2019/10/1, Tue.

 密林[タイガ]のただなかにあるとき、私はあきらかに人間をまきぞえにした[﹅10]自然のなかにあった。作業現場への朝夕の行きかえり、私たちの行手に声もなく立ちふさがる樹木の群に、私はしばしば羨望の念をおぼえた。彼らは、忘れ去り、忘れ去られる自我なぞには、およそかかわりなく生きていた。私が羨望したのは、まさにそのためであり、彼らが「自由である」ことのためでは毫もない。私がそのような心境に達したとき、望郷の想いはおのずと脱落した。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、130; 「望郷と海」)

     *

 私がたたずんだ地点から上流は、河の過去であり、下流は河の未来であり、たたずんだ私のはばだけが河の「現在」として、私の目の前にあった。そして私がたたずんでいるそのあいだも、河はつぎからつぎへと生れかわるようにして、三つの時間帯を通過しつつあった。
 音という音が扼殺されてしまったような静寂のただなかで、私をとりかこむ時間の、この不思議な感触を、いまだに私は忘れることができない。河は永遠の継続、永遠の未完了として私の前を、ひたすらに流れつづけた。
 (137; 「海を流れる河」)

     *

 海よりもさらに海を流れる河。私はこの言葉に一つの志向を託送したかったのだと思う。怨念ともいうべきものはその時の私にも、今の私にもない。私が思ったのは、河は海にまぎれずに流れつづけることが自然[﹅2]であり、北を目指しつづけることが自然だということであった。北への指向になぜそれほどこだわったのか、今ではほとんど不可解だが、私にそのとき、母国を目指す南への指向とほとんど等量に、北への指向があったことを不思議に思わずにはいられない。おそらく等量に、母国へ向おうとする志向と、母国を遠のこうとする志向があったのではないかと思う。それはいわば、ある種の予感のようなものであったのかもしれない。
 河に終焉があってはならない。なにごとにあれ終焉に至る思想を、私は本能的に回避したと思う。病ですら、終焉に至ってはならなかった。いま病む者は、その病いを終ることなく病まねばならぬ。
 (138; 「海を流れる河」)


 寝床に光の射しこむなか、意識の混迷に苦しんだのち、一一時一五分に至ってようやく身体を起こした。階を上がり、母親の書置きを確認してから洗面所で顔を洗って髪を整える。鮭や大根の煮物があると書置きには記されていたが、それらは置いて卵とハムを焼くことにした。フライパンにオリーブオイルを垂らしてハムを四枚敷き、その上から卵を二つ、割り落とす。フライパンを傾けて卵を滑らせながらしばらく熱したあと、丼によそった米の上に取り出し、それだけ持って卓に移動すると新聞を引き寄せて食事を始めた。醤油を垂らしながら黄身を崩し、ぐちゃぐちゃと搔き混ぜて米に絡めてから口に運ぶ。新聞は国際面をひらくと、パレスチナ自治区ラマッラで名誉殺人に反対する抗議活動が行われたとの報があった。同じ自治区内のことだったか場所は忘れたが、先般、二一歳の女性が交際相手との写真をSNSに上げたことで、一族の名誉を汚したとして親族に殺されたと言う。
 ものを食べ終えると冷蔵庫から、前日に買った三つのケーキのうち、チョコレートスフレを取り出してきてフォークで細かく千切りながら食った。そうして皿を洗うと風呂に行ったが、残り湯が浴槽の半分ほどまで余っていたので、今日は洗わずこのまま沸かすかと一人で決めて、汲み上げポンプだけ水から出してバケツに入れておき、浴室を離れて下階に下った。コンピューターを起動させると、寺尾聰『Re-Cool Reflections』の音源をYoutubeで流し、歌を歌う。その後、SIRUP『SIRUP EP』を流し出し、前日の記録を付けてこの日の記事も作成すれば、早速日記に取り掛かる。一二時一〇分から始めて歌を口ずさみながら、ひとまずここまで綴った。二七日の記事は推敲しなくてはならないし、二八日の記事はほとんど何も書いておらず、昨日の三〇日の分も記憶が失われないうちに記しておかねばならず、なかなか切羽詰まっている。
 まず、二七日の記事を推敲することにしたのだが、これに時間が掛かる掛かる。音楽は、「寺尾聰 ライブ NHK FM 1981 年8月9日ON AIR」(https://www.youtube.com/watch?v=RkxS1KkwB7A)を流した。これは前日に見つけたものなのだが、冒頭のThe Beatlesの"I Call Your Name"など格好良くて、なかなか上質の音源である。それで二時まで重たるい打鍵を続け、部屋を出て上階の洗濯物を取り込むと畳まないですぐさま戻り、さらに四五分ほど二七日の記事を推敲して、ようやく仕上がった。音楽はその頃には、cero『Obscure Ride』に変わっていただろうか、それともさらに進んでSuchmos『THE BAY』に入っていただろうか。ともかく九月二七日の記事をようやくインターネットに投稿することが出来、その後、まだ前日分に二八日分も残っていたのだが、一旦日記作成は中断し、前夜にコンビニで買ったポップコーンを食いながら、ここのところ触れられていなかったMさんのブログを読んだ。続けて自分の一年前の日記も、九月二八日から一〇月一日まで読む。九月二九日に次のような記述があった。当時はまだ鬱症状の圏域から逃れていなかったと思うが、そのわりに随分と冷静に、自己を客観視して分析している。この諦観の籠った平静さ。

