2019/10/2, Wed.

 私にとって最も重大な感覚は疲労である。疲労においてこそ、私は明晰であることができた。「労働とはつねに肉体労働だ。精神労働というものはない」という一友人の言葉は、今なお私には有効である。私は疲れつつあった。疲れることにおいて、かろうじて安堵することができた。だが、かつて安堵した位置へ、もう一度安堵してうずくまることができるだろうか。放棄したかにみえたものを、理由もなくもう一度放棄するだろうか。
 衰弱。それがすべての弁明ではない。だが衰弱は、弁明の必要のない、最後の有力な弁明だと思う。なんびとも衰弱を避けることはできないからだ。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、139; 「海を流れる河」)

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 僕らが一つの場面に遭遇して強い関心を持つのは、それがかならず一つの物語をもつということ以上に、それが同時に無数の[﹅6]物語をもつということのためである。そのような同時性に対する関心が成立するのは、その物語を自己と関わるものとして見るという実存的関心の故であって、作品と読者が真剣に結びつく個所は、その一個所を除いてはありえない。それ以外の結びつきはもはや好奇心でしかない。
 この場合、俳句は否応なしに一つの切口とみなされる。俳句は他のジャンルに較べて、はるかに強い切断力を持っており、その切断の速さによって、一つの場面をあらゆる限定から解放する。すなわち想像の自由、物語への期待を与えるのである。そこでは、一切のものは一瞬その歩みを止めなければならない。「時間よ止まれ」という声が響く時、胎児は産道で息をひそめ、死者に死後硬直の過程は停止する。愛しているもの、憎んでいるもの、抱擁しているもの、犯罪を犯しているもの、一切はその瞬間の姿勢のままで凍結しなければならない。そこでは、風景さえも一つの切口となることによって、物語をもちうる。
 (143~144; 「俳句と〈ものがたり〉について」)

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 第一行は〈訪れるもの〉だといったが、これは正確ではない。私は多くの第一行と路上ですれちがっているはずである。私にかかわりのない第一行は、そのまますれちがうだけだが、もし重大なかかわりがある一行であれば、それはすれちがったのちふたたび引きかえしてくる。この「引きかえしてくる」という感じは、説明しにくいが、私にとって大へん大事な感覚である。それはいちど通りすぎたのち、やっと私の顔をおもい出した、というように引きかえしてくる。とすればそれは、かつて記憶のなかで、予感のようにめぐりあった一行かもしれないのだ。
 (149; 「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」)


