- カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』や新聞記事の書抜きに結構な時間を費やす。たくさん文を写してはいるのだが、そうしてみてもその内容が自分の頭のなかにうまく入りこんでくる感じがしない。以前の自分だったら、本を読み文を書き、また他人の文を写しているだけで、自分はともかくも前進しているのだという無条件の確信を持てていたし、実際に精神的栄養を摂取することで自分はこの五年間のあいだ、確かに一年ごとに変容を続けていたのだが、今はもはやそうではない。今あるのは、ものを読んだり物事に触れたりしてみてもそれらが自分の内に何らかの感応を呼び起こすことのない停滞の感覚、進歩/変容の欠如である。
- 夕食時、(……)のおばさんの話になる。九四歳だかを数えてホームに入っている彼女を、先日母親と(……)さんが訪ねてきたのだったが、(……)のおばさんなどと言われてもほとんど会ったこともないだろうし顔が判らないというこちらに、母親が法事の際の集合写真を持ってきたのだった。一つは随分と昔の、生まれてまもないこちらがまだ年若く小娘のような雰囲気を残した母親の腕に抱かれているもので(写真の裏に記された日付は一九九〇年の四月のものだったので、こちらはまだ生後三か月の赤子だ)、前列の右側に(……)のおばさんが立っていた。福々としたような丸顔の、ちょっと隣家の(……)さん(こちらも九七だか九八だかの超高齢者である)に似ているような婦人だった。もう一枚の写真は、祖父の三回忌だろうか、おそらく二〇一〇年頃のことだと思われ、こちらにはいくらか人相の悪いような自分の姿もあった。顔が今よりも細長く、痩[こ]けているようなのを見て、二〇歳というとパニック障害の真っ只中にあった頃だから、それで消耗していたのではないかと推測を口にした。こちらの写真には、関係の判らない夫婦も写されていたが、これは(……)さん(祖母の弟)の娘とその婿らしく、代理として出席していたようだ。(……)さんの奥さんが(……)さんという人で、これはまるで『ゲゲゲの鬼太郎』に出てきそうな風貌をしている女性であり、一方、(……)のおばさんの息子である(……)さんの奥さんが(……)さんという名前で、一文字違いなのでややこしい。この(……)さん夫婦とは、七月くらいだったか、母親と医者に行ったあとに寄った『ステーキのどん』で遭遇したことがあり、(……)さんという人をこちらが目にするのはそれが多分ほとんど初めてだったのではないかと思うが、その顔貌はもうよく覚えていない。風呂から出たあとは、その(……)さんから貰ったというプリンを食べた。
- 夜、緑茶をおかわりしに居間に上がって来た際、父親に通院の報告をする。症状の特段の変化はないが、ロラゼパムがなくなったと。それは何かと問うので、安定剤だと答える。現状、不安という症状はなくなったので、それはいらなくなったのだ。ロラゼパムにしろスルピリドにしろ、それで言えばクエチアピンにしろ、飲んでいても自分に何らかの効果を及ぼしているという実感は全然ない。薬が減ったにせよ、本を読んでいて楽しいとかそういう感情はやはりないのだろうと父親が問うので、その点は変わっていないと返答する。そうしたらまたそのあたりを改善する薬なり方策なりを相談してみて、と父親は言うが、賦活剤としては多分エビリファイぐらいしか選択肢はないのだろうし、メジャー・トランキライザーの類をこれ以上使うのも気が引けるものではあるし、そもそも自分にはもはや精神病薬の類はほとんど効かないのではないかというような気がする。何というか、心身が全般的に鈍感化しているのだ。それはそれとして、まあ精神疾患は長いものだろうし、例えば一年後に今よりも多少楽しくなっていたり、感受性が戻ったりしていればいいとそのくらいのスタンスではいると言うと、お前がそうして余裕のある心持ちになっているのだったらそれは良かったと父親は安心したようだった。比較材料として春から夏頃のこちらの「焦り」を彼は挙げてみせたのだが、当時のこちらは確かに自分の症状が一向に変化しないことに打ちひしがれていた。