夜、緑茶をおかわりしに居間に上がって来た際、父親に通院の報告をする。症状の特段の変化はないが、ロラゼパムがなくなったと。それは何かと問うので、安定剤だと答える。現状、不安という症状はなくなったので、それはいらなくなったのだ。ロラゼパムにしろスルピリドにしろ、それで言えばクエチアピンにしろ、飲んでいても自分に何らかの効果を及ぼしているという実感は全然ない。薬が減ったにせよ、本を読んでいて楽しいとかそういう感情はやはりないのだろうと父親が問うので、その点は変わっていないと返答する。そうしたらまたそのあたりを改善する薬なり方策なりを相談してみて、と父親は言うが、賦活剤としては多分エビリファイぐらいしか選択肢はないのだろうし、メジャー・トランキライザーの類をこれ以上使うのも気が引けるものではあるし、そもそも自分にはもはや精神病薬の類はほとんど効かないのではないかというような気がする。何というか、心身が全般的に鈍感化しているのだ。それはそれとして、まあ精神疾患は長いものだろうし、例えば一年後に今よりも多少楽しくなっていたり、感受性が戻ったりしていればいいとそのくらいのスタンスではいると言うと、お前がそうして余裕のある心持ちになっているのだったらそれは良かったと父親は安心したようだった。比較材料として春から夏頃のこちらの「焦り」を彼は挙げてみせたのだが、当時のこちらは確かに自分の症状が一向に変化しないことに打ちひしがれていた。それは「焦り」というよりは、もう数か月の時間が経ったのに何の改善もない、自分はおそらくずっとこのままなのだろうなというちょっとした絶望感のようなものだったのだが、それでまともに自殺を考えていた頃に比べれば、まあ一応精神的に良くなったとは言えるのだろう。しかし、現在は現在でやはり、今の状態からこれ以上明確に良くなることも多分ないのだろうなという諦観を抱いてはいる。良くなるというのは、芸術的感受性や思考力や創造性のようなものが戻ってくるということだが、自分の状態はそうした点では多分これ以上向上することはないだろうと予測している。それは絶望というよりは、自分の体感を鑑みて下した冷静な判断である。勿論、一時期文を全然読めず、読書の能力は自分から永遠に失われたと思っていたところがまた一応はものを読めるようになったように、予測が外れることもあるかもしれないが、いずれにせよ、年始以来の自分の病理は心理的なもの、ストレスなどによるものというよりは、ほとんど純粋に器質的なものである。つまり原因はわからないものの、端的に言って脳がどうかなったということで、脳内の問題など、人間の力で直接的にどうにかなるようなことではないのだ。だから、人事を尽くして天命を待つというか、今の自分に出来ることをやって結果が出ればそれで良し、結果が出なければもう仕方がないと、そうした割り切りの心境に今はおおよそ至っている。欲望や情熱、感受性の類が戻ってくればそれは当然有り難いが、戻ってこなくともこのままで生きられないでもあるまい。それは言ってみれば退屈な、阻害/疎外された生かもしれないが、まあ最悪のものだというわけではないだろう。