 正午前にようやく床を抜け出した。コンピューターを起動させ、Twitterを少々覗いてから、高潮する便意に耐えかねて便所へ。腹を軽くしたあと上階へ上がり、洗面所で顔を洗うとともに、後頭部で跳ね上がっている髪に整髪ウォーターを振りかけて寝癖を直す。それから台所に出て、冷蔵庫から前日の残り物であるところの炒飯とワカメの汁物を取り出し、それぞれ電子レンジに入れたり火に掛けたりして温めた。加えて、うどんを食べるから湯を沸かしておいてくれと母親が言うので、深底のフライパンに水を汲んで焜炉の上に置いておく。そうして卓に移動して食事。新聞一面を見れば、香港の抗議運動のさなかに警官が至近距離から実弾を発射し、一八歳の高校生が一人、重体になっているとの報がある。頁をひらき、国際面から中国の建国七〇周年を伝える記事なども読みつつものを食ったあと、台所に立てば母親が茹でたうどんを水に晒しているので、戸棚から新しい麺つゆを出してきて汁を用意した。卓に戻ってふたたび食事、うどんのほかにはやはり前日の残り物である素麺のサラダと、餃子が数個用意された。追加の品々も平らげてしまい、先日買ってきたコンビニのミルクレープを半分に分けて食べると、食器を洗い、それから風呂も洗った。さらに、兄夫婦が今月一時帰国して一八日から我が家に滞在するとかで、布団を干しておきたいと母親が言うので、元祖父母の部屋に置かれた敷布団を二つ、ベランダに運んで手摺りに掛けた。陽射しは溢れんばかりに重く肩に伸し掛かり、まだまだ夏が名残っている。そうして下階に戻ると、寺尾聰の『Re-Cool Reflections』から三曲歌って、その後、SIRUP『SIRUP EP』を流しながらここまで日記を書いた。
 Muddy Waters『At Newport 1960』とともに二時一九分まで日記作成に邁進し、そこで一旦切ったのは、確か母親がベランダに続くガラス戸を開けて、干してあった兄の布団を取り込みはじめたからではなかったか。ベッドの上に置かれた掛け布団を二つ、隣の兄の部屋に運び、さらにマットとシーツも受け取って、兄の寝床を整えた。そうしてさらに階を上がって、上のベランダの柵に掛けられた敷布団も肩に担いで、元祖父母の部屋に運んでおく。それから自室に戻るとふたたび日記に取り掛かり、Various Artists『Hellhound On My Trail: Songs Of Robert Johnson』を背景に三時一五分まで進めるそのあいだ、傍らLINEでTとやりとりを交わしていた。先日T田にも教えたものだが、Sarah Vaughanの歌う"Autumn Leaves"を、これは凄いぞと言って紹介したのだった。Tはちょうど今日、音楽の歴史を学びはじめたところで、音楽史と言っておそらくクラシックは除いてポピュラー・ミュージックの方だろうが、フィールド・ハラーやワークソング、黒人霊歌などの音源を聞いたと言う。先日の通話で話したことにも繋がるけれど、感性やセンスを磨き向上させるためにこそ、技術や知識が必要なのだとこちらは言って、どんどん知見を広げていって欲しいとエールを送り、もし興味があれば吉祥寺のジャズ・ホールで生のジャズ・ボーカルを観に行かないかと誘ったところ、ジャズを学んでみてから行きたいとの返答があったので、行きたくなったらいつでも言ってくれと了承した。それで三時一五分に達したところで溜まっていた日記の負債を何とか完済することが出来たが、当日から四日も経ってしまった二八日の記事はだいぶ適当な書き殴りになってしまった。九月二八日から三〇日までの記事をインターネットに投稿したあと、確か一旦上階に上がったのだったが、すると洗濯物がベランダの前にごちゃごちゃと置かれたまま放置されてあったので、タオルや肌着を畳んで整理した。ものを食おうかと思って上がってきたのだったが、思いの外にまだ時間が早かったので気を変えて部屋に戻り、英文を読むことにして、Serene J. Khader, "Why Are Poor Women Poor?"(https://www.nytimes.com/2019/09/11/opinion/why-are-poor-women-poor.html)をひらいた。二〇分読めば四時を越える。

・off the hook: 責任を免れて
・culprit: 容疑者; 犯罪者、罪人
・foist: 押し付ける
・patent: 特許
・expenditure: 支出、出費
・pick up the slack: 代わりを務める、不足を補う
・serf: 農奴
・all the rage: 大人気である、大流行している
・funnel: つぎ込む
・precarious: 不安定な
・teem with: 満ち溢れている

