2017/2/12, Sun.

 家を発って道に出て、視界に広がるまばゆさと、肌を包む冷えた空気の感触とを感じるやいなや、満足感を覚え、要するにこれだけで良いのだなと思った。わざわざ街へ出る必要などなく、ただそのあたりを歩けば良いのだろうが、今更引き返して荷物を置き、改めて出かける気にもならない。CDを五〇枚強入れた薄茶の紙袋は大きなもので、持ち紐が手指の肉にそれなりに圧を掛けてきた。十字路から坂に入ると、細道へともう一本分かれて行くその脇に寒椿が生えており、赤々とした花をいくつかつけている。反対側の、沢を囲む林のなかにも灯るものがあって、一つは射しこむ陽のなかにちょうど捕らわれており、艶めいて厚ぼったくなっているのが花にも見えず、何か別の物質のようだった。上って行くと、傍らのガードレールを越えた斜面から、傾いだようになりながら突き出た木の塊がある。元々そのような方向に生えてしまったらしく、分岐した何本もの枝が複雑な網状を成しており、緑葉もそのなかに渾然と、絡まるようになりながら垂れ下がっていた。そのすぐ脇に、これはまっすぐに高く伸びた木があるのだが、強めの風が吹くなかで、もう一本隣のものに寄り掛かるようになりながら、ぎいぎいと、木造の小舟の軋みを思わせる音を立てる。見れば根元のほうの樹皮がいくらか剝がれて削られたようになっており、支えが弱くなっているらしかった。周囲の葉々は木洩れ陽を所々に宿して緑色を明るませている。風に吹かれ、木の鳴りを聞きながらしばらく立ち止まってから、駅に向かった。
 ベンチに座ると、電車が来るまではまだ一五分かそこらあったが、持ってきた本――『失われた時を求めて』の第一一巻――を読む気にはならなかった。それよりも、周囲の空間の感触に意識を向けていたかったのだ。晴れてはいても風の強い日で、首の後ろのコートのフードや、ニット帽の頂点についた球型の飾りから細かな震えの感触が伝わり、脚を包むズボンの布も片一方に押し寄せられるのがわかった。背後では、線路脇に生えた薄の草が、さらさらという音をひっきりなしに立てる。風は主に西から来るもので、止まることがなく、たびたび結構な激しさで吹き付け、雲は一つに大きく固まることなく分離して漂い、空は色濃い青さが染み渡って朗らかな様相なのに、午後三時前の空気の冷たさは甚だしく、頻繁に皮膚に震えが走った。風音の合間から鳥の声が、遠く伝わってくる。正面は、鉄路の敷地を区切る壁際には背後と同様に薄が生えて薙がれており、レールの敷かれた地面にも同じ薄枯色のエノコログサが散らばっている。向かいの道を越えた先は一段高くなって、三本ほど縁に並んだ梅はまだ花は咲かず、湾曲しながらフォーク型に天に向かって突き出た枝が揺れるのみだが、奥の遠くには白と薄紅のそれぞれの木が見られた。特に何が物珍しいというのでもなく、強い印象をもたらすわけでもないが、穂を垂らしながらレールの周りに低く生え残った下草とその影とが、風に掻き回されて揺動を続けるのをただ眺めていた。およそ微細だが、いっときたりとも同じリズムの繰り返されることのないその動きを追うのに、呆けたようになってただ忙殺されているその時間のなか、これこそが時間というものではないかと思った。数という観念によって分割され、統括された味気のない抽象的な構築物としての時間ではなく、具体的な、「触知可能な」時間とでも言うべきものである。感じること――差異を、あるいは生成を――がすなわちそのまま時間であるような平面、そこにおいては時計などという文明の道具は無粋な――「野暮な」――ものに過ぎないので、無論それを見ることはなかった。鵯らしい鳥が視界の端を斬って、線状に、奥の方へと飛んでいき、風のなかでもはっきりと耳に届く、叫びのような鳴きを立てた。それからしばらくすると、電車が来るらしかったので、立ちあがってホームの先、日なたのなかに移った。そこから見下ろす線路のあいだにもエノコログサが生えており、西を向くと、陽射しが透過するのだろう、それらのささやかな草が琥珀のような色合いを帯びている。丘の林の方へと目を向けると、色味に鮮やかさの乏しいなかで青味混じりの明瞭な緑の残った一角が、そこにも風が入りこんでいるらしく、内側から膨れ上がるようにして蠢いており、朦々と湧き上がる煙のようなそのうねりは、グロテスクなようでもあり、同時にエロティックなものすら感じさせるようでもあった。

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 電車内、扉際に立つ。駅で座っていた時には、見える限りでは雲は小さなもののみだったが、町並みを越えて山の際には、西から南へと掛けて、絞ったタオルのような太い雲の柱が横に伸びて鎮座しており、一部、内破して飛沫を散らしたように霞んでいる箇所がある。

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 乗り換えて座席に就いてからはプルーストを読む。正面の窓から時折りこちらの手元まで届く陽射しがページを全面包みこむと、明るさに紙の肌理が露わに映し出されるのが、微生物がなかに生息してじっと憩っているかのようである。少し前にも、同じように電車内で、あれはエドワード・サイードの『パレスチナ問題』を読んでいた時だが、太陽の照射に、ページ一面に埃が浮かびあがったかのようになって文字も一瞬読み取れないのに驚かされ、その様相の変化に子どものように魅入られて先を読み進められなくなったものだ――そこに刻まれてある文字の意味を情報として取り入れるためのものであるはずの読書という行いが脱臼させられ、意味を無視して、その下に敷かれた素材のまっさらな物質性を汲み取ることに囚われた瞬間、読むことがただ見ることへと倒錯的に転化した麗しい時間だった。光量や光線の角度の問題なのか、みすず書房集英社で使用するそれぞれの紙質の違いなのか、今回はそれほど目覚ましい模様が出現することはなかったが、それでも普段は決して視認できない繊維の微小な文様が浮き彫りとなり、ものとしての様相が半ば官能的に明らかならしめられる。太陽の光は物々の様相をいとも容易に変容させる――その実例がこの日の電車内にはもう一件あり、それは途中の駅で停まった時だったが、向かいの線路を越えた先に、位置の関係で小さく中途半端に覗く駐輪場に並んだ自転車の上に無数の光の欠片が点々と乗っていて、おそらくそれが先ほど電車に乗る前に見た下草の色合いを思い起こさせたためだろう、一瞬、ほとんど草むらのように見えたのだった。

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 帰路、最寄りで降りると、黒々と籠められた闇空である。月を探して見回しても見つからないが、階段を上ると東南の空に現れた――先ほどはマンションに遮られていたのだ。輝きの清らかに冴えた満月だが、夜空はほかに星の光も見当たらず、渡る光の浸透している気配もなく濃厚で、そのなかで月の姿形のみが空白を作るかのように際立っている。昼間に忙しく走っていた風は止んで、坂を下るあいだは周囲の林から一つの葉擦れも立たず、自分の足音のみがただ明瞭である。自宅の通りに入ると、街灯の強さの関係か、空の青味が見て取られた。空気の冷澄さに呼応して凍てたような、薄紺色の、奥行きの感じられない空で、月は南の丘陵の稜線上に掛かっていた。