 九月三〇日の記事には、さらに一年前の日記からの引用として、以下のような文章が載せられていた。当時はこれでよほど頑張っていたはずなのだが、今の目から見るとやはりまだまだ推敲の余地がある。

 道にまだ日なたの明るく敷かれている三時半、坂への入り際に、西空から降りかかる露わな陽射しに背中が暑い。上って行きながら温んだ空気に、シャツのボタンを一番上の首元まできっちり留めていることもあってか、息苦しいような感じがちょっとあった。街道に出るとまだ新鮮な、剝かれたような太陽が浮かび、光の空に満たされたその膜に呑まれてあるせいだろう、西の雲は実体を抜かれて純白の空とほとんど同化するほど稀薄になっていた。その下に、トタンのものだろうか小屋のような建物の屋根が、激しい輝きの凝縮に襲われている。
 この日は薬を飲まずに出た。もう四日間飲んでいないが、それで体調に乱れが生じるでもなく、気は怖じず心身はまとまって歩みも落着いている。パニック障害というものを患ってもう八年ほどになるから、考えてみればそこそこ長いものだ。一時は相当苦しめられたが投薬によって回復し、ここ二、三年は日常生活にもほとんど支障もないまでになっていたものの、何だかんだで止められずにいた服薬と、いよいよさらばの時が来たのか。
 長めの労働を済ますあいだも不安に触れられることもなく過ぎて、帰る夜道は風が時折り湧いて、なければ空気は揺らがず止まって随分静まる。そんななかを歩きながら虫の音も大して聞かず、昼間に聞いた毒々しいようなロックミュージックの叫びが頭のなかに繰り返し回帰し、途中で見上げれば夜空には雲間があって星が見え、その傍らを同じくらいの大きさの飛行機の光が通って行く。欠伸は湧いて来るものの、あまり夜のなかにいるという感じもしなかった。深い夜更かしの常態となった生活のせいもあろうが、そもそも自分がいまこの地点にいるということそのものに釈然としないような現実感の稀薄さがあった。前日にも風呂から出たあと髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔の、見馴れたはずのそれであることが不思議なような、腑に落ちないような感じがあって、これは離人感と呼ばれるもののごく薄い症状だろうと思う。ことによると、独我論にも通じてくるような気分のようだが、瞑想を習いとしているそのことがあるいは影響しているのだろうか。仏教における最終到達点であるはずのいわゆる「悟り」と呼ばれる境地など、知ったことでなく目指してもいないが、方法論としては現在の瞬間を絶えず観察し続けることとされており、それには一応従って続けてきた結果、観察する主体としての自己が強く優勢になりすぎたと、そんなことがあるものだろうか。主体的自己と対象的自己の分裂、などとちょっと思ってもみたが、ともかく大したものでなく、単に歳月を重ねて時空が摩耗したのだと、三十路に達せぬ若輩でそれもないものだが、つまりは曲がりなりにも歳を取ったのだと片付けてしまいたくもなる。そうは言いつつも、歩く自分の身体の動きもこちら自身から独立して勝手に動いているような分裂感があり、それを見ながら、狂いの始まりとはあるいはこういうものかもしれないと、また大袈裟なことが浮かんだ。不安障害の長かった余波からいよいよ完全に逃れるかと、昼にはそう思った同じ期に、縁起でもないことではある。しかし続けて、人が狂うという時に、一挙に果てまで発狂するよりも、気づかぬうちに忍び寄られて静かに、徐々に狂っていくものではないかと、そんな馬鹿なことを思いながら玄関の戸をくぐった。

