九時間近くになる長々とした眠りを通過したあと、一一時二〇分の時計を認識した頃から、意識がはっきりと晴れはじめた。かといって身体を起こす気にならず、携帯電話の助けを借りているうちに正午が近づいて、寝床を抜けるとギターに触れに隣室に入ってしまったので、上階に行く頃には正午を回って、テレビでは大衆歌唱大会が始まっていた。風呂を洗ってから、鍋に煮こまれた素麺を熱して丼いっぱいに溢れそうなほどよそり、卓に就いた。素麺を啜ってもぐもぐやりながら、テレビの歌声で意識が乱されるのを幾分か防ぐために、指を文字の横に置いて滑らせつつ新聞を読んだ。食器を片付けて室に帰ったあとは、記録上も記憶上も空白が挟まれているので、だらだらと過ごしたらしい。読書を始めたのが、二時二〇分からである。『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』から「複製技術時代の芸術作品」を再読しはじめたのは、翌日の知人との会合で課題書に設定されていたのがこの本で、話の前にこの有名な一篇くらいは読み返しておこうと思ったからだ(もっとも、この会合はのちになって、台風の接近を考慮して延会となった)。三時半まで読んだあと、水を取りに部屋を出ると、母親が階段下の一室で大きなモニターを前に黙々とタイピング練習をしている。覗くと相変わらずのトレーニングモードではあるが、レベルが進んでクロマチックトレーニングめいた指の運動のみならず、英単語などを打ちこむ段階まで進歩していた。さらに次の段階、日本語の単語が出てくるレベルにも母親は挑戦しはじめた。そのレベルになると、「/」や「;」に「:」、あるいは「+」や「=」の記号や「()」なども出てくるので、そのたびに場所を教えたり、Shiftキーを押しながら同時押しをするのだと教えつつ、傍らで座椅子に寄りかかってしばらく見守っていたが、一度教えたものに関しては大概再度言わなくとも解決していたので、意外と飲みこみが良いのかもしれないなと思った。空腹だったのでカップラーメンでも食うことにして、上階で湯を注いできて、自室に帰ってゲーム動画を眺めながら食っていたのだが、そのうちに母親が呼んだ。またコンピューターの前に行くと、画面には何だか知らないが、『Age of Empires』めいたグラフィックのゲームイラストが映っており、これどうやるのと言う。Google Chromeを使って適当に検索したら出てきたらしい。メールアドレス欄とパスワード欄があるのに、これは登録しないとできないゲームだと言うと、じゃあ面倒くさいからいいとなって、登録しなくてもできるゲームはないのかと続いた。それでコンピューター内に元々入っているゲームフォルダをひらき、昔よくやったものだと久しぶりにマインスイーパーを遊んでみせた。ソリティアは母親も先日やったと言う。それで次にそれをひらいたのだが、母親ではなくてこちらが遊びはじめてしまい、母親のほうはそのうちに眠いと言って寝息を立てはじめた。こちらは手詰まりを繰り返していつまでもクリアに辿りつけないまま黙々と遊び続け、五時の鐘が鳴ったところで母親が起きてご飯の準備をしなきゃと言うので、結局一度もクリアできないままにコンピューターをシャットダウンした。ヒグラシの声が棚引き、窓から入りこんでいた。それで台所に上がり、母親が豚汁を食べたいと言うので、肉はないが玉ねぎ、ジャガイモ、人参を切って鍋で炒めはじめた。ホタテの欠片を入れて出汁を取った湯をそこに注ぎ、灰汁を取ると煮ているあいだは卓に行って、指で文字を追いながら新聞記事を読んだ。第六回アフリカ開発会議関連の記事を読み終わるとまた台所に立ち、楊枝でジャガイモを突くと既に柔らかかったので、味噌を加えて味見もせずに完成とした。下階に戻ると、逸れがちな意識を一所に集めて書き物をする集中力を引き寄せようと、まず瞑想をすることにして、ベッドに乗った。雨の続いている窓の外は黄ばんだような妙に明るい色合いになっており、アサガオの葉のあいだを見通すとその色は、葉の緑色が淡く染みだしたようにも見えるのだが、正面のカーテンの襞のあいだには、やはり裏側から黄色味がぼんやりと映っていた。枕に座っていたのは、五時四一分から五四分のあいだで、合間に雨音が強まって空間そのものを擦って磨いているかのように広がり、目を開けたときには先ほどの黄ばみは消えて、いつもながらの薄青く落ちこんだ黄昏れになっていた。脇道に寄らずに集中するために瞑想を行ったはずが、その直後に早速逸れて、何をやっていたのかは覚えていないが書き物を始めるのは六時半からになった(その直前にBill Evans Trio "All of You (take 1)" をじっと聞いて、ふたたび集中と落ち着きを取り戻そうとした)。Cecil Taylor『Dark To Themselves』を流しながら進め、一時間に及ぶフリージャズの演奏が終わったあとは音を止め、八時半まで打鍵を続けた。前日の記事を一番最初から綴って、五一〇〇字である。それをインターネットに放流しようとしながら、投稿フォームで読み返しているうちにまた手直しや書き足しを始めてしまい、結局九時前まで掛かってから夕食を取りに行った。おかずは先日届いた牛肉である。我が家の食卓に上がることは少なく貴重なそれとともに米を食い、カボチャの煮物なども平らげると、母親が風呂に入ると言うのでねぐらに帰った。それでGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを読んだ。一〇時前に中断して入浴に行き、戻るとふたたび読んで一一時二〇分過ぎ、合わせて一時間強読んだことになる。その後は歯磨きをしながら、東浩紀に津田大介とSEALDsのメンバー二人が対談している動画を眺めはじめた。四分割されているうちの三つ目を既に終盤まで視聴していたため、これの最後まで行ったところで残りは後日に回そうと思っていたところが、対談というものは明確な切れ目がなく続き、こちらは受動的に眺めているだけで何の能動性も必要としないのが楽なので結局最後まで見てしまい、そして既に一時を過ぎているとなると、一日の残り時間の少なさに、本来だったらその僅かばかりの猶予をそれでも幸福な残り物として有効に活用するべきであるはずが、かえって怠ける気になってなし崩し的に夜更かしに突入して、二時半を越えた。そこでようやくこれはまずいと気付いてベッドに移り、『失われた時を求めて』四巻をひらいたが、さすがに四時に触れたくはないのでせいぜい読めて四五分である。気力を振り絞り、三時半前から四〇分まで瞑想をしてから就寝した。