2016/9/4, Sun.

 比較的早い時間に覚めたのは、隣室で人の動く気配があったからだろう。意識がはっきりと固まってくる頃にはしかし、隣の二人は両方とも上階に行っていた。こちらも寝床を抜けて、洗面所と便所で用を済ませたあと、ベッドに戻って瞑想をした。それで一〇時前になると上階へ行った。地元の神社の秋祭りの日であり、子どもたちによる相撲が奉納され、夜には舞台で有志の面々によって歌が披露される。父親は既に早くから役で駆りだされており、母親もお茶汲みか何かの手伝いに行くという話だった。薄褐色の五目ご飯などで食事を取りながら兄夫婦にいつ行くのかと訊いてみると、正午頃にはと言うので、こちらもついていくことにした。テレビは「二四時間テレビ」のダイジェストを流しており、それに目を留めた義姉が、この番組も何かあれだね、と口にした。ちょっと言葉を考えてから彼女は、お涙頂戴みたいな、と付け加えて、それを受けた兄は、まあ、多少はな、と落とした。飯を食って食器を片付けると自室に帰り、セネカ大西英文訳『生の短さについて 他二篇』の書き抜きを行った。BGMとして部屋に流したのはSarah Vaughan『After Hours』、隣室の人の存在を意識してそれほど音を大きくせず、続いてBrad Mehldau『Live In Tokyo』を繋げた。それが一一時過ぎまで、義姉が途中で、居間のソファでだらだらとアザラシのように寝ている兄を呼びに行き、部屋の片付けを始めたらしい。こちらはその後、Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを読みはじめたが、ベッドに転がって読んでいるうちに睡眠時間の少なさから、頭蓋内に凝った感触が生じはじめ、眠りへの誘惑を甚だしく感じた。ところが、そうなってから、そろそろ行くと声が掛かる。瞑目してほんの少しだけ休んでから、意を決して起きあがり上階へ、洗面所でデオドラントシートを使って肌を拭ってから、外着に着替えた。家を出たのはちょうど正午になった頃だっただろう。義姉はつばが斜めでややくしゃりとしたような、形のあまりはっきり固まらない白の帽子を被っていた。陽射しに肌を濡らされながら三人連れ立って坂を上って行く。川の谷間を挟んで彼方に見える山の、いつからか木が刈り取られて土が露出していた斜面が、新しい緑を生やして土を隠しており、青空の下で澄んだ空気の向こうでやや牧歌的な調子を湛えているその斜面は、背の高い木がなくて平らな分、地形が明らかになって、立ちあがる山の大きさが(山というほど高いものでもないのだが)感じられるようだった。通りを渡って神社前の広場に行くと、テントの下に裸で廻しを締めた子どもたちや役員勢が並び、揃いのTシャツを着たスタッフも散らばって(そのなかに父親もいた)、催しが始まるところだった。我々は社の舞台に近いほうに入って、式の進行を眺めた。着いた時には神主が祝詞のようなものを上げており、続いて神酒が振る舞われたのだったか――それか関係者や来賓の挨拶が先だったかもしれない。歳のためだろう、ややぎこちないような調子で最初に挨拶をした神社総代(という役職名だったろうか?)は、我が家にも行商に来る八百屋の男性だった。来賓として市立小学校長が挨拶したあとに、ゲストとして招かれていた本物の力士たち――その訪れは六年に一回だと言う――の紹介があったのだと思う。部屋の名前はどうしても聞き取れなかった――音を聞いても漢字が出てこず、語として固まらないのだ。親方なのか、ワイシャツにスラックス姿の男性が挨拶をしたことには、先ほど挨拶をした神社総代も子供会会長のどちらも、ほかでは大抵スリッパを使うところがきちんと裸足で土俵に上がっていた、それを見て神事との意識が強いのだなと感心した、と言う。それから五人か六人か並んだ力士の名を一人ずつ呼び、四方に礼をさせた。幕内が一人、幕下、あとは序二段とか何とか聞かれた。強面で身体も大層大きいためにわかりにくいが、下のほうの番付の人はおそらくまだ結構な若さで、暗いような顔をして各方角に回りながら礼をするその振舞いも、どことなく覚束ないような雰囲気に見えた。