2019/10/13, Sun.

 大澤 六〇年代の学生運動といっても、六〇年安保闘争と六〇年代後半の全共闘運動では教養をとりまく状況はずいぶんちがう。
 竹内 それこそ六〇年安保世代は政治的な教養主義が台頭した時期で、実際に理論闘争をしなくてはならなかったから、学生たちは本をよく読んでいたと思う。
 大澤 それに対して、全共闘運動は教養主義の上昇スパイラルから離脱するもので、むしろ教養主義を全面的に否定していく。竹内さんは六〇年安保のときに中心的に活躍した人たちの少し下の世代ですね。
 竹内 私は一回生のとき、六〇年安保の翌年、京大の寮にいたんだけど、のちに著名な文芸評論家となる人がオルグに来ましたよ。彼は全自連(日本共産党系)のリーダーでした。学者的な話としてはとても理論的でした。さすが、せんだんは二葉より香し、でしたね。けれど、アジテーターとしての素質はまた別だなと思った記憶があります。
 大澤 理論派が多かった印象ですね。
 竹内 それに対して、全共闘世代は「反知性主義」の走りといっていいところがある。
 大澤 丸山バッシングは反知性主義の典型的な現象でしょう。
 竹内 そうそう。
 大澤 六〇年安保世代にはのちに研究者になった人もかなりいるけど、全共闘世代の場合、ドロップアウトする人が多かった。予備校や塾の講師、出版関係者が多いとよく指摘されますね。東大全共闘議長だった山本義隆駿台予備学校の物理講師として人気を博しつつ、在野で研究を続けてきたことは有名ですね。しばしば全共闘運動と二重写しで報じられたSEALDsの学生たちも基本的な文献を読んでいないじゃないかと批判されました。学生なんだからそんなものだろうとも僕は思いますが、ともかく路上での「民主主義ってなんだ?」という素朴なワンフレーズが吸引力をもった。そんな彼らと全共闘世代の人たちが連帯できたことにもそれなりの必然性があったんでしょう。
 (大澤聡『教養主義リハビリテーション』筑摩選書、二〇一八年、90~91; 竹内洋×大澤聡「日本型教養主義の来歴」)

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 大澤 長期的なスケールのなかで、現在自分たちが依拠している土台や前提から疑いなおす。それは文系的な知が得意とするところですね。この価値観は絶対的ではない、時限つきなんだと意識すること。そして、そんな価値相対化のためには歴史性の召還が必要となります。
 吉見 文系というのは、「いま・ここ」から、つまり内側から自己批判、自己相対化ができる知なのですね。
 大澤 かつて吉見さんも関わった本のタイトルを借りれば、まさに「内破する知」。
 吉見 政治学でも社会学でも経済学でも人類学でも文学でも哲学でも、人文社会科学の学問は、クリティークがなければなりません。そのために、わたしたちは異なる時代、文化、社会の異なる価値について深く学んできたわけでしょう。
 大澤 現在は人類史的に見ても異様なまでにクリティシズムの部分がないがしろにされる時代ですね。
 吉見 高度経済成長期のように、キャッチアップ型の社会は、「成長」という自明の目標にむけて努力しさえすればなんとかなります。けれども、それでは新たなパラダイムをつくりあげることは永遠にできない。すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる。
 大澤 まさしく。社会条件の天変地異があったり、体制や目標のドラスティックな転換があったりしたら、その瞬間に丸ごとゴミと化す可能性がある。それなのに、その現実にふたをして目の前の競争にはげんでいるのが現代社会でしょう。
 吉見 根本的な価値の変化を先導していく企業や社会であるためには、価値創造的な有用性、つまり目的そのものを創造していく知が必須なのですね。これが、じつはアップルとソニーの決定的なちがいだったのだと思います。スティーブ・ジョブスはこのことを天才的に理解していたけど、ソニーの経営陣はそうではなかった。
 大澤 価値創造的な部分は、むかしから日本が弱いとされるところですね。
 吉見 戦後日本はずっとキャッチアップ型でやってきました。そのおかげで、高度経済成長も達成した。そして、日本社会は同質性が高いから集団の凝集力がとても高い。それだけに内部の矛盾を創造性に変える力が低い。掲げた目標を精緻に実現する能力はかなり高いのだけど、矛盾こそが価値だというセンスが欠けている。
 大澤 角度を変えると、セグメンテーションの問題でもありますね。課題が与えられさえすれば、その枠内でオタク的に没入して最適解やそれ以上のものをアウトプットできるのに、課題そのものをみずから編み出すことが苦手。部分最適には長けているけど、個々には全体性が担保できない。まさに、丸山眞男が「蛸壺」と形容した日本的傾向です。
 吉見 戦前期の日本は天皇制国家で、軍事的な帝国建設に一丸となって突き進みました。ところが、戦争に負けて軍事に頼れなくなった。今度は平和が技術力でいこうとなって、高度成長を遂げたわけです。かたちは異なれども、じつは与えられた目標に向けて一丸となる点でおなじことを繰り返している。
 大澤 戦前の軍事力が戦後の経済力に置き換えられたにすぎない。
 (124~126; 吉見俊哉×大澤聡「大学と新しい教養」)


 八時前に自ずと目覚めた。まさしく台風一過の朝で、寝床から見える窓は一面青さを湛え、雲は吹き飛ばされて一欠片も見えず、陽射しが明瞭に部屋を通り抜けていた。肌着をつけずに上半身裸のまま眠っていた。八時を迎える頃、起き上がってコンピューターに寄り、起動させて、Twitterなど見てからまた床に戻ろうと思っていたのだが、立っているうちに肉体に気力が宿ってきたのでそのまま正式に起床してしまうことにした。Twitterなどインターネット各所を回っているあいだ、窓から射し込んだ光が足もとに溜まって脚が非常に熱く、まるで夏めいていて、脚の下部だけ風呂に浸かっているかのようでもあった。
 それから上階に行って洗面所に入れば、母親は風呂場で長靴か何か洗っているようだ。こちらは顔を洗って髪を梳かし、飯は素麺の煮込みだと言うので台所のフライパンから丼にそれをよそって卓に運ぶ。母親はこちらに向けて、毎日家にいたらどうしよう、恐ろしいよと漏らす。定年後の父親のことである。前々からの言い分の退屈な反復にほんの少しだけ苛立ちを感じたが、それは表さずに、また働きに出るでしょうと受ければ、いや、わからない、そう言ってはいるが、実際にはなかなか上手く見つからないだろうと母親は返す。それから、間を置かない方が良いと思う、自分の経験からして、仕事を失って初めてその大切さがわかると漏らすのだが、このように労働礼賛イデオロギーに凭れ掛かった実存の保ち方には距離を取りたいと思うところ、しかし自分だって、義務的な「労働」は忌避しながらも、自らやるべきことと定めた読み書きは「仕事」として邁進しているわけで、そういう意味での「仕事」というものは人間の実存を支える上ではやはり必要なのかもしれない。
 素麺を啜りながら新聞を読めば、台風の凄まじさによって一二都県に警報や勧告が出されたとかで、多摩川は危険水域に達し、箱根では二四時間の降雨量が九四二ミリを数えたと言って、一〇〇〇ミリ近くってどんなやねんと思った。めくって二面にはシリア情勢が悪化の一途と伝えられており、トルコ軍の侵撃でクルド人の戦闘員が四四〇人ほど殺害されたと言う。書評面にも行ってみると、フランク・マコートの『教師人生』が取り上げられていて、これは地元の図書館の新着図書で見かけたことのある本である。ものを食べ終えて新聞を閉じると席を立ち、丼と箸をさっと洗って稼働中の食器乾燥機に入れておき、電気ポットを覗くと水面が低かったので、手近の薬缶に入った水を足しておいた。
 下階に戻ってくるとMr. Big『Get Over It』を早速流しだしたのだが、冒頭の"Electrified"などかなり格好良く思われて、これまでの彼らの作品よりも強められたソウルフルな感触、その渋さがたまらない。間奏のソロではギターも勿論のこと、ベースの滑らかで間断のない畳み掛けが素晴らしく、その後のギターとのユニゾンも実に決まっている。それを聞きながらこの日の日記を書き出したのが八時四三分、ここまで綴れば九時を回っているが、本当に夏のように陽射しが厚くて暑い日で、一〇月も半ばに掛かったにもかかわらず、今しがたエアコンを点けるに至った。
 用意してきた緑茶とともに日記を進めて一時間、音楽は途中でMr. Big『In Japan』に繋げて、『Get Over It』収録の"Superfantastic"など、歌詞のなかに"blue skies"という語が出てくるけれど、それに似つかわしく秋晴れの空のようにどうも明るすぎて、軟弱なポップスだと以前は思っていたところが、今になってみるとなかなか良い曲だと思えるから面白いものだ。一〇時頃、LINE上で、今日は結局何時に集まれば良いのかと訊くと、電車は動いているのかという問いが返って、青梅 - 奥多摩間は終日運転停止と聞いていたが、青梅 - 立川間はどうかとTwitterを見たところ、つい先ほど動き出したようだった。それで、一時半に三鷹のKくんの宅に集うことになった。日記を仕舞えてブログに投稿すると上階に上がって、一二時前に出ようと母親に知らせに行くと、ジャージ姿の父親もソファに就いていて、母親の方は台所で生ゴミをバケツのなかに処理していた。イヤフォンをつけて音楽を聞いているところに声を掛けて、一二時前と伝えておき、戻って一年前の日記を読み出しながら、傍らT田が編集した近現代音楽選集を流した。冒頭からして凄まじく格好良いピアノ演奏なのだが、これはNikolai Kapustinという作曲家及びピアノ奏者の"Eight Concert Etudes, Op. 40, No. 1 "Prelude""で、立川図書館にあった音源からの収録であると、以前に電車のなかでT田から聞いた覚えがある。こちらもこの音源は、何故借りてみようと思ったのか、多分ジャズとクラシックの融合、みたいな文句が帯にでも書かれていてそれで惹かれたものかと思うが、立川図書館でずっと昔に借りており、コンピューターにはまだそのデータが残っているので、また聞いてみなくてはなるまい。
 一年前の日記は、「何かをしたいという気持ちがまったくなかったので、一時から七時半まで長く寝込む。夕食時、母親と向かい合っていても、声を発する気になれなかったので、辛気臭く黙りこくってただものを口に運ぶ。生の無意味さに打ちひしがれている」とそれだけあって、治った今からしてみると、連日こうした絶望感ばかり書きつけているのが、それでも何も書かないのではなくて一応憂鬱さの感覚だけでも辛うじて書こうとしているのがちょっと笑える。
 二〇一四年の一月一四日の方はフランシス・ポンジュなど読んでいて、よくもまあ、読み書きを初めてたかが一年でそんな難しいものを読んだものだと思う。書抜きをここに改めて引いておく。「生とは、持続する不可能事である。われわれはすべてを言わなくてはならない…だのにわれわれは何も言うことができない。このゆえにこそわれわれは、毎日、きわめて多様な主題について、想像できる限り多数の技法に従って、やり直しをするのだ」――まさしく!