 日記を読んで三時半に掛かると、前日の記事を書き進めたのだが、この時はもう推敲などという七面倒な仕事は抜きにして、自分の本分は文の質ではなくてやはり記録なのだと、一筆書きでがんがん記していこうと、そういうモードに手と頭が切り替わったようで、文体を整えることなど気に掛けずにどんどんと書き進めていった。それで一五分ほど書いたところで喉が渇いたので、一旦切りとして上階に行き、冷蔵庫で冷やされた水を飲んで身体を潤したあと、取り込んであった洗濯物を畳んだ。タオルを整理し、足拭きの類は洗面所やトイレに運んで設置しておき、下着を畳んでソファの背の上に置いておくと、下階に戻ってきて、この日の記事をここまで書き足して四時を越えている。
 四時半前から、歯磨きをしながら英文を読み出した。Richard J. Bernstein, "The Illuminations of Hannah Arendt"(https://www.nytimes.com/2018/06/20/opinion/why-read-hannah-arendt-now.html)である。三〇分も掛からず最初から最後まで読み終えたのが、自分ながら意外だった。少しずつでも英語の読解能力が上がってきているのだろうか。以下に覚えておきたい語句と、気になった箇所を引く。

・exhortation: 奨励
・intractable: 解決困難な
・comity: 礼譲
・dwell on: 深く考える、思案する
・farce: 茶番
・blatantly: あからさまに
・take one's bearings: 自分のいる方角(位置)を知る
・doomsayer: 悲観論者

In her 1951 work, “The Origins of Totalitarianism,” Arendt wrote of refugees: “The calamity of the rightless is not that they are deprived of life, liberty and the pursuit of happiness, or of equality before the law and freedom of opinion, but that they no longer belonged to any community whatsoever.” The loss of community has the consequence of expelling a people from humanity itself. Appeals to abstract human rights are meaningless unless there are effective institutions to guarantee these rights. The most fundamental right is the “right to have rights.”

Many liberals are perplexed that when their fact-checking clearly and definitively shows that a lie is a lie, people seem unconcerned and indifferent. But Arendt understood how propaganda really works. “What convinces masses are not facts, not even invented facts, but only the consistency of the system of which they are presumably a part.”

People who feel that they have been neglected and forgotten yearn for a narrative — even an invented fictional one — that will make sense of the anxiety they are experiencing, and promises some sort of redemption. An authoritarian leader has enormous advantages by exploiting anxieties and creating a fiction that people want to believe. A fictional story that promises to solve one’s problems is much more appealing than facts and “reasonable” arguments.