それでいよいよ手合わせとなったはずである。身体のまだまだ小さく細く、いたいけなような小学校一年生から順に仕合いはじめる。素人の、しかもまだ年端も行かぬ子どもの拙いような相撲とはいえ、いざ見てみるとそれなりに面白いもので、両者が組み合って耐える時間が長く続き、周囲からも激励が掛かった末に決着が着いた取り組みなどは、広場をどよめかせた拍手に同じて大きく手を打ち鳴らす気にもなるものだ。途中で、兄の幼馴染の兄妹がやってきて挨拶をした――妹のほうは(確かこちらの一つ上だったはずだが)こちらを見るのはいつぶりかわからないくらいで、存在に気づくとおお、と顔をちょっと後ろに引いて、物珍しさを表していた(彼らはそのうちに用事があると言って去っていった)。手合わせが終わると五人抜きが始まる。一年生は三人しかおらず、同じ相手との取り組みを繰り返しながら五人を抜かなければならず、そのために時間が掛かって熾烈な戦いになった。ひょろひょろとした身体の少年たちが、それでも脚の筋肉を精一杯膨らませ、角突き合う鹿のように上体を低く曲げ、平らになって押し合っているのを見るのは、労りの情めいたものが湧くものだ――この子らもやがて歳を取り、肉体を成長させて、今日のことを忘れ、あるいはふとした折りに思い出すこともあるのだろうと、時の経過を先取りしたようなやや切ない気分になって、「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると」という、小沢健二 "さよならなんて云えないよ" の一節を思いだしたりなどもした。テントとテントのあいだに設けられた細長い座席に腰を掛けたりしつつ、汗をだらだら流しながら眺めていたが、途中で飲み物を買ってくる気になった。それ以前にも一度、会場に並ぶ屋台のなかに飲料を売っているものはないかと、兄と見て回ったのだったが、レモンスカッシュを売っている店しか見当たらなかった。それで駅の自販機まで行ってくると言い、兄と義姉の望みを聞いて場を離れた。すると、職場に来ている中学二年生が、Virgin Recordsの文字が入ったシャツをこの日も身につけてうろついている。声を掛けると、ふらりとやってきて友人を探しているらしいが、見当たらないようである。飲み物を奢ってやると言って、連れ立って駅までの道を歩いた。相手の学校や部活動の話を適当に聞きつつ近くの駅まで行き、ホームに入って自販機に金を入れた。中学二年生はカルピスウォーターにすると言う。こちらもそれに決めて、兄のためには麦茶を選んだ。義姉が望んだ柑橘系の飲み物がなかったので、通り沿いの商店前の自販機も見てみることにして、ボトルを脇に抱えながら駅を抜け、横断歩道を渡った。オレンジジュースがあったのでそれを買い、陽射しに照らされながら来た道を戻って、中学生とは別れ、二人のもとに戻り、飲み物を渡した。それから食い物も買おうと思って、カルピスウォーターのボトルを座席に置いておき、ふたたび場を離れて、まず唐揚げの屋台に行った。大きいほうでと注文して待っていると、名を呼ばれて、見れば日傘を差した母親がいる。仕事はもう終わったのだと言う。たこ焼きも二パック買って母親とともに兄夫婦の居場所に戻り、食べ物を差しだしたが、二人ともあまり食べず、こちらが多くを貰った。五人抜きは五年生の部が終わったところで、それまで見ていなかったので定かでないが、どうやら職場で何度も受け持った馴染みの少年が勝ったらしい。六年の部まで終わって、退場していくなかのその姿を見つめていると、向こうもこちらを見返したので、手を挙げて挨拶をした。二時を過ぎた頃だった。母親は、帰って洗濯物を出そうかなどと言っている。こちらも、炎天下で肌をべたつかせながら立ち尽くしているのに辟易してきたところだったので、二人で帰ることにした。兄夫婦は、プロの力士のパフォーマンスは見たいので残ると言う。彼らと別れて、クレープを二つ買ってから坂を下って行き、帰宅した。居間に入って服を脱ぎ、肌を晒すと、買ってきたクレープを食べ、ちょっと休んで三時を過ぎてからシャワーを浴びた。