書き抜きを始めたらしい。この夜には職場の飲み会――元々は夏期講習終了の打ちあげだったが、突如上司の異動が決まったため、その送別会の意味合いのほうが強くなった――があったので、その前に図書館に寄って本を返却してしまいたかったのだ。音楽はMarcos Valle『Samba '68』を流し、この短い作品が終わったあとは『Elis Regina In London』と清涼なブラジル音楽を続けた。済ませるとちょっと休んでから、今度はGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを読みはじめたのが、二時半前である。途中で雨降りの音が強くなって窓に目を向けると、アサガオの葉でできた網の内側にまで雨が傾いて、白い雫がぽたぽたと垂れていたので、ガラスを閉ざした。正面のベッドの足もと、ひらいたカーテンの向こうを見ると、隣家の屋根に打ちつける雨水が軒の端からだらだらと、水というよりは粘度を持った涎のように不定なリズムで落ちていた。アサガオに目を戻すと、白い花は見られず、代わりに赤紫色のものが口をひらいていた。窓を閉めたので止めていた音楽を再開し、ちょうど一時間分英語を読むと、一分も間を置かずに即座に『失われた時を求めて』四巻に持ち替えた(その頃には、Nina Simone『It Is Finished』が掛かっていた)。これも一時間読んだのち、空腹の腹にほんの少しだけ何かを入れたいと思って上に行くと、母親が帰ってきており、両親共に居間にいた。母親は今度は友人との会合に出かけるらしく、準備で服を羽織ったりとばたばたしており、父親はそれを送っていくと言った。正午に食べなかったゆで卵が残っていたのでそれを食べることにし、胃の調子が何となく悪いような感じがしていたので、大根を下ろして、そこにキャベツを混ぜてドレッシングを垂らした。痛いほどに辛いそれを涙を出しながら食べて、食後にバナナも食べたあと、米を洗って炊飯器のスイッチを押してから室に帰った。それでようやく書き物である。Brad Mehldau Trio『Blues And Ballads』とともに文を綴り、ちょうど一時間ほどで前日の記事を完了、時刻は六時過ぎだった。六時半には出るつもりだったので準備へ移り、上の洗面所へ行って櫛付きのドライヤーで髪を梳かし(父親は風呂に入っていた)、それから服を着替えた。プルーストと返却する本二冊を鞄に入れると、出発する前にと椅子に就き、Bill Evans Trio "All of You (take 1)" を聞いたので、六時半を過ぎることになった。気分を持ち上げる薬を一粒飲み、上に行って風呂場の父親に行ってくると告げてから、玄関をくぐった。既に暮れて地上は暗んでいながらも空はまだ青さの残滓を保持していたが、それもまもなく灰色の宵のなかに落ちて吸収されてしまうはずだった。雨は降り続けており、坂に入ると、暗がりのなかを街灯の光が斜めに差して、路面が白く磨かれたようになっている。前方から車がやってくると黄色掛かったライトのおかげでその時だけ雨粒の動きが宙に浮かびあがり、路上に落ちたものが割れてそれぞれの方向に跳ね、矢のような形を描いているのが見えた。街道に出ると同じように、行き過ぎる車のライトが空中に浮かんでいるあいだだけ、無数の雨の線が空間に刻まれているのが如実に視覚化されるのだが、それらの雨はライトの上端において生じ、そこから突然現れたかのように見えるため、頭上の傘にも同じものが打ちつけているにもかかわらず、光の切り取る領域にしか降っていないように錯覚されるようで、テレビドラマの撮影などでスタジオのなか、カメラの視界のみに降らされる人工の雨のような紛い物めいた感じがするのだった。道を見通すと、彼方の車の列は本体が目に映らず、単なる光の球の連なりと化しており、それが近づいてくると段々、黒々とした実体が裏から球を支えていることがわかる。濡れた路面が鏡の性質を持っているために光は普段の倍になり、二つの分身のほうは路上の水溜まりを伝ってすぐ目の前のあたりまで身を長く伸ばしてくるのだが、その軌跡は水平面上に引かれているというよりは、目の錯覚で、アスファルトを貫いて地中に垂直に垂れながら移動してくるように見えるのだ。横断歩道が近づくと、信号灯の青緑色が、箔のようにして歩道に貼られる。踏みだすたびにそのいささか化学的なエメラルド色は足を逃れて消えてしまい、自分もその照射のなかに入っているはずなのに、我が身を見下ろしても服の色にはほとんど変化がないのだった。雨は結構な降りで、裏通りを行く間にさらに強まり、先日の台風の日ほどではないが、ズボンを膝のあたりまで濡らす。