 記事を読むと四時五〇分、廊下に吊るされたワイシャツを取るために部屋の扉を開けると、上階に人の気配がある。母親が帰ってきたようだと見てワイシャツを着込みながら階段を上がり、挨拶をしておくとすぐに下に戻って、四時五五分からほんの少しだけとキーボードに触れ、六分間だけ前日の記事を書き足すと、財布や携帯や手帳の入ったバッグを持って部屋を出た。仏間に上がって生地の薄い黒靴下を足につけると、母親に行ってくると告げて玄関を抜けた。道に出ながら行く手の空に目を向ければ、西の端の雲のなかに、ほとんど見分けられないほどに幽かな紫の色が孕まれて、転じて頭上は雲が薄れて、青さがいくらか透けている。歩いて行くと近所の庭の垣根の裏や、林の縁の茂みのなかに、彼岸花が何本も顔を出して群れている。
 公営住宅の前まで来ると、Kさんが、何をしているのか自宅の敷地に停まったトラックのなかに乗っていたので、会釈を送って過ぎ、坂に入ると片手をポケットに突っ込んで足を鷹揚に運んだが、しかし上っているとやはり、ワイシャツの下の腕に汗が滲んで、その蒸し暑さに夏がまだ名残っているなと見た。坂を抜けて駅のホームに入ると、ベンチにはスーツ姿の高年と、良くも目を向けなかったが若そうな女性がいて、二人のあいだに腰を下ろせば、ベンチの端に荷物を置いて座らず立っていた高年の男性はじきに去って、淡い桃のような落着いた色合いのスカートにヒールを合わせた女性のみが残ったが、この人が何だか挙動不審で、たびたび立ち上がっては線路の先を見通したりして、こちらにも視線を送ってくるような気配があった。鴉が数匹、線路を挟んで向かいの道の電柱の上に集まって、ざらついた声を降らしているのを見上げていると、女性もこちらの視線を追って、鳥たちの方を見ていたらしい。電車を待っている様子でもなく、土地の者でもないような雰囲気で、こちらに視線を差し向けるのは、何か尋ねたいことがあるのだろうか。どうかしましたかと、声を掛けてみようかとよほど思ったが、持ち前の引っ込み思案を発揮して、目も合わせずに手帳に記された情報を追った。ホームには風が横に流れて涼しげで、服の内に醸された汗を引かせてくれる。
 女性はじきに立って階段の方へ行き、そのまま駅を出るのかと思いきや、階段口で止まって何やら迷うような素振りを見せていた。そのうちに老人が階段を下りてやって来ると女性は何か尋ねて、答えを受け取ると問題は解決したらしく、ようやく階段を上って駅を出ていった。こちらはその後、手帳を見続け、電車到着のアナウンスが入ると手帳を片手に持ったまま立ち、頁に目を落としながらホームの先へ出て、電車に乗ると扉際で引き続き紙の上に記された事柄を脳内で反芻し、青梅で降りると乗換えの客をやり過ごしてから駅を出て職場に行った。
 今日も一コマの楽な労働、相手は(……)くん(中三・英語)に(……)さん(中三・英語)、(……)さん(高三・英語)の三人である。なかでは(……)さんがやはり、進みがいくらか鈍くて手が止まりがちで、今日はテスト範囲の最初の方を復習したのだけれど一頁しか扱えなかった。もっと傍に就いて促しながら一緒に解いてやりたいのだが、勿論ほかの生徒にも当たらねばならないし、ノートにコメントを記す時間などもあってなかなかそうも行かない。(……)くんも、最近は宿題をやって来ないし、彼も復習をしたけれどどれだけ頭に入ったか覚束ないところだ。(……)さんは自主的に進めてくれるので問題はないが、解いてもらって間違えたところの解説をするだけの、少々漫然としたような授業になってしまったので、もう少し突っ込んだ工夫が出来ないものだろうかとは思う。
 退勤して駅に入ると、券売機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。改札を抜けて階段を下り、線路の下をくぐる道に入ると、誰か乗客の身体についてきたものだろうか、黄色い蝶が通路の真ん中を漂っていて、こんなところで蝶を見かけるのは珍しく、壁に展示されている映画看板を背景に、随分と明るいような黄だなと注視した。ホームに上がると今日も自販機で二八〇ミリリットルのコーラを買い、無人のベンチの端に就いて、炭酸飲料を飲みながら手帳を眺めた。飲み干すとボトルをボックスに捨て、席に戻ると手帳を取り上げ、今度は読むのではなくてこの日のことを記しはじめた。とにかく記憶が薄れないうちに、メモ書き程度のもので良いから書き留めておくことが、日記を正式に作成する時の自分を救うと、そう学んだのだ。それで手帳を斜めに傾けてペンを滑らせていると、こちらの背後、反対側のベンチの前に、モスグリーンの長いコートを羽織った若い女性が現れて、彼女はしゃがみこんで何やら待合室の方にカメラを向けていたようだ。観光客だろうか。