粘っていた身体をさっぱりとさせ、出てくるとそのまま居間に留まり、ソファにもたれながら、徳光和夫熊田曜子と、田中律子が鎌倉付近をぶらぶらとするテレビ番組を眺め、時間を潰した。そのうちに兄夫婦も帰ってきて、それを機に室に帰って読書(『失われた時を求めて』第五巻)を始めたが、疲労感と綯い交ぜになった眠気をどうしようもなかったので、仰向けに身体をだらりとして眠りに就いた――それが四時一五分である。起きると五時五分、再度読書を始めて、五時半を過ぎたところで兄夫婦が電車の時間がどうとか言っているのが聞こえたので、上に行った。兄に、いつ帰るのかと訊くと、六時半の電車と答える。まだ時間はあったが、室には戻らず居間に留まって、新聞を読んだりしつつ二人が帰途に就く時間まで待った。六時頃にソファに移って外を見ると、薄青さに浸されはじめて湿った雲の散らばっている空のなか、山際近くの一角が白く磨かれたようになっており、色味を帯びた上下の地帯とのあいだで視線を滑らせると、まるでガラスが湾曲してこちら側に突き出したかのように見えるのだった。二人が出る時間になると、玄関の外へ出て、母親の車に乗って行くのを見送った。車が坂の入り口を曲がって消えていくのを手を挙げて見届けてからなかに戻り、自室に帰って本を読むはずが、六時半前から八時までだらだらとインターネットを回ってしまった。それからようやく読書に入って、九時一五分までプルーストを読むと、食事を取りに行った。夕食は祭りで買ってきた焼きそばやたこ焼きに、五目ご飯の残りや生野菜のサラダである。日曜日の九時台は父親が韓国ドラマを見る時間、先日まで放映されていたものが終わって、どうやらこの日から『三銃士』という新しいドラマが始まったらしかった。それをこちらも一緒になって眺めてから、入浴した。室に帰ると一一時前から、音楽を聞くことにして、例によってまずBill Evans Trio "All of You (take 1)" に耳を傾けた。それから『Warne Marsh』の続きをつぶさに調べてみようということで、 "My Melancholy Baby" を聞き、さらに同じくMarshの『Warne Out』から、 "All The Things You Are" を変奏した "Duets" という曲を聞いたが、端的に言ってこれは試みがうまく行っていないように思われた。曲名通り、Marshのサックスが左右で多重録音されているものだが、その組み合わせが実に散漫なように聞こえたのだ。元々Warne Marshという人は音出しも緩やかであり、あまり熱くならず控えめに吹くプレイヤーのようで、おずおずとしたようなところが散見されるのだが、それも相まってこの二重奏では左右のどちらも中途半端な吹き方に聞こえるのだった。毎日の音楽は、最低でもBill Evans Trioの "All of You" は集中して聞きたいものだと考えている。それに加えてその他のジャズと、さらにできればクラシックも聞きたいというわけで、この日は最後に、Jacqueline du PreとDaniel Barenboimが演じたベートーヴェンチェロソナタから、第一番の第一楽章を聞いた。すると一一時半前である。音楽鑑賞は終いにして書き物に移り、Armen Donelian『Leapfrog』を背景にして九月三日の記事を綴った。一時過ぎまで至っても終わっていなかったが、もう終盤まで来ていたので残りは翌日にしようということで終了し、それからは性欲を解消するのに時間を使った。二時を過ぎてから、就寝前の読書である。三時前から瞑想を一〇分ほどして、眠りに向かった。