路上にもほとんど水から避けられる場所が残らず、靴を突っこまなければならず、立ち並ぶ街灯が溜まった水に宿って、輪郭の不安定に波打った縞模様を道に作っていた。鞄を小脇に抱えて駅まで行き、電車に乗った。図書館の駅で降り(飲み会の店もこの駅周辺だった)、便所に寄ってから歩廊を渡って館に入ると、『サミュエル・ベケット短編小説集』と、ジュリア・アナス『古代哲学』を返却した。それからCD棚の新着を見に行ったが、久しぶりに訪れたにもかかわらず何の変化もない。上がって新着図書のほうを見るとこちらは多少変化があって、なかにロベルト・ボラーニョ『第三帝国』と、ウラジーミル・ソローキン『23000』(「氷三部作」の三巻目)が目新しい小説として見られた。それから静寂に包まれたフロアを渡り、文庫の棚の端、哲学の欄を見た。古代哲学の文献はどれくらいあったかと思ったのだが、さしたる量ではない。時代的には古代ではないが、ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』や、『エラスムス=トマス・モア往復書簡』を、そのうちに読むことになるだろうと思われた。それから文庫の棚を辿って歴史やら何やらを見たあとに、目当てであったジュリア・アナス/ジョナサン・バーンズ『古代懐疑主義入門』を取ってその場を離れ、フロアの反対側の端まで移動して、また哲学の棚を見た。古代哲学関連をもう一冊借りようということだが、やはり入門書から行くかというわけで、先の『古代哲学』と同じ、Oxford University Pressから出版されている "A Very Short Introduction" を訳したシリーズの、ジュリア・アナス『プラトン』を選んだ。さらにもう一冊を求めて、歴史のほうに移ってギリシア・ローマの欄を見たが、決まらない。変えて日本史の本にするか、それともやはり小説にするかと迷いながらも、結局二冊だけで良いかと落ち着いて、貸出機で手続きをした。それで退館、七時四五分頃だった。会は八時からだったのでちょうど良いだろうとすぐ近くの店の前に行ったところが、誰の姿もない。一旦店のなかに入ってみて、レジカウンター脇にある予約リストを見てみると、確かに八時からで同僚の名前がある。出てきた店員に、もう入っていますかと訊いたところが、まだ案内していないと思いますとのことだったので、待ってみますと答えてまた外に出た。それで雨のなか、暗い灰色の押しつけられた空をぼんやりと眺めていると、正面から軽い口調で声を掛けられて、見れば幹事役の同僚が路肩の柵を越えてきた。今から皆を駅に迎えに行くと言う。自分はここで待つと答えて留まっていると、今度は車が止まり、別の同僚兄妹が出てきた。さらに道の向かいのハンバーガーショップからももう一人出てきて、もう先に入っているかと踏み入ったところで駅からの連中も合流して、小部屋に通された。全部で一二人かそこらである。こちらの席は奥だろうと、なぜかそう言われるのに従って上座に就いた。まだ何人か来ておらず(そのなかに主役たる上司も含まれていた)、各々適当に雑談をしたり(こちらは例によって大方黙って、時折り正面の会話に口を差し挟んだ)、急拵えではあるが上司へのメッセージや写真をまとめたアルバムが回されてきたのを眺めたりなどして待ち、面子が揃って乾杯をしたのが多分八時半も過ぎた頃だったと思う。こちらはいつも通りジンジャーエールを頼んだ。やたらと飲んでまた胃酸が過剰分泌されてしゃっくりが止まらなくなるのは苦痛なので、一杯だけで済ませようと決意を固めて、サラダやらカルパッチョやら料理のほうを主に口に入れながら、一口一口含むようにして非常にちびちびと飲んだ(二杯目以降は水を飲んだのだが、こちらのほうがジンジャーエールよりもよほど美味く感じられて、胃に負担もないので心置きなくおかわりをした)。左隣の同僚は、一〇時から別のアルバイトが入っているとのことで、酒を飲んだあとになど働きたくないと嘆いていた。ある時にその同僚が、明日の予定は、と訊いてきた。一日家にいると返すと、それで瞑想しているだけですかというようなことを言うので、妙に思った。自分が瞑想をしているということなど、職場の人間に話したことはないはずである。その事実に思い当たると一瞬で思考が飛躍して、まさかこいつはこちらのブログを読んでいて、さらにその筆者が自分であると見破っているのではあるまいな、と疑いが生じたのだが、しかしそれはほぼ一〇〇パーセント、ありそうもない話だ。このような長ったらしい文章を好んで読むような人間だとはとても思えないので、瞑想という言葉が発されたのはまったくの偶然で、おそらく本人も大した意味を持たせていたわけではないのだろう――こちらがそういうことをやっていそうな漠然としたイメージでも持っているのかもしれない。