 というわけで結局のところはおそらく、われわれにとって生をかくも困難たらしめているのは、世界の美しさなのだ。困難、どころの話ではない。生とは、持続する不可能事である。われわれはすべてを言わなくてはならない…だのにわれわれは何も言うことができない。このゆえにこそわれわれは、毎日、きわめて多様な主題について、想像できる限り多数の技法に従って、やり直しをするのだ。われわれは、一個の美しいテクスト、美しい一頁、一冊の美しい本を書こうなどという気は絶対にないのである。否! ただ単にわれわれは、次のようなものによって負かされることを受け入れないのだ。一、〈自然〉の、もしくは、本当の話、最もつまらない対象[オブジェ]の、美しさ、あるいは面白さによって。二、われわれは言語によって負かされたくはないのだ。われわれは試み続ける。われわれは、相対的な成功などというものの感覚はいっさい、また、そうしたものを受け入れる気持はいっさい、失ってしまった。われわれは通常の判断基準など何とも思ってはいない。われわれが停止するのは、うんざりした時だけでしかない。表層で口上を述べ立てる何人かの者たちがそうした基準を引き受けているのを見ると、われわれは今さら節度だの過度だのを推奨することが絶対的に嫌になってしまう。われわれは、あらゆる時代の文体的流派もろもろの最悪の過誤を順次に発明し直しているのだと、知っている。それならそれで、けっこう! われわれは自分の考えることを言おうとは欲しない、それは多分まったく面白くないから(ここでご覧の通り)。われわれは自分の思惟において邪魔されることを欲しない。(そのことを十分に言っただろうか? もう一度繰り返しておく。)
 物言わぬ世界はわれわれの唯一の祖国だ。われわれはこの世界の資源を、時代の要請にしたがって活用する。
 (阿部良雄編訳『フランシス・ポンジュ詩集』小沢書店(双書・20世紀の詩人21)、1996年、152~153; 「物言わぬ世界はわれらの唯一の祖国」 "Le monde muet est notre seule patrie" (1952))

 続いて「週刊読書人」から、「古田徹也氏ロングインタビュー 運に向き合い、倫理を問いなおす 『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=5893)を読む。

この世界は因果応報や自業自得といった秩序が行き渡っている世界であって、努力した者には相応の報酬が与えられる。善き人には善き報いが、悪しき人には悪しき報いがある。――私たちはいつの間にかそう考えがちです。これは、社会心理学の用語では「公正世界仮説」とも呼ばれる思い込みですね。そういう「公正な」世界は理想と言えるかもしれませんが、現実ではありません。けれども、現実と見なしてしまったとき、人は、そのあるべき予定調和の世界に沿うように、おのずと現実を歪めてしまおうとするわけです。たとえば、「善き人が理不尽に悪い目に遭ってはいけない。だから、悪い目に遭ったとすれば、その人に何か悪いところがあったのだ」と考えてしまう。その結果として、咎なき人に対していわれなき理不尽な非難を浴びせることにもなる。

たとえば、園児が歩いているところに車が突っ込んだ最近の痛ましい事故でも、ネット上などではすぐに、「保育園側が園児たちを集団で歩かせていたことに問題があったのではないか」という非難が向けられました。スクールバスの殺傷事件でもすぐに、「生徒や保護者たちがバス停周辺で騒いでいたからだろう。彼らにも責任がある」という声が次々にあがる。結局、犯人は周辺住民でもなんでもなかったわけですが、非難を向けた匿名の人たちはもちろん、自分の間違いを認めて謝ったりはしない。人々が自分自身のことは度外視して、安全なところから他人の落ち度を見つけ、非難しようとするとき、「公正世界仮説」はまったく不道徳な役割を果たします。「自己責任」という言葉も同じように、咎なき人や、運悪く苦境にある人に対してしばしば向けられる。運の影響なくいまの自分自身がかたちづくられている人など、誰もいないはずなのですが。

 これは要するに、わかりやすく通りの良い「物語」に従属して「現実」の複雑さ、不条理さ、無根拠さを歪め矮小化してしまうということで、昨日読んだインタビュー記事で東浩紀も、「加害者は加害を全部忘れる。被害者はそれを物語化する。けれどじつは加害には物語なんかない。たまたま目についたから殺したりする。でも被害者のほうはたまたまじゃ困る。被害者は選ばれて殺されなければいけない」と言っていた。

――本書ではアダム・スミスが、そうした二面性や複雑性を深く受けとめている人物として登場しますね。スミスは一方では、「正当な道徳的な評価は運に左右されて下されてはならず、それゆえ、行為者の事前の計画に対して下されなければならない」(229頁)とする。しかし他方では、「行為に対する評価とは基本的に、行為が実際になされ、結果が出てから下される」(247頁)ので、事前の意図や計画に対して何か評価を下すのは難しい、とも認めています。

古田  そこがスミスの興味深い点のひとつですね。運に左右された結果に対して道徳的な評価を下してはならない、というのを、彼は「公正の原則」と呼んで一応尊重はしています。この原則は、本書の別の箇所で「コントロール原則」と呼んでいるものと通底しています。つまり、「人が道徳的な義務や責任を負うべきなのは、その人のコントロール下にあった行為や意志に関してのみである」という原則ですね。

この「公正の原則」ないし「コントロール原則」は、道徳という概念に対する私たちの理解の、かなり重要な部分を占めています。運という不純な要素が入り込んでしまうと、行為や行為者に対する適正な道徳的評価や判断ができなくなる――私たちはなんとなく一般論としてはこの原則を受け入れている。けれども、たいていの場合は事前に結果を見切ることなんて私たちにはできないので、実際は結果が出てしまってから評価を下さざるをえない。だからどうしても、評価に運の要素が入り込むのは避けられない。スミスはこの現実に目を背けようとはせず、むしろきわめて重視しています。

 音楽はじきに選集の六曲目に移って、これはティホン・フレンニコフという、おそらく相当にマイナーな作家ではないかと思うがその人の作で、「社会主義リアリズム的猪突猛進」とT田によって要約されているその音楽性は、細密で高速な旋律の滔々たる連なりが実に大仰で、その振り切り具合はちょっと凄いのではないか。

古田  少し話がずれますが、自分は文章を書くのは嫌いではなくて、それは、当初こういうものを書こうと意図していたのとは違うものが結果として出てくるからです。そうでないと書く意味がないというか、どこかそういう、意外なものの到来を期待して書いているみたいなところがある。授業もそうで、しっかり準備しないでやったらやったでボロボロになるんだけれども(笑)、完璧に準備して、思った通りに終始してもすごくつまらなくて、何も得たものがない。逆に、学生から思わぬ反応がきたり、それこそ演習などで全然違う解釈が出てきたりして、「確かにそう読めるかも」と驚いたりする。そういうときにはじめて、何かをしているという実感を自分は得られます。だから、誤算が生じるのをある意味では求めている面もある。誤算や見当外れというのはもちろんいいことばかりではなくて、大失敗も起こりうる恐ろしいものだけれど、何か意外なものがそこで出てこなければ、本当の成功だとも言えない。

これは面白いところで、言うまでもなく、企画というのはある種の確実性を求められて当然なんですよね。しっかり準備して、それが実現しなかったら、もちろん成功したとはいえない。でも、それがすべてでもない。あらかじめ思い描いてはいなかったこと、その意味で新しいことが生み出されてはじめて、その企画は真に充実したものになる。そして、その結果を引き受けながら私たちはさらに先に進んでいく。そういう面が実相としては確かにあって、そういう我々の現実のありように、「公正の原則」や「コントロール原則」といった類いの発想はうまく乗らない面があるわけです。