 自分の移り気や嫌気、頻繁な変心に悩まされ、捨てたもののほうがよかったといつも思う者も、また、無気力になり、欠伸をしている者も、皆、同じ範疇に入る。ちょうど不眠症に悩まされる人のように、輾転反側し、姿勢をああ変えたかと思えば、またこう変え、疲労困憊した挙句に安らぎを見出す者も、この範疇に加えたまえ。そのような者は、生の状況をしょっちゅう改めようとし続けた挙句、最後には、変革への嫌悪からではなく変化に二の足を踏む老齢から立ち止まり、そこから動かなくなってしまうのである。さらに、さほど移り気ではないが、その一貫性が恒心のゆえではなく、懶惰のせいであり、自分の意欲するとおりの生を送るのではなく、始めたとおりの生を送る者も、この範疇に加えるとよい。症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その由って来る因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全には満たされない欲望である。望むだけのことを思いきってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、すべてを希望に託す場合がそれに当たる。そのような人間は常に不安定で流動的であるが、何事においても中途半端な者の必然的な結果である。彼らは自分の願い事を手立てを尽くして達成しようとして、不名誉なことや困難なことまでみずからに唆し、強いる(end77)が、苦労が報われなければ、願いが叶わなかった恥辱感に苛まれ、しかも、歪んだものを望んだことを嘆くのではなく、望みが徒労に終わったことを嘆くのである。そのとき、彼らは挫折した目論見への後悔の念にも、また、新たな目論見に着手することへの恐れの念にも捉えられ、その精神には、欲望を制御することもできず、かといって欲望を満足させることもできないために、出口を見出せない心の動揺や、思いどおりに展開しない生への躊躇、断念したさまざまな念願の中で無気力になっていく心の沈滞が忍び込むのである。苦労の挙句の蹉跌に嫌気がさして、閑暇の生や孤独な学問研究に逃げ場を求めたとしても、こうした心的状態はどれもますます耐えがたいものになる。公人としての務めを果たそうと意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見出せる慰めがわずかなために、そうした閑暇の生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。世間的な仕事に奔走しているときにまさにその仕事から獲ていた喜びが取り去られると、みずからの家に、孤独に、取り囲む壁に耐えかね、一人取り残された己の姿を嫌々眺めるのは、それゆえである。落ち着き場所をどこにも見出せない精神の揺れ、そのような精神への倦怠や不満、そしてまた無為の生に耐える悲しくも病める忍耐は、ここに起因する。そうした状態の真の原因(end78)を認めることを恥じて、羞恥心が責め苦を内に向け、心の片隅に閉じ込められたさまざまな欲望が捌け口もなく互いを窒息させ合う場合がとりわけそれに当たる。そこから生じるのは、悲哀や憂鬱であり、また、希望を抱いた当初はどちらともつかない不安な状態に置かれ、やがては挫折を嘆く悲哀を味わわされる、千々に乱れる不安定な精神の揺れである。無為の生を厭い、自分にはすることが何もないといって嘆く人々に特有の例の感情、他人の栄達を蛇蠍のごとく憎む嫉妬心は、そこから生じる。不幸な無為の生は嫉みを育むからであり、自分が進展できなかったために、誰もが滅びればよいと望むからである。この他人の前進への嫌悪感と自分の前進への絶望感からは、次には運命に怒り、時代をかこち、片隅に退嬰し、みずから招いた責めにくよくよと拘泥し、そうする己の姿に辟易して嫌気がさすまで考え込む精神が生まれる。実際、人の精神は生来動きやすいものであり、動きへと向かう性向をもつものである。そのような精神にとっては、みずからを刺激し、どこか(別世界)に連れ去ってくれるものなら、どんなものでもありがたいと思う。その才知を世間的な仕事にすり減らして嬉々としている最悪の人間(の精神)にとっては、なおさらそのようなものはありがたいのである。(……)
 (セネカ大西英文訳『生の短さについて 他二篇』岩波文庫(青607-1)、二〇一〇年、77~79; 「心の平静について」)

