2018/10/9, Tue.

工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年

 [農業共進会の場面について、]ところでこの壮大なピラミッドが内包するものは、平凡陳腐、何ともささやかなロマンスでしかない。その意味では、これはアンチ・ヒーローたちの演じるアンチ・クライマックスだとも言えて、形式の緊張が内容の空無そのものを提示するところに、もっともフロベール的な<芸術>がある。
 (287註)

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 この本は、ちょうど今さしかかっているところなど、ぼくを拷問の苦しみに合わせている(もっと強い言葉があればそれを使うんだが)、おかげでときには肉体的[﹅3]に病気になってしまう。(end288)ここ三週間ほど、ぼくはしょっちゅう、胸をしめつけられて気が遠くなるような感じにおそわれます。そうでなければ、胸を圧迫される感じ、あるいは食卓で吐き気をおぼえることもある。何もかもうんざりだ。今日だって、もし自尊心が邪魔をしなければ、大喜びで首を吊りたいくらいでした。確実に言えるのは、ときどきすべてをおっぽり出したくなるってこと、とりわけ『ボヴァリー』をね。こんな主題をとりあげようなんて、どうしてこんな呪わしい考えにとりつかれたんだろう! ああ、これでぼくは、身をもって<芸術>の苦患[﹅2]を知ったことになるでしょう!
 (288~289; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年十月十七日〕月曜夜 一時)

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 (……)最近発表された草稿研究によれば、第二部八章、わずか二十五ページ(クラシック・ガルニエ版)のために、くり返しくり返し書きなおされた草稿は、保存されているものだけで、表と裏ほぼ全面を埋めつくした原稿用紙二百枚近くにのぼる。(……)
 (290註)



  • 「間道をしばらく通り、表へと出て街道を進むそのあいだにも、歩道の上に細く薄青く伸びた自分の影の、懐かしいような穏和な明るさに包まれて、歩くほどに長く引かれていくような斜陽の四時である。表道から一つ折れて正面のアパートの、低く並んだ垣根の葉に西陽が宿って金色の雫の溜まったようでもあり、また飴細工にでも変じたようでもあるその輝きを見ていると、二つ目の角を曲がって路地へと入るその僅かなうちに、角度の具合で琥珀色のさらに強まって、短い合間で急速に磨きこまれたかのように葉が金属的な硬質さを帯びていた」(2017/10/9, Mon.)――表から裏路地へと入っていくあいだのごく短い時間における印象の推移を敏感に捉えて良く記していると思う。
  • 黒田卓也『Rising Son』の最終曲、Jose James作曲の、実にメロウで爽やいだ秋の晴れ空といった感の"Promise In Love"をひたすらにリピート再生させながらものを読む。
  • 昼下がり、瞑想をする。電気信号の縦横無尽な伝達を視覚化したかのように瞑目の視界のなかが波立つとともに、この日は微かな心地良さを感じるような気もされた。外では鳥が一匹、おはじきかビー玉でも打ち合わせるかのような短い鳴き声を立たせ、へこませた腹からは風船を擦り合わせるような内臓音が間を置いて小さく湧く。二〇分ほどの瞑想を終えると仰向けになり、両脚を重ね、両手を頭の後ろに持って行ってしばらく寝そべった。外では隣家の(……)さんがうろついて草取りをしていたようだが、そこに旧知らしい老婆仲間が幾人か通りかかって、偉いじゃんか、などと話していた。(……)さんのほうは、九七歳だと応じている。こちらは臥位のそのまま眠ってしまいたいような気がしたが、やがて立ち上がって洗濯物を取り込みに行った。