それは「焦り」というよりは、もう数か月の時間が経ったのに何の改善もない、自分はおそらくずっとこのままなのだろうなというちょっとした絶望感のようなものだったのだが、それでまともに自殺を考えていた頃に比べれば、まあ一応精神的に良くなったとは言えるのだろう。しかし、現在は現在でやはり、今の状態からこれ以上明確に良くなることも多分ないのだろうなという諦観を抱いてはいる。良くなるというのは、芸術的感受性や思考力や創造性のようなものが戻ってくるということだが、自分の状態はそうした点では多分これ以上向上することはないだろうと予測している。それは絶望というよりは、自分の体感を鑑みて下した冷静な判断である。勿論、一時期文を全然読めず、読書の能力は自分から永遠に失われたと思っていたところがまた一応はものを読めるようになったように、予測が外れることもあるかもしれないが、いずれにせよ、年始以来の自分の病理は心理的なもの、ストレスなどによるものというよりは、ほとんど純粋に器質的なものである。つまり原因はわからないものの、端的に言って脳がどうかなったということで、脳内の問題など、人間の力で直接的にどうにかなるようなことではないのだ。だから、人事を尽くして天命を待つというか、今の自分に出来ることをやって結果が出ればそれで良し、結果が出なければもう仕方がないと、そうした割り切りの心境に今はおおよそ至っている。欲望や情熱、感受性の類が戻ってくればそれは当然有り難いが、戻ってこなくともこのままで生きられないでもあるまい。それは言ってみれば退屈な、阻害/疎外された生かもしれないが、まあ最悪のものだというわけではないだろう。
- 『多田智満子詩集』、「薔薇宇宙の発生」というエッセイ。LSDを服用した多田が眼裏に見たという薔薇世界のヴィジョンの記述がなかなか面白かったかもしれない。続く鷲巣繁男の評文は、何を言っているのか全然理解できない。
カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年
憎しみを育む者たちと不安を煽る者たちのなかには、特殊な形式ではあるが、ベイルートからブリュッセル、チュニスからパリにまで及ぶ連続殺人を犯したIS(イスラム国)と呼ばれる国際的テロ組織も含まれる。ISの思想伝達の方法は、「新右翼」のプロパガンダ担当者たちと同じ戦略に従ったものだ。すなわち、差異の論理に従ってヨーロッパ社会を分断すること。ISのテロ攻撃によってイスラム教徒に対する恐怖が煽られるのは偶然ではなく、意図的な結果だ。映像撮影された残虐行為の様子や、ポップカルチャー風に演出された無力な人質の処刑、大量虐殺などの手段で、ISは意図的、計画的に我々の社会にくさびを打ち込む――テロへの恐怖が、ヨーロッパに暮らすイスラム教徒全体に対する不信に、さらには彼らの孤立化に繋がればいいという、決して非合理的とは言えない望みのもとに。
多様で開かれたヨーロッパ世俗社会からイスラム教徒を切り離すことこそ、ISのテロの明確な目(end67)的である。それを達成するための手段が、システマティックな二極化だ。ISのイデオロギー指導者は、あらゆる混交を嫌う。あらゆる文化的交流、啓蒙化された近代精神がもたらすあらゆる宗教的自由を嫌う。こうして、イスラム原理主義者と反イスラム過激派とは、互いが互いの奇妙な写し鏡となる。両者は、憎しみと文化的宗教的画一性という共通点でつながっている。それゆえ、右翼の掲示板には常にヨーロッパ諸都市におけるISの恐ろしいテロ攻撃についての報告が上がる。客観的な暴力、ISが実行する現実のテロが、まさにこの暴力とテロから逃れてきたすべてのイスラム教徒に対する主観的な妄想の下地となるのだ。テロ攻撃が起こるたびに、イスラム教徒に対する恐怖は正当なものだと主張される。虐殺が起こるたびに、リベラルな開かれた社会など幻想だと誹謗される。パリとブリュッセルにおけるテロ攻撃を、まずなにより自分たちの世界観が正しいことの客観的な証拠だと捉えた多くの政治家やジャーナリストの反応も、これで説明がつく。彼らにとっては、テロ犠牲者の親族とともに悲しむことより、自分が正しいと主張することのほうが重要なのだ。
(67~68)