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 (……)兵役に就くことが許されないのか。公職を求めればよい。私人の立場で生活しなければならないのか。弁論家になればよい。沈黙が命じられているのか。物言わぬ支援で同胞を助ければよい。中央広場[フォルム]に足を踏み入れることさえ危険なのか。家で、見世物で、宴会で、善き仲間、忠実な友人、慎み深い宴客の役割を演じればよい。市民としての義務を(果たす市民権を)喪失したのか。人間としての義務を実践すればよい。われわれ(ストア派)が大いなる精神をもって自分たちを一つの都市に閉じ込めず、みずからを解放して全世界と交わりをもたせ、宇宙がわが祖国と公言しているのは、はるかに広い活躍の場が徳に与えられるようにという意図からであった。裁判官席の壇が君には閉ざされて(end86)いるとしてみよう。演壇[ロストラ]や民会に近づくことが君には禁止されているとしてみよう。しかし、無辺の領域のどれほど広大な領域がまだ君の背後に開けているか、どれほど多くの諸国民がまだ君の背後に残されているか、振り返って眺めてみるとよいのである。いかに大きな部分が閉ざされようと、それ以上に大きな部分が残されていないことは決してない。ともかくも、君のその考え方で落ち度がすべて君の側にあるということにならないよう気をつけたまえ。君は(ローマの)執政官か、(ギリシア自治市の)政務長官か、(戦時の)全権特使か、(カルターゴーの)総監(のような存在)でなければ国政に携わりたくない、などと言っているからである。最高指揮官や軍団副官でなければ兵役に就きたくないとすれば、どうだろう。たとえ他の人たちが最前線を占め、たまたま君が第三線の一員として配置されたとしても、君はその第三線から叫び声で、激励の言葉で、率先垂範で、勇敢さで戦うべきだ。両手を斬り落とされても、なおも踏みとどまり、叫び声で加勢しようとする者は、戦闘の中で味方に寄与できる自分の役割を見出したことになる。君も何かそのようなことをすべきなのである。運命のせいで君が国政の第一線の地位から排除されるようなことがあろうとも、なおも踏みとどまり、叫び声で助勢すべきだし、誰かが君の喉を締めつけるようなことがあろうとも、(end87)なおも踏みとどまり、沈黙で助勢すべきなのである。善良な市民の働きが無益であることは決してない。聞かれることで、見られることで、表情で、頷きで、物言わぬ頑強さで、歩みそのもので役に立てる。健康によいものの中には、摂取したり、触れたりせずとも、香りだけで有益なものがあるように、徳もまた、たとえ遠くに身を潜めていようとも、その効能を彼方から注ぎかけるのだ。徳は、自由に歩きまわり、当然の権利で自由にふるまうにしても、また、外に出るにも他人の許しが必要で、やむなく帆を畳まねばならないにしても、また、狭い檻に閉じ込められて所在なく沈黙しているにしても、あるいはまた、開け放たれた場所にいてその姿が歴然としているにしても、ともかく、どのような状態にあろうとも有益なものなのである。立派に静謐な生を送っている人の範を、なぜ君はさほど有益なものではないなどと思うのであろう。そういうわけだから、何にもましてはるかに最善の策は、活動的な生が偶然の妨害や国家の状況によって掣肘を受けたときには、いつでも活動的な生に閑暇の生を綯い交ぜるようにすることなのである。いかなる名誉ある活動の余地もないほどすべてが閉ざされているものなど、皆無なのだ。
 (86~88; 「心の平静について」)

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 (……)われわれは皆、運命に結びつけられている。黄金の緩い枷で結びつけられている者もいれば、粗悪な金属のきつい枷で結びつけられている者もいる。だが、何の違いがあろう。われわれが一人残らず拘束下に置かれていることに変わりはなく、拘束した者もまた拘束されているのである。もっとも、左手にはめられた枷のほうが軽いと君が考えているのなら、話は別だ。名誉ある(高位の)公職に拘束される者もいれば、富に拘束される者もいる。高貴な家柄に苦しめられる者もいれば、卑しい家系に苦しめられる者もいる。ある者は頭上に立ちはだかる他人の権力の前に額[ぬか]ずき、ある者はみずからの権力の前に額ずく。(end103)ある者は追放ゆえに、ある者は神官職ゆえに、一つ所に留め置かれる。生はことごとく隷属なのである。それゆえ、みずからの置かれた境遇に慣れ、できるかぎりそれを嘆くのはやめて、自分のまわりにあるどんな小さな長所をも見逃さずに捉えるよう努めねばならない。(……)
