2016/9/6, Tue.

 一度目に覚めたのはまだ八時台だったはずで、思ったよりも早い目覚めに意外の感を受けた。少々まどろんでから、改めて目をひらき、時計を見やると、九時二〇分である。布団とともに眠気を払って本を取り、読書を始めた。マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方Ⅰ』である。この日も晴れの日で、ただし明け透けなまでの晴天とは行かず、空には雲が混ざっているようで、とはいえ明るい朝だった。時折り風が優しげにレースのカーテンを押しひらくと、その隙間から覗く空は光に磨かれて、白さを艶めかせている。アサガオの葉は老いて、そこここに黄色を帯び、煙草の先を押し付けたような黒点を散らばらせていた。一一時まで一時間三〇分以上、読書をしたのだが、やはり眠りが足りなかったようで意識が重くなっていたので、仰向いて身体の力を抜き、再度睡魔に身を委ねた。それで一一時四〇分を迎えて起床し、上階に行った。母親は着物を扱う障害者支援団体の手伝いに行っている。弁当を作ってくれていたのでそれを食べながら、また本を読んだ。一二時半過ぎに食器を片付けて自室に帰ると、またしてもだらだらとインターネットに時間を費やしてしまい、二時に至ったところで家事をしに部屋を出た。風呂を洗い、タオルを畳んで、さらに吊るされていたシャツにアイロンを掛け、汗だくになりながら室に帰ると、腕立て伏せを行った。ベッドの上で腕を曲げながら身体を上げ下げしているうちに、脇腹と触れる腕が滑り、腋の下から汗が球形になって肌の上を流れる。済ませると扇風機を点け、書き物に入った。流した音楽は、Bobby Battle Quartet with David Murray『The Offering』である。九月四日、前々日の記事は二〇分で仕上げ、一日前のことも四〇分で綴り、三時半からこの日に入って、素早く一二分で現在時刻まで追いつかせた。それから、ベッドに寝転がって、高校日本史の問題集を確認しはじめた。大阪府高等学校社会(地歴公民)科研究会編『日本史標準問題集』というものである。これを職場での授業でも使うことにしたので予習をしておく必要があったのだが、どこから始めるか決まっていなかった――受験までの残り時間を考慮して、近世か近代から扱い始めるのが良いだろうと判断してはいたが、実際には生徒に訊かなければわからない。ひとまずそのどちらから始まっても対応できるように、それぞれ三題を目安に確認しておくことにして、近世のほうから始めた。大内義隆だの大友義鎮だのと、戦国大名の本拠地など覚えていない(そもそも大友に至っては、調べるまで、「よししげ」というその名前の読みすらわからなかった)。だがひとまずコンピューターには触れず(単純に起きあがるのが億劫だったのだ)、答えと問題とを交互に見比べて確認していった。途中で一度、部屋を出て上に行ったのは、米を研ぐためだった。水を入れておいた炊飯器の釜を洗い、ざるを持って玄関の戸棚を開け、米を掬っているところで母親が帰ってきて扉がひらいた。台所で米を研ぎ、早々と水とともに釜に入れてしまい、炊飯器に収めておいて、あとは頼むと母親に言って室に帰った。それで今度は、コンピューター検索を駆使しながら(と言って大概参照するのはウィキペディアの記事だが)、出てくる事柄について細かい情報を仕入れたのだが、凝り性というのか、一題に含まれる関連情報を網羅しようとすると時間が掛かって、「キリスト教の布教と南蛮文化」に「織豊政権」の二題を確認したところで既に五時を過ぎていたはずである。シャワーを浴びるつもりが今日は無理だなと覚悟して、「幕藩体制の成立」も突っこんでいる暇がなくうわべの情報だけ調べ、近代のほうの三題は問題集をさらったのみで準備をしなければならなくなった。その準備の時間すらももうほとんどなかったので急いで上に行き、デオドラントシートで身体をよく拭いた。切羽詰まったこちらの状況を知らない暢気な母親は、クレープが残っているから食べたらと言う。実際、ものを食べている時間もなかったので、腹はこれ以上なく空っぽだった。クレープを素早く乱暴に食べ、もぐもぐと咀嚼しながら再度肌を拭い、まるで学校に遅れそうになって食パンをくわえるという、フィクションのなかにしか見かけない高校生のように、梨もふたかけらつまんで、食べながら部屋に行った。服を着替えて、歯をなおざりに磨き、そうして出発である。問題集を入れた鞄を籠に置き、自転車を駆りだした時には、予定時刻に間に合わないなとわかっていたのではなかったか。坂を上がっていくと、五時半過ぎとあってあたりの空気は光を落としつつあり、夕刻の雰囲気が漂いはじめて、眼下の灰色にも青みが僅かながら含まれている。大して急ぎもせずに裏通りを行くその途中、アパートの窓の外、塀から顔を出しているサルスベリがまた灯っているのを見て、前日にその花の開花の長さに改めて驚きを得ていながらそれを日記に書き忘れたことに気付いた。