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知覚や視野とは中立的なものではなく、歴史的な思考パターンによってあらかじめ作られたものだ。そこではパターンに合致するもののみが知覚され、記憶される。黒人が体を震わせることがいまだに怒りの表現だととらえられる社会、白人の子供たち(そして大人たち)がいまだに、黒人を避けるべき、恐れるべきなにかとして見るよう教えられる社会では、エリック・ガーナー(またはマイケル・ブラウン、サンドラ・ブランド、タミル・ライスほか、白人警官の暴力の犠牲になったすべての人たち)は、脅威であると見られる[﹅4]のだ。たとえなんの危険もない存在であっても、何世代にもわたってこういう見方をする訓練を積んできた結果、警官は実際に恐怖を感じていなくても、黒人の身体を不当に扱うこ(end80)とができる。恐怖はもうとうに、警察の組織的な自己認識へと変容し、そこに刻み込まれている。黒い身体をすべて、なにか恐ろしいものとして認識する人種差別的な思考パターンは、社会をまさにこの危険(と彼らが思いこんでいるもの)から守ることこそ自らの使命だと考える白人警官たちの態度へと乗り移る。たとえ白人警官個人はその場で憎しみや不安を感じていなくても、ためらいなく黒人の権利を制限することができる。こうして、抵抗できない死にかけた黒人の身体さえ、脅威とみなされるようになるのである。
(80~81)
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エリック・ガーナーを死に至らしめた絞め技は、偶発的なもののように見えるが、実際はそうではない。絞め技には長い伝統がある。ロサンジェルスだけでも、一九七五年から一九八三年のあいだに十六人の人間が絞め技の犠牲となった。ニューヨークでも、エリック・ガーナーの死の二十年前、ブロンクス出身の二十九歳の男性で、やはり慢性的な喘息を患っていたアンソニー・バエズが、警官の絞め技によって死亡した。バエズが絞め技をかけられたきっかけは、煙草販売を疑われたことではなく、サッカーボールで遊んでいたことだった。そのサッカーボールがうっかり(この点は警察も認めた)、駐車中の警察車両に当たってしまったのだ。エリック・ガーナーを死に至らしめた絞め技は、ずいぶん前から違法になっている。ニューヨーク市警はすでに一九九三年に絞め技を禁止している。にもかかわらず、エリック・ガーナーの死亡状況を調査し、警官ダニエル・Pの行為を判断する任務を負った大陪審は、二か月にわたる審議の結果、Pの不起訴を決定した。
「破壊者が皆、たとえようもない悪人だというわけではない。彼らは今日にいたるまで、単にこの国の気分をそのまま実行に移す者たち、この国に受け継がれてきた力を正確に解釈する者たちに過ぎない」と、タナハシ・コーツは著書『私と世界のあいだに』で述べている。そこには悪意や突発的な激しい憎しみさえ必要ない。コーツによれば、必要なのは、黒人のことは常に貶め、軽視し、不当に扱っても構わない、それで罰を受けることはないという、連綿と続く確信のみなのだ。必要なのは、黒い身体から危険を連想させ、それゆえ黒い身体に対するいかなる暴力も常に正当化する、受け継が(end85)れてきた想像上の恐怖のみなのだ。こういった歴史のなかで内面化された価値観のもとでは、エリック・ガーナーやサンドラ・ブランドや、チャールストンのエマニュエル・アフリカン・メソジスト教会の信者たちが、客観的に見て無抵抗だった、または無実だったと指摘しても無駄である。受け継がれてきた世界観においては、白人のパラノイアは常に正当化されるのだ。
