小林 ヨーロッパの哲学は全部、命題ベースで、命題は述語が関係を記述しているのですが、複合語は関係を明示することなく、名と名を直接、結びつけてしまう。そこには、述語関係を捨てちゃった超論理みたいなものがある。そのように「即にして密なる」関係、「生きてある」関係を空海は打ち立てようとしたんじゃないか、と。ついでに言えば、だからこそ、のちに、西欧哲学の影響を受けた日本の哲学者が「述語」に注目して、「述語論理」の哲学みたいなものをもってくるという方向になるのでは、とも思いましたが、そこまでは論じることができませんでした。
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、85)*
小林 そうなんです。結局は、日本語という言語の特異性というところに行く。つまり、すでに前にも少し話をしていますが、日本語は、仮名と漢字が入り交じった、まさに、複合語ではなく、複合言語。言語そのものが複合している。しかも仮名も2種類あって、片仮名は漢字の音から来ているから「音」ですが、平仮名はそうではない。「音」の表記だけではないものがある。そして漢字。これ外国語の文字ですよね、それを「借りて」きてそのまま使っている。日本語は複合言語、つまり複合語のように「関係」の記述を切り離して、異なったものをくっつけて平気なわけです。それは、西欧的な論理からすると、とんでもない飛躍でもあるし、それゆえわれわれはどこか根底では西欧的な論理を受け容れられないかもしれないみたいなことを考えたわけですね。そうしたいまにまでつながる根本問題の根源がこの空海の『声字実相義』に透けて見えるような気がするというのが、わたしの論点です。
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結構長い夢を見たのだが、内容は既に大方忘れてしまった。学校を舞台としたもので、教師に反抗する内容が含まれていたと思われる。また、学校の地下に膨大な規模の図書館が広がっていて、その書架のあいだの通路を巡っている場面も辛うじて覚えている。起床したのはアラームの鳴り出す九時直前だった。睡眠は五時間半ほど。部屋を抜けて廊下を渡ると、寝間着姿の父親が階段から降りてきたのでおはようと挨拶した。そうして上階に上がり、母親にも挨拶すると、今、鮭のおにぎりを一つ作ったところだと言う。洗面所に入って髪を梳かし、また便所に行って放尿しているあいだに、母親が食膳を用意してくれた。おにぎり一つに小松菜、パイナップルの切れ端がいくつかにまだ温かいゆで卵とヨーグルトである。それを黙々と食し、食器を洗って抗鬱剤を服用しておくと、風呂場に行った。父親は既に礼服に着替えて、外に出て車の準備をしているようだった。こちらは何となく平衡感覚が乱れていると言うか、少々ふらふらするような感じがあった。睡眠が短いためだろう、食事も取ったことだしそのうちに安定してくるだろうと払って風呂桶を洗い、出てくると下階に戻った。コンピューターを点けるとワイシャツと礼服のズボンに着替え、Omer Avital『Qantar』を流しだし、廊下の鏡の前に立って真っ黒なネクタイを締めようとしたが、先に髭を剃ってしまおうと思い直してネクタイを置き、上階に行った。洗面所に入って電動髭剃りで口の周りを当たり、靴下も履いて下階に戻ってくると、ネクタイで首もとを固く閉ざした。そうして九時四六分から日記を書きはじめて、ここまで一〇分足らずで書き進めている。
それからブログに記事を投稿しようとして投稿画面をひらき、Evernoteに記してある日記の文章をコピー&ペーストで投稿フォームに写し、名前を検閲したり引用部にタグを施したりしはじめようとしたところで、天井が鳴った。法要は一一時からで、現在は一〇時である。随分早いなと思いながら上階に確認しに行くと、喪服に着替えた母親が、もう行くって、と言うので、了解して自室に戻り、コンピューターは投稿フォームをひらいたままスリープ状態にし、クラッチバッグに財布と携帯を入れ、上着を身に纏って部屋を出た。トイレに入って用を足してから玄関の靴箱をひらき、父親の黒い革靴を借りて履き、外に出た。雨が降っていた。半分扉をひらいた車の運転席に乗った父親が、傘を持った方が良いと言うので、もう一度玄関のなかに入り、黒傘を取り出して外に出て、扉の鍵を閉め、階段を下りて車に近づき、助手席に乗り込んだ。乗り込むと母親がビニールのパックに入った花屋の代金を渡してきた。母親の代わりに駅前で降りて花屋に仏花の金を支払ってくるように頼まれていたのだ。そうして車は発車し、坂道を上って行き、街道に出た。道中のあいだのことで覚えているのはラジオのことくらいで、プールびらきをしたらしいとしまえんのプールを取材していたのだが、生憎の雨降り、涼しい気候とあってプールに入る者は三人の親子連れしかおらず、貸切り状態らしかった。駅前に入るとロータリーを含めて鍵型の道路の内、直線の部分の脇に車を停め、そこからこちらは降りて、八百屋の前を通り抜け、左に折れてすぐのM花店に入った。店の奥にいた奥さんに、おはようございますと挨拶をして、Fと申します、お花を頼んでいると思いますがと告げた。もう寺の方に配達が行ったと言う。伝票を持ってっちゃったな、と奥さんは言ってちょっと困惑を見せたので、五四〇〇円と聞いていますがと助け舟を送り、一万円札一枚と百円玉四枚で会計をした。お釣りを受け取ると奥さんは、雨が止んで良かったですねえと掛けてきたので、ええ、と受けつつ、今またちょっと降りはじめましたけれど、と指を入口の方に差し向けると、でも昨日みたいにならなくて、と返ったので、そうですねえと受けて交わし、有難うございましたと礼を述べて退店した。昨日の雨は確かに酷く、夜にはまさしくバケツをひっくり返したかのように盛っていたのだ。八百屋の前を逆向きに通って車に戻り、助手席にふたたび乗り込むと発車して、寺に向かった。
