2017/5/15, Mon.

 この日も午前から曇り空が続いて、夕刻まで晴れ間も見えない。四時頃、居間から外を見通すと、遠くの山とのあいだに積まれた空気層のなかに、石灰色が混ざり僅かに霞むようで、一瞥、雨が降っているのかとも見え、仄暗いような天気だった。気温もいくらか低いだろうとジャケットを羽織って往路に出たが、陽の気配は欠片もなくとも、やや蒸した空気が、服の内に溜まるようだった。大気の動きは仄かで、路傍の立ち木の、横にひらいた枝葉の先をちょっと揺らがせるほどはあるが、道を行くこちらの肌に定かに触れるものもない。静まっているなと思っているとしかし、裏通りの正面から吹いてきて、するとさすがに、湿り気のいくらか混ざって涼しいものだった。
 道を行くあいだの足取りが、緩くほぐれて、一見、気怠いようになっていた。ここ最近、その調子が習いとなって身に付いたようで、歩けば自ずとその足になるらしい。急ぐことはしない。身の内の時間を、いくらかなりとも、緩やかならしめるようにして、歩く。軽く力の抜けてはいるが、それでも付いてくる一歩の重さを、きちんと踏まえるようでもある。そうしても時間というものは、常に速く、既に過ぎているもので、世界常時開闢説ではないが、いつの間にか別の時間、別の場所に来ている自分にそのたびに気付いて、今しがたの時間がもう消えてどこかに行ってしまったことに、驚くように、訝るようになることはある。その日暮らし、という言葉があるが、その一日よりも短くて、前も後もないその都度、その時ばかりで暮らしているような気に、なることもある。生まれた端から砂のように零れ失われて行く時間というものを、そのままに放って済ませてはおけず、いくらかなりともすくい上げたいとの、流れ過ぎてやまないものに対しての愛着が、一つには、日々自分に文を綴らせるのでもあるだろう。
 帰路には耳が詰まった。じきに治っても、唾を飲む拍子にスイッチが入ったように、ふたたび籠るのが、何度か繰り返された。鼻から出し入れする呼吸の音が近く、耳のすぐ外に呼気が流れているかのような感じがする。耳鳴りでも始まるか、と思って注視していたが、鳴りはじめることはなかった。二日前の、夜の電車内でも耳は詰まって、前日にも、やはり夜だったように思うが、一度あった覚えがある。頭の内で変調が始まっているか。それとも疲れのせいか、あるいは気圧の影響だろうか。気圧の低くはあるのだろう、薄灰色の曇り空は続いており、月のない夜で、山は空と分かれてはいるが裾はぼやけて、その手前に低く溜まった家並みはいかにも黒く映った。欠伸が自ずと洩れて、歩調は行きよりもさらに気怠く、のろいような足になっていた。