職場全体で見ても、このような文章を積極的に読みそうな人種は存在しない――別に彼ら彼女らに知られたところで面倒な問題や軋轢を生まなければ構わないのだが、連日数千字も文を綴ってわざわざ自分の生活を人目に晒しているなどということが明らかになると、端的に頭がおかしいと思われそうなので、こちらから知らせるつもりはない。この時の問いには、心中で僅かに警戒しながら、瞑想したり本を読んだり、と答えた。一〇時になってその同僚が仕事へ去ると、身の周りがやや広くなったので悠々とあぐらをかき、上司と隣り合うことになった。後ろに姿勢を傾けて壁に寄りかかっていたこちらに、上司が寄って話しかけてきた時があって、あなたとはもう少し一緒に仕事したいと思っていたんですけどね、と言うのだった。次の上司について、自分が来たときよりもインパクト強いですか、と問うので、いや、自分は元々あなたの時も、誰が来ようがこちらのやることは大して変わらないと思っていたので、と答え、多少やりづらい、やりやすいはあるのかもしれないですけれど、と先日綴った文言ほとんどそのままに言い、いままでの礼を述べた。それで、一〇時までの予定だったはずが、店の許可も取らずに勝手に時間が延長されて、退出を促されてからようやく上司にアルバムと贈り物が贈呈された。そこからまた多少のやりとりがあって、退店したのはようやく一一時四〇分も過ぎた頃である。駅に行き、改札のなかと外のグループで別れ、ホームに下りると上司とも別れて、数人で電車に乗った。ちょうど乗り換えに繋がるものである。降りると駅を出る者と別れ、同じ方面が一人いたのでその同僚と一緒に電車に乗り、最寄りを出たところで別れて一人になった。雨は変わらず、先ほどよりは薄くなったが降り続けていた。傘を差して帰宅し、玄関を入ると寝巻き姿の母親が居間の入り口に立っていて、おかえりと言った。なかに入って疲れたと洩らしたのは、遅くまで活動した時の常で頭痛が湧いていたからだ。部屋で着替えてきてから風呂に入り、戻ると一時前、もはやベッドに寝そべって本を読む以外のことはしたくなかった。『失われた時を求めて』四巻を取りあげ、二時半前まで読み、かろうじて瞑想を一〇分間してから、眠りに向かった。涼しさが薄布団の下にまで忍んでくる夜だった。
ピュロンに触発された後代の懐疑主義者は、この「現れに即して生きる」という考え方を発展させた。すなわち、われわれが生きていくには、事物がほかならぬ一つのかたちでわれわれに現れているだけで十分なのである。もしも、それにあきたらずに(日常的な事柄から議論を呼ぶ複雑な問題に移る場合にはそうなりがちである)、何らかの信念に拠って立つ決断を試みても、実際には厳密に調べればそのような決断ができないということをつねに見出すことになる。問題のどちらの側にも等しく正当な理由があることが判明するので、どちらの方法にも等しく心が傾くことになり、それゆえついには特定の立場を取れなくなり、その問題についての判断を保留することになるという。しかし、だからといってわれわれが麻痺した状態に陥るというわけではない。なぜなら、そのなかでもわれわれは現れに即して生きることができるからである。私が自分の立場を決断できないという事実は、ほかならぬ一つのかたちで私に事物が現れるということを妨げたりはしない。合理的には特定の立場を取りえないということは、習慣や欲望や法律への恐れなどのような、われわれを突き動かす他のあらゆる動機の源泉を捨て去ってしまうということではない。理性が関わらない(end111)なら生きられないとするような考え方は、理性の力の過大評価から生じている。われわれは理性をつねに必要としているわけではないし、独断的な人は、理性の力によって逆に、何かの理論が真理であると早まって確信してしまうものなのだ。
(ジュリア・アナス/瀬口昌久訳『古代哲学』岩波書店、二〇〇四年、111~112; 「4 理性、知識、懐疑主義」)
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(……)哲学のカリキュラムについては、かなり初期の段階からずっと、三つの部門から構成されるかたちが続いた。つまり、論理学と自然学と倫理学である。あまりに早い段階からそうであるために、このかたちを定めたのはプラトンであると(説得力なく)いわれることがあるが、しかし、プラトンやアリストテレスがそのようなカリキュラムを念頭においていなかったことは明白であり、それはストア学派やエピクロス学派のような後代の学派の関心にこそはるかにふさわしいものである。(……)
(123; 「5 論理と実在」)