――いや、そうではなかった、寺の前に千ヶ瀬のクリーニング屋に寄ったのだった。クリーニング屋の裏の駐車場に停めると、父親が一人降りて店に行き、そのあいだこちらと母親は二人で車内で待った。寺にいくら包んだのかと訊くと、三万円だと言う。食事代も含めてそれかと尋ねると、食事代も全部まとめて三万円から五万円くらいが相場らしいとのことだった。父親が戻ってくると発車して、ふたたび少々走り、寺の駐車場に入ると一〇時半頃だったと思われる。A家の二人はさすがにまだ着いていないだろうと車中に留まって、母親が送ったLINEの返信を待っていると、まもなく左方の池の方に傘を差した黒服姿が現れて、それが二人らしく思われたので、ああ、もう来てるわと口にし、手を振ってみると、同時にあちらからも手を振ってきたので、YさんにYちゃんだと同定された。それで傘を持って車を降り、近づいてきた二人に礼をして挨拶した。まだまだ時間が早いが、ひとまず寺の方に挨拶だけはしておこうということになり、両親のあとに続いて本堂横の、客が声を掛ける入口に行った。父親がインターフォンを押して、母親と並んで扉を引き開け、出てきた和尚の息子さんに挨拶をした。両親の姿が遮蔽になってこちらの姿はあちらからはほとんど見えなかっただろうし、こちらからも息子さんの姿はあまり見えなかったので、声は出さず、頭をちょっと下げるに留めた。それで、本堂がもう開いているとのことだったので、そちらの方に移動し、靴を脱いで板敷きの入口に上がった。母親から果物の袋を持ってと渡されたので持ち、本堂のなかに上がると息子さんに、これ、果物を、と言って手渡した。息子さんは果物やそのほかのものを仏壇に飾りに行き、それからしばらく和尚がやって来るまで待っている時間があった。父親と母親は入口近くの段に腰掛け、Yさんはその脇に立って雑談をしており――話題は確か、先日のYさんの法事のことだとか、I.Y子さんのことだとかだったように思う――Yちゃんは奥の方の畳敷きのスペースで正座をしながら飾られている物々を眺めていた。こちらも周辺をうろついて、展示されている仏の絵の類を眺めて、そのうちに両親のあいだに腰を掛けたが、まもなく和尚と、正装に着替えた息子さんがやって来た。一一時より少々早いが、もう供養を始めることになった。それで並べられている背もたれなしの椅子の最前列に、右から父親、母親、こちら、Yさん、Yちゃんの順番で就いた。経を記した長方形の細長い冊子が配られた。いつも同じ段取りだが、開経偈、般若心経、父母恩重経の三つの経を一緒に誦じてもらうとのことだった。それで我々の正面、本堂中央の座に住職が就き、我々から見て左方のもう少し小さな座には息子さんが控えた。短い開経偈はすぐに終わり、般若心経に入った。右隣の母親は高めの細い声で、周りと音程を合わせることなくぎこちなく朗じていたが、左隣のYさんは不機嫌な時の声色のような低い音程をやや無理やりのようにして出して、和尚と合わせようとしているようだった。こちらも住職の読経と音程を近くして声を出した。住職は一音一音に細かな抑揚をつけて朗詠し、その発語は言ってみれば緩やかな弧を描く[﹅4]ような類のものだったが、息子さんの方は低い声音で単調に、音の高低を動かすことなくまっすぐと呟き続けていた。両側の女性陣の向こうにいる父親とYちゃんの声はこちらの耳までは届かなかった。般若心経が終わると、息子さんが立ちあがり、今度は荘厳な調子の節回しをつけて、回向の文句を朗々と述べた。そうして次に、父母恩重経、これは七音・五音調の日本語訳で、釈迦が両親に対する孝行はどのような修行よりも尊い、というようなことを語ったその内容と場面を読むものである。古語とは言え日本語に訳されているので、読みながら大体のところの意味は理解できる。それを皆で読み、それから焼香となった。一人ずつ薄暗い仏壇のスペースの方に入っていき、焼香をする。仏壇の正面に立つと、ゆるやかな礼をしてから二、三歩進み、焼香を三回してから手を合わせて祈り、下がるとまた軽く礼をした。そうして鷹揚とした足取りで仏壇の間から出て、読経している住職らの周囲を回るようにして席まで戻った。五人しかいないので焼香はすぐに終わった。順番が前後するが、確か父母恩重経が終わったあと、ふたたび息子さんのソロパートがあった。大方は何を言っているのかあまりよくわからないのだが、祖父の戒名などは聞き取れ、また、「あつむるところの功徳」というフレーズが聞いているといつも耳に残るのだった。確かこうした回向の文言が述べられたのは父母恩重経のあとだったと思う。あるいは焼香が終わって、その時読まれていた経も終わってからだったかもしれないが、どちらだったか記憶が定かでない。焼香後、読経が終わるのを待っているあいだは目を閉じて読経の響きに耳を傾けたり、こちらからはその顔の右側面が障子の白を背景に切り取られたように浮かび上がる住職の顔の輪郭を眺めたりしていた。過去の記憶では――過去に日記を書いた時の記憶では――夏のあいだの法要における住職の格好は、淡い鶯色の装束だったような覚えがあるのだが、今日は地味な色合いの、黒に近い茶色と灰色を組み合わせた羽織りを上着としていた。読経が終わると全員で合掌をし、それで回向は終了、卒塔婆を受け取るために立ち上がった。仏壇の間の境に立っていると、焼香の煙を卒塔婆に触れさせた住職が父親に二本の塔婆を渡し、さらにそれをこちらが父親から受け取って、運びながら本堂の出口に行った。こちらが外に出て靴を履いているあいだ――靴べらがあったので使わせてもらったのだが、長いこと掃除されていないようで、表面に埃か細かな土のような汚れがたくさん付着していた――両親は室の奥で正座し、住職らに布施を渡していたようだった。そう言えば、書くのを忘れていたが、父母恩重経が終わって焼香に入る間際のあたりだったと思うが、堂の外で鶯が朗々とした声を響かせて読経の声の合間に鳴きを重ねてきたのだった。そのことを取り上げてYちゃんはあとで、あれは演出かと思ったと言い、我が家での談笑の際にも、息子のやつがこうやって何かやってんじゃねえかと思った――と口にして彼は、何かリモコンを押すような手振りを取った――と言っていた。そしてこの時にも、多分同じ鶯だと思うが、随分と大きく朗らかな声で鳴く一羽があって、Yちゃんは一足先に靴を履き、玉砂利の上に下り、池の傍に立ってその鶯がいるらしい一本の木を見上げていた。いるのかと言って近づいていくと、いるよ、あそこにと言われてこちらも見上げたが、視力が悪いので枝葉のあいだのどこにいるのか、姿がよく視認できなかった。それでもじきに、枝々のあいだを移動しまわっている小さな影を視線が捉えた。実にしっかりと、堂々たる鳴きを響かせる鶯だった。
それで墓地に入り、Yちゃんが桶に水を用意し、こちらは塔婆のほかに箒を持って、皆で我が家の墓所に行った。こちらは銀色の塔婆立てに卒塔婆を挿して立てる。父親やYさんなどがそれぞれ花を用意したり、あたりをちょっと掃除したりとしていたようだ。古くなった卒塔婆はもう取ってしまえとの声が聞かれたので、一番端に立てられていた三本ほど――卒塔婆は、今しがた持ってこられた新しいもの以外は、長年風雨に晒された木が古びて全体が赤黒く汚いような褐色に沈んでいた――を抜き取っておいた。またその後、平成二六年かそのあたりのものは父親が検分して分け、それらも抜き取られていた。そうして父親が用意してくれた線香をそれぞれ皆手に持ち、順番に供え、米を墓石の台上に盛り、手を合わせて死者の冥福を祈った。ここでもこちらは手を合わせて瞑目しながら、金と時間、金と時間、金と時間、と現金なことを願った。それで法事は終了、それからちょっと墓場の端まで行って垣根の向こうに広がる町の様子を皆で眺める時間があった。昔はこの景色のなかに工場があったけれど、いつの間にか町も変わってしまったものだ、というようなことをYちゃんは言っていた。その場所には青々と葉をつけた梅の木が二本立っており、足もとにはもういくらか熟して柔らかく崩れたような梅の実が二、三、転がっていた。