 メモを取っているあいだに奥多摩行きがやって来たので三人掛けの席に乗り込み、引き続きメモ書きをしていると定刻に達し、発車すると揺れで文字が乱れるから書くのはそこまでとして、ふたたび読む方に切り替えて到着を待った。最寄り駅のホームに降りると風が正面から、結構な厚さで流れて涼しい。駅舎を抜けて木の間の道に入ってからも、風は下り坂の暗がりの奥からふわりと上って来て、頭上の木々の内に安々と入りこんで葉鳴りを引き起こす。電灯の明かりのなかで揺らぐ葉に目を送り、まだまだ随分青々と、塗られたような色を籠めているなと見て過ぎて、平ら道に出れば方角が東西に変わるので風は止むかと思ったところが、緩くほどけた質感になったがまだ背後から寄せてくる。さらに進んで道の片側に家もなくて木々が沿ってくるあたりで身に触れるものはなくなったが、左方の林の高みの闇から、秋虫の音に紛れながらも、静かではあっても確かなざわめきが漏れてきて、やはり木のなかに、風は吹いているなと聞きながら家に着いた。
 なかに入ると居間に仕事着姿の父親がいて、ただいまと言えば俺も今帰ってきたところだと言う。母親は入浴中だった。ワイシャツを脱いで丸め、洗面所の籠のなかに入れておくと下階に下り、服を脱ぎながらコンピューターを点けて、寺尾聰『Re-Cool Reflections』の音源をYoutubeで流していくらか歌った。「寺尾聰 ライブ NHK FM 1981 年8月9日ON AIR」にもアクセスして冒頭の"I Call Your Name"を口ずさんだが、このThe Beatlesのカバーは原曲の軽妙さに比べて随分とレイドバックしていると言うか、寺尾のボーカルの気怠いような気味も相まってブルージーに格好良く、上質なカバーになっている。それからThe Beatlesの原曲の方も流し、横滑りして"Twist And Shout"に合わせて叫び散らし、さらに"I Saw Her Standing There"も歌ったあとにこの曲のカバーをちょっとYoutubeで探ると、アコースティックギター一本で弾き語っているものがあった(https://www.youtube.com/watch?v=Z4cmBHLsw1s)。このくらいの演奏と歌唱が出来れば自分は満足なのだが、練習している余裕もなく、そもそもアコギを持っていない。
 九時を越えたあたりで上階に行き、食事である。メニューは炒飯に、ワカメが大量に入った汁物、おかずは餃子とヒジキの煮物、それに生野菜と素麺のサラダである。それぞれ用意して卓に運ぶあいだ、テレビのニュースは今日から始まった消費増税を伝えており、それを見ながら父親が、カードを使えばポイントが還元されるとか、飯屋でも持ち帰りならば八パーセントのまま、店内で食べれば一〇パーセントになるとか母親に教えていたが、実にくだらない話だ。誰も彼も踊らされている。卓に就くとそそくさと飯を食って、抗鬱薬も服用すればさっさと皿を洗い、入浴に行った。寺尾聰の曲を口笛で吹きながら湯に浸かって、出てくると下着一枚で下階に帰り、また"I Call Your Name"のカバーを流して歌ったり、寺尾のライブ映像を眺めたりしたあと、何となく連想してMr. Childrenの"Heavenly Kiss"の、あれは確かMotion Blue Yokohamaで演じた時の映像だろうか、それをYoutubeで閲覧し、それから"NOT FOUND"のライブ映像なども見て、最後に"Prism"を流して歌うと時刻は一〇時半、ようやく日記に取り組んで、この日の記事をここまで進めればちょうど一時間が経っている。
 時刻は一一時半である。それからはインターネットを回って過ごし、零時半に至ったところでふたたび日記に手を付けて、前日の記事を書きはじめたが、すぐに面倒臭くなって二〇分も経たないうちに切り上げて、Sonny Clark『Cool Struttin'』を聞きながら書抜きに移行した。栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』から三箇所抜いて一時を越えると読書である。花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』をひらき、最初はコンピューター前の椅子に腰を据えていたのだが、段々と尻の座りが悪くなってくるからベッドの方に移り、ここでも最初は縁に腰掛けていたのだけれど、じきにいつものようにヘッドボードに寄って身体を伸ばすようになって、そうするとやはり睡気に捕らえられたようだ。それでも二時半頃までは多分意識を保って読み続けていたのではないか。正気づくと、もはや未明と言うよりは早朝に近い時刻だったと思うが、入口近くのスイッチで電灯を落として眠りに就いた。


・作文
 12:10 - 14:00 = 1時間50分
 14:05 - 14:49 = 44分
 15:30 - 15:44 = 14分
 15:53 - 16:06 = 13分
 16:55 - 17:01 = 6分
 22:31 - 23:32 = 1時間1分
 24:31 - 24:48 = 17分
 計: 4時間25分

・読書
 14:59 - 15:30 = 31分
 16:24 - 16:50 = 26分
 24:49 - 25:07 = 18分
 25:12 - ? = ?
 計: 1時間15分 + ?

・睡眠
 4:40 - 11:15 = 6時間35分

・音楽