2016/10/10, Mon.

 一番最初に覚めたのは、八時半頃だったはずである。いつの間にかアイマスクが外れて顔のすぐ横に落ちており、目を壁のほうに向けると時計の時刻がはっきり見えた。例によって、睡眠時間はそれほど長くないにも関わらず、この一度目の覚醒が最も意識の晴れた時間だった。窓外は白い曇りで、ハーフパンツから出た脚が肌寒いような朝だった。便所に行きたかったので、じきに起き上がったが、そうするとさすがに五時間半の眠りというわけか、身体が気怠い。と言って歩いているうちに心身は活動に向けてほぐれてきて、そのまま起きてしまうことも可能だったろうが、用を足してくるともう一度布団に入った。それでアイマスクを付けずに横を向いているうちに寝付いて、次に覚めたのはおそらく一〇時台である。いつものことではあるが、この二度目の覚醒のほうが混濁して重く、抗えずに再度まどろんで、起床は一一時になった。起床とは言うもののすぐには床を離れず、英語を読もうという気が湧いたので、Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを取り上げ、三〇分弱英文に触れ、四ページを通過した。そうしてから枕の上に起き直り、姿勢を正して瞑想を始めた。窓を閉めていると室内に響くのは時計の針の音のみで、意識の向かう先も限られて、やや退屈なようなので、気温の低さにも関わらず窓をひらいた。するとそれまで聞こえなかった虫の音――夜に鳴いているのと同じ、細かく回転しながら持続するような響きのもの――が立っているのが聞こえ、その上に鳥の声もいくつか、短く弾ける。また空間の奥からは、不明瞭で何を言っているのかはわからないが、マイクを通して拡大された声の響きと、川の鳴りと混ざるようなざわめきらしきものが渡ってきて、どこかで何か催しをしているらしいと見られた。一一分座ると立って上に行き、すると母親はタブレットを覗きこんでいる。食事の用意をしていると、父親が昼に一旦帰ってくると言うので、それで今日は休みだったかと思いだされた。どこに行っているのかと訊くと、体育の日に合わせてというわけだろう、中学校で市の運動会だと言うので、先ほどのざわめきの正体がそれでわかった。食事のおかずは、シシトウとベーコンを炒めて味噌を混ぜた料理である。あとはエノキダケの入った味噌汁とともに、米を食い、新聞を読んでいると父親が帰宅した。空爆を停止するための安保理決議がロシアの拒否で否決され、慈悲も救いもない惨状と化しているシリアの情勢や、ドナルド・トランプのいかがわしい発言に対する共和党内からの反応などを確認してから、食器を片付け風呂も洗った。そうして、蕎麦茶を持って自室に戻ると、一二時四〇分を越えた頃だった。まず名古屋の知人へのメールの返信を完了することにして、Lonnie Smith『Live at Club Mozambique』を聞きながら推敲をし、一時七分に送信をした。それからインターネットを覗いたり、カフカ全集をAmazonの「ほしいものリスト」に追加したりしたのち、腕立て伏せをしてから書き物に取り掛かった。一〇月九日の記事を進めるあいだの音楽は、Paul Motian『Psalm』に、The John Scofield Band『Pick Hits』である。打鍵をしているうちに、いつか姿勢が崩れて、背が丸まり、首が前に突きだすような姿になっている。それに気付くたびに背すじを伸ばして、身体を悪くしないように気を付けながら書き物を進めて、三時を過ぎてようやく前日の記事は仕舞えた――五〇〇〇字弱を足して、全体では六三〇〇字である。そうしてこの日のものも、一五分ほどで現在時刻まで追いつかせて、三時半である。それから、日本史の勉強を始めた。翌日にまた授業を担当しなくてはならないので、この日は一問一答は取らず、『日本史標準問題集』の控えている問題を確認し、用語集を読んでも解決しなかった疑問点はインターネットで少々検索した。四時を目安としていたところが過ぎて、時計の針が四分の一ほど回ってから上階に行った。労働前に、うどんを食べて活力を補給していくつもりだった。台所に入って玉ねぎを切っていると、母親が、キノコも入れたらと細く真っ白なエノキダケを置くので、それも一部分けて切り、玉ねぎとともに汁に入れて煮込んだ。その合間に溶き卵を用意しておき、麺も投入してちょっと待ってから葱を器具で細くおろし、卵も落として完成させた。一度では丼に入り切らなかったので、玉ねぎを鍋に少し残して卓に行き、食べはじめた。麺を啜る合間には、新聞の朝刊にふたたび目を通したのだったか。丼のなかのものの嵩を減らすと鍋に残ったものを取りに行き、すべて平らげると四時台も終わり間近だった。迫る出勤時間に焦りを覚えながらも、敢えて慌てないようにおのれを制して、動作をいちいち落ち着き払ったようにして食器を洗い、先に歯磨きもしておいてから風呂に行った。気温の低い日なので、身体を温めてから行かせてもらおうと、湯を沸かしておいたのだ。しかし既に五時、のんびりと浸かっている時間はなく、手早く頭と身体を洗うと上がり、下階に行って着替えをした。