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アリストテレスにとって、自然とはさまざまな自然本性をもった事物から構成される世界のことである。では、ある自然本性をもつこととはいったい何だろうか? それは、それ自身の内部に、変化を起こすことと変化を受けることの原因をもつものであるということだ。ライオンとは何であるかを理解するためには、ライオンそのものを調べて、ライオンが周囲の環境や他の種とどのように相互作用しているのかを調べるしかない。これとは対照的に、楯のような人工物を理解するためには、楯そのものの外部にあるもの――それを制作した人間のさまざまな意図――に訴えなければならないだろう。自然本性をもつものとは、主には植物や動物などの生物のことであり、そこには人間も含まれている。それゆえ、アリストテレスにとっては最初から、自然とは、何であれただ生じるもの、つまり、存在するものの無差別な総体(ミルをはじめとする一九世紀以降の者たちにとっての自然はそうであった)ではなかったのである。つまり、すでに自然とは、自分自身を組織化し、それぞれ特徴的な生を生きる生き物たちの世界のことであり、自然を理解することとは、これらの生き物がどのような生をおくるのかを理解していくことである。自然は能動的であり、生きて(end136)変化する生き物たちのシステムなのである。アリストテレスの考え方のなかには、自然は受動的なものであり科学的精神によって征服されるために存在しているというような、近代初期以降の多くの科学者にある悪名高い見方を示唆するものはない。
まして、われわれが利用するために自然は存在するといったさらに悪名高い考え方はまったくない。アリストテレスによれば、技能や専門技術とは、すでに自然のなかにある営みをさらに先へと進めるものである。ここで彼が考えているのは、食用作物を生産するために植物を品種改良する農夫や、そのままでは食べられない食物を消化しやすいように調理する過程としての料理のことである。自然をそこなうものとしてテクノロジーを考えることなどアリストテレスには思いもつかない。(その理由の一つは、自然をそこなうほどに精巧になったテクノロジーを彼が知らないことにあるのは確かだが。) 人間の活動が自然の確立されたバランスを壊すかもしれないということもアリストテレスには思いもよらない。人間が動物や魚を捕らえて食べるのは、動物や魚が互いに捕食し、植物を食べるのと同様のことである。それらすべては自己制御のとれたシステムの一部なのである。悲しむべきことだが、アリストテレスの考え方の多くは、われわれの世界においては古びた風変わりなものと思われてもいたしかたないであろう。この世界では、人間が破滅を招くような仕方で自然の働きに介入し、生態系を破壊し、さまざまな種を絶滅に追いやっているからである。アリストテレスにとって、人間も含めたさまざまな種は、つねに存在してきたし、これからも存在し続ける(end135)ものなのである。よって必要となるのは、それらが全体としてどのように適応しあっているのかを理解することだということになる。そういうわけで、アリストテレスは、有名な一節で、「下等な」動物についての研究を擁護し、それらの動物がどのようにして、天体についての壮大な研究と同様に、人間の行なう研究にとって価値あるものとして役に立つかを述べている。「なぜなら、あらゆる自然物のなかに何かしら驚くべきことがあるからである」。
アリストテレスによれば、われわれ自身をその一部として含む自然を理解したいとわれわれが求めるのは、人間にとって事物を理解したいと思うことが自然だからである。もっとも、これは循環論ではないのだろうか? まさにそのとおりなのだが、しかし、それが循環論的であることは問題ではない。アリストテレスの理論は、現代的意味において自然主義的なのである。つまり、アリストテレスの理論は、自然を理解するプロセスそのものが自然の一部であることを受け入れる。それらの理論は、理論が研究する諸条件から、神秘的な仕方で除外されているのではない。哲学は自然(end138)の探求を含むものであり、驚きと共にはじまる。つまり、身の周りに見出す物事によって、われわれは当惑し、興味を惹かれ、そして、そのことについての十分な説明を得られるまでは満足を覚えないということである。説明を求める探求は、その探求そのもの以上の何かを目指してはいない。つまり、アリストテレスにとって、われわれ自身の利己的な目的のために自然を搾取しようとして、そのために自然を理解しようと試みることは、見当はずれであり、ばかげたことでさえあるだろう。したがって、自然について異なる領域を研究するにはそれぞれ異なる方法が適切ではあるけれども、他の生物や無生物に起きるのと同じようにわれわれ自身にも起こることについて、われわれは当惑し、そして説明を探求するということになるのである。