そうしてそろそろ行こうということになり、墓所をあとにした。Yさんは墓石の前を離れる際に、お爺さん、お婆さん、また来るね、と声を掛けていた。母親も墓参の際にはそのように言って帰るのが習いである。それから水場に行って、皆で順番に手押し式ポンプを押して手を洗い、そうして墓地を抜けると、時刻は一一時半過ぎという頃合いだっただろうか。池の周りに集まって、水中を泳ぎ回る鯉の群れを眺めながら雑談を交わした。そのうちにYさんが、池の縁の鉢に植えられた蓮の葉に目をつけて、これ凄いね、と言った。蓮の葉の大きさに驚いたのではない、先ほどまでの雨で――今は雨はもう止んでいた――その葉の上に溜まった露の輝きに惹かれたのだった。葉っぱが中心に向かうようにして僅かに湾曲しているためだろう、露は一箇所に小さく集まるようで、遠くから見るとそれが水の小さな欠片だとはとても思えないくらいに硬質な実体感を帯びており、本当に宝石そのものが葉に乗っているかに見えるのだった。Yさんはそれを撮っておこうと言って携帯を向けていた。こちらは蓮の葉に指を触れさせて微かに揺らし、水滴が僅かに曲線を描いた葉っぱの上を実に滑らかに、面白いように、珠が転がるように滑って行き来するのを見て楽しんだ。そのうちに母親が皆で写真を撮ろうと言って携帯を取り出したので、四人並び、撮影してもらい、そのあとはYさんが母親と入れ替わって彼女が入ったバージョンも撮影された。この写真はあとで家に帰ったあとにちょっと見せてもらったが、こちらは眠そうないくらか細い目と言うか、仏頂面のような顔になっていた。母親はそれを見て、こうして並べて見るとやっぱり似てるねとこちらと父親のことを指して言ったのだが、今はそれほど似てはいない。ただ、昔の両親の結婚式の写真なんか見ると、あ、俺がいるな、と思った、とその席ではこちらは口にした。
そうこうしているうちに一一時四五分頃になったので、そろそろ「K」に行くかとなった。天麩羅の店で会食を持つことになっていたのだ。A家の二人は歩いていくと言うので、こちらもそれに同道することにして、両親にそう告げ、父親に持っていた黒傘を渡して、車が停めてある東の方とは反対側の西側から寺の敷地を出た。先に歩きはじめていたYちゃんとYさんに、坂の途中で追いつくと、Yちゃんが、こっちから行ってみようと言って、坂の途中にひらいた西向きの細道の方を指す。それで三人で歩いていくと、途中の狭苦しそうなアパートの表で子供が一人、駆け回るか何かして遊んでいたのだが、それを見てYちゃんは、青梅の子供だと顔に書いてある、というようなことを言って笑った。前方から来る、幼子を抱いた母親とすれ違って紫陽花の咲いている細道を行き、ところどころに洒落た新宅もあるものの、伝統的な家々の集まったなかを通り、駅前に向かって伸びる坂道に差し掛かって、右に曲がった――ここの角に立った家を見てYちゃんは、青梅ってのはやっぱりああいう家でなきゃいけねえ、屋根はトタン屋根で、波打ってるの、などと言っていたが、青梅に妙なイメージを持ちすぎである。それほど古い家ばかりあるわけでもない。坂を上っているとYさんが、この辺に歯医者がない、と訊いてきた。わからなかったが、昔、Yさんはそこの歯医者に行かされて、それが嫌だった、怖い思いをしたのだというような思い出話を語ってくれた。そうして駅前に出て横断歩道の前に止まると、右斜め前方向、通りの向かいに立ったビルの、二階の窓ガラスに貼られた文字を見て、Yさんが、ええ、シャノアールももうなくなっちゃったの、と驚きの声を上げた。実のところ、もうずっと以前にシャノアールはなくなり、「ここから」という名前の喫茶店になっているのだが、Yさんが子供の頃にはシャノアールと言えば憧れの場所のようなもので、中学生で入るにはちょっと敷居が高い、高校生になってようやく入れるような店だったのだ、と言った。「ここから」はこちらは何度か利用したことがあるので――外でなければ文章を書けなかった数年前の話だ――いつもジャズが掛かってる店だよと紹介した。そうして横断歩道を渡り、先ほども通った八百屋の前を通り、コンビニの角から裏通りに入った。裏道を歩きながらYちゃんが、青梅もなんでこんなに寂れてしまったのかねえ、と漏らした。先ほど、駅前の元長崎屋のビルのことも話題に挙がっていたが、そのビルの一階に入っていたスーパー・マルフジももはやない。そもそも仮にも市の名を冠した青梅駅前にスーパーの一店舗もないという事実がおかしいのだ。それはこの町の絶望的な先行きを証しているような気がする。Yちゃんの言葉に対してこちらは、人がいないからだよと投げやりに受け、ちょうど元「天徳」の前に差し掛かっていたので、ここだってさあ、ともう店を辞めてしまった建物――今は単なる住居として使われているのだと思う――を指すと、Yさんが、天徳ね、と言った。この天麩羅屋はこちらが小学生の時分などはまだ営業しており、いつも角に店主のおじさんが割烹着姿で立って登下校する子供たちをにこにこと見送っていたものなのだ。この店はさらに、誰か作家が好きでよく訪れていたらしいので、誰だったかな、北杜夫だったかなと言いながらその事実にこの時言及したのだが、今しがた検索してみると、北杜夫ではなくて檀一雄だった。何となく苗字一文字、名前二文字の字面の印象があったのだろう。
天徳の角まで来れば、「K」まではもうすぐである。両親は既に着いていて、なかで待っているようだったので、店に入ってYさんがFと申しますけれど、と名乗ると、店員が、もうお待ちですと言って座敷の個室の方を指した。こちらは靴を脱ぎ、室に上がって、上座になってしまうけれど、入口から最も遠い端の席に就いて、上着を脱いで大雑把に畳み、傍らに置いて、それからシャツの袖のボタンを取って捲った。トイレに行っていた母親が戻ってくると、お前こっちに座りなよと言って自分の席と交換するように求めてきたので、それに従い、真ん中の座に就くことになった。こちらからみて左隣は父親、右側が母親、向かいの左がYちゃん、右がYさんである。この時既に、女性店員が飲み物の注文を取りに来ていた。母親は帰りに車を運転するのでノンアルコールのビール、その他の三人はジョッキのビールを注文し、こちらはコーラを頼んだ。まもなく飲み物がやって来たのだが、女性店員がテーブルの上に置いたノンアルコールビールの瓶から泡が少々吹きこぼれ、それを見て店員は、あらら、元気だった、というようなことを言って、一同皆笑った。この女性店員という人が何だかコミカルなような言動の人で、盆を運ぶ際にがちゃんと音を立ててしまったり、酒の徳利を置く際の置き方もちょっとぞんざいだったりして、仕事ぶりとしては少々雑な面も見受けられたのだが、それは愛想が悪いというのではなく、何だかどこか抜けていると言うか、滑稽なような雰囲気だったのだ。先の、ビールを「元気だった」と形容したのもそうだし、あとで母親に対してご飯を出すタイミングをどうするかと訊きに来た時もそうだった。曰く、コースの最後にご飯か蕎麦を出すのだが、予約の時ご飯と言ったかと訊いてきた。そこで四〇〇〇円のコースを頼んだと言って、客人の前で思わず値段を口走ってしまう母親も母親なのだが――一同、呆れたような笑いを漏らした――母親はご飯か蕎麦かという指定はせず、四〇〇〇円のコースということだけ申し伝えていたようである。それで、ご飯か蕎麦か選べるのだけれど、ご飯だったら天麩羅と一緒に出したらいいか、それとも最後にご飯だけ出すか、だっておかずがもうなくなってからご飯だけ出しちゃあれかなと思って、と店員は、だっておかずがなくなっちゃったらさあ、ご飯だけじゃさあ、とそのことを頻りに繰り返すのだった。それで天麩羅と一緒に出してくれれば良いと皆苦笑しながら一旦は固まったのだが、蕎麦も選べるということが明かされたので、それでは蕎麦で、となって、結局先ほどの問答は無益だったと言うか、よくわからないようなことになってしまったのだった。
