ほとんど毎日のことだが、一〇時頃から意識をたびたび取り戻しつつも起床に結びつかず、最終的には寝床に就いたまま一時を迎えた。意識の混濁と闘っているうちに、いくら頑張っても閉じていこうとする動きを抑えてくれなかった瞼から、突然重さが抜けてひらいたままに保たれるようになる境の瞬間というものが明確にある。起き上がってベッドの縁に腰を掛け、肩をぐるぐると回して肉をほぐした。午後に起きる生活の何が良くないと言って、世間一般的な基準から見たところの「だらしなさ」という点にもまったく引け目を感じないではないが、それよりもやはり、一日の活動を開始してからいくらも経たないうちに夜になってしまうということである。もっと陽射しを浴びたい、浴びるまでしなくとも、瞳に太陽光の明るい感触をもっと感じたいという気持ちはある。その一方で、深夜の静けさというものが非常に心を落着けるので、つい夜を更かしてしまうわけだが、明るさに触れることの少ない生活というのは、確かに精神にも影響があるように思う。日照時間の減る冬季にのみ発現する鬱があるというのも頷ける話で、この昼に起きたこちらも、身体が固いこともあって何となく不安を感じないでもなかった。
便所に行ってから二〇分の瞑想を済ませて、上がって行くと、(……)前日のおじやや、豚肉と玉ねぎの炒め物の残りを電子レンジで温め、また、冷凍されていたカレーパンも同じように熱して、食事を取った。卓に就いて新聞に目をやる(……)。
新聞記事はいつも通り国際面から読みはじめて、まず、「カタルーニャ議会選 来月21日 独立の賛否 伯仲」の記事に目を通していたのだが、その合間にふと顔を上げて窓のほうを向くと、空中に薄白い漣めいた大気の動きが生まれているのが見える。どうもどこか近くでものを燃やしていて、その煙が流れてきているらしいと判別し、洗濯物に臭いがついてしまうのではと思ったが、立ち上がってベランダのものを避難させるのが億劫に感じられて、そのまま捨て置いた(その後すぐに、煙の動きはなくなったようだった)。それから、「独大連立継続 説得へ 大統領 SPD党首と会談」、「パレスチナ 来年議長選 和解協議 6月以降、評議会選も」と読み進め、二面に遡って、「ジンバブエ 前副大統領が帰国、演説 ムガベ独裁に決別 表明」の記事を読んで切りとした。(……)
食事を終えて食器を洗うと、既に二時に至っていたらしい。風呂場から束子を持ってきてベランダに干しておくとともに、吊るされたタオルに触れて乾き具合を確かめたが、半端だったので、まだ留めておくことにした。風呂を洗ってから(……)緑茶を用意して自室で一服する。おかわりを注ぎに行ったところで(……)タオル類を畳んで整理した。自室に戻って二時四〇分から日記の読み返し(二〇一六年一一月一六日水曜日)をしたあとは、三時を迎えて掃き掃除に出た。空気にさほどの冷たさはなかった。箒を動かしていると、背後のほうで車が曲がった気配を感知して、ふと振り向けば、坂の下り口のところでその車が停まっている。運転手がこちらを見ているようなのに、思い当たるところがあって見返していると、手を挙げてきた。(……)のお祖父さんである。(……)というのは、保育園から中学校まで一緒だったこちらの同級生で、幼い頃はすぐ近所にあるこのお祖父さんの家に遊びに行き、サイダーなどのジュースを良く飲ませてもらったのだ。今となっては別に付き合いがあるわけでもないが、このように、時折りこちらを見かけると挨拶を送ってきてくれる。それでこちらもこんにちは、と声を届かせ、会釈をしてから掃除に戻った。(……)また、その件よりも先だったかあとだったか定かでないが、やはり終盤、自宅から東側の路上に見える楓に陽射しが掛かっているのを眺めた。空はやや雲がちで、楓からまっすぐ視線を伸ばしたその先には、石切場から切り出した石材のような雲が浮かんでいた。それほどに時間を掛けずに掃除を終えると、屋内に入って手を洗った。