職場に着くと息をつく暇もなく準備を始めて、労働である。日本史はどうにかなった――生徒の知識は予想以上に貧弱で、教科書を見ながらやっとのことで解けるという程度だった。そこまで高いパフォーマンスを要求されないのは助かるには助かるのだが、反対に、大したことができないということに、忸怩たる思いを抱かないこともない。そもそも、問題を解かせてその後にこちらが解説、という授業のやり方に疑問を感じるのだ――意欲と能力のある生徒だったら、教科書や用語集を読むなり、問題集を解くなりして、自主的に知識を身につけることができるはずである(それができないから塾に来ているということなのだろうが)。こちらの仕事はそれらの書物の肩代わりをしているということになろうが、中学生ならばともかく、高校生にもなって大学受験をしようと言うならば、基礎的な知識の習得は自力でできて然るべきなのだ。知識を伝達するだけの授業(教育)などに価値はないし、それは実際やっているこちらの感触としても、非常につまらないものである(しかし学習塾のシステムというのは、そうした方面に焦点を絞ったものになっている――あるいは、それさえ容易に達成できないほど不充分で、生徒に充分な知識を記憶させることすらできないようなものである)。だから、逐語的あるいは用語的な知識を記憶させることに留まらず、より詳細で深い理解に資するような授業をしたいとは思うのだが、それには当然こちらの理解が磨かれていなくてはならず、そうした授業を展開できるほどの学びの広さがこちらにはないのが現状なのだ。労働後、新しい上司がさらにその上司から貰ったという菓子類を提示して、よかったらどうぞと言うので、いくつか貰うことにした。ポケットとバッグにそれらを収め、夜道を走った。自宅に通ずる通りに入って、坂の上に差し掛かったところで空を見やると、薄青さが窺われる夜空のなかに雲が縦に一筋走って、その先は盛りあがったようになっており、また縦線の右方にも薄白さが大きくひらいている。盛りあがりが肥大化した鶏冠、右方のひらきは翼のように映って、一瞬鳥を連想しながら坂に入り、空はすぐに木々に遮られて見えなくなった。帰り着くと居間で服を脱ぎ、自室に戻るとすぐに瞑想をした。一〇時一三分から七分間座ってから上に行き、台所に入った。薩摩芋の煮物をつまみながら米などを卓に運び、鮭やら何やらを電子レンジで温め、昆布茶で味付けした野菜スープをよそった。食事中のことは覚えていない――風呂に入ったのは一一時頃だろう。室に帰ると、久しぶりに前年の日記を読んだが、いまと比べると一日の記述がひどく薄くて、何ら見るべきものがない。それから、ほんの少しであれとにかく毎日の週間を途切れさせないことが重要であるということで、零時直前から書き抜きを始めているのだが、ここで聞いたのが昼にも流したBobby Battle Quartet『The Offering』である。何となく惹かれるような雰囲気を感じていながらも、確固とした印象が得られずにいたのでもう一度掛けてみたのだが、ここで瑞々しいような質感が感得され、これは結構な盤だと確信されたので、売却しないことにした。二〇分ほど書き抜きをしたあと、Bill Evans Trio "All of You (take 1)" を聞いてから、英文にも同じく二〇分触れ、一時を迎えた。一七分間瞑想をしてこの日のことを回想しておいたのだが、その後はひたすらだらだらと時を過ごすことになり、三時を越えた。本を少々読み、かろうじて七分間の瞑想も済ませて、四時も近くなってから床に就いた。



 彼の持っていた一種のきびしい好み、「これは穏やかだ」と言えるようなものしか金輪際書くまいという一種の意志、それは長年のあいだ彼のことを、不毛で、気障で、つまらぬことをしきりに手直しする芸術家だと見なさせたのであったが、じつは逆にそれこそ彼の力の秘密であった。(end229)なぜなら習慣は人の性格を作るのと同じく作家の文体を作るからだ。(……)
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 3 第二篇 花咲く乙女たちのかげにⅠ』集英社、一九九七年、229~230)

     *