食事は最初にお通し、これは鮪か何かのぶつ切りが入ったマリネのような料理だった。それから刺身、この刺身がかなり滋味豊かなような、こくのあるような味がして、美味だった。三品目は何かしらの和え物だっただろうか。四品目が確か何かの魚の西京焼き、これは店で一番人気のメニューだということだけあって、これも美味かった。そうして五品目は天麩羅、茄子に南瓜に海老に白身魚で、これも勿論美味であった。最後は緑色に染まった茶蕎麦で、蕎麦の味はまあ普通かなというくらいだったのだが、そのほかの品物はすべて美味しいのレベルに達していて、特に刺身と天麩羅はやはり流石のものであった。YちゃんとYさんは、この「K」に最近一度来たのだと言った。五月四日のことで、立川のYが赴任している(……)中を見に行ったあと、川向こうをずっと歩いてきて、この「K」に寄って食事を取って帰ったのだが、その時の品がやはり随分と美味かったのだと話していた。
Yちゃんと父親は、ビールを一杯呑んだあとは日本酒に移行していた。この店にある日本酒は富久娘、澤乃井、それに春の雪とかいうやつの三種らしく、Yちゃんは先日飲んだ富久娘が美味かったらしくてそれをまた頼んでいたのだが、この酒はあまり人気がないらしく――それをざっくばらんに話すのが先ほどの滑稽な女性店員なのだ――大将の親爺さんがもうこの酒は扱わないと決めてしまったということで、最後の一杯なのだということだった。父親は春の雪を注文していたが、これはあまり口には合わなかったようで、先の女性店員に訊かれた時にその旨はっきり口にして、でも好き好きだから、好き好き、と自分で執り成していた。その後、二人は澤乃井に落ち着いた。澤乃井というのは地元青梅のブランドで、沢井にある小澤酒造という酒蔵が作っていて、ちなみにこの酒造の娘はこちらと同級生である。
それで、食事をしながら交わされた会話は、A家のそれぞれの子供のことや、YちゃんとYさんの新婚旅行の際のエピソードなどがあったのだが、六月三〇日の午前一時前に差し掛かっている現在、もう疲れてきたし、話の内容も詳しく思い出せないので、省いて次に行こうと思う。あとでまた書くが、今日、Yちゃんが我が家から父親の黒いネクタイを誤って持って帰ってしまったところ、明日、それを取りがてら――昨日の今日だが――立川の家に遊びに行くことになっていて、それが一〇時半と早いのだ。だから日記を出来れば今夜中に完成させてしまいたいのだが、この日はこのあと、まだ我が家での会合と、職場でのミーティングと書かなければならない大きな事柄が二つも残っており、どうも今夜中に完成させるのは無理な気がする。一〇時半に立川の宅に着いていないといけないということは、九時一〇分くらいには家を出ていないといけないわけで、そうすると遅くとも七時半頃には起きたいものだから、あまり夜を更かしてもいられないのだ。
それで、緑茶を貰って飲んでから、退去して我が家に行くことになった。会計は茶を飲んでいるあいだに母親が済ませておいた。室を出て靴を履き、大将の奥方だろう、白髪の高年の婦人に有難うございました、ご馳走様ですと挨拶した。カウンターの向こうの大将には父親が、爺さん婆さんの時から、ここをよく利用させてもらっていて、と話しかけていた。大将に対してもご馳走様ですと声を掛けて皆で店を抜け、駐車場――ここの駐車場と店の建物の境あたりでは、時折り狸らしき影を見かけることがある――父親の車に乗り込んだ。父親は酒を飲んだので運転は母親、助手席に父親が乗り、こちらとYちゃんはYさんを真ん中にして後部座席に乗った。父親はもう結構酔っているようだった。
しばらく走って我が家に着き、家の前に停まると、後部座席の三人は降りてしまい、こちらが家の階段を上がって玄関の鍵を開けた。なかに入ると居間の南側の窓を開けておき――昨日よりましとは言え、やはり今日も相応に蒸し暑かった――下階に下りて、礼服を脱ぎ、肌着の黒いシャツにハーフ・パンツの姿になった。それから上階に引き返すと、YちゃんとYさんは仏壇に線香をあげて、そこに置いてあった昔の写真を見て、この頃は若かったねえと懐かしそうにしたり、子供の頃のこちらの姿を見て可愛い、可愛い、などと言っていた。その後、食卓の上に飲み物――ペットボトルの緑茶をそれぞれのコップに注いだ――と、酒を飲む二人のためにちょっとしたつまみ――キムチと胡瓜や大根の漬物に鰹節を掛けた紫玉ねぎのスライス――が用意されたが、Yちゃんはもう食べるものは入らないと言って恐縮し、結局彼の分の漬物はこちらがあとで食べてしまった。そうしてふたたび雑談が始まった。比較的最初のうちに、Yちゃんが副鼻腔炎になったという話があったと思う。職場で古くなった資材を使ってしまおうと思って切断する機会があったのだが――Yちゃんの職業というのは、何か精密部品の類を作っているようなイメージなのだが、細かいことは知れない。あとで夜に母親に訊いてみると、彼女もよくわからないようだった。父親は金属加工だろう、と言っていたが、どのようなものを作っているのか詳細は結局わからない――その時に埃を酷く吸い込んだということだった。加えて、作業場はちょっと表になったような場所にあるのだが、赤土の畑に接していて、そちらの方からも土埃が飛んでくるということで、あとから考えるとその時埃を大層吸ったことが悪かったのではないかと思われると言う。頭痛が酷く、発熱もして仕事を三日ほど休み、回復するまで結局一か月くらい掛かったとのこと。と言うか、この日のこの時にもYちゃんは、まだちょっと鼻が変だ、と言っていたので長引くものである。