エリック・ガーナーを死に至らしめた絞め技は、確かに個人的な行為ではある。あの状況で絞め技をかけたのはダニエル・Pという個人なのだから。だがあの絞め技は、最近#blacklivesmatter運動によって注目を集めている、アフリカ系アメリカ人に対する白人警官による暴力の歴史の一部である。白人による暴力への恐怖は、アフリカ系アメリカ人の集団的経験であり、奴隷制の遺産の一部だ。なんともやりきれないパラドックスである――黒い身体に対する人種差別的な恐怖は社会的に認知され、再生産される一方、烙印を押された黒人たちの側からの白人警官の暴力に対する正当な根拠のある恐怖は、まさにその人種差別の死角に追いやられたままなのだ。「エリック・ガーナーを窒息死させた警官が、あの日の朝、誰かを殺してやるぞと思いながら家を出たと信じる理由はない。理解せねばならないのは、あの警官は合衆国国家から権力を与えられており、アメリカの遺産を受け継ぐ者だということだ」と、タナハシ・コーツは書く。「このふたつの要素が必然的に、毎年のように破壊される身体のうち飛びぬけて多くが黒人のものであるという結果をもたらすのである」
(85~86)
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アフリカ系アメリカ人はいまだに、黒人でありながらアメリカ人であるという構造的な「矛盾」のなかで育つ。建前上、黒人はアメリカ社会の一部だということになっているが、実際にはいつまでも部外者である。合衆国における社会の分断と黒人の置かれた不利な状況は、いまだに数字にはっきりと表れている。市民権団体「全米黒人地位向上協会(NAACP)」の統計によれば、アメリカの刑務所に収監されている二百三十万人の囚人のうち、少なくとも百万人がアフリカ系アメリカ人だ。アフリカ系アメリカ人は、白人より六倍頻繁に懲役判決を受ける。「センテンシング・プロジェクト」という組織の調査によれば、アフリカ系アメリカ人が麻薬犯罪で受ける懲役刑の平均(五十八・七か月)は、白人が暴行罪で受ける懲役刑の平均(六十一・七か月)に近い。一九八〇年から二〇一三年のあいだに、アメリカ合衆国では二十六万人以上のアフリカ系アメリカ人男性が殺害された。比較のために挙げれば、ベトナム戦争で亡くなったアメリカ人兵士の総数は五万八千二百二十人である。
(87)
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加えて、見過ごされがちな「恥の瞬間」というものがある。人の言葉や身振りや行為や信条が、いつどのように自分を傷つけ、疎外するのかを、自分自身で[﹅5]指摘せねばならないのは、恥ずかしいものだ。少なくとも、私はそう感じる。心のなかでこっそりと、その場で差別を受けていない人たちも含めて皆が[﹅2]、その不正に気づいてくれることを願う。他者の道徳観に対する期待、または――もう少し穏便に表現すれば――自分の暮らす社会に対する私の信頼のなかには、抵抗すべきなのは侮辱や軽視を受けている者だけではないと皆が考えられること、すなわち、こういった侮辱に傷つけられたと感じるべきなのは、犠牲者のみならず、我々全員[﹅4]なのだと皆が考えられることも含まれる。その意味では、私自身が傷つけられる場に、ほかの誰かが介入してくれないかという期待とは裏腹に、実際にはなにも起こらないときには、どこか奇妙な失望を感じる。
それゆえ、自分自身のために声をあげるためには、常に恐怖心のみならず、羞恥心をも乗り越えねばならない。抗議をするにも異議を唱えるにも、その原因となった差別と、それに傷ついたということを口に出さねば始まらない。ハンナ・アーレントはこう言った。「ある種の人間として受ける攻撃には、その人間として抵抗するしかない」 アーレントの場合には、ユダヤ人として受ける攻撃にはユダヤ人として対抗するしかないという意味だった。だが同時にそれは、自分がどんな人間として攻撃されたのかを常に問いかけ、それに対して自分がどんな人間として発言するかを決定することである。他者にとって不可視で不気味な存在としてなのか。他者の身振りや言葉、法律や習慣によって日常生活に不自由と重荷を感じる人間としてなのか。他者の知覚パターン、思い込み、憎しみに、もはや黙(end91)って耐える気はない人間としてなのか。