 そうしてふたたび階を上がって、カボスのジュースとゆで卵を一つ、冷蔵庫から取り出して、卓に就くとジュースを一気に飲み干してから卵の殻を剝き、塩を振って乏しい食事を即座に終えた。そうして下階に下りると、歯磨きをしながらMさんのブログを読み出した。いや、その前に伸びていた手の爪を切ったのではなかったか。ベッドに乗って胡座を搔き、ティッシュを一枚目の前に敷いて爪を切り落とし、バックに流したSonny Rollins『Saxophone Colossus』を満喫しながら、鑢を掛けて整えていると、天井が鳴ったので鑢掛けを中途で切って部屋を出た。「目玉の親父」の電池を取り替えてくれと言う。「目玉の親父」と母親が呼ぶのは、駐車場の隅に設置されているセンサー式の小さなライトのことで、『ドラゴンクエスト』に触手を生やした大きな目玉のモンスターがいたと思うが、ちょうどあれのような外見をしている。それで元祖父母の部屋に入って窓際に置かれた棚をどかし、表の通りに面した窓を開け、柵に足を掛けながら身を伸ばして、触手状の掛け具によって樋の上に設置されたライトを取ったところが、電池が切れているはずのものがどうやらまだ残っていたようで明かりが点いたので、そのまま元に戻した。そうして自室に帰り、途中だった爪の鑢掛けを完了してからMさんのブログを読んだのではなかったか。九月二六日の一日分を読むと仕事着に着替えて、その後、この日の日記を五時まで書き進め、それから財布に携帯に手帳の入ったバッグを持って階を上がった。仏間に入って靴下を履けば出発である。
 玄関に行くと、外から数人の話し声が聞こえてきた。誰が話しているのだろうと思って出れば、名前も知らない人々、婦人が二人に老人一人が、どうしてそこで立ち話をしようと思ったのか我が家の駐車場の前に集まっている。婦人の一人は大きめの犬を二匹連れていて、これは数日前に公営住宅前で見かけたのと同じ人のようだった。もしかすると老人の方も、その際婦人と話し込んでいたその人かもしれない。こんにちはと挨拶をしながら傍を過ぎ、道を進むと今度は帽子を目深に被った高年の女性が、道路の上を掃除している。Sさんのようにも見えたが、掃いている場所がしかし、彼女の宅からはちょっと離れた位置である。掃き掃除をするだけでなく、Tさんの家の傍に生えた、あれは柚子ではないと思うがそれに似た柑橘類の丸々と膨らんだ実が地面に落ちているのを、拾って林の方に投げ捨てているところにこんにちはと掛けると、老女は果物をもう一つ放ってからゆっくりとこちらに振り向き、恥ずかしいところを見られて決まりが悪いような笑いを漏らした。その様子を見ても、如何せん帽子が顔に深く掛かって、Sさんかどうか確信が持てなかったが、こちらも笑みを返して過ぎ、進んで坂に入ると、風が柔らかく寄せて身体の表面に涼しく貼りついてくる。そのなかを足を速めず鷹揚に上っていくが、しかし上りきった頃には、今日は一〇月に入ったからクールビズの期間が終わってネクタイを締めていることもあって、汗がまた湧いているだろうとそう思って進むと、出口近くで老人が一人、狭い歩幅でゆっくりちびちびと下りてきたのに、こんにちはと声を合わせれば、老人はにこやかに、福々としたような笑みを浮かべてみせた。挨拶ばかりしている道だ。
 駅に入ると早めに出たので電車にはまだ間があって人もおらず、一人ベンチに就いて手帳を読む。しばらく経って、電車到着のアナウンスが入っても、この日は何となく、ホームの先まで出るのが億劫なようで立たず、ベンチのすぐ前の車両に乗って、扉際で手帳を読みつつ到着を待った。青梅で降りてホームを行けば、その足取りも何だか重く、自ずとゆったりと運ばれて、胃も疲れているような感覚が兆していた。
 今日は室長が不在の職場である。当たる教科は英語に社会で、予習の必要もないので、準備を軽く済ませたあとは椅子に就いて手帳に道中のことをメモ書きしていた。担当した生徒は、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中三・社会)だったが、(……)くんは授業が始まってからしばらくしても姿が見えず、家に電話を掛けてみたが繋がらず、結局その後も現れることはなかった。宿題はやってこないが授業中はそこそこ真面目に取り組む生徒だし、気も弱そうでサボることもなさそうなので、何故欠席したのか不可解である。三年生の(……)くんは最初公民を扱い、終盤には歴史を少々復習した。小選挙区制と比例代表制のそれぞれの仕組みや長所・短所などについて解説。(……)くんは当たるたびにやる気がなくなっている。今日の授業中はカッターを使って鉛筆を削ったり、丸いマグネットを転がして遊んだりしており、姿勢も悪くて机に正面から向かうのでなく、真横を向いて足を投げ出しているし、それに応じてノートも完全に横向きにしている。本人曰く、そうしないと文字が書けないのだと言う。今日は過去の授業と比べてもとりわけ態度が散漫だったような気がするが、それは奥の席で周囲に人がいなかったことも理由としてあるのかもしれない。
 七時四五分頃退勤。駅に入ると連絡電車が遅れていて、奥多摩行きが停まっており、間に合ったのだがしかし、手帳を読む時間を取るために敢えて見送ることにして、いつも通り二八〇ミリリットルのコーラを買ってベンチに就いた。漆黒色の炭酸飲料を胃に注ぎながら手帳の情報を確認しているうちに、遅れていた連絡電車が着いて人々がこちらの周りを通り過ぎて目の前の電車に乗り込み、奥多摩行きは発車した。こちらは静かに目を閉じ、読んだ事柄を頭のなかで反芻し、記憶に定着させようと試みる。じきに例の、サッカークラブか何かの仲間らしい、揃いの運動着を着た中学生らがやって来て、ベンチに溜まることはしなかったがホームの先の方で騒いでいて、マンコとかチンコとかおっぱいとか卑語を叫ぶ声が聞こえてきたので、馬鹿だなあと思った。
