2018/12/14, Fri.

 ただ楽しく暮らしたいだけなのだが、それすら叶わない。気分は相変わらず平板で無色のままである。と言うか、「気分」という心的状態そのものがもはや存在しないかのようだ。
 今の自分に気分というものがあるとしたら、それは晩年のそれで、つまりはもう人生でやることはすべて終わって、あとはただ死を待つばかりの人間のような心地がするということだ。まだ二八歳の若者なのだが。
 以前は本を読んで文を書いていればそれで概ね満足していたような人間なのだが、最近はものを読もうという気がほとんど起こらない。実際に読んでみても面白くはない。端的に言って自分は格段に頭が悪くなり、「面白い」という感覚も自分のなかからは消滅した。いまはローベルト・ヴァルザー/若林恵訳『助手』を一応読んでいる。ヴァルザーは、以前は作家のなかで一番好きだと言っても良いかもしれないくらいに敬愛していたのだが、もはやそのような気持ちは自分にはない。文学はもう自分の業ではなくなったのだろう。そして、文学なくしてこの生をどうして生きていけば良いのか、途方に暮れてしまう。まさかこの自分が、ものを書けなくなる、考えられなくなるとは夢にも思っていなかった。人生とはまったくままならないものだ。
 つまりは、自分の状態は四月頃から本質的に何も変わっておらず、この先変化する見通しも持てず、何かを書くとしたら「嘆き」しかその内容として浮かんでこないということだ。嫌な話だ。自分は今、いつまで続くとも知れない絶対的な停滞、まったき変容の不在のなかにいる。