 この点はその通りだと言わざるを得ない。ミシェル・フーコーも、書物を書くことを通してそれまでとは別の人間、別の主体になれなければ、ものを書くという行為の意味は一体どこにあるのか、とみたいなことを言っていたと思うが、それに近いのではないか。とそう思って過去の書抜きを探ってみたところ、ガリー・ガッティングの『フーコー』のなかに、「人生と仕事の一番面白いところは、それらによって最初の自分とは違った誰かになれるという点です」(「真理、権力、自己」『集成Ⅹ』三〇八頁)という言葉が引かれていた。
 近現代音楽選集は最後に冒頭と揃えてふたたびNikolai Kapustinの、今度は"Toccatina"というのが収録されていて、これも非常に凛々しい音楽でとてつもなく格好良い。シンコペーションを強調して音を隈なく埋めていく点などは、コード感やメロディの色合い自体は異なるけれど、やはりジャズの感覚があって、バップを、無論そのままに取り入れているのではないが、リズムや旋律構成などはおそらく影響があるのだろう。そういうわけで、選集が終わるとNikolai Kapustin『Kapustin Plays Kapustin Vol.1』を十数年ぶりに流したが、二曲目など聞いてみてもこれはコード進行がジャズのもので、スタンダードっぽい雰囲気があった。

古田  手が届かないもの、自分のコントロールが及ばないものを前にして、賢者のように達観するのではなく、あくまでも手を伸ばそうとする。そうした、人間のあるがままのみじめな姿が、なぜときに偉大に思えるんだろうか。本書では繰り返しそう問いました。私たちは、そのつどの人生において誰かと出会って、その人たちとの偶さかの関わりのなかで、しばしば弱く愚かしい仕方で、たまには気高く賢い仕方で、なんとかもがきながら暮らしている。そういう現実のなかで、自分自身や自分固有の生がかたちづくられていく。私たちはその意味で、運とともに生きる存在です。なぜ、そのような存在が、偉大でありうるのか。本書ではジェイ・ギャツビーやアンナ・カレーニナの生き方なども取り上げましたが、なぜ私たちは彼らの生き方に偉大さを見出すのか、という謎でもあります。特定の人に焦がれ、追いかけ、不倫に走る、そのきわめて不道徳な生き方に、私たちはなぜ偉大さを感じるのだろうか。

それは少なくとも、神に近いという意味での偉大さ、神の似姿としての賢者の偉大さではない。そうではなく、等身大の人間、不完全で不道徳な人間ならではの偉大さです。だからそれは、道徳という範疇でとらえることができるものではない。また、それは、倫理学の分野では往々にして、「実存」という大雑把な範疇にまとめられてしまいがちなものです。そのようにうやむやにするのではなく、道徳でも実存でもなく、その間にあるものをつかまえたい。本書では、「偉大さ」という言葉で何とかつかまえようとして、つたない試みをしたわけですが、それは本来、人間という不思議な存在の実相に迫るものであるはずです。「尊厳」というのとも違う何か、それをつかまえたい。