ことのほかつらいのは、軽視されることによって生まれる憂鬱を誰にも見せることが許されないという事実だ。自分が受けた傷を言葉にする者、常に除外され続ける悲しみをもはや抑え込まない者は、「怒りっぽい」(「怒れる黒人男[アングリー・ブラック・マン]」「怒れる黒人女[アングリー・ブラック・ウーマン]」という呼称は、無力な人間たちの絶望を「怒りっぽい」と解釈する、ひとつの定型である)、「ユーモアがわからない)(フェミニストやレズビアンに対する一般的な描写のひとつ)、自分たちの苦悩に満ちた歴史を利用して「利益を得ようとしている」(ユダヤ人に対して用いられる)とされる。こういった蔑視のレッテルは、なによりもまず、構造的な蔑視の被害者から抵抗する術を奪うために用いられる。被害者たちは、口を開くのが難しくなるようなレッテルを最初から貼られてしまうのだ。
(91~92)
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「相違は堕落すると不平等となり、平等性は堕落するとアイデンティティとなる」と、ツヴェタン・トドロフは『アメリカの征服』で述べている。「このふたつは、他者との関係という空間を修復不可能なまでに狭める二大巨頭である」(end102)
トドロフは、反リベラル思想が生まれる局面を的確に突いている――各人または各グループのあいだの視覚的、宗教的、性的、文化的相違が、単なる相違[﹅2]のままではなくなる局面を。それは、相違が社会的または法的な不平等[﹅12]へと変化していく局面だ。人が自分と違う者、または標準だとされる多数派から少しでも逸脱する者を、ただ単に「違う」のみならず、突然「正しくない」と見なし、そのせいで庇護を受けられない存在へと貶める局面だ。アイデンティティの徹底的な均一性のみが重要視され、ほかのすべては疎外され、拒否されるべきものになる局面である。
現在の社会では、偶然に過ぎない生まれつきの相違ばかりが取り上げられ、社会的な認知のみならず人権や市民権までもがその相違に左右されるようになってしまった。社会運動や政治共同体が、民主主義国家において、特定の[﹅3]市民のみ――特定の身体、特定の信仰、特定のセクシュアリティ、特定の言語を持つ者のみ[﹅2]――を平等に扱うための基準を設けようとしたら、いったいどうなるだろう。そして、その基準によって、誰が完全な人権または市民権を得ることを許され、誰が軽視され、虐待され、迫害され、殺されてもいいかが決まるとしたら。
(102~103)
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とはいえ、「自由で平等な人間たちから成る国民」というモデルもまた、歴史的に見ればひとつのフィクションである。真にすべての[﹅4]人間が自由で平等と見なされたことなどないからだ。さらに言えば、すべての人間が人間と見なされていたことなどないのだ。確かに、フランスの革命家たちは、君主制を排して、君主の位置に主権を持つ国民を置いた。だが残念なことに、民主主義社会の草案は、決して彼らが主張するような、すべての人間を対象としたものではなかった。女性といわゆる「異邦人」には、詳しい理由説明さえ必要とされないほど当然のように、市民権は与えられなかった。民主的国民は、そして旧身分の特権を廃止しようとした国家は、結局のところは別の他者を差別することでしか成立し得なかったのである。
このことは、主権を持つ国民という思想を語る言葉、自由で平等な人間の社会契約の歴史を語る言葉に、なにより明確に表れている。すなわち、昔から政治的秩序は身体性[﹅3](コーポレーション[﹅8])という概念で描写されてきたのだ。そして、全員(すなわちあらゆる独立した個人)の民主的意思と考えられていたものは、いつの間にか全体(すなわちあいまいな集団)の意思へと変わっていく。互いに向き合い、関わり合うことによって共通の立場や信念を討議し、決定していく個々の声や視点から成る多(end108)様な存在が、均一な「全体」へと変容してしまうのだ。社会を身体[﹅2]にたとえる言説は、政治的に重大な意味を持つさまざまな連想を可能にする――ひとつの身体とは、堅固で独立したものだ。身体は皮膚に包まれており、その皮膚が外界との境界となる。身体は病原菌によって病気にかかることがある。身体は健康でなければならず、疫病から守られねばならない。そしてなにより、身体とはひとつの均一な「全体」である。