ほかにどんな話があったのか、全然思い出せない。一つ思い出したのは、Yさんのまめまめしさのことで、立川の宅の隣には模型屋があったのだが、そこが先般壊されて更地になった。その土地に雑草が生えないようにと地主の男性――この人は立川の家の土地の地主でもまたあると言う――がやって来て、素人なのだがペグを使ってシートを地面に張ったものの、素人の仕事なのでうまく行かず、風が吹くとぺろりと剝がれてしまうような有様だった。それでもう一度その人が仕事をやり直そうと来た時に、汗だくでやっているからとYさんは冷たいお茶か何か用意して出してあげたのだと言う。Yちゃんはそれを語って、いいことだ、いいことだと繰り返していたが、こちらもそれはそうだと思う。流石の気遣いで、それはまあ自分の家の地主だからということもあるのだろうが、こうしたコミュニケーションのあり方がほとんど失われて久しいであろう現代社会において貴重な心遣いだろう。こちらの母親も、面倒臭いと文句を言いながらも、例えば筍を採りに来た人なんかに茶と菓子の類を出してやって、ちょっと雑談を交わすといったことをするものであって、このあたりやはり祖母などの古き良き時代の慣習を受け継いでいるところがある。
そのほか、我が家にいるあいだにも鶯が窓の外でよく鳴いていた。鳥の声ってわかる、とYちゃんに尋ねると、わからないという返答があり、今はスマートフォンで、鳥の声を聞かせればすぐに同定してくれるとか、花の写真を撮ればすぐに種類がわかるとかそういうアプリがあるらしいと彼は言ったので、それは良いなと受けた。その流れだと思ったが、スマートフォンを持っていないという話になり――Yちゃんはスマートフォンどころか、この時勢に珍しく、携帯電話自体持っておらず、こちらはいわゆるガラケーである――そこで、先日電車のなかで見かけた忙しいサラリーマン男性の話をした。例の、左手にスマートフォンを持ってゲームをやり、右手でタブレットを持って漫画を読んでいた男性――もしかしたら手と機器はそれぞれ逆だったかもしれないが――のことである。笑いながら、このあいだ電車内でね、と隣のYちゃんに話しかけ、両親には話したのだけれどと言ってその人のことに言及し、俺の見るところ、あれはゲームをやりたいのでも漫画を読みたいのでもない、ただ暇な待ち時間にどうしても耐えられないだけなのだ、と観察を語った。
そのほかのことは全然思い出せないので、また想起されたら綴ることにして、次の段に進もう。A家の二人が帰ったのは四時半頃だった。Yちゃんと父親は焼酎を飲んでご機嫌になり、父親などはかなり顔が紅潮して、呂律もいくらか回らないような風になっていたが、まあ楽しかったなら良いのではないだろうか。あとそうだ、野球場に皆で行こうという提案もあった。前々からYちゃんが、こちらが野球を見に行ったことがないということを聞きつけて、それなら今度皆で見に行こうということをたびたび口にしていたのだが、その流れでこの時父親の方にも提案が行った形である。父親はそれは良いな、と赤い顔で受けていた。それで、四時半頃になって二人が帰るので、サンダル履きで玄関を出て、見送ることにした。母親が青梅駅まで送っていくとのことで、父親のメタリック・ブルーの車がふたたび駆り出された。YちゃんとYさんは後部座席に乗り込み、こちらは手を振って発車していくのを見送り、車が道の先、坂道に入って見えなくなるまでその姿を追っていた。そうして屋内に戻ると便所で放尿してから、食卓の上に並べられた皿のうち使ったものを流し台の洗い桶のなかに集めておき、使っていないものは戸棚に戻した。それで下階に下り、インターネットを少々閲覧するか何かしたあと、五時過ぎから日記を綴りはじめた。六時半から会議があったので、五時五〇分頃には家を発たなければならなかった。それでいくらも綴れず、三〇分で切り上げたのだが、日記を綴るかたわら、Twitterのダイレクト・メッセージでHさんとやりとりを交わしていた。あちらから、いきなりすみませんがFさんは何年生まれでしたかとの質問が届いたのを皮切りに、少々会話を交換したのだった。生まれ年を尋ねてきたのは、職場の同僚に河辺駅住まいの若い人がいるらしく、それでもしかしたら知っている人ではないかと思ったのだと言う。それから会話のなかで、Hさんの住まいを伺ってみると、(……)だという返答があった。それだと立川に近くて良いですね、高島屋の淳久堂などよく行かれるでしょう、きっと同じ棚の本を見ているんじゃないでしょうかと言った頃には、もうワイシャツとスラックスの姿に着替えていたと思う。そうしてこれから職場で会議があるので失礼します、またお話ししてくださいと送ってやりとりを終え、上階に行った。母親が送っていこうかと言ったのだが、いや、いいと受けて、行ってくると告げて玄関を抜けた。
道を歩いていると、降りしきった雨の影響で細い水路の水音が高くなっていた。坂道に入って上っていくあいだ、ワイシャツ一枚でネクタイもしていない格好だから結構涼しく、夕刻になって気温も下がったなと思ったが、街道を行く頃には例によってまたちょっと汗を帯びることになった。服の裏の肌や髪のなかなどがじっとりとした湿り気を含むのだった。空は僅かな瑕の一つもなく、色の広がりに一片の乱れもなく、一律に平均化された鈍い乳白色でどこまでも広がっていた。
裏通りには犬の散歩をしている高年男性や、塀の角で立ち話をしている二人の高年女性の姿などがある。女性二人の傍を通り過ぎる時に、「姉さんももう九〇だから」という一節が耳に入った。高齢者の話と言えば寄る年波か病気のことが相場なのだろう。
白猫は今日は姿が見られなかった。青梅坂を越えて続く細道を行けば、微風が道には通って肌を少々涼めてくれるが、路傍の木々や林の方は音が立たず、濃緑の葉は揺れず静まっているなかに鵯の鳴きが入り込んでくる。先ほど飯を食った「K」の前を通り、静かななかを行きながら、それでもやはりところどころに、人の気配が滲むようだなと耳を澄ました。駅前に続く道に入って行っていると、コンビニの角に何やら見た覚えのある姿が二つある。近づいていくと、(……)先生と、(……)先生だった。お久しぶりです、と挨拶して、二人は何で、と訊くと、彼と彼女も今偶然会ったところだと言う。(……)くんはワイシャツ姿で、自転車に乗ってこちらと同様教室会議に出張ってきたのだったが、(……)先生は既に職場を離れた身である――だから「先生」という呼称も本当は相応しくないのだろうけれど――。何とか復活して、またやっていますと頭を下げて報告し、ちょっと話してから、お元気で、と言って別れを告げると、Fくんの方こそお元気で、との返答があった。そうして(……)くんと一緒に職場に向かって歩き出し、俺が復帰したってこと知ってたと訊くと、聞いていました、との返答があった。彼の方はもう大学院修士課程二年で、就職活動なり学会なりに忙しくて仕事にはもう数か月は入っていないとのことだった。