 四曲目は"Eight Concert Etudes"のなかの"Remembrance"と題された曲だが、作曲もともかく演奏家としてもKapustinという人が滅茶苦茶に上手いということがまざまざとわかって、単純なテクニックは勿論のこと、音楽的に高度に洗練された演じ方をする人間で、この曲には大きく広げられた天使の翼のような幻想的な美しさ、際立った滑らかさと流麗さの感覚がふんだんに孕まれている。
 「週刊読書人」の記事を読み終えると、ここまで日記を書き足して一一時四五分も過ぎた。そろそろ出掛けなくてはならない。そういうわけで服を着替えて、それから上階に風呂を洗いに行った。Brooks Brothersのハンカチを引出しから取ったのはこの時だったか、それとも出発する直前だったか? そんなことはどちらだって良いのだが、下階へ戻ると自室のエアコンを消し、荷物を整理してふたたび階段を上がった。時刻は一二時前だった。行こうと母親に告げると彼女は了承して、ハンドクリームをちょっと取って手に塗りつける。こちらは背後の父親に行ってくると声を投げながら玄関に向かい、出れば陽射しが道の上に敷かれて明快であり、すぐ近くの沢の音は台風の通過を受けてこれ以上なく増幅している。車中も暑く、やはり夏のようである。音楽はEvery Little Thingが流れるなか出発し、坂に入ったところで母親は車をちょっと停めて、川が見える、と訊いたその視線の先には、土色に染まった激烈な濁流があって、こちらが乗っていた助手席は川から遠い方に当たって良くは見えなかったが、川幅も相当に広がって陸を呑み込んでいたようだ。音楽はじきに、確か"Fragile"という曲名だったと思うが、聞き覚えのある有名なヒット曲に移って、その頃には街道に掛かっていたはずだが、表に出る前に車の隙を窺って停まった際に見上げれば、右も左も雲の一雫もない、まさに純然たる快晴だった。左足を右膝の上に乗せ、靴先はダッシュボードにつけて、左手で頬杖を突き、そのように偉そうな姿勢を取りながら街道を進んで、駅前に来ると街路に葉っぱがたくさん散っていて台風の残滓が窺われる。母親はそのあたりで、Yちゃん(叔母)も大変、墓参りに来ても三時には出なくちゃって、Yちゃん(叔父)が待っているからって、適当にやってねって言えば良いのにね、と立川の妹のことに言及する。
 西分の踏切りで停まった時間に窓外を見てみると、歩道を埋める陽射しは濃くて、電線の影の地に照らし抜かれたのが、風のなかゆらゆらと揺れている。あれ、植木鉢も、割れちゃったんだ、あの木も斜めになってる、などと母親も路傍に残る台風の爪痕に目を留める。道中、停まるたびに、まだ風が残っていてふるふると揺れる植木が目についた。河辺駅で降ろしてもらうことになっていた。駅が近くなった頃、唐突に母親が、資格取りたいとか思わない、と訊いてきた。まだ若いから、と言うのだが、資格などというものを何か取りたいとはまったく、これっぽっちも思わず、必要性も感じないし何より端的に言って興味がない。自分が邁進するのは読み書きのみであると、そう心に定めているようである。資格を取る云々というのは、要はリスクヘッジだろう。老いてから身を保てるほどの職を得られるかどうか、先の見通せない世であるから、とそんな風に母親は考えていたのではないかと思うが、確かに我が生の先行きに関しては暗然としており、果たして親も死んで老いたのちに自分は生活を立てていられるか、心許ないところではあるものの、だからと言ってそのために興味の向かないことまでやろうとは思わない、暢気な性分である。母親は、ヘルパーの資格か何かを取りたいと最近は考えていると言い、まだ若くて取りやすいうちに勉強しておけば良かったと漏らした。
 駅前を曲がったところで礼を言って降り、駅舎に向かった。青空の南の果てには雲がほんの僅かに引かれているが、それがこの日に見た最初の雲である。駅舎に続く階段を一歩一歩、自分の歩みを見つめるようにしながら踏まえて上り、券売機に寄ってSUICAに五〇〇〇円をチャージした。駅員の対応する窓口には人が何人か並んでいた。改札を抜けてホームに下りれば立川行きは一二時一七分、一両目の位置に立って手帳を取り出し、メモを取りはじめるとまもなく電車がやって来たので、座席に就いて揺れに妨げられながらペンを操った。車両の隅には車椅子が置かれてあって、どうやらその主のようで足の悪いらしい少年が、父親に後ろから抱かれ支えられながら扉際に立って外を眺めている。おそらくまだ一〇歳にも届いていないだろう、随分と舌足らずな喋り方だった。
 メモを現在時に追いつけるには東中神くらいまで掛かった。その後、手帳に記してある事柄を読んだのだったか、それとも終点までもうまもないからと瞑目していたのだったか。立川に着くと珍しくすぐに降りて、人々の後ろについて階段を上り、上ったところにおにぎり屋があって前々からここのおにぎりを食ってみたいとちょっと思っているところ、腹も減っていたし買って行こうかと迷ったが、三鷹駅内のスーパーか売店かで買えば良いかと払って三番線に下りた。ホームの先に行って人々の列の後ろに並び、手帳を読んでいるとすぐに特快がやって来て、乗ると南の扉際に就き、引き続き手帳を見つめ、栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』からメモした情報を学び、三鷹近くに至って視線を上げてみれば、高架上にいるから屋根より視点が高く空が近くて、見通す果ての地平付近、低みに淡く、ほとんど溶けかけた雪のような雲が細く棚引いているものの、すっきりとひらいた天球の、その他の領域は完璧な無窮の青に浸されていた。
 三鷹に着くと降車して、エスカレーターに踏み入ってベルトに手を乗せると、そのベルトが、あれは何か汚れが付着していたものなのか、それとも表面が削れていたものなのか、いずれにせよ経年劣化でざらざらとしている。上がって見れば、食べ物飲み物を買おうと思っていた改札内のスーパーは閉まっており、台風の影響だろう開店は二時からと張り紙があった。それでひとまず便所に向かって、個室に入ってリュックサックは、室の隅に、あれは赤ん坊を乗せておくものなのか、シートのようなものがあると思うがそこの上に置いておき、便器に座ると手帳を読みつつ糞を吐き出し、出ると手を洗ってトイレを抜けて改札を出たところが、改札近くの売店も、駅舎の出際にあるスーパーもやはり二時かららしい。現在時刻は一時過ぎ、コンビニを求めて駅前を渡り、目抜き通りに出て先を見通してみるが、コンビニの看板らしきものは見えない。それで、付近にあったドトール・コーヒーで何か食事を買うことにした。入ってみると店内はわりと混んでいて、座っている人も多いしレジにも幾人か並んでおり、店員も四人か五人の態勢でカウンターの裏を所狭しと立ち働いていた。番が来るとアイスココアにミラノサンドのAとやらを注文し、七二〇円を支払って、しばらく待ってから紙袋に入れられた品物を受け取り、出てKくんの宅へ向かった。途中のベンチで何やら楽譜を広げて、両手で膝のあたりを叩いてリズムを取っている女性がいた。風は吹いていたと思う。葉鳴りを聞いたような気がするのだ。何かじゅうじゅうというような、少々奇妙な鳥の声はこの時は聞いたものかわからない。建物の隙間を通って裏路地に入り、Kくんの住むマンションへ、ここだよなと曖昧な記憶に頼りながら入口のドアを開けると、細い通路の正面奥にエレベーターを据えた光景に覚えがあって、ポストも確認してみれば確かにKの文字がある。それで部屋番号を確認し、エレベーターは使わず階段を上って、部屋の前に着いてインターフォンを鳴らせば、Kくんが扉をひらいてくれた。Tも室内に一緒にいて、荷物の整理をしていたのか、何やらスーツケースを前にばたついていた。まだ誰も来ていないのかと訊けば、ほかの面子ももう三鷹には着いているらしいが、部屋まで来たのはこちらが一番乗りだった。(……)
 Kくんに風邪は大丈夫かと訊いてみると、まあまあ良くなってきたが、風ではなくて細菌感染だったと言う。それでは風邪より悪いではないかとこちらが受けると、しかし薬を、細菌ということはおそらく抗生物質ではないかと思うが、それを飲んでだいぶ回復してきたと言うので安堵した。そうしてまもなく、部屋を出ることになった。こちらは床に座り込んでココアに口をつけていたが、ミラノサンドの方を食べている間はなさそうだったので、歩き食いすることに決めれば、Tは歩き食いが好きだと笑う。こちらはほとんどやったことのない行為である。パンを入れた紙包みだけ持ち、ほかは財布すら持たず、しかし手帳とペンはポケットに忘れず入れたまま室を出て、通路に出たところで早速サンドを食い出した。そうしてもぐもぐやりながらエレベーターに乗って下階に行き、外に出れば天気は快晴、気持ち良いなあとKくんは声を上げ、雲が全然ないねとTも応じた。
 表通りに出て、歩きながらパンに齧りついていると、前を行くTが振り返って、それ何、と問うてくる。生ハム? と彼女は訊いて、確か店の品書きにはビーフとあったはずだから、ビーフだと思うとそのまま答えたが、実際ほかに生ハムも挟まっていたようだ。二人のあとにつきながら駅舎内を通り抜けて、あれは北口なのか南口なのか、スーパー「オオゼキ」のある方に出た。T田とMUさんはその「オオゼキ」で買い物をしていると言い、そちらに向かって行けば、こちらは目が悪いから良くも見えないものの、店の前の植込み段か何かに二人の座っている姿があったらしく、KくんとTは見分けて近づいていくのにこちらも後ろからついていく。二人と合流して、パンの最後の一口をもぐもぐやりながら挨拶を交わすと、婚姻届を持ったKくんとTは書類をコピーするらしく「オオゼキ」の隣のコンビニに入って、ほかの三人はそのあいだ外で待つ。こちらもコンビニで飲み物を買おうかと思ったところが、しかし財布を持ってこなかった。それでT田に頼もうかと声を掛けた直後にしかし、K家にアイスココアがあるのだと思い出してその旨告げると、何を言っているんだ、もうジンジャーエールを買ってあるぞとT田は応じて持っていたビニール袋を掲げるので、これにはさすがに笑いながら感謝した。ジンジャーエールはカナダ・ドライではなくてウィルキンソンのもので、辛口の品らしかった。
 それでKくんとTがコンビニから戻ってくると、すぐ近間の市政窓口に婚姻届を提出するのに我々三人で立ち会うことになった。コンビニの前から高架歩廊をちょっとだけ進む合間、あれは鳩か鴉か鵯か、鳥が二羽ほど背後から我々の頭上を越えて、鳴き交わしながら飛び過ぎていくのが見えた。市政窓口はすぐ傍にあって、歩廊の途中から建物のなかに入るよう案内看板が立てられてあったので、それに従ってビル内へと入ったところが、窓口は開いていなかった。台風による臨時休業のようだ。この日は日曜日なので、市役所の正規の窓口はやはりやっていないところ、先日電話を掛けてこの出張窓口ならばやっているとの確認をしておいたのに、とのことだが、自然の事情では仕方がない。それでどうしようかと困って、ほかにひらいている場所はないのかと、MUさんが手近にあったパンフレットと言うか、役所施設の場所が記されてある用紙を取って二人に見せて、結果、Kくんが、市役所本部の休日用窓口みたいなところはやっているはずだと推測を述べて、それでTとKくんのどちらが電話していたのか忘れたが、連絡をすると開いているとのことだったのでそちらに出向くことになった。三鷹市役所まではバスに乗る必要がある。それで我々三人はどうするか、家にいて待っているかとTは言うのだが、それに明確な回答を与えないままに、ひとまず荷物を下ろしにK家に戻ろうという流れになった。それで道を戻って駅舎に入り、人の流れのなかを搔き分けながら駅の反対側に出て、Kくんのマンションのある裏路地に入る手前に、そこにもマンションが建っていてその周囲にはベンチが置かれて木が生えて、ちょっとしたスペースになっているのだが、そこに掛かるとじゅうじゅういうような奇妙な声の鳥が鳴いていて、あれは何だとT田に訊けば彼にわかるものでもないが、椋鳥に似ているようだと言うので、ああ確かに、椋鳥ねとこちらは受けたけれど真相は知れない。建物の隙間を抜けて路地に入り、マンションに入ってエレベーターに乗り、上階で降りようとしたところが、他の皆に先を譲っているとこちらが出る段になってエレベーターの扉が閉まり、一人取り残される形になって、思わず笑ってしまいながらボタンを押して、遅れて室を脱出したのだが誰もそのことに気づいていなかった。そうしてKくんの宅に入り、T田は荷物を置いて飲み物を冷蔵庫に収め、こちらはココアにまたちょっと口をつけたあと、バスにも乗るし財布を一応持っていくかと、ズボンのポケットに入れるとその部分が膨れて不格好になるのがあまり好きではないのだが、甘んじて金袋をポケットに収めてふたたび出発した。エレベーターに乗る際、今度もこちらが一番あとから入ったのだが、ここでは閉まる扉にちょうど挟まれる形になって、それについてT田かMUさんか誰かが何とか言ったのに、実はさっきも一人で取り残されていたのだと明かした。