 奥多摩行きが来ると三人掛けの席に入り、引き続き瞑目して手帳に書かれた内容を頭に入れ、最寄りに着いて降りれば今日は風が吹かない。ゆっくり歩いて駅を抜け、坂道に入って目を上向かせれば、空は雲を敷かれたらしく灰色にくすんでいるが暗夜ではなく黒影と化した木々との境が明瞭で、電灯に抜かれたこちらの影もくっきりと濃く路面に伸びる。坂を下りながら風が、流れるというほどでなく路傍の葉の先も揺らがないが、それでもやはり淡く動いて肌に涼しい。
 帰宅すると父親が寝間着姿で居間におり、母親も既に風呂を済ませたようでパジャマの頭にタオルを巻いている。こちらがワイシャツを脱いでいるうちに父親は風呂に入りに行ったので、洗面所では今服を脱いでいるところだからと遠慮して、ワイシャツは階段横の腰壁の上に掛けておいた。下階へ下り、室に入ると服を脱ぎ、コンピューターを点けて寺尾聰の、『Re-Cool Reflections』をYoutubeで流し、"HABANA EXPRESS"に"渚のカンパリソーダ"にご存知"ルビーの指環"の三曲を歌い、加えて例の、一九八一年のライブ音源も流して冒頭の"I Call Your Name"と、掉尾を飾る"Only You"、これはThe Plattersというグループが五五年にヒットさせたのをJohn Lennonがカバーしたそのバージョンをまた真似たものらしいが、その二曲を聞いてから部屋を出て食事に行った。
 唐揚げを電子レンジに、一方で米をよそり、大根の葉を具にした味噌汁を熱して、細くスライスされたキャベツの生サラダを大皿に盛り、炒めた蓮根に、これも大根の葉の、あれは和え物と言うのだろうかそれらしき品を、それぞれ皿に載せて卓に運ぶ。父親も既に風呂から出て、食事の支度を始めている。卓に就けばテレビは九時のニュースを流して、北朝鮮情勢に関して、先頃解任されたジョン・ボルトン米大統領補佐官の強硬発言が伝えられ、その次に関西電力の幹部連による金品受領問題に関して記者会見の様子が流された。それらをぼんやりと眺めながらものを食い、平らげると抗鬱薬を飲んで、母親の分もまとめて食器を洗うと風呂に行った。掛け湯をしてから縁を跨ぎ越えて浴槽のなかに踏み入れば、父親が温めたものか、湯が随分と熱い。靴が合っていないようで足の指が擦れていくらか傷ついているのに、湯の熱が染みて少々痛む。しばらく浸かったあと、髪を洗いながら"I Call Your Name"を口ずさみ、出て髪を乾かすと下着一枚のしどけない格好で扉をくぐり、すると母親が梨があると言うので一切れだけ貰って下へ、室に入るとコンピューターに寄ってすぐにメモを取った。とにかく折に触れてメモを取りまくる、それが自分を救うのだ。
 メモを終えるとcero "Summer Soul"を歌い、すると何故かインターネット回線が繋がらないので、再起動すれば直るかと命令を下し、最近はこのコンピューターももうがたが来ているようで動きが大変鈍重なので、本を読みながら立ち上がるのを待ったが、これが数年前だったら動作の鈍さに苛々させられて仕方がなかっただろう。再起動されると、Art Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』を掛けて前日の日記を読み直し、しかしもう文の質にこだわるのは止めたから直すところもあまりなく、仕上げるとインターネットに投稿した。その後、一〇時四〇分から一一時まで二〇分、読書の時間が記録されているのは、これは栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の書抜きである。
 それから久しぶりに緑茶を飲むかというわけで、用意をするため上階に行った。居間では父親が歯磨きしながらテレビを見ていて、映っている番組は『歴史秘話ヒストリア』、渋沢栄一を取り上げているらしい。茶壺に茶葉が入っておらず、近くに深蒸し茶の袋が一つあったので鋏で切り開けたところがよく見ればティーバッグ型のもので、そんなものが美味いはずがないから捨て置いて、新しい茶の在り処がわからなかったので下階に下り、両親の寝室に行って寝床でうとうとしていた母親に訊けば、仏壇の横の袋のなかと言うので階段を引き返し、仏間に入って、Kのおばさんの葬式の返礼だという目当ての品を見つけ出した。それで緑茶を支度していると、テレビは王子と言って、渋沢の作った製紙会社が王子にあったのだけれど、あ、王子じゃん、あれじゃん、とこちらが漏らしたのは、もう一年も経とうか昨年の秋に、その頃はT子さんがまだ王子に住んでいたところに一家三人遊びに行って、飛鳥山公園内にある紙の博物館なる施設を訪れたことがあったからだ。
 塒に戻り、温かな緑茶を飲んで背に汗を搔きながらインターネット記事を読む。汗が湧くと、体臭が匂い立つ。もっと歳を取ると、これが加齢臭になるのだろうと切ないことを考えながら読んだのは、まず「無意識の超自我としての憲法九条 「憲法の無意識」(岩波書店)刊行を機に 柄谷行人氏ロングインタビュー」(https://dokushojin.com/article.html?i=791)である。次にWeb論座から、高山明「「あいち」補助金不交付は、なぜ危険なのか」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019092800003.html)、米山隆一「あいちトリエンナーレ補助金不交付の支離滅裂」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019092700007.html)と読み、さらに入管関連のニュースを二つ、「入管施設での外国人死亡は餓死 入管庁「対応問題なし」」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191001-00000031-asahi-soci)と「「安全な国、日本しか…」 終わりない収容、募る不安」(https://www.asahi.com/articles/ASMB165WLMB1TIPE01Z.html)を読むと、それでもう零時を越えた。高山明の記事の一部を以下に付す。

