一一時二〇分に到ってはっきりと意識を取り戻した。窓の外は薄白さが漣を成しているが、太陽の光線もその膜と窓ガラスを貫いてくる。それを顔の肌から、あるいは鼻から吸いこむようにして、意識の混濁を晴らして、保とうとした。
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視線を地に落として、赤褐色の褪せた葉を箒で掃き飛ばしていると、林のてっぺんを風が走って、突然流れの速い沢が生まれたかのような葉擦れに耳が誘われ、誘われた耳が目も仲間に巻きこんで、さらに首を上方に傾けさせる。その遥かに上空でも、風は走っているようで、雲の動きが素早く、隣の家の駐車場に入ってそこの葉も片付けているあいだに、足下は気ぜわしく日向と日陰を行き来する。陽が身に当たれば、軽い恍惚を生じさせるような温かさである。暖色の敷かれた平板な舞台の上で転がっている葉々にも、影が生まれて本体の下に短くはみ出すとともに、丸まって地から僅かに浮いたその身の輪郭線が、明暗の対照で浮き彫りになって、箒を止めれば瞬間、工芸細工めいて、微小な美しさを息づかせながら静止している。また道に出て葉を押して行く視界に、アスファルトの上を揺らめく影が入って、虫だろうかと思えば視界の外からゆったりと侵入してきたものが、それもまた落葉だった。掃いたそばから降るものが続くのに、母親は嘆きを上げるが、道を見通して、少し先の木の横列を収めれば、ちらちらと、高くから低くから翅の羽ばたきめいた揺動を帯びて、左右に緩い波を描きながら落ちていくものは、憎む気など起こらないほどに、明るい。道の反対側を見通しても、陽が出れば、かすかに残った、水溜まりとも言えないような雨の染みが、溶かした金属を貼りつけたように光って、道端に寄った枯葉も、粉を振ったようにそこから点々ときらめいて続く。もう大方終わる頃に母親が、飛行機が上空を、重い響きを落としながら渡るのを聞きつけて、見上げながら、こちらにも知らせてみせる。間を置いて二機が通るそのたびに、頭上を仰いで、どこに行くのかな、とつぶやく。二年前の暮れに欧州に数日渡って、戻ってきて以来の新しい習いで、飛行機を見つけるたびに、あれに乗って行ったなんて信じられないねと時折り洩らしながら、目を細めて首を目一杯曲げて、子どものようにして遥かな空を渡るものをじっと追うのだった。
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四時半の浴室は、既に薄闇に澱んでいるが、電灯を点けずに入った。湯船に身体を沈めると、光源としては上方にひらいた磨りガラスの窓しかないわけだが、そこから洩れ入ってくる黄昏の微光は、いかにも貧しい。ガラスの横の縁に僅かに冷たいような白さが掛かって、タイル張りの壁にまで申し訳にといった調子で張りだして来ているのが、浸かっているうちに薄れて、室内は余計に暮れ、壁は暗色に青緑を仄かに匂わせたような色になって、すると目が安いカメラに変わったかのように、視線を通す暗がりのなかにざらつきが混ざってくる。見下ろせば、湯は黒々として、向こうの端まで伸ばした脚の指先は溶けて、臑の表面に生えた毛も、まとめて一つの影である。見回しても、凝視の留まる事物はそれぞれ、浴槽の縁やら蓋やら、水道の銀の蛇口やら、輪郭を淡くして背後の薄闇のなかに滲ませるようで、常になく渾然とした湯浴みだった。
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五時過ぎである。空は晴れて、青く暗い。街道に出たあたりで見上げると、濃紺色は沼めいて、そのなかに曇る灰の夾雑物は、水草の塊に似て柔らかく歪んで定形がない。振り向けば、緩く上って行く街道の、頂点に達して区切り線となったのを越えたその先まで、四囲の空にはもはや暮光の一つの破片すらもないが、西の果ての境では山際をくぐって行く最後の、死にかけの青褪めた残光がかすかに宙を飾る。次々と道路を流れて向かってくる車の、ヘッドライトは強くこちらを照らして、吐く息の白濁が浮き彫りとなるが、目の前に一秒も留まらずに、生じたそばから向かい風に散らされて行く。膨らむ明るさを見つめた瞳の錯覚でなければ、黄色のなかに赤や緑の色素が僅かに混ざっているようで、全方位に直線的にひらいて円を成す光線の一本一本は、色彩を撚り合わせた糸のようにざらついている。空気は冷たくて、スーツの上着の表面に触れると、結構な固い冷え具合である。
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退勤は一〇時前である。帰りは行きとは反転したように、雲が大方を覆って、そのなかにところどころに藍色の晴れ間が空いていて、一様な曇りのなかにその深みが口をひらいているせいでかえって、空の遠さ大きさを感受させる。裏通りの途中から見た一つは、厚く曝けた腹に、やや三日月型に曲がりながら両端がすぼまっているのが、身をくねらせた鯨のようで、そうしてみるとあたりの静けさと暗さに、海底にいて見上げてような気分にもなってくる。
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入浴に行くと、明かりの灯った浴室は、先ほどとは違って、無害そうな明るさのなかに湯気が溶けて、柔らかい。浸かりながら顔を擦るために両手を持ち上げれば、身をじっと保っていた電灯の反映が、瞬間幾重にも生まれる波紋の小さな襞の、その上って行くほうの斜面にのみ乗って谷間のほうには入りこめないから、砕けると同時に合間に間隙を挟みながら、折り畳まれたものが瞬時に広がるように点々と飛び散っては煌めくのが面白かった。