 通りに出たところ、KくんとTは後ろの方で何やら話し合っていて、じきに歩きはじめたがその足取りは速く、訊けばコンビニでコピーを取った際に婚姻届を忘れてきてしまったと言う。それでだらだらと歩くほかの三人を置いて二人は足早に先を行き、三鷹駅エスカレーターも歩いて上って行って、我々が改札前に達した頃には既にその姿は見えなくなっていた。我々三人は駅舎を出たところで待つことに決め、MUさんが携帯でバスの路線を調べると、市役所には三番とか七番とか色々な経路で行けるらしい。そのうちにTとKくんの二人がコンビニから戻ってくると、Kくんは、いつもだったら絶対にこんなことはないのに、やはり風邪で頭が弱っているんだなというようなことを漏らした。バスは三番乗り場から乗れば良いらしかった。確か発車時刻は二時ぴったりくらいで、もう時間がなかったので急いで階段を下り、小走りになって乗り場へ向かうと、バスの入口の横に立っていた案内人が、深大寺行きですと告げてくる。五月に神代植物公園に赴いた際に乗ったのと同じ乗り場だった。乗ってSUICAを機械にタッチして、車内の中ほどまで進んで吊り革に掴まり立ち尽くした。運転手は当然運転席に就いて車を操っているわけだが、ほかに一人、先ほど我々に声を掛けてくれた案内人が、バス前部の入口傍に控えて乗ってくる客を誘導しており、このような丁寧なサービスを行うバスに乗るのは初めてだった。じきに車内は混んできたので――いや、車内が混んで後部の方に立つことを強いられたのは、帰りのバスだったか。行きのこのバスの時には、後方の座席に皆腰掛けることが出来たのだったと思う。こちらはT田と隣り合ったはずだ。バスが走っているあいだ、T田は「冬の蠅」が良い、と話した。梶井基次郎のことである。あれは確かに良かったなとこちらも朧気な記憶を掘り起こして、確かあれだろう、蠅が牛乳瓶のなかに入って力尽きて行くのを観察しているやつだろう、と受けた。T田はそうそう、と肯定して、そのあとどのように続いたのだったか? 忘れてしまったが、この話はそう広く展開せずに、すぐに尽きてしまったような気がする。こちらはその後車外に目を向けていて、途中のバス停に変電所前というのがあって、こんなところに変電所というものがあるのかとその建物をちょっと興味深く眺めたりした。T田とはそのほか、何を話したのか全然覚えていない。音楽の話をしただろうか? T田が作った近現代音楽選集の話をもしかしたらしたかもしれないし、それはこの時ではなく別の場所でのことだったかもしれない。どのタイミングだったかもはや覚えていないが、Nikolai Kapustinはやばいなということは伝えた。と言うか出掛ける前に既にLINEでそのことは伝えてあった。ほか、これは三鷹駅周辺の通りを歩いているあいだのことだったと思うが、Fはもっと前衛的な音楽を期待していたんじゃないかと言われた時もあった。こちらは別にそんなことはないと受けたのだが、T田はいわゆる現代音楽と呼ばれるジャンルの主要なもの、つまりは一二音技法を使った曲とか、新ウィーン楽派とかの音楽はどのように聞いたら良いのか取り付き方がわからないと言って、個人的にあまり楽しめないので外したのだと述べた。それで言ったら先日話に出したGyorgy Kurtagの『Kafka-Fragmente』を演じたアルバムも、かなり前衛的と言えばそうだったなとこちらは受けたはずだ。三鷹駅前のエスカレーターを上がりながらのことだったはずだが、ソプラノとヴァイオリンの編成で、と紹介すると、まずもって編成からして攻めているなとT田は言い、ソプラノも何だか良くわからないことをやっているし、とこちらは返したのだった。T田の選集について言えばもう一つ、これは夜にCafe Hi famigliaの席に就いているあいだのことだったように思うが、六曲目のティホン・フレンニコフもなかなか興味を惹かれたとこちらは伝えて、そもそもあれって相当なテクニックだろうと訊くと、あの速さで連続するフレーズをオーケストラで一糸乱れず演奏するのは相当なレベルだとT田は言い、そのあたりやはりソ連の、集団主義的なところを思わせないでもないなどと続けるので、北朝鮮マスゲームみたいな、とこちらは応じた。T田によればあの音源では、後半だか終盤だかのトロンボーンがかなり極まっているのだと言う。
 バスのなかでのことはそのほか良くも覚えていない。上連雀の何丁目だったか、ともかく目的地に着くとバス中央部の降り口から外に出て、市役所はどちらかとTかMUさんかが調べて、こっちだと歩き出した。近くにはピザハットだかピザボーイだかの店があり、見ればなかで食べていける店舗のようで、ピザかあ、ピザを取るのも良いねえとTは呟いた。市役所は角を曲がってすぐそこにあり、案内看板を見てみると、中庭を越えた向こうに休日用の窓口があるらしかったのでそちらの方に向かって行った。陽射しの降り注ぐ中庭にはベンチが設けられており、そこに老人が一人、ラジオを脇に置いて何をするでもなく佇んでいたが、ラジオから流れ出していた騒がしいあの音声は、おそらく競馬か何かだったのではないだろうか。中庭にはまた、色合いからするとあれはブロンズのものだろうか、彫像が一つ立っていて、裸体の女性とその足もとに擦り寄る幼児、それに女性の、あれは頭の上に乗っていたのかそれとも宙を飛んでいたのか、鳩か何かの鳥の姿が上部に据えられた像である。歩いていると鳥の声が響いたようで、あれは鵯だなとT田が向けてきたが、こちらはそれを聞き逃していたので、ピヨピヨいっていれば鵯だ、と適当な受け答えをした。中庭の隅の目につかないところに狭く急な階段が設けられてあって、そこを下りた先が休日用窓口だった。確かその前で一旦写真を撮ったのではなかったか。その後KくんとTがなかに入っていき、我々三人は外で待つつもりだったところが、Tがなかは涼しいから入ったらと言うのでこちらもT田も入り、こちらは小さな室の隅に置かれた椅子に腰を下ろして偉そうに脚を組み、夫婦になる二人はその横で窓口に書類を提出し、T田は携帯を構えて二人の様子を動画撮影していた。MUさんは一人だけなかには入らず、外の陽射しの下でうろついていた。書類は無事受理され、晴れて二人は夫婦として入籍したので、おめでとうございますと言って我々は拍手をした。その前だったかそのあとだったか、多分前だったのではないかと思うが、窓口を担当してくれた高年の男性が、これでもう取り返しはつかないですからね、別の手続きをしなけりゃ、と冗談を言った時があって、一同笑い、Tもあとであのおじさんは良かったなあ、愉快だったなあと漏らしていた。そうして礼を言って室をあとにすると、五人並んで写真を取ろうということで、近くにいた子連れの若い男性にTが声を掛けて、写真を撮ってもらい、それで用事は無事終了、帰り道は先ほど来た狭い階段ではなくてもう一方の、木々の下を通るような道を取ったが、その道に団栗がたくさん散らばっていた。
 中庭にはまだ先ほどの老人が残っていたはずだ。市役所庁舎の下を出かけたところで、すぐそこのバス停にバスが来ており、MUさんがあれは三鷹駅行きだと言ったので乗ってしまおうということになり、ここでも小走りでバスの乗り口まで行った。帰り道のこのバスが結構混んでいて、と言うか次第に混んできて、最初は中央付近に立っていたところがどんどん人が乗ってくるので後部の方に退却していき、そのあたりはちょっと空いていたのでMUさんに座るよう促して、そのほかTと、多分Kくんが座ったのだったか。T田は立っていたのだったか、そのあたりよく覚えていないが、こちらが立っていたことは確かである。バスの壁には三鷹市の、何という劇場だったかもう忘れてしまったのだがそこでの公演案内が貼られてあって、三つ演目が並んでいるのを、演劇というものも見れば面白いのだろうなあと思いながら眺めていた。会話については覚えていない、と言うかほかの皆は会話していたかもしれないが、こちらはそれにほとんど参加しなかったと思う。
 そうして三鷹駅に到着し、この日の集まりというのは元々MUさんの誕生日祝いが名目で、T谷がケーキを買ってきてくれるはずだったところが、書き忘れていたけれど彼は体調が悪くて休みということになったので、もはやMUさん自身に好きなものを選んでもらおうということで、TとKくんが知っているケーキ屋に行くことになった。それでしばらく歩いたのだが、どこをどう歩いたのかまったく記憶にない。それほどの距離ではなかった。合間にどのような話をしたかも覚えていない。じきに「ふらんすや」という店に着き、入店して、品を買って持ち帰るかそれともここで食べて行ってしまうかと話し合って、店内で食べようと決まったところで右方から、店内ですかと声が掛かったのでこちらが肯定を答えたが、その相手の男性は何だか愛想が良くないと言うか、我々が五人の大所帯で来たことを快く思っていないような雰囲気がないでもなかった。それでも四人掛けの席にもう一つ椅子を持ってきてくれたので、礼を言って、テーブルの横に設けられたいわゆる誕生日席には、誕生日なので当然MUさんが座った。それからカウンター下のショーケースのなかに陳列されているケーキを見て、こちらは苺のムースというやつに決定した。MUさんはシンプルにショートケーキ、Tは洋梨の、タルトではなかったと思うが何か洋梨を用いた品で、Kくんは、確か「シェリー」という名前だったのではないかと思うがさくらんぼを使ったもの、T田のケーキが何だったのかは忘れた。飲み物はT田が紅茶を頼み、KくんとMUさんはコーヒーを注文して、Kくんは多分ブラックで飲み、MUさんはミルクを貰っていた。そのほかパスタを食べようということで、Kくんは帆立とサーモンの入ったクリームパスタみたいなものを頼んでTと分け合うことにして、T田も食いたかったらしく何か頼んでこちらと分けようというので、茄子のミートソースをとこちらは即決した。
 パスタは太めの麺でもちもちとしており、ミートソースの方にはチーズがふんだんに載せられ溶けており、麺を取ろうとするとそれが長く伸びてくっついてきて、切るのに苦労するほどだった。味はなかなか美味かった。店主なのかそれとも店員なのか、堂に入った振舞いの女性店員が取り皿とフォークとスプーンを五人分持ってきてくれて、結局、帆立の方もミートソースの方も皆で分けて食うことになったのだが、こちらはミートソースの方ばかり食べていたので帆立の方を取るタイミングを逸して、気づいた時にはもうなくなっていた。T田が頼んだ紅茶は何だか良さそうな感じのもので、と言うのは円柱状の立派な容器に入っているのを自ら注ぐ式のものだったのだが、その容器の上部からは棒が伸びていて、これは何かとこちらが触れて尋ねると、プレスだねとKくんが答えて、それを下方に押すことで液体に動きを生じさせ、茶葉を広げて注ぐのだとそういうことで、それを受けたT田が早速プレスを掛けてティーカップに飲み物を注いでいた。そのティーカップというのは、なかの宙空をぐるりと囲むように表面に絵がつけられているもので、それはパイナップルとかハイビスカスがちょっと粗いような筆致で描かれたもので、どうやら南国の植物が主題となっているらしかった。MUさんのコーヒーカップの方にも何かの絵が描かれていて、それが結構良いもので、それではT田の方はどうかと見てそれに気づいたのだったが、肝心のコーヒーカップの方がどのような図柄だったのか今思い出せない。いや、思い出したが、それは枝に止まっている何かの鳥のもので、結構写実的で綺麗なもので、何の種なのかはわからず、色は違うがカワセミをちょっと思わせたのを覚えているが、それ以上のことは記憶にない。こちらの苺のケーキはクレープ生地に紫がかったピンク色のムースが包まれているもので、ナイフが出てきたのでそれを用いて切り分けながらちょっとずつ食べたが、なかなか美味だった。
 会話は例によって大して覚えていない。何かの拍子にTが唐突に、こちらの背後の壁の上に掛かっていた時計を指して、あれをどんな風に書くのと言ってきた時があって、振り向いてみればその時計は文字盤の周囲の外縁部に林檎だか桃だか、目が悪くて仔細には見えないがおそらく林檎がいくつも描きこまれているもので、時刻は三時頃を指していたと思う。それでどう書くも何も、林檎の絵がついていて、みたいなことを言っていると、そんな普通の感じなんだ、とかいうような言が返ってきたので、いや、そういうのは実際書いてみないとわからないものだからと落とした。それで、あの時計も書くのと続けてTが訊いてきたのにT田が横から、話に出たから書くでしょと入ってきて、こいつは知覚したものをすべて書くんだ、みたいなことを言っていたと思う。Tはさらにそれを受けて、じゃあこのチーズも書くねと言って、誰も使わなかったようだが卓上に隠れるように置かれてあった粉チーズの入った容れ物を指したので、こちらは笑ったが、今このようにして記しているわけだ。
 そのうちにこちらの日記の話になったのは、先日の六日の記事のことをT田が話題に出したのではなかったか。と言ってどんな口火の切り方だったか覚えていないのだが、よくあれだけ雑談を覚えて書けるものだ、メモを取っていたとしか思えない、というようなことを言ったのだったかもしれない。それに対してKくんも何とか受けたので、Kくん、俺の日記読んでるのとこちらは訊けば、先日の六日の分は読んだと言って、平野綾が話に出てきたのはMUさんがその日観に行った舞台にちょうど出ていたからだと教えてくれて、T田の話にも順番違いがいくらかあったようで、順序は仕方がない、そこまで正確に覚えてはいられない、あくまで再構成だからとこちらは落としたのだったが、この話全体がこの昼の「ふらんすや」で交わされたものでなく、夜の「Cafe Hi famiglia」でなされたものだったような気もして、記憶が覚束ない。我々の席から、と言うかこちらの位置から見て左方の壁には女性の姿が描かれた、あれは絵だったのか写真だったのか忘れたが、歌手か何かみたいな女性の姿があって、Jules何とかと名前が記されていたと思うがこれも詳しくは覚えていない。