 税金を使うなら多数派の気に入るように。そう考えられがちな日本とは反対に、ドイツでは、多数派とは異なる意見を発表することや、小さな声を尊重するために公金を使うべきだという考え方が、社会で共有されています。
 ドイツは、検閲や弾圧によって徹底的に異論を排除したナチスの独裁がどんな結果を引き起こしたか、歴史から学びました。あの悲劇を二度と繰り返さないために、戦後は、異論を尊重する社会を作ろうとしてきました。
 少数派の、たとえそれが多数派にとって愉快でないものであっても、様々な考えや表現を発表する自由を公的なお金で支えることによって、社会の健全さを保とうと考えてきたのです。その方が社会という「身体」にとってよい。だから公金を使えるわけです。

 ドイツの公共劇場では劇場長(責任者)と弁護士が緊密に連絡を取り合い、「いかに警察に介入されないですむか」と考えて、様々な事前準備をします。表現の自由を、法律で守っている。どんなに多数派や政治家が気に入らない表現でも、法律に違反しない限り、守るべきは守る、という姿勢です。
 それに比べて、日本では、根拠のはっきりしない「世間の声」が法律より上にあるように感じます。声の大きな人たちが「自分たちが多数派だ」「これが世間の常識だ」と主張して、異なる意見を封じこめようとする。政治権力がそれと一体化している。