職場の入口には室長の姿があったので、お疲れ様ですと挨拶してなかに入った。奥のスペースに行くと、会議をするために席のあいだの仕切りがすべて取り払われ、机が長方形の形に並べられていた。まだいくらか完成していなかったので、机を引いて動かし、会議用長卓を完成させるのを手伝ったあと、一つの角の席に就いた。席順は、こちらから始まって右隣は早速机の向きがこちらの机に対して直角に接しており、そこには(……)先生が就いていた。長方形のこちらの位置から見て右側の辺が、(……)先生から始まって以下、(……)くん、(……)先生、(……)先生、(……)先生、そこから上の辺に移って(……)先生、(……)先生、室長、(……)さん、(……)先生と来て、左の辺は、(……)先生、(……)先生、(……)先生――この二人は同じ苗字なのだが、もしかして姉妹なのだろうか?――(……)先生、(……)先生、そうして最後にこちらのいる下の辺に移って、(……)先生に、こちらの左隣は(……)くんである。従って、計一八名の会議だった。定刻の六時半を過ぎて、(……)さんの号令で会議が始まった。最初に全員で起立し、お願いしますと挨拶の声を合わせて、それから(……)さんが自己紹介をしたのだったと思う。彼女は五月の後半くらいからだったろうか、我が職場で研修の身になっているのだが、立場としては室長補佐といった感じらしい(室長の「手下」だと自分では言っていた)。まだ社会人一年目の「ぺーぺー」だとも言っていたが、そのわりに物腰は堂々と落ち着いており、話しぶりも整然としていて淀みなく、社会人一年目だと、順当に来ていればまだ二二歳か二三歳の若者ということになるはずだが、大したものだなと思われた。丁寧な口調の話し方が整っていて、まるであらかじめ暗記してきた事柄を喋っているようだった――と言っては言い過ぎだろうが、詰まるところや、えー、とかあー、とか考えたり呼吸を調整したりする間というものがほとんどなく、整っていて、何と言うか文体[﹅2]の確立されたような喋り方だなという印象を受けた。話体[﹅2]――という言葉が一般的に使われるのか知らないが――と言うよりは、文体と言った方がそぐうような感じだったのだ。
(……)さんの自己紹介が終わったあとは、室長が数値報告をしたり、働く上での注意点などを改めて述べたりして、次にタブレットでの授業管理システムの使い方について話が移った。ここではふたたび(……)さんが進行役を担当し、彼女はまず、(……)先生を指定して、授業記録ノートに次回指示を記入する上で気をつけていることは何かあるかと質問した。(……)先生はちょっと詰まり、困ったようになりながら、次の人にわかりやすいように書いていますと答えたが、(……)さんは、具体的にはどのような工夫をしていますかと追撃した。それに(……)先生がええ、と言ってさらに困って考え込んでいるので、こちらは隣の(……)くんに、厳しいねえ、とぼそりと囁き――と言って勿論、皆に聞こえる程度の声量は出してだが――そうすると皆から笑いが引き出された。(……)さんは、ええ、私厳しいですか、厳しくないと思いますと言い、(……)先生は、正直特にないですと答えた。(……)さんはそうですかと受けて、次に指名する相手を探しはじめた。何となく来るのではないかと思っていたのだが、やはりその予想に応じて彼女はこちらを指名してきたので、来ましたね、と呟き、まず次の授業を担当する先生が困らないような指示を書くことを心がけていると言って、例えばチェックテストの箇所だとかまで詳しめに書くようにしていると例を挙げた。それからそのほかにと付け足して、ノートに講師のコメントを書きますよね、僕のやり方が良いのかはわからないですけれど、最近では生徒が書いてくれた事柄に線を引いて、そこにこちらの説明を足す、というようなやり方を取ることが多いです、そのようにして生徒の理解を補完できれば良いのではないかと思っていますと述べた。(……)さんはこちらの言を受けて礼を言い、何とかコメントを言って、それから室長の方もコメントを述べた。こちらのやり方は良いやり方だと受け止められたようである。次回支持欄の記入の仕方について言えば、これはやはり、次の先生が授業をするのに困らないような書き方をする、というのが結論として定められた。当然の話だが、実際のところ、次の授業の開始予定頁しか書かないという講師もままいるのだ。チェックテストがあるならばチェックテストの番号なども書くべきだろうし、例えばテスト範囲を次回支持欄に記しておいたって良いだろう。講師コメントに関しては、何も書かないとか、「今日はよくできました」というような通り一遍の一言のみを書くというのではなくて、何か具体的でしっかりした事柄を書いてほしいとのことだった。講師の記すコメントに関しては、保護者の方も結構見ているのだと言う。それで言えばやはり、こちらのように生徒が書かなかった事柄まで補足的に書き足してあげるというのは保護者の方から見ても文句の出にくい書き方だろうと思う。
それから、あとは何かありますかとの声が掛かったので、いいですかと手を挙げて、例えばたまに、復習をしたりして、通常の流れから外れた授業をする時があるじゃないですか、そういう時にはやはり次回指示欄にその旨を記しておいた方が良いと思います、と言い、あるいは講師コメント欄――というものが授業管理システムのなかにあって、タブレットで書き込めるようになっているのだが――があるじゃないですか、僕はあれを最近たまに使うことがあって、そこに書いておくとか……講師コメント欄をもっと積極的に使ってもいいのかなと思います、あれって生徒は見られるんですっけ? (生徒や保護者は見られない、との返答) それなので、例えばこの子はここが苦手だ、とかそういった注意点を書いてもいいのかなと思います、と述べた。これに関しても、室長と(……)さんからは同意のコメントが返った。
授業管理システムについての話し合いはそのくらいで終わり、その次に、講師間コミュニケーション、要は平たく言って自己紹介の時間がやって来た。B4だかの大きさの白い用紙が配られ、それに自分という人間を表現する三つの絵を描いてくださいとの題目が出された。こちらはいびつで下手くそな線で簡潔に、CD、ペン、本の三つを描いた。即座に終えたので室長が合間に大きな空間を挟んだ向こう岸から、もう終わったの? というような驚きの目で見てきたところ、紙を持ち上げて絵の描いている方をあちらに向けた。そうして、CDを指差して、これはドーナツではありません、などと冗談を言っておき、それからしばらく待って全員書き終わった。誰か、自分からアピールしたいという人はと室長から声が掛かり、こちらは隣の(……)くんの方を見やって、お前が行けという意味を込めてうんうん頷いていたのだが、そうすると彼は、こちらの肩に触れながら、やりたいそうですと反撃してきた。それで、こちらの両隣の(……)くんと(……)先生がジャンケンをして、負けた方から始めるということになった。それでジャンケンをして負けたのは(……)くんだったのだが、彼から開始ではなくて、彼が最後で、開始は何故かこちらからだということになったので、おかしいな、と呟きながら、F.Sと申します、二九歳、生年月日は一九九〇年一月一四日と立て続けに述べたあと、そんなことは良いか、と自分自身で突っ込みを入れ、絵の説明に移った。