 それで「ふらんすや」をあとにするのだが、会計の際、堂に入った所作の女性店員が、個別にするかどうかと聞いてきたのに皆迷って、何となくまとめてに傾いたところで、じゃあ俺がひとまず全部払うわとこちらが割って申し出て、それで四四〇〇円ほどを支払った。店の外に出たところでレシートを見て、MUさんは誕生日なので除いて一人一一〇〇円で良いのではないかと言うと、Kくんは一一〇〇円ぴったりを、TとT田は一〇〇〇円札をくれて、小銭がないと言うのに良いよとこちらは払って金を財布に収めた。そうしてK家へと帰るのだが、この道中も一体何を話していたものか、記憶がまったくないので割愛させてもらい、K家に着いたあたりに話を飛ばそう。室内に入るとこちらは床に座り込み、氷の溶けてひどく薄まったココアを飲み干し、その後は紙粘土遊びの用意がなされた。紙粘土でそれぞれ作品を作ろうと企画したのはKくんである。MUさんに美術方面の素養があるのでそうした趣向を提案したのだと思うが、MUさんは過去に、おそらく大学時代かと思うが、粘土で作った細かな彫刻品を箱に入れて持ってきていて、見せてもらえばマカロンとか、チロルチョコとか、あとほかに何があったかちょっと忘れてしまったが、そうしたこまごまとした可愛らしい品が無数に入っていて、手先が実に器用な人の業と見えた。テーブル上にラップが被せられ、クッキングシートが敷かれて、それで粘土遊びの準備はOK、しかしこちらは皆がひとまずMUさんに教わりながらマカロンを作っているのに一人参加せず、T田が買っておいてくれた辛口のジンジャーエールを飲みながら、ベッドに座ってギターを弄り狂っていた。時に目を閉じてフレーズに合わせて歌いながらブルースに耽っていると、誰かがマカロンの歌を作ってとか言うので、適当にコードを鳴らして作曲を試みたがじきに飽きてまたブルースに戻り、その後紙粘土の歌とか言われるのにも同じことを繰り返して、最後に結婚の歌、みたいなことを言われたのには、Mr. Bigの"To Be With You"の進行を弾いてお茶を濁した。
 そのうちに本格的に粘土遊びが始まったのでこちらも加わり、「ミニチュア」というテーマがMUさんから提出されたのでそれに合わせて小さいものを皆作っていくのだが、こちらは即座に粘土を丸めてその上に細く小さな断片をちょっとくっつけて、林檎を作ったと言い張った。さらに次にはジャガイモを作るかと言って、粘土をやはり適当に丸めただけのものを拵えてジャガイモだと言い張ったのだが、そこにTが、これを使って芽を作りなと言って楊枝を渡してきたので、それでいくつか穴を空けてよりジャガイモらしさを付加した。三つ目には、次は玉ねぎだねとだれかが言ったので玉ねぎを作ろうとしたのだが、球の天頂の窄みが思いの外に上手く作れず、それで途中からスライムに移行した。出来るとこれも楊枝で、本来はきちんと円のなかに黒点の入った目を描くべきだが、面倒臭いので「∵」の記号のように穴を三つ開けて、やる気と覇気のない顔を作った。もう三つ作ったから良いかと思ったのだが、作り出せば意外と作れるもので、また皆、品質にはこだわらず、こちらのように児戯めいて他愛ない作品を作っても好意的に受け止めてくれるので、そうした自由で気楽な雰囲気に押されてさらに手作業を続けた。四つ目に作ったのは自分でも何なのかわからない謎の生物で、どことなく山椒魚らしき趣が感じられなくもないが、これを作ったのは、粘土を適当に手のなかで丸めて細長くしていたら、円柱状の一方が自ずと窄んで尻尾のようになったので、それを胴体として足をつけてやるかとそう思いついたからだった。それで胴体から両脇にちょっと突き出た足を六つ分つけてやり、最後に何故か一番前の足と中ほどの足とのあいだ、背中の上に球を一つ載せてやり、かくして謎の生物が出来上がった。こちらがほかに作ったのはあと二作、その一方はこれも自分でも何なのか意味がわからないが、ピザ記事のように薄く丸く伸ばした土台の上に球を三つ三角に接するように配置し、その上の真ん中にもう一つ球を載せた上からまたピザのような薄い記事を帽子のように被せたもので、これは本当に何も意味していない。ただ形を並べることの愉楽に従っただけのものである。あと一つも適当に形を繋げたもので、片仮名の「エ」を反対にして下部の横棒を短くしたような形の上に、やはり球を一つ載せたものであり、これを見て皆は何かの遺跡みたい、ストーン・ヘンジみたいと言っていた。
 ほかの皆が作った作品を細かく紹介していく気力は今のこちらにはない。T田は船を作った。これは、我々の活動のなかで作られた作品のなかに一つ、"A"という曲があるのだが、その歌詞に出てくる船を密かに作ってKくんとTの結婚祝いにしようという目論見が事前に交わされていて、こちらはT谷がいないからその企画は頓挫したのだろうと考えて自分勝手に適当にやっていたわけだが、T田はそれに忠実に従っていたわけである。船とその上に被せる柱付きの屋根、それに船に乗る人間二人とオールなどをT田は拵えて、MUさんは美大出の能力を存分に奮ってナイフなども使いつつ、鏡台を仕立てていた。これは多分、"K"のなかに出てくる少女の部屋にあるもの、とそういうことだったのだろうか? いずれにせよ、そのようにしてTが作った曲の世界観を表すものを拵え、二人の結婚を秘密裏に祝したわけだが、その目論見はあとでT田の口から明かされて、作品に隠された意味が露わになったのだった。Kくんは途中からパン職人と化して、メロンパンやチョココロネやクロワッサンや食パンなどをひたすら拵えていた。
 そう言えば粘土遊びに皆で邁進している途中、Kくんの父君から電話が入って、祝いの言葉を述べるとともに、新しい部屋のこととか色々心配しているようで、一旦終わりかけたかと思った通話が、しかしそのたびあちらから話題が継がれて終わりそうでいつまで経っても終わらないということが続いて、Tなどは笑ってしまっていた。最中Kくんが、Tはそこにいるのかと訊かれたのだろう、隣にいると答えたのだが、その時彼の隣に位置していたのはTではなくてこちらだったのであって、それを見てTはやはり笑っていた。
 粘土遊びが終わったのは七時頃だったのではないか。皆の作品を並べて写真を撮り、それらをクッキング・シートか何かの上に載せて電子レンジの上に運び、そこに静かに保存しておこうということで、こちらとT田が持ち運びの役を駆って出た。それで何とか無事落とすことなく運ぶことが出来、それから机の上を片付け、床の上に散った粘土の粉もKくんが掃除機を掛けて取り除き、と言ってやはり完全には除けなかったので多分あとで水拭きでもしたのではないかと思うが、片付けも一段落したところで、先ほど書いたようにT田の口から結婚する二人への祝いが送られて、それを捉えてこちらは、じゃあここでプレゼントを、と言って、リュックサックからまずは、淳久堂書店の包装に包まれた谷川俊太郎の文庫本、『愛について/愛のパンセ』を取り出し、おめでとうございますと言ってMUさんに贈った。詩集とエッセイが一つになっている本だと紹介し、まあ、これを読んで、愛について学んでいただいて、と言うと、誰なんだよ、どんな立場なんだよとTから突っ込みが入った。それから次に、今度はTが池袋がどこかの、何という店だったか忘れたがアニメグッズを売っている店で買ってきてくれた『ハイキュー!!』のジャージ、烏野高校というところのものだったか真っ黒なそれがMUさんに贈られて、彼女は喜んでくれたようだった。最後にこちらから、今度はKくんとTに向けて、谷川俊太郎編『祝婚歌』を、包んでいなくて申し訳ないんだけどと言って差し出して贈ると、Tは涙腺が弱いからと言って笑いながらちょっと涙を催していた。谷川俊太郎が結婚に関連する詩を選んでまとめたものだと説明し、二人で一緒に読んでいただいて、と勧めたあと、俺が読んだなかで良かったのは、と言って頁をひらき、黒田三郎とかフランシス・ジャムとかが良かったと紹介して、その作品の箇所に栞などを挟んで行った。
 そうしてプレゼントの段は終わり、Kくんの体調も結構良さそうだというわけで、夕食に出掛けることになった。Cafe Hi famigliaと言って、以前グラタンを食った店があり、その後改装されてTとKくんが推していた煮込みハンバーグもグラタンもメニューから消えたらしいのだが、そこに行ってみるかということになった。それでKくんの宅を出てマンションを下に下り、通りに出て表に向かって、駅前を歩いていると空には雲が蔓延っているが、そのなかで満月が雲間に姿を現して輝くのに、月が見えるなと隣のT田に注意を促した。そうして駅舎のなかを抜けて反対側に向かい、通りに下りて進んで行き、途中のどこかで一度曲がってさらにもう一度折れて、あとは裏路地をまっすぐ進めば件の店だったと思う。向かう途中でTが電話して、五人分の空きがあるかと聞いていた。それで入店すると、ソファーと椅子で四人掛けの席の側面にまた誕生日席が設けられた席が用意されてあり、そこへ入った。こちらはソファに入って左隣はT、こちらの右のテーブル側面は勿論MUさん、こちらから見て正面向かいはKくんで、その左隣がT田という位置取りだったと思う。注文はこちらはオムライスにして、Tはオニオンスープ、MUさんは三鷹鶏飯というもの、T田はキーマカレー、Kくんは林檎などの入ったサラダと、禁断のポテトという怪しげな品を頼んだが、このポテトは禁断というほどの味ではなく、こちらもいくらか食べさせてもらったが極々普通の品だった。禁じるほどのものではない、合法寄りだね、とKくんだかT田だかが漏らしていた。
 席に就いて最初のうち、どういうきっかけだったか、また六日の日記を読んだという話が出たものか、こちらはSさんのことを話した。彼のブログを読んでいたら、六日に行った綾瀬の付近にSさんは住んでいるらしく、Fさんとその一行が来るのだったら駅前で密かにその様子を観察したかったなどと書かれてあったと紹介したのだった。Sさんとは今年の二月五日に一度だけ顔を合わせたことがあるわけだが、会ったことはあるのとTに訊かれて肯定すると、どうやって会うことになったのと問いが続いたので、それを話すと長くなるが、まずMさんという人がいて、とそこから説明を始め、それでも大して長くはせずに、Mさんのブログの読者として互いに存在を認知していた、それで二月にMさんが東京に来るという時に、Sさんとも会うということだったので同席させてもらったのだと経緯を話した。
 そのほかの話は大して覚えていない。こちらはT田に、KくんとTの二人にどんな夫婦になってほしいかと振ると、安定した夫婦という短い返答があって、それはどんなものかと続ければ、なってほしいと言うよりは、希望的観測としてそうなっていくのではないかと彼は見通しを述べたのだが、Tが何でもないようなことを話してKくんがそれを穏やかに受けると、そんな関係のことを指しているようで、だとしたら今とあまり変わらない。二人には波瀾がなさそうだと彼は言って、今まで二人は何かそうした波瀾のようなものを体験したことがあるのかと質問すると、KくんもTも、ないねえ、喧嘩したことないねえ、と答えた。そうした話の途中でこちらは便所に立って、トイレは店の外にあるようだったのでフロアの片隅の扉をくぐり、通路を渡って隣の、マンションか何かのロビーめいた場所に入って、その一角に設けられている便所に行き、個室に入って糞を垂れた。手を洗って戻ってくると話は続いていたようで、ただT田が何と言っていたか全然思い出せない。その次にはMUさんに話が回されて、その時にはMUさんは既に誕生日席を離脱して、食事を運んでくる前に空いた隣の席を女性店員が繋げてくれたそちらに移っていたので、つまりこちらの右方から反対側の左方へと移動していたということなのだが、彼女はそこからこちらに、Fさんはどうか、どんな夫婦になってほしいかとこちらが投げかけたのと同じ問いを放ってきたので、互いに尊重し合い、成長していける関係を築いてほしいねと答えると、隣のTが、それにはどうしたら良いのかなと訊いてくるのに、まあこれは俺の言葉じゃなくてある作家が言っていることだけど、ガルシア=マルケスというノーベル文学賞も取った作家がいて、その人は奥さんとの仲がとてもうまく行っていたんだね、それである時、どうしてそんなに夫婦仲が良好なんですかと訊かれて答えたことに、結婚生活というのは、毎朝その都度新しく始め直さなければならないものだ、夫婦の関係というものも、そのようにして絶えず学んで更新していかなければならないものなんだと、そんな風に言っていたねと紹介して、まあそういうことなんじゃないの、結婚なんてしたことないから知らんけど、と笑って落とした。このガルシア=マルケスの発言の典拠は、二〇一三年の一一月に読んだ『グアバの香り』というインタビュー本である。