(136~140; 「5 論理と実在」)
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世界が設計されたものであることを支持するストア学派の議論のなかには、自然の事物がもつ完璧な複雑さに訴える議論がある。一つの議論を紹介するなら、たとえば時計のようなある複雑なメカニズムをもったものが、まだそれを知らない人々に見せられた場合を想定してみよう。その場合でも見せられた人々は、それを生み出したのが理性を備えた者であることは認めるだろう。それゆえ、自然物は人工物よりもはるかに偉大な複雑さと機能への適性とを示しているのであるから、理性の産物でなければならない――その理性は、明らかにわれわれの理性よりも偉大なものであり、宇宙全体のなかに具体的に現されているのだ。(これはダーウィン以前のキリスト教思想家の間で一般的であった「意図からの論証」に著しく似たものである。)
他の議論としては、世界の有機的構造の複雑さに、つまり、あらゆる部分が相互に依存し合う巨大な生態系として世界が見られうることに訴える議論がある。またストア学派は、動物が環境や、動物どうしの相互関係によく適応している方法にも訴えているが、しかし、それは彼らが動物その(end146)ものに関心を抱いているからではなく、世界がよく組織化された全体をなしていることが動物を見るとよくわかるためにすぎない。
世界を設計されたものと考えるときに、ストア学派はしばしば世界を家や都市にたとえる。なぜなら家や都市は、明らかにその住人のために設計されているので、世界が明白にその受益者たる者、すなわち理性を備えた存在者――神々と人間――のために合理的に設計されているというストア学派の主張する論点を際だたせてくれるからである。したがって、人間に関していえば、世界のその他のもの――植物や動物――は、われわれ人間の利益のために設計されていることになる。これはストア学派をきわめて人間中心主義的な世界観へと導くことになる。たとえば穀物やオリーブや葡萄はわれわれが食べるために、羊は羊毛をわれわれの衣服とするために、雄牛はわれわれの鋤を引くために世界に存在するというのである。そのような世界観は、アリストテレスに見出されるような自然の不思議さについての好奇心を確実に抹殺してしまうものであり、自然界にある他の事物に対して搾取的な態度をとることにつながる。この考え方は、ストア学派の思想にある、社会的役割を問わず万人に向けられた人道主義的な態度と、著しく醜い対照をなしている。
(146~147; 「5 論理と実在」)
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これらの古代のさまざまな論争の遺産は、のちに大いに単純化されることになった。すでに古代世界において、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、プラトンの『ティマイオス』が『創世記』にある創造物語の哲学的説明として受け入れられるものとみなしていた。これは驚くべきことではない。なぜならユダヤ-キリスト教の神は世界の創造主であり、世界がよいものとなるように計画を立てたものとされているからである。さらにまた、人間は世界のなかで特権的な地位を占めている。中世において広まったのも意図に基づく世界観である。世界のなかのあらゆるものは、われわれを含めて(実際はとくにわれわれこそが)、世界のなかでそれのための場所を満たすように創造されており、(end150)その場所は、それぞれのものについての神の意図のなかに、見出されるように定まっている。人間は神の計画の特別な恩恵を受ける者であり、残る被造物はわれわれが利用するために用意されているというのである。
中世において、アリストテレスのさまざまな考え方が再発見されると、それらはこの意図に基づく世界観に組みこまれることになった。なぜならアリストテレスの考えは、世界を設計者たる神の創造物とする神学的な枠組みに一致したからである。アリストテレス自身のより微妙な立場は評価されなかった。唯一の選択肢は、世界は神の意図の結果とするか、あるいはたんなる偶然まかせの出来事の産物とするかであるとみなされた。後者の考え方は、ルネサンス期、つまり、エピクロスの考え方がふたたび影響力をもち、中世の世界観を完全に拒絶するように哲学者を奮い立たせるまでは、真剣に受け入れられることはなかったのである。
(150~152; 「5 論理と実在」)