 (……)それにつづく日々は、以前にジルベルトなしで過ごさねばならなかったあの新年の一週間にそっくりだった。けれどもあのころは、一方ではこの一週間が終わると女友だちがまたシャンゼリゼに戻ってきて、従来通り彼女に会えることがはっきりしていたし、また他方では同じようにはっきりと、新年の休暇のあいだはシャンゼリゼに行っても仕方ないことが分かっていたのである。したがって、遠い昔のことになったあのつらい一週間のあいだ、私は落ち着いて自分の悲しみに堪えることができた。なぜならそこには、恐れも希望も混じってはいなかったからだ。ところが今では逆にこの希望が恐れと同じくらいに、私の苦痛を堪えられないものにしていたのである。その日の夕方までにジルベルトの手紙が来なかったので、彼女がうっかりしたのか、あるいは用事があったせいだろうと考えた私は、次の日の朝の配達のなかには彼女の手紙が見出されるだろうと信じこんで疑わなかった。毎日私は朝の郵便を胸をときめかせえて待ち受けたが、ジルベルト以外の人からの手紙しか来ていないことが分かると、すっかり打ちひしがれてしまうのだった。あるいはだれからも来ないこともあったが、この方がまだましだった。別なだれかの友情のしるしは、ジルベルトの無関心のしるしをいっそう残酷なものにしたからである。それから私はふたたび午後の便に期待をかけはじめる。配達時刻の合間でさえも、なかなか思い切って外出する気にはなれない。彼女が手紙を持たせてよこすかもしれないからだ。ついでとうとう郵便配達もスワン家の従僕ももう来るはずがないという時刻になって、明日の朝こそきっと安(end286)心できるだろうと希望を翌日につながなければならなくなり、こうして私は、自分の苦痛がつづくはずはないと思っていたために、かえっていわばその苦痛をたえず新たにすることを余儀なくされるのであった。(……)
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 (……)私たちはだれしも現実を堪えられるものにするために、自分の心に若干のささやかな狂気を培うことを余儀なくされる。(……)
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 (……)スワン夫人のサロンのなかでは、花々がただ単に装飾的性質を持っているだけではない。そこには以上に述べたことのほかにもう一つ別の理由があって、それは時代からくるのではなく、部分的にはかつてオデットが送っていた生活からきたものだった。以前の彼女のような押しも押されもせぬ(end294)高級娼婦[ココット]ともなれば、大部分の時間をその愛人のために過ごしており、すなわち自分の家にいることが多く、したがって結局は自分の好きなように暮らしを営むものである。堅気な女の家で見かける品物、きっとその堅気な女にも大切に見えると思われるもの、そうしたものをこうした高級娼婦はきまってなによりも大切にしている。彼女の一日の頂点をなしているのは、社交界の人びとのためにめかしこんで着物を着るときではなくて、一人の男のために着物を脱ぐ瞬間である。だから彼女の場合は外出着と同様に、部屋着を羽織っても寝間着を着てもエレガントでなければならない。ほかの女たちなら、宝石を見せびらかす。ところが彼女はどうかといえば、真珠を肌から離すことがないのだ。こうした類いの生活は義務として否応なしにひそかなぜいたくを、つまりはほとんど利害を離れたぜいたくを押しつけ、ついにはそうしたぜいたくを好む気持を与えてしまう。スワン夫人はそれを花にまで拡大したのであった。彼女の肘掛椅子のかたわらには、いつも大きなクリスタルの水盤があって、そこには摘みとられたパルムすみれとヒナギクが水のなかに一面に浮いているが、外からやって来た者にはまるでスワン夫人がひとりで楽しみながら飲んでいた一杯の紅茶のように、この水盤はなにか彼女の気に入りの用事が中断されたことを示しているように見えるのであった。いや、それは紅茶よりもさらに内密でさらに不思議な用事であり、だからそこに広げられた花を見た者は、自分の非礼を詫びたくもなるのである。ちょうどオデットが最近読んでいるもの、つまりそれが現在の彼女の思想ということになるのかもしれないが、そうしたものを暴露してしまう開けられたままの書物の標題を、つい見てしまったのを詫(end295)びるように。そのうえ書物以上に、花は生きものであった。おかげでスワン夫人を訪問しにきた者は、彼女に連れがいるのに気づいて具合の悪い思いをする。あるいはまた彼女といっしょに帰ってきた者は、サロンにだれかの気配がするので気づまりになるのであった。それほどに、オデットを訪れる人たちのために準備されたわけではないこれらの花、むしろ彼女に忘れ去られたようなこの花は、そこに謎のような場所を占め、一家の女主人の生活のさまざまな時刻と結びついているので、今までその花が女主人となにか訳のある話をつづけてきたか、あるいはこれからそうした話をしようとしているかのように見えて、入ってきた者はその邪魔をするのをおそれるとともに、パルムすみれの水に薄められたあいまいな薄紫[モーヴ]色を眺めながら、その話の秘密を読みとろうと空しく試みるのであった。(……)
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