 ……ぼくたちは結婚前とまったく変わることなくやっている。それが秘訣と言えば秘訣だろうな。つまり、結婚生活というのは、人生と同じで、毎日一からはじめなければならない何とも面倒なものだということを理解しないといけない。毎日それをやらなければならない。努力を怠ってはいけないが、これが結構きついんだ。でも、そうするだけのことはある。ぼくの書いたある小説の人物は、もっとはっきりと「愛もまた学んでいくものだ」と言っているよ。
 (G・ガルシア=マルケス/P・A・メンドーサ/木村榮一訳『グアバの香り――ガルシア=マルケスとの対話』岩波書店、2013年、22)

 そのほか、"K"のMV案に関わる話などもしたが、もうだいぶ気力が乏しいのでこのあたりのことは割愛させてもらう。さあ、もうそろそろこの店から退店しよう。退店の際は個別会計を行い、T田が持ち合わせがなくなってしまったと言うので、あるぞ、とこちらは一万円札を見せびらかし、彼の品と一緒に払ってやった。T田はこちらの渡したレシートを見て、今度会った時に一三〇〇円返せば良いな、日記に書いておいてくれと言ったので、このようにここにきちんと記録しておく。退店して裏路地を行くあいだ、T田は空を見上げて雲がないなと言ったが、そうではなくて空は全面雲に覆われていて、隙間や乱れがなく均されているものだから、そのためにかえってすっきりとして見えるのだった。駅に向かって歩いているあいだ、Tは皆の一番後ろで何やら顔を俯かせて悩むような様子を見せており、最初は何かメモを取っていたようだが、じきに考え事を始めたようだった。こちらは隣を行くT田に、そう言えば昨日、物凄く久しぶりにDeep Purpleの『Made In Japan』を聞いたが、あれはやはりなかなか凄いなと話した。"Black Night"のIan Paiceが結構なもので、フィルインが実に鋭いと言うと、何かあの、三拍子のなかに一六分を突っ込んでいるやつだろうと言ってT田は口真似をしたので、そうだそうだと受けると、高校時代に我々のバンドで演じた際、彼はそのライブ音源の方の演奏をコピーしていたのだと言った。さらに次に、"Strange Kind Of Woman"って覚えているかと投げかけて、サビのメロディを適当に口ずさむとT田も思い出したので、あの曲の間奏でIan Gillanとギターが掛け合いをしているんだけど、その時のGillanの声が高すぎて気持ち悪いくらいだと笑って言った。その頃には三鷹駅にまっすぐ続く目抜き通りまで来ており、こちらは後ろを振り返るとTは顔を上げて口もとを緩くし、何? といった風に目をひらいたので、音楽が面白いなと思ってと告げて、ロックがまだまだ面白いと思ったと続けると、何を聞いているの? と質問が来て、Deep Purpleとかだよと言えば、昔聞いたものに新たな発見が出来るのは良いねというような反応があった。
 それで駅まで戻り、改札前でありがとうございましたと礼を交わし合って、時刻は一〇時二〇分ほどだったのではないかと思うが、と言うのもCafe Hi famigliaの営業時間が一〇時までで、実際には一〇時をちょっと過ぎてから店を出たはずで、改札の前に立ったこの時には電光掲示板に二五分発の電車の表示があったのを覚えているからだが、Cafe Hi famigliaについて思い出したことを一つここに突っ込んでおくと、我々がそろそろ店をあとにしようとした頃、と言うことはもう営業時間も過ぎていたと思うのだが、店内には少なくとももう一組、男女がいて、彼らが声高く話すのが自然と耳に入ってきて訊けば、おそらく男性が女性の方に何か将棋のレクチャーをしていたようで、しかもそれがなかなか高度な話のようでちょっと耳を惹いたということがあった。
 Kくんといつものように握手を交わして、じゃあな、じゃあな、と言い合ったあと、T田とMUさんとともに改札をくぐり、MUさんとも手を振り礼を言って別れてホームに下りようとしたところが、二五分の電車は既に発ってしまったところだったので、それなら一番前に行こうぜと言ってもっとも東京寄りの車両の位置まで移動して、来たのは高尾行きだったか豊田行きだったか忘れたが、この日は台風の影響で各駅停車しか運行していないようだった。帰りの電車内では席に座ったのだったと思う。するとT田が、最近興味深いことは何かと訊いてきたので、まあカフカだろうなと答えて、昨日の日記には、カフカの文学は煉獄の文学なのではないかなどということを書いたと言って、二極のあいだを行ったり来たりして不確定性のなかを彷徨い続けるのが煉獄という中間領域にあるのと似ているのではないか、という風にちょっと説明した。そうしたことを頑張って書いてTwitterにも流しているのだが、最近はどうも反応が乏しい、やはりやたら長いからとこちらは笑えば、反応とはと訊かれたので、まあ要は「いいね」とかリツイートとかだと答え、どうも以前よりも全体的にそれらの反応が少なくなったような気がすると感触を述べ、やはり長いからだとまたそこに立ち戻ったあと、まあそうは言っても「いいね」は所詮「いいね」でしかない、それよりはリプライで意見をくれたりした方が勿論嬉しいし、さらにそれよりもこちらの記述に触発されて自分もブログに感想を書くとか、要するに実際にカフカを読んでくれた方が嬉しいには決まっていると落とした。
 立川に着いて降りたところで、明日は何かあるのかと訊けば、雨でなければまたマクドナルドにでも出向いて書き物をやらねばならないという返答があり、結構忙しいようだったので、俺も意外とやることがあってなと問わず語りに告げると、お前の場合は生きている限り、書くことが常に増えていくからなと返ったのでそうなのだと笑った。そうして階段を上がったところで別れ、二番線の方に向かい、発車が間近だったので小走りに階段を下りていき、電車に飛び乗ったところで頭にぴりっとノイズが走った。この時だけではなくて、実は日中のいつからかまたこのノイズが発生していて、Cafe Hi famigliaから駅に向かう道などでも随分ぴりぴりなっていたのだが、座席に座れば多少ましになるようだった。それで手帳にメモを取りながら青梅に着くのを待ち、降りれば駅舎を抜けて、何となくまだ何か食いたい感じがしていたのでコンビニに寄っておにぎりを買うことにした。入店し、「ア・ラ・ポテト」という品名の、バター味のポテトチップスを持ち、あとはコカ・コーラ・ゼロのペットボトルも取って、最後におにぎりを二つ、ツナマヨネーズと唐揚げマヨネーズの品を加えて会計に行った。店員は小太りの浅黒いような肌の男性で、結構愛想は良かった。ビニール袋を受け取って退店し、夜道を行きながら二つのおにぎりをもぐもぐ食った。闇の奥から湧いてくる虫声は、もはや野もせというほどの勢いや厚みがないが、それでも道に絶えずついてきた。歩いているあいだもずっと電流めいたぴりぴりというノイズが頭のなかに付き纏ってきて、観察したところではやはり目を横に振った際に発生するようだった。また足の裏にも衝撃が波及するのも先日観察されたのと同様で、何だろう、やはり脳か、それとも脳でなければ耳、三半規管か、まさかメニエール病の前兆とかではないだろうななどと恐れた。耳で言えば、Kくんの宅にいるあいだ、粘土遊びの片付けをしていた時だったと思うが、床から立ち上がった際に強い耳鳴りに襲われた時間もあった。これも多分、頭のなかの痺れと何か関係があるのではないかと推測したものだ。
 自宅前まで来ると、頭上、空を埋め尽くす雲の僅かな隙間から月が現れ出ていて、その光のおかげでかえって雲の形がよく見えた。家のなかに入ると居間では父親が韓国ドラマを見ているところにただいまと掛けて、買ってきたコーラを冷蔵庫に入れるとともにおにぎりの包装をゴミ箱に捨てておき、そうして塒に帰ると暑かったので窓を開け、服を脱いでコンピューターを点け、早速頭の痺れについて検索した。脳や眼球関連ではないかと思ってその方面で調べてみたが、それらしい情報に当たらないので、もう一つ考えた可能性としてセルトラリン離脱症状ではないかという線を探ってみると、これがどうやら当たりのようだった。あるページには、「離脱症状といえる具体的な症状としては、シャンビリといい、耳鳴り・震え・めまい・吐き気・ソワソワ感・しびれ(電気が走るような感じ)が生じる場合があります」(https://www.shinjuku-stress.com/column/medicine/jzoloft/)とあり、ウィキペディアにも「「脳への衝撃」「脳ショック」「脳の震え」などと表現される離脱症状を、抗うつ薬の中断・減薬中に経験すると報告されている[1][7][8]。この症状は、[8]めまい、電撃の感覚、発汗、吐き気、不眠、振戦、混乱、悪夢、めまいなどを共通として、多種多様に表現されるが、因果関係は分かっていない」(https://ja.wikipedia.org/wiki/抗うつ薬中断症候群)と記されてある。「脳の震え」という表現はこちらが覚えている感覚として、まさしく言い得て妙ではないか。またほかのサイトには、 「具体的には、メマイのような独特な身体感覚が突然現れます。それを多くの方が、「シャンシャンする」とおっしゃいます。しばしば、頭の向きを変えたり、あるいは、目を動かしたりする時に現れるようです。また、それとほぼ同時に、身体のそこかしこに、まるで、電気が走ったように、「ビリッ」という痺れのような感覚が現れます。この二つの症状を合わせて「シャンビリ」と、一部の方から呼ばれているようです」(https://www.iidabashi-mental.jp/treatment/drug.html)ともあて、「頭の向きを変えたり、あるいは、目を動かしたりする時に現れる」というのがこちらの症状と一致しているので、どうも真相はこれで決まりらしい。それで脳の異常とかではないようで良かったと安堵し、おそらくじきに収まるだろうと楽観的な見通しを立てた。
 それから入浴に行った。窓外からは沢の音が侵入してきて、雨も降り出したようでそれに混ざっている。瞑目して半ば微睡みながら浸かるなかで今日のことを思い返していた。風呂を出てくると、Mさんのブログを読んだ。こちらが先日読んだ東浩紀のインタビュー記事を彼も読んだと言い、「加害者は加害を全部忘れる。被害者はそれを物語化する。けれどじつは加害には物語なんかない。たまたま目についたから殺したりする。でも被害者のほうはたまたまじゃ困る。被害者は選ばれて殺されなければいけない」という発言を印象に残った部分として引いていたので、やはりそこだよなとこちらは頷いた。そのうちにLINE上で、主にMUさんによって、今日の会合についてT谷に報告がなされたので、こちらはそれを見ながら買ってきたポテトチップスを食うとともにコーラを飲み、続いて北村淳「「辺野古移設で抑止力維持」政府説明のおかしさ」(https://globe.asahi.com/article/12072310)の記事を読んだ。