政治的言語(およびその結果としての政治的空想)によって社会がひとつの生き物にたとえられるとき、そこには必然的に衛生という概念が結びついてくる。そしてその概念は、人間の身体を医学的に管理するという文脈で、社会を語る際にも用いられることになる。こうして、文化的または宗教的な多様性が、均一な国民という身体を持つ国家の健康を脅かすものととらえられることになる。いったんこの知覚パターンに囚われれば、「異邦人」によって病気をうつされるのではないかという不安が一気に蔓延する。相違はもはや単なる相違とはとらえられず、国家という健康で均一な身体に病を感染させる原因となる。この思考モデルとともに生まれるのは、常に他者の行為や信念によって病に感染することを恐れる独特の神経症的アイデンティティである。あたかも、それぞれの国家において定められた標準からのいかなる相違も逸脱も、文化的または宗教的な飛沫感染によって、疫病のように広がっていくとでもいうかのようだ。他者の身体との接触が即座に脅威として恐れられ、忌避されねばならない社会は、(社会を身体に例える言説を借りるならば)健全な「文化的な免疫システム」を持っているとは言い難い。健康を保たねばならない身体としての国民という妄想は、どんなささいな相違(end109)にも恐怖を抱くのである。
以上から、現代社会において、宗教的な理由で頭部を覆うというささいなことが――それがキッパであろうとヴェールであろうと――、なぜ多くの人の自己アイデンティティを脅かすのかも明らかになる。現代社会に広がる恐怖感は、まるで女性イスラム教徒のスカーフ(ヒジャブ)やユダヤ人男性のキッパを目にするだけで、キリスト教徒がもはやキリスト教徒でなくなるかのような、極端なものだ。まるでスカーフが、それをかぶる者の頭からそれを見る者の頭へと自分の足で移動するかのようだ。これほど不条理でなければ、滑稽とさえいえる想像だ。スカーフに反対する議論のなかには、スカーフはそれ自体が[﹅5]女性を抑圧するものであり(これは、女性が自分の意志でスカーフをかぶることはあり得ないという決めつけである)、それゆえ禁止されねばならないというものがある一方、スカーフによって彼ら自身[﹅2]と世俗社会とが脅かされるというものもある。あたかもたった一枚の布が、それをかぶる者ばかりでなく、それを遠くから目にする者までをも抑圧するかのように。ところが、スカーフに反対するどちらの論拠も、女性への抑圧が実際にあるとしたら、それはスカーフ自体によるものではなく、女性に本人の意志に反するなんらかの行為を強要する人間または社会構造によるものであるという点を見逃している。その意味では、スカーフをかぶれという、家父長制的および宗教的見地からの命令も、スカーフをかぶってはならない[﹅4]という、支配的および反宗教的見地からの命令も、どちらも同じように強制的だといえよう。
社会が信教の自由を保障しながら、同時に女性の権利を守り、拡大しようとするならば、必要なの(end110)はむしろ女性の自己決定を真剣に受け止めることである。そしてそれは、(どのような形式であれ)信仰に忠実な生活または行為を望む[﹅2]女性も存在し得るという事実を受け入れることである。スカーフを例に取るならば、スカーフを着用したいという望みを即座に非合理的、非民主的、バカバカしい、あり得ないと断じる権利は、第三者にはない。スカーフを着用したいという望みも、一般的な信仰心(または宗教行為)に、さらに場合によっては伝統的、宗教的な家族像に反対の立場を取りたいという望みと同様に、尊重され、守られるべきだ。どちらの決断を下し、どちらの人生設計を取るにせよ、それを選ぶ個人的権利は、ヨーロッパのリベラル社会においては同等に尊重されるべきだろう。ただ、公的な職場でのスカーフ着用の問題となると、少々複雑になる。基本法の第四章第一節および第二節に保障された個人の信仰、良心、宗教、世界観の自由という基本的人権と、宗教的に中立の立場を維持するという国家の義務とが対立する恐れがあるからだ。だがこの問題は、学校の教室でキリスト教のシンボルである十字架のネックレスをつけることが許されるかという問いと本質的には同じものである。
(108~111)