 続けて、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』の記述を手帳にメモしていく。傍ら聞いたのはArt Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』だが、このなかの"Minor's Holiday"がなかなか凄いのではないかと思われた。Art Blakeyの煽りまくるドラミングも面白い。
 栗原の本によればヒトラーユダヤ人絶滅を元々構想していたというのは間違いで、絶滅政策は独ソ戦が進む過程で、食糧事情の悪化などの要因もあって、戦争政策の一環として実行されたものだと言う。そこにおいては労働可能なユダヤ人と労働不能ユダヤ人とが区別され、後者は絶滅対象になったが前者は生かして労働力として使い潰す方針が取られた。まずもってラインハルト作戦の開始当初、総指揮官のグロボツニクという幹部は、ヒムラーに宛てた報告書にて作戦の具体的な任務として、ユダヤ人の移住と並べてユダヤ人の労働力の活用という項目を作っており、従って当初から作戦の目的が単なる「絶滅」のみならず、労働力の利用にもあったことは明らかだとのことだ。
 そういったような事柄を手帳に書き付け終えると一時過ぎ、茶をおかわりしに上階に行けば、父親も既に寝室に下がって、電灯は落とされて居間は無人、そのなかで侘しい明かりを点けて緑茶を用意し、居室に戻ればヘッドフォンをつけながら読書を始めた。花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』で、これはまもなく読み終わり、音楽も仕舞えて一度コンピューターを落としたが、思い直してふたたび起動して、Sonny Rollins『Saxophone Colossus』を聞きながら、ナチスホロコースト関連とその他の本と交互に読む方針を一応立てているので、次には何か小説を読もうというわけで辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ』をひらいた。辻瑆訳の『審判』、これは岩波文庫にも入っているものでそれもこちらの書棚に収められているが、それを読み進めながら『Saxophone Colossus』の二曲目、"You Don't Know What Love Is"の、実に太く重々しいベースが耳を寄せようとせずとも自ずと迫ってきて素晴らしい。ここでベースを担当しているDoug Watkinsは、先ほど聞いたArt Blakey & The Jazz Messengers『At The Cafe Bohemia, Vol.1』でも弾いている。ドラムのMax RoachはBlakeyに比べるとだいぶスマートな叩きぶりで、「歌うドラム」と言われるように技が多彩で、巧手といった言葉が似つかわしい。
 読書ノートに気づいたことを書きつけながらゆっくり読んで、『Saxophone Colossus』が終わったあとはCharlie Parker『Bird At The Hi-Hat』を流したが、じきに音楽にも疲れたので止めて時間を見ればもう三時半を迎えていて、そのくせ読書は、三段組とは言っても五頁から一二頁までしか進んでおらず、それはたびたびノートを取って文言を引用してはコメントを付しているからなのだが、カフカはやはり興味深く、気になることが色々とあって考えが湧いてくるのだから仕方がない。
 『審判』の冒頭近くで気に掛かったのは、余剰とも感じられるようなほとんど意味のない細部が散見されることで、例えばKは彼を逮捕しに来た二人の「監視人」に対して、「まるで身をもぎ離しでもするかのような仕草をしてみせ」(6)るし、彼らの「知能程度」の低さに呆れて、「部屋の中のあいた場所を二度三度行ったりきたり」(8)、落着かずにうろついたりもする。Kの向かいに住んでいる老婆は、「自分よりもっとずっと年をとった老人を、窓のところにひっぱってきて、これを抱きかかえて」(8)やりながら、Kの部屋で繰り広げられる逮捕劇を見世物のようにして覗いている。Kと対面した「監督」は、会話の最中に、「一方の手をしっかりと机におしつけ、それぞれの指の長さを比べてみている様子」(12)だと言うし、また、「二人の監視人は飾り覆いのかけてあるトランクの上に坐り、膝をこすっていた」(12)。これらの何を意味するとも思えない奇妙な動作は、文章を切り詰めた結果として厳密に取捨選択され、物語世界に必要不可欠な素材として残されたのではなく、その場の思いつきで即興的に書きつけられたかのような気配を帯びており、ある種冗長で、むしろ削ってしまった方が語りはすっきりと整うようにも思われる。ロラン・バルトによれば、物語の構造上意味を持たないように見える具体的でささやかな描写というものは、写実主義の記号表現として機能するというのだが、しかしカフカにおけるこれらの無意味さは、現実らしさ、自然らしさの確保とは違う機能を持っているように感じられる。それはリアリズムを担保するものとしての無意味さと言うよりは、カフカ自身が『審判』のなかに書き込んでいる表現を借りると、「意味深長らしくはあるがわけのわからぬ」(7)ものとしてあり、作品世界の位相を僅かに動揺させ、意味を取りとめもなく拡散させて体系的な言語秩序の構築を阻むようなものではないか。平たく言って、こうした細部を含む諸要素の特殊な取り合わせ方によって、カフカの世界はちぐはぐな[﹅5]感触を与えるものとなっている。カフカの記述は体系的に整序されて過不足のない物語秩序を形作るのではなく、半ばばらばらな意味の小片がぎこちなく、強引に繋ぎ合わされることで、美しい写実を逸脱したいびつなモザイク画のような様相を得ているのだ。
 四時二五分に達したところで、さすがにそろそろ休もうと本を閉じ、明かりを消して寝床に入ったが、緑茶を何杯も飲んだためだろうか、睡気が訪れる気配がまったくなかった。


・作文
 13:13 - 14:19 = 1時間6分
 14:28 - 15:15 = 47分
 16:42 - 16:59 = 17分
 22:10 - 22:27 = 17分
 計: 2時間27分

・読書
 15:42 - 16:02 = 20分
 16:23 - 16:38 = 15分
 22:41 - 23:00 = 19分
 23:17 - 24:08 = 51分
 24:18 - 25:07 = 49分
 25:15 - 28:25 = 3時間10分
 計: 5時間44分

・睡眠
 ? - 11:55 = ?

・音楽