時間は五時二〇分ほどで、三五分までには出たいところだったが、室の前に吊るされているスラックスを見ると、自分のものではない。腰を囲む部分、履き口の内側の色やデザインが違っていて、それがわかったのだ。時間の少ないところにそのようなトラブルが発生して焦りが募ったが、あくまでも慌てずに両親の衣裳部屋に行った。部屋の片隅にビニールに詰められて重ねられていた履き物を見たが、自分のものは見つからない。母親は上で夕食の支度をしているが、探すのを待っていて遅れるのも嫌なので、ひとまず父親のものであろうスラックスを借りることにして、履いた。胴回りがやや緩いようではあったが、ベルトを絞れば問題なく履けた。そうして履いてみるとわかったが、ポケットの位置が自分のものとは異なっていて、前面寄りに付いており、その容量も大きくゆったりとしていたので、手を突っこんで緩やかな気分を得た。それから便所に入ったのだが、排便を待っているあいだに三五分も過ぎて、これで予定時刻には間に合わないことが決定した。と言っても、労働自体に遅れるわけではなく、準備時間が少なくなり、一〇分の授業準備として貰っている事務給が発生しなくなるだけなので、危機的な問題というわけではない。上階に行って、自分の部屋の前に吊るされていたズボンはこちらのものではなかったから探しておいてくれと、台所の母親に告げ、ソファでうとうとしていたような父親に、もう時間がないから借りていくと了承を取った。そうして靴下を履き、ハンカチを尻のほうのポケットに入れると玄関に行き、出すべき葉書を受け取って出発である。五時四〇分過ぎというところだったが、日がだいぶ短くなったようで、既に外は黄昏れも過ぎたような暗さだった。自転車を駆りだして走りだし、坂を上って行った。空気は非常に涼しく、ベストを身に着けなくては肌寒いくらいだっただろう。祝日ということで下校する学生の姿どころか、ほとんど誰の姿もなく、街灯の明かりが際立って物寂しいような裏通りを行った。空はすぐ左側の林の上は暗んだ青さが明瞭だが、正面に伸びる道の先には、灰色の天幕が一様に掛けられている。買い物帰りらしき様子の、年嵩の婦人が一人、よたよたとした調子で道端を歩いていたが、近づいてもその顔貌は沈んで起伏と表情を均され、窺い知れないので、六時前だがとうに宵に入ったようだと考えた。職場に着くと事務給は既に獲得できない時間、マスクを付けて打刻し、働きはじめた。(……)退出は一〇時間近になった。自転車にふたたび乗って帰り道を行き、帰り着くと母親は入浴中で、父親はソファでテレビを見ている。洗面所に入り、手を洗ってから、扉越しに母親に、ズボンを探したかと問うたが、知らないと言われたので下りて行き、衣裳部屋に入った。母親が灰色の袋と言っていたのを探してみると、先ほどは焦っていて目に付かなかったが、すぐ前の床に置かれている。そのなかに何本も入っているスラックスを探ると、なかに自分のものが発見されたので、自室に持ち帰った。借りた父親のものはハンガーに掛けて衣裳部屋に持って行き、戻ってジャージに着替えると、瞑想を始めた。九分座ってから上に行くと、ナスとひき肉の炒め物を温め、濃い醤油色のけんちん汁の類をよそった。この日母親がまた、一〇何個かの隼人瓜を採ったらしく、この果実も当然メニューに含まれていた。携帯電話は室に置いたまま、夕刊もないので手持ち無沙汰なようだったが、母親の点けたテレビに目を向けながら、姿勢と所作に注意してものを食べた。それで一一時を過ぎてから二度目の入浴、たわしで身体をよく擦って上がると、母親ももう眠りに向かうところである。電気を消してと言って下りて行ったあとから、蕎麦茶を用意し、居間を暗闇にしてこちらもねぐらに帰った。それで味の薄いが温かな茶を啜りながらインターネットを回り、その後、Bill Evans Trio, "All of You (take 1)" を聞くと、零時二〇分前である。そろそろ読書に移りたいところだったが、日記の読み返しが溜まる一方なので、せめてノルマを増やさないようにしようと一日分だけ読むことにして、二〇一四年と一五年のものを一つずつ見返した。そうして半を越えたところで歯ブラシを取りに行き、同時にマルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラⅡ』を読みはじめた。ジャージを着ていても肌寒く、ストーブが恋しくなるような瞬間もある夜だった。それでも布団にはもぐらないまま横になって、膝で脚をほぐしながら読んでいると、一時間半があっという間である。二時を越えたところで瞑想に入り、周囲に意識を向けてみると、ひどく静かで空気に動きがない。虫の声もほとんど自分の頭のなかで作りだした幻聴のようにしか伝わって来ず、アンプが電灯かから洩れるらしい耳鳴りめいた持続音もかすかにあるが、明瞭に立っている音としては時間を区切る時計の刻みだけで、それに聴覚を集中させながら、あれがなければ、空気が隅まで静止して時間というものさえなくなったかのような、まったくの静寂が実現するのにと思った。一〇分座って二時二一分で消灯、入眠には苦労した覚えはない。