CDを指差して、これは何だと思いますかと皆に訊いてみたところ、間髪入れず(……)先生から、笛ラムネ、との回答があった。予想外過ぎて一度聞き直さなくてはならなかったのだが、彼女はそれを言いながら、冗談を言ったという雰囲気でもなく、真面目な表情をしていた。あとで彼女が自己紹介をする時にも覚えたのだが、彼女はちょっと不思議な雰囲気を持っている人だと言うか、俗な言葉で言えば「不思議ちゃん」と言われるような雰囲気をほんの微かに帯びているような印象を覚えた。笛ラムネは僕を構成する三要素の一つではありません、と丁寧に答えておき、CDです、音楽を聞くのが好きなので、と言った。それからペンを指し、これはペンです、と中学生英語の例文を日本語訳したような文章を口にし、ものを書くのが好きなこと、大学を出てから文学というものに嵌まって、文を書きたいがためにフリーターという身分に「身をやつしている」といったことを述べた。最後に本を指差し、本です、読書が好きなので、と言ったあと、あと何かありますかねと口にすると、室長が、担当してもらっているのは英語、国語、社会、と補足をしてくれたので、英国社を基本にやっていて、たまに数学もやりますが、本当はあまりやりたくありませんと言っておき、それから、ああそうだと思い至って、「体調の事情で」一年間休職していたこと、しかしそれ以前、二〇一三年から二〇一八年まで五年間ほど働いていたため仕事のやり方にはそこそこ通じていることを説明し、それなので何かわからないことがあったら訊いていただければと思います、よろしくお願いしますと締めた。拍手が起こった。それから右隣の(……)先生、このあとは印象に残っている事柄のみ書こうと思うが、彼は数学書を読むと言ったのが印象的だった。こちらと同じく本の絵を描いていたのだが、その頁の上に記された文字の向きが横だったので、まさか洋書でも読むのかなと思っていたらそういうことだったのだ。次に印象に残っていると言うか、こちらが手を挙げて質問したのは(……)先生の時だった。ちなみにこの自己紹介の時間では、各々の自己紹介が終わったあと、たびたびこちらがはい、と手を挙げて質問を投げかけるということを行い、そのたびに場には笑いが起こるということがあったのだが、通り一遍に進行するだけでなく、時にそういった形で流れに介入して場の雰囲気を和ませるということをやっていたわけだ。皆もそれに乗ってきてどんどん質問し、講師間コミュニケーションが生まれれば良いと思っていたのだが、そのあたり我が教室は、(……)さんの言葉を借りれば「クール」な色合いの職場で、皆わりと大人しく、この時もほとんどの人は黙っており、こちら以外に他人に対して質問を発したのは(……)先生が(……)先生に向かって一回訊いたのみだったと思う。それで、(……)先生の自己紹介の話に戻ると、彼女は大学でバンド活動をしているとのことだったので、楽器は何ですかと訊いたのだ。ドラムだと言う。さらに、もう一度はい、と手を挙げて、好きなドラマーなどいらっしゃいますかと訊いたのだが、返答はいないとのことで、何でも大学に入ってから始めたのでまだやりはじめてまもないからということだった。
次にこちらが質問の手を挙げたのは(……)先生の時だった。美術館に行ったりすると言っていたので、好きな画家はいらっしゃいますかと訊いたところ、ボストンに行った時にモネの『睡蓮』を見たのだと言う。それで印象派がちょっと気になっているとのことだった。ボストン美術館ですか、とこちらは受けて、僕は世田谷美術館でボストン美術館展がやっていた時に行って、あのモネの、奥さんが赤い着物を着ている絵があるじゃないですかと投げると、(……)先生は、自分は美術について詳しいわけではないのでその絵については知らないとの旨を答えたので、中三の英語の教科書のレッスン二のところに出てくるんですよ、カミーユっていう奥さんがいるんですけれど、その人が着物を着た絵があって、それを僕は生で見ました、と語り、っていうのを言いたかっただけです、と締めた。
次は(……)先生。自己紹介が終わったあとに、国語の教師をされていたと聞きましたが、と前置きをしてから、好きな作家などおられますかと訊くと、夏目漱石との返答があったので、定番ですねと返した。次、(……)先生が映画館が好きだと語ったのが印象に残っている。映画を見ることよりも、映画館という場所の雰囲気や匂いなどそれ自体の方が好きなのだと言う。これに対して(……)先生が、彼女もよく映画を見に行って映画館も好きらしく、好きな映画館はどこかありますかと質問して、二人で同調していたようだ。
(……)先生の時にもこちらは質問した。彼女は(……)先生がいなくなった今、この職場で一番のベテランで、こちらが大学時代に入った頃からいるので、同僚としての付き合いももうかなり長いのだが、その彼女が観劇が好きだということは今回初めて知るものだった。それで、劇を見るのがお好きだということですが、と前置いて、戯曲などはお読みになりますかと尋ねたのだが、生で動いているのを見るのがやはり好きで、文章で戯曲を読んだのは、必要に迫られて読んだ時くらいだとの返答があった。それから、こちらの質問に対して(……)先生が何やら反応していたので、え、(……)先生は、と彼女に差し向けると、授業で読んだと言うので、例えばと訊けば、『十二夜』との答えが返った。ああ、いいですねとこちらは受けて、僕は『マクベス』が好きですと応じ、それに対して(……)先生が何とか言ったのに、是非読んでください、と何故か勧める形になってしまったので笑いで落とした。
その次に記憶に残っているのは、先ほども一度触れた(……)先生の自己紹介である。彼女の語りぶりは何となくちょっと独特と言うか、切断的とでも言おうか、リズムが特徴的でちょっと面白く、内容も、マックのポテトが大好きです、と淡々とした調子のちょっとシュールな呟きで始まり、あと、寝ることが好きと言うか、起きていられないので、と続いて、三つ目の事柄が何だったのか忘れてしまったが、ともかく彼女は話しているあいだ、冗談を言ったり面白いことを言ったりしているという素振りが全然なくて、仏頂面と言うか何と言うか、やや無愛想な感じで淡々と述べることを述べたのだけれど、その様が内容や語り口とちょっと相応していないところがあってシュールな面白さを感じるのだった。繰り返しになるが、ちょっとどこか不思議な雰囲気の人である。
あと覚えているのは(……)先生のことだが、この人は今何歳なのだろうか、三〇は越えているような雰囲気を醸し出しているが、まだ入ったばかりで一度も授業をしていない人で、それなのでご迷惑を掛けることがあると思います、助けてください、と、女性にしては低くふくよかな声で、落ち着きをもって語るのだった。それで印象に残っていることというのは、彼女がミラノに五、六年いたということで、そこで生物学の研究をしていたのだと言う。そのほか、芸術が好きで、元は美大だったと言っていただろうか、記憶が定かでないのだが――美大を出たあとに、院か何かで生物学研究に移ったということなのか?――日本画を専攻していた、ということは確かに言っていた。堂々としており物腰穏やかな雰囲気の女性である。