 (103~104; 「心の平静について」)

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 (……)誰であれ、立派に死ぬ術を知らぬ者は拙く生きる。それゆえ、まず何よりもこの生というものの価値を減じ、生命[いのち]を安価なものの一つとみなすべきなのである。キケローの言うように、われわれは、どのような手段を使ってでも生命を長らえさせようとする剣闘士は厭い、死を蔑視する意気込みが全身にみなぎる剣闘士は応援する。われわれが置かれる状況もまた同じなのである。死への怯えが死の因となることはしばしばだからだ。(……end107……)死を恐れる者は、生ある人間にふさわしいことを何一つできないであろう。しかし、自分が、母胎に宿された、まさにその瞬間から死を定められていることを弁えている者は、その約定に従って生き、変わることのない強固な精神力をもってそれを履行するから、生じる出来事の何一つとして突発的なものはない。事実、そのような者は、生じうることのことごとくを生じるであろうこととして予見することによって、あらゆる災厄の衝撃を緩和する。(……)
 (107~108; 「心の平静について」)

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 さらに、不安を生ぜしめる小さからざる要因となる例のものがある。多くの者たちの生がそうであるように、何とか世間体を繕おうとあくせくし、誰に対しても自分のありのままの姿を素直に見せようとはせずに、虚構の生、見せかけの生を送る場合がそれである。実際、絶えず自分のことを気にするのは苦痛以外の何ものでもなく、ふ(end124)だんの自分と違った姿を見つけられるのではないかという恐れが常につきまとう。人に見られるたびに自分が評価されていると思うかぎり、われわれが心配から解き放たれることはない。なぜなら、嫌でも裸の自分をさらけ出さざるをえない事態が多々生じるからであり、また、たとえ自分を繕おうとするそれほどの熱意が功を奏するとしても、常に仮面をつけて生きる者の生は楽しくもなく、心穏やかなものでもないからである。それに反し、率直で飾らず、いささかも自分の性格を覆い隠さない純朴さには、どれほど大きな喜びがあることだろう。もっとも、一つ残らずすべてを万人に開けっぴろげにしたりすれば、その純朴な生にも蔑視の危険が忍び寄る。何であれ、近しくなったものに対しては蔑みの念を抱く者がいるからである。だが、徳には、目を近づけて眺められても、安っぽく見られる危険はないし、また、絶えざる見せかけのために苦しめられるよりは、純朴さで蔑まれるほうがまだしもましなのである。ただし、これには節度を用いるようにしよう。純朴に生きるか、おざなりに生きるかでは、雲泥の差がある。
 われわれは、また、たびたび自己に立ち返るようにもしなければならない。自分とは似ても似つかぬ人々との交わりは、精神の秩序ある落ち着きを乱し、情動を甦らせ(end125)て、精神にどこか弱点があったり、まだ完治していない傷があったりすれば、それを悪化させるからである。もっとも、一人きりでいること、群衆の中に入って行くこと、この二つが交互に繰り返されなければならない。前者はわれわれに人恋しさを、後者はわれわれにわれわれ自身への恋しさを惹起し、両者は互いを癒す薬となるであろう。孤独は群衆への嫌悪を、群衆は孤独への倦怠を癒してくれるのである。
 (124~126; 「心の平静について」)