 抑止力が減少する最大の理由は、滑走路が大幅に短くなってしまうからである。現在海兵隊が使用している普天間航空基地の滑走路は2740メートルだが、辺野古に新設される滑走路は1200メートル(オーバーランを加えると1800メートル)しかないのだ。
 普天間の場合、海兵隊が使用している全ての航空機(F/A-18戦闘機、AV-8B垂直離着陸(VTOL)戦闘機、F-35B短距離離陸垂直着陸(STOVL)戦闘機、EA-6B電子戦機、KC-130空中給油/輸送機、MV-22ティルトローター中型輸送機など)の発着が可能だ。
 辺野古に予定されている滑走路の場合でも、F-35BやKC-130の運用は理論的には可能だ。だが安全性の観点から、実際には戦闘機や輸送機などの固定翼機の運用は避けられることとなり、現実的にはヘリコプターとMV-22オスプレイだけを運用するための大型ヘリポートという位置付けになってしまう。

 (……)普天間航空基地は朝鮮半島有事をはじめとする東アジアでの軍事的危機に際し、国連軍が使用する航空基地に指定されている。そのため、アメリ海兵隊機だけではなく、国連軍に参加する各国の戦闘機、爆撃機、大型輸送機、哨戒機、早期警戒機や大型旅客機などありとあらゆる航空機の発着が可能でなければならない。ところが、辺野古に移設した場合、滑走路が短く制約を受けるため、国連軍が使用することは不可能になる。すなわち、辺野古への移転で国連軍の航空基地が一つ、日本から消え去ることになるのだ。

 
 記事を読んだあとはインターネットを回ったりメモを取ったりして、そうして一時四〇分頃に緑茶を注ぎに行った。疲労感が腰や脚に溜まり、蟠っていたらしい。室に戻るとNikolai Kapustin『Kapustin Plays Kapustin Vol.1』とともに町屋良平『愛が嫌い』の書抜きを始めたが、すぐに腹が痛くなった。どうやらコーラと緑茶が重っているらしかたので、便所に行って長々と放尿してきてからリチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』の方も書抜きをして、二時半を迎えた。
 その後、村上春樹『アンダーグランド』の読書。四時頃になて思い立ち、MIDIシーケンサーである「cherry」というフリーソフトをダウンロードした。中学生の時から使っていたものだ。T田に軽躁状態が続いて創造性が満ちているうちにメロディを作れと言われていたので取得したのだったが、しかしMIDI音源の設定がどうとかで音が鳴らなかった。それで「Domino」というソフトの方をさらにダウンロードしたところ、こちらは設定が上手く出来たようで音が鳴った。書見は五時直前まで続けて就床である。


・作文
 8:43 - 10:06 = 1時間23分
 11:22 - 11:46 = 24分
 計: 1時間47分

・読書
 10:30 - 11:18 = 48分
 24:54 - 25:25 = 31分
 25:49 - 26:30 = 41分
 27:06 - 28:52 = 1時間46分
 計: 3時間46分

  • 2018/10/13, Sat.
  • 2014/1/14, Tue.
  • fuzkue「読書日記(156)」: 9月27日(金)から9月29日(日)
  • 「古田徹也氏ロングインタビュー 運に向き合い、倫理を問いなおす 『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)刊行を機に」(https://dokushojin.com/article.html?i=5893
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-10-12「下の毛を剃った女の感傷が息をひきとる下水の底で」; 2019-10-11「指を折り数える無限を手のひらにひとつずつ折りたたんでいく」
  • 北村淳「「辺野古移設で抑止力維持」政府説明のおかしさ」(https://globe.asahi.com/article/12072310
  • 町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、書抜き
  • リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、書抜き
  • 村上春樹アンダーグラウンド』: 16 - 108

・睡眠
 3:45 - 8:00 = 4時間15分

・音楽

  • Mr. Big『Get Over It』
  • Mr. Big『In Japan』
  • T田編『Contemporary』
  • Nikolai Kapustin『Kapustin Plays Kapustin Vol.1』
  • T田編『Classical Music Selection』