そうして最後に、こちらの左隣にいた(……)くん。まず、この教室とは縁があって、(……)先生とこちらには中学生の時、教わっていたという話があり、こちらの最後の言葉は、新書を読め、ということだったと言う。ああ、そんなことを言ったかもしれないなあ、とこちらは受けた。彼は優秀な生徒だったので、読書をしてさらに世界を広げた方が良いと思い、新書という種類の本がある、そうしたものから読みはじめると読みやすいかもしれないねと伝えたのだろう。それでその彼だが、法学部で法律を学んでいるのだけれど、法哲学などというジャンルにも興味が出てきて、哲学を読んでいるという話があった。フランス現代思想などを読むと言うので、例えば、と隣で呟くと、メルロ=ポンティという名前が返ったので、思わず、凄い、とこちらは漏らした。さらにはデリダの名が挙がったのでこれもマジか、といった感じである。メルロ=ポンティやデリダなどいつまで経ってもこちらは読める気がしない。それにしても、デリダを読んでいるなどという人間に実生活の上では初めて遭遇したものだ。バルトはと訊くと、まあそのへんですとの返答があり、さらにあとになって自己紹介が終わったのちに、一番好きと言うか読むのはレヴィナスだということを教えてくれた。素晴らしい。今度是非、詳しく話を聞きたいものだ。
印象に残っている自己紹介はそのくらいである。そのあとは、夏期講習の注意点、各教科の授業の進め方などが説明されたのだが、これに関しては特段に強く覚えていることもないので、詳しいことは省略する。それで八時に至ったあたりで会議は終了ということになり、ふたたび皆で起立して有難うございましたと声を合わせた。そうして、パーテーションと座席を元のように戻す仕事が始まった。こちらは間仕切りの壁を運んで配置する作業を受け持ち、しばらく皆で机を運んだり、仕切りの位置を調整したりして元の状態が完成すると、座席区画の一つに入り、間仕切りの上から乗り出すようにして凭れ掛かり、両手を仕切りの向こう側に出して垂らして、レターケース前の人の流れが解消されるのを待っていた。それでボックス前から人が大方いなくなると、席の区画から出て、レターケースの棚に近づいていった。(……)先生がおり、お疲れ様ですと掛けてきたので、無言の礼で受けると、彼女は帰る方向に向かいながら、『マクベス』、面白いですかと訊いてきた。最後の方に、好きな台詞と言うか場面があるね、と受けると、そういうのって格好良いですよね、好きな台詞があるのって、と返ったので笑いで受けた。それから(……)くんも交えてちょっとやりとりを交わしたあと、(……)先生は去って行った。こちらは飲み会の類はあるのかと様子を窺っていたのだが、皆早々と、次々に退勤していった。先にも書いたが、大人しく、「クール」な性質の講師が多いのがここの特徴で、講師間のコミュニケーションというものもいくらか希薄な印象があり、飲み会などに関しても数年前は仲の良いグループがあってたびたび行っていたようだが、現状だと誰か幹事役を務める者が出てきて率先して人を集めなければおそらく催されないだろう。それで皆が去っていったあとに、(……)くんと一緒に外に出て、お疲れ様ですと教室のなかに残っていた(……)さんに向けて挨拶をした。雨がふたたび、結構降り出していた。(……)くんは自転車で来てしまったので、濡れて帰らなければならなかった。頑張ってくれと彼に声を掛け、お疲れ様ですと交わして別れ、こちらは駅に入った。発車までは一五分くらいあったのだっただろうか? ホームに上がり、待合室の壁に背を向け、立ったまま手帳を読みながら電車を待ったのだったと思う。そうして乗り込み、車内でも引き続き手帳を読んでいるうちに発車し、しばらくして最寄り駅に着いた。帰路のことは特別印象に残っていない。
帰ったあとにも目立った事柄はなかったように思うので、大方は省略しよう。帰宅して居間に入ると九時頃だったのではないか。風呂に入ったところらしい父親が、お前、立川に行く用事はあると訊いてきた。別にないけれど行っても良いと答え、何故かと訊くと、今日、Yちゃんが父親の黒いネクタイを誤って持って帰ってしまったらしいと言う。立川に行く用事があればついでにそれを取りに行ってくれないかということだったのだが、それならば明日、遊びに行こうかなという気持ちがこちらのなかに芽生えた。それで食後――食事のメニューは鍋で調理されたカップ蕎麦を食ったことくらいしか覚えていない――だったか、風呂に入ったあとだったか、母親にその旨告げて、YさんにLINEでメッセージを送ってもらった。返信が返ってくるあいだに風呂に入ったのだったか? よく覚えていないが、母親は、昨日の今日でわざわざ行かなくてもいい、Yさんだって大変なんだからと機嫌悪そうに漏らしていたものの、こちらは、明日は六月に誕生日があるYさんにKの誕生祝いをやる、よければ一緒にどうぞ、との返答に、母親には構わず、何時に伺えば良いのかとの質問を送っておいた。新聞を瞥見しながら返答を待ち、来た返事を見ると一〇時半頃とあったので、了解です、よろしくお願い致しますと馬鹿丁寧な口調で返答しておき、それで下階に下りた。
その後、一一時一〇分から日記を書きはじめた。二時間弱綴って、一時に達したところで、今日はまだ本を読んでいない、このままだと読書時間がゼロになってしまうということに気づき、それはいけないと本を読むことにして日記を切り上げた。それから畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』を一時間弱読んだ。九五頁に、「一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起っていない」」とラーゲリでの日常を分析する石原の言葉が引かれているが、これはほかにも誰かが同じようなことを言っていたような記憶の引っかかりがある。プリーモ・レーヴィではないかと思って今、『休戦』からの書抜きを大雑把に読み直してみたのだが、それらしき記述は見当たらなかった。レーヴィではなかっただろうか? それとも、書抜きをしていない箇所に書かれてあった事柄が、辛うじて記憶の端に引っかかっていて、それが刺激されたのかもしれない。
二時直前まで本を読むと、明かりを消して就床した。翌朝は七時に起きるようにアラームを仕掛けておいた。
・作文
9:46 - 9:55 = 9分
17:11 - 17:41 = 30分
23:10 - 24:57 = 1時間47分
計: 2時間26分
・読書
25:03 - 25:55 = 52分
- 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』: 72 - 118
・睡眠
3:20 - 8:55 = 5時間35分
・音楽