2019/11/14, Thu.

 ここで必然的に疑問が生まれる。それは疑問への疑問だ。私たちはどれだけ安全なのだろうか、世紀末と新たな千年紀に生きている私たちは。そして特に、私たちヨーロッパ人は。疑う余地はないのだが、次のようなことが言われている。つまり地球上の全人類の一人あたりに、TNT火薬相当で三、四トンの核爆弾が貯蔵されている、というのである。もしその一パーセントでも使われたら、即座に数千万人が死亡し、人類全体に、そしておそらく昆虫を除いた地上のすべての生命体に、恐ろしい遺伝子的な損傷がもたらされることだろう。そしてさらに、第三次世界大戦が起きたら、たとえ通常兵器による部分的なものであろうとも、それは私たちの領土で、大西洋からウラル山脈の間で、地中海から北極海の間で戦われることだろう。この脅威は一九三〇年代のものとは違っている。より身近ではなく、はるかに拡散している。あるものによればそれは今のところは人間の魔力からは解放され、新しく、まだ解読できない、歴史の魔力に結び付いている。それは全員に向けられているので、とりわけ「無益」である。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版、二〇〇〇年、192~193)


 一〇時四〇分に至ってようやく起床。九時間以上も床に留まってしまったわけで、もう少し睡眠を減らしたいところだ。修学旅行か何かに出向いているような夢を見た。ベッドを抜け出すとコンピューターを点け、各種ソフトを立ち上げてTwitterを覗き、いつも通り前日の日課記録をつけたあとにこの日の記事も作成し、冒頭にプリーモ・レーヴィからの引用を付した。そうして部屋を抜けて階を上がれば居間は無人、母親は仕事の研修で朝早くから新宿に出掛けている。服を寝間着からジャージに着替えると、トイレに行って濃い黄色に染まった尿を放ち、台所に戻ってくると冷蔵庫から炒めた牛肉と幅広のうどんを一杯取り出した。まず牛肉を電子レンジに入れ、温めているあいだに米をよそって卓に運び、なかでぱちぱち音を立てているレンジの稼働を止めて肉を取り出すと、今度はうどんを入れて二分を設定した。そのあいだ卓に就いて、肉をおかずに白米を食べだす。温まったうどんもそこに加え、新聞から香港情勢の記事を読みつつものを食べて、平らげると台所で食器を洗った。時間が前後するかもしれないが、雲はいくらか散発的に浮かんでいるもののよく乾いた晴れ空だったので、ベランダの戸口の方に集まっていた洗濯物を広げ、室内に吊るされてあった下着類も外に出した。食器を洗い終えるとそのまま風呂場に行って浴槽も洗い、出てきて下階に帰り、日課記録をつけたりしたのはこの時だったかもしれない。ちょっと過ごして、水を足しておいたポットが沸いただろうタイミングを見計らって、急須と湯呑みを持って階を上がり、緑茶を用意して戻ってくると一服しながら、(……)。歯磨きも済ませてその後、身体をほぐしておくかというわけで、cero "Yellow Magus (Obscure)"を流して歌いながら下半身の筋を伸ばし、Mr. Big "Just Take My Heart"も次に流したあと、ようやくこの日の日記を書きはじめたのが一二時一六分だった。ここまで綴ればちょうど一二時半。今日は休日で余裕もあるし、昨日考えた案の通り、まず音楽を聞いて鋭気を養う。
 最初にいつものように、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から"All Of You (take 3)"を聞いた。全体的に、自ずとScott LaFaroのプレイに耳が行った。表層部への浮き上がりの合間にも細かく下方に飛んで低音を挟みこみ、空間を支える土台としての役割を崩しすぎないように、あまり上滑りしすぎないように配慮しているのがわかる。それはしかし、頭で計算して演じているのではなくて、自然なメロディ感覚としてそのような低音部と高音部を行き来するプレイが出てきているのではないかという印象を受けるもので、そうしたLaFaroのフレーズ感覚というのは、尋常のベーシストと比べてかなり広範囲に及ぶ視野の大きいものなのではないだろうか。その後、Paul Motianがスティックに持ち替えて以降のことだったと思うが、LaFaroは一部基本的なフォービートもやっているものの、すぐにまたリズムをずらしたり、細かな装飾音を挟んで上方に昇っていったりして、一拍ごとに行儀良くリズムを刻むプレイには飽き足らないようである。ベースソロでは聞きながら、メロディに合わせて歌ってしまった。それからドラムについて触れれば、スティックに持ち替えたあとのMotianのシンバルの音が"All Of You"のほかのテイクよりも大きく、力が入っているのではないかという印象は、今回も以前と同様に感じられた。澄んで綺麗な響きである。
 次に、"My Man's Gone Now"。前日には大した印象が得られなかったので、もう一度流してみた。曲調からしても仕方のないことだが、LaFaroはほかの演奏よりもだいぶ大人しい。細かく横に連なる旋律的なフレーズはほとんど聞こえず、太く重々しい長音中心の、アルペジオ的なアプローチを基礎にしている。Motianもシズルシンバルを背景に敷いて控えめなサポートぶりで、この曲はこのライブ音源のなかでは、三者のいわゆるインタープレイ、交錯の度合いが最も少ない方なのではないか。地味な印象はやはり否めない。曲調も、スローテンポのバラード的な演奏のなかでも、"Detour Ahead"や"Some Other Time"のように柔らかく温かみを帯びるのでもなく、"Jade Visions"のようにひたすら静謐に澄むのでもなく、やや暗めに、陰鬱めいた雰囲気に落着いている。ベースソロは結構たっぷり取られているので、LaFaroを聞きたい向きにはそこが聞き所かと思われるものの、総じてこのライブ演奏のなかでは、一番普通のピアノトリオに近い演じ方がされているのではないだろうか。
 続いて、"Detour Ahead (take 1)"。この曲も優しげで大人しいバラードかと思いきやさにあらず、序盤のうちはLaFaroも大人しめではありながら時折りやはり高音部で副旋律めいたフレーズを入れ、さらにビートが弾みだして演奏が活気づいてくると、いつものように動き回りはじめ、お得意の三連符なども一部聞かれたように思う。ベースソロも、一方では伸びやかなメロディを奏でることに注力しているけれど、もう一方では一六分音符を次々と詰めこむ場面もあって、そういうところは穏和な曲調でも意に介さず、お構いなしなのだなという印象である。
 その後、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』に移り、三曲目の"Autumn Leaves (take 2)"を聞いた。冒頭のテーマの時点でLaFaroのベースがかなり大きく、また細かく蠢いていて、テイク一よりも格段に大胆に攻めた、あるいは燥いだようなアプローチになっており、この辺りを聞くと六一年のライブとほとんど変わらない演じ方をしているように思う。その後の三者入り乱れての間奏はテイク一と同様、集中して聞かないと小節の区切りを失ってしまうようなスリリングさがあり、ここでもLaFaroはかなりの高音部まで使っていて、テイク一よりもややテンションが高いような印象を受ける。ピアノソロの裏での演じ方は、テイク一とあまり変わらないか。尋常なフォービートを刻んでいるが、尋常と言ってもリズム的にはかなり強靭な感触で、Motianの刻みとも相乗して芯が通っており、その辺りのリズム隊には及ぶことのできるレベルでないことは言うまでもない。それでもしかし、六一年の彼らだったらやはりもっと流動的に組み合っていただろうとは思う。Evansのピアノソロはテイク一と甲乙つけがたいまとまり方で、どちらのテイクも、この"Autumn Leaves"というスタンダード曲の演奏のなかではジャズ史上でも屈指のものだろう。だがやはり、ここではBill Evansが主役としてほかの二人よりも突出しているような印象で、それだけ彼の音数も多いようで、LaFaroやMotianがうねりながら入りこんでくる余地を与えず、彼らの演奏の上に乗っている感じがある。
 四曲目は"Witchcraft"。あまり評判を聞いたことがない曲だが、きちんと耳を傾けてみるとこれは凄い演奏で、ここでのLaFaroの闊達さ、Evansのピアノとの交錯ぶりは、六一年時点ともう変わりがないのではないか。『Portrait In Jazz』のなかでは今のところ、LaFaroが最も主張を押し出している曲だと思う。単純なフォービートの部分は少なく、旋律的なアプローチを取るのではない箇所でも、リズムに変化を取り入れていて、Evansと一緒になってかなり遊んでおり、ベースソロにも相当に勢いがある。五九年一二月二八日の時点でも、これほどの息の合い方を見せられるわけだ。Motianはきっちりとした手堅いサポートを演じているが、ここでMotianまでリズムを拡散させてしまうと、多分音楽が分解してしまっただろうから、この曲においてはひとまずこれで良いのではないか。この作品では全体に、まだMotianの独自性は薄いようで、彼特有の気まぐれさや天然ぶりを強く感じさせる場面には出会えていない。そうしたMotianの特異な性質は、このトリオで演奏を重ねていくなかで開発し、身につけていったものなのだろうか。
 次に五曲目、"When I Fall In Love"。ベースとドラムが左右からピアノを支える尋常なトリオの趣向ではあるが、その辺りのピアノにはとてもではないが真似できない、雲の上の世界のように素晴らしい演奏。Bill Evansという人の美意識がよく表れているような気がする。後半、速いフレーズを織り混ぜるあたりではリズム的にも変化があって、六一年のまったくペースを乱さない均一さとは間の取り方がちょっと違うような感触を覚える――より人間的に、歌い上げるような雰囲気だろうか。とは言え、一片の曇りもなく澄み渡った明晰な統一性は同じである。それにしても、Evansの演奏は発音が非常に明快で、巷間イメージされているよりもかなりタッチが強く、堅固なのではないだろうか。
 音楽を聞いたのち、一時五〇分から一三日の日記。それを書いているあいだに母親が帰ってきた。そろそろ腹も減ったし、洗濯物も入れなければなるまいというわけで、こちらも室を出て上階に行った。何か食べ物はあるかと訊いたところ、団子などを買ってきたと言う。それではしかし腹にあまり溜まらないので、冷蔵庫から豆腐と、茹でただけで切ってもいない小松菜を取り出し、ほかに釜に少量余った米を食ってしまうことにして、納豆も出した。葱を鋏で刻んで豆腐に落とし、鰹節をさらに乗せて麺つゆを掛ける。納豆にはたれと「カンタン酢」を加えて、そこにも葱を刻み落とした。そうして米をよそって、それぞれの品を卓に運んで食べていると、母親が四三〇円もしたと言って、メロンカスタードパイとかいう