三時半よりも前には自室に帰っていたはずだ。多少インターネットを逍遥したのだが、次に日課の記録に登場する時間は四時半過ぎ、これは音楽を聞き出した時刻である。この日のことを思い返してメモを取った際に、これは遊びすぎではないかと思った。そんなに長くインターネットを回っていた記憶もないのにおかしいなと引っ掛かり、ブラウザの履歴を確認してもみたのだが、三時台後半からはまったくの空白になっており、何をしていたのか自分で自分の足取りが掴めない。しかし、のちになって就寝前の瞑想中に思い出したけれど、ここの時間は隣室に行ってギターを弾いたのだった。それも、確かこの日のことだったはずだが、一弦の切れて指板の汚れもひどいテレキャスターを大層久しぶりにアンプに繋いで弄ったのではなかったか。即興演奏などと言えるほどのものではない、ブルース風のフレーズを適当に散らかして遊んだのち、この日は早めの時間から音楽を聞く気が向いた。五時半までの一時間ほどで、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "Solar"、Nina Simone, "I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』: #5)、Fabian Almazan, "Alcanza Suite: Ⅳ. Mas (feat. Camila Meza)", "Alcanza Suite: Ⅴ. Tribu T9", "La Voz De Un Bajo (Linda May Han Oh)", "Alcanza Suite: Ⅵ. Cazador Antiguo", "La Voz De La Percusion (Henry Cole)"(『Alcanza』: #5-#9)、Ibrahim Maalouf, "Intro", "DIASPORA", "Improvisation kanoun", "HASHISH"(『Diaspora』: #1-#4)である。Nina Simoneのこのナンバーは、大変に素晴らしいと思う。元々この曲はBessie Smithが歌っていたものらしいのだが(Nina Simoneが間奏中に、"Bessie Smith, you know"と呟くのでそれと知られたのだ)、そちらの音源も聞いてみたいものだと思った(そして、図書館にちょうどそれを含んだCDが所蔵されていたので、翌日に早速借りてきて聞くことになる)。前日に続いて聞き進めたFabian Almazanの作品中、この日聞いたなかでは六曲目が面白く感じられ(しかし何が面白かったのか細かなところはわからない)、続くLinda Ohのベースソロも耳を惹くところがあった。音楽に集中して耳を傾ける時間というものは、端的に言って最高[﹅2]である(最高に「気持ちが良い」)。正直なところ、小説を読んでいるあいだよりも満足の度合いは高いと感じられる(そのわりに、音楽を聞こうという気が起こらない日もあるのが不思議だが)。それはやはり、表象によらない感覚的直接性の成せるわざなのだろうか、あるいは言葉というものの肌理を汲み取るこちらの感受力がまだまだ未熟だということでもあるのかもしれない。
その後、いくらかの料理をするために上階に移った。(……)米は既にといであるものが笊に入って置かれてあったので、それを釜に移し、水を張って炊飯器にセットした。そして、フライパンで茹でたあとの大根の葉を取り上げ、両手で強く圧迫して水気を絞り、それを端から刻んでいった。ハムも細かく切り分けて、胡麻油でもって双方炒める、と簡単な具合に一品を拵えると、すぐに自室に帰ってヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を読みはじめた。七時を回るあたりまで書見を続けて、一二七頁から一四八頁まで渡った。その後、瞑想に入ったのだが、空腹のためかじっと座っているだけでも身体が少々苦しいように感じられたので、すぐに一度、切り上げるかと顔を擦ったものの、そうしているあいだにやはりもう少し頑張ってみるかと気が変わって続行した。記憶を探りながら一五分を過ごすと、食事を取りに行った。メニューは、先ほど用意した大根の葉の炒め物のほかには、カキフライおよび白身魚のフライの惣菜があった。テレビには何かしらの料理番組が映っており、谷原章介が出演していて、彼が黄色のパプリカを切りはじめたところ、その包丁の動きが高速で無駄なく流れ、実に手際が良い。いかにもイケメンらしい(「イケメン」のイメージ(=「物語」)に過たず合致している)、と思ったものだ。新聞の一面には、「北国境の橋 中国が閉鎖 きょうから10日間予定 貿易制限 警告か」という記事が載っており、その本文を追いたかったのだが、どうも気が散らされて読むことができなかった。
食後、散歩に出たのが、七時四五分頃だったと思われる。休みが続いていて出歩かないので、身体が全体的に鈍り、こごっているように感じられ、そろそろ道を歩いて肉体をほぐさなくてはという気持ちが高まっていたのだ。しかしこの夜は、凄まじい寒さだった。ダウンジャケットを着ていても身体が勝手にぶるぶると震える強烈な冷気であり、肩が自ずと上がって首もとを固めるようにこわばる。倒れるのではないかと、歩きはじめにちょっと頭に過ぎったくらいだった。それで一歩一歩慎重なように踏んで行き、坂を上りながら短い襟を持ち上げて口もとも覆わせる。空は例の、透き通って凍てたような冬の夜の色合いで、雲は欠片が一つ擦られたようになっている程度でほとんど見られないそのなかを、飛行機の明滅が露わに通って行く。とてもでないが、悠長に長時間の散歩に洒落込むような気温でなかったので、ルートをカットして早めに表の通りへ出た。街道まで来たあたりで、身体も温まってきたようで、震えは一応止まっていた。と言ってそれでもやはり寒くて、周囲の物々に注意を向ける余裕もあまりなく、歩調も速まっていたのではないか。帰ってくると八時五分だった。すぐに風呂に入ると危ないように思われたので、緑茶を飲みながら書き物をちょっとして身体を落着け、それから入浴に行った。(……)出ると(……)白湯を持って室に帰り、書き物の続きに取り組んだ。二〇日の日記である。一〇時半過ぎまで一時間半ほどを掛けると、身体が固まったのでベッドに移り、読書をしながら脹脛を刺激した。わりあいにゆっくりと、言葉を良く見ながら読むことができたようである。この時は『ダロウェイ夫人』を一四八頁から一七六頁まで進めた。すると零時前、途中で起き上がってゴルフボールを踏みもしたところ、身体がだいぶ軽くなっていたので、ふたたびコンピューターと向かい合った。この時には、それまで椅子の上にコンピューターを載せてベッドの縁に座りながら作業をしていたのをやめて、テーブルに就く形に戻した。と言うのは、ベッドに腰を下ろしながらモニターを前にすると、座る場所の感触や機器との距離などの条件によって、顔が自然と前に突き出してしまい、姿勢も猫背になって、そうすると身体全体が容易にこごってしまうからである。それで書き物はやはりスツール式の椅子に座って背すじを伸ばした状態で取り組むことにして、この時もそのように進め、その途中で新聞を持ってくるために上階に行った。(……)そうして、白湯を新しく注いで室に戻り、二一日の日記を綴っているうちにいつの間にか二時間が経過していた。おのれの心中に(と言うかむしろ、心身に[﹅3])生じた不安についての考察を記したところまでで切りとした。この日の書き物は合わせて四時間、字数で見ると七〇〇〇字ほどとなった。
その後ふたたび『ダロウェイ夫人』を読み進めた(一七六頁から一九五頁まで)。前日よりも早く眠るつもりだったので、三時過ぎに切り上げて、瞑想をこなすと三時半に消灯した。暗闇の寝床で、心臓神経症の残滓が微かに生じるようだった。不安について書き記したので、それについてあるいは死についていくらか思いを巡らせたのだが、そうするとやはり少々怖くなってくる感じがあった。つまりまた、自分は次の瞬間には死んでいるのではないかという例の妄想が頭に湧いてくるのだが、こちらもこの数年でよほど耐性を身に着けているので、それに囚われることもなく、姿勢を変えたりしてやり過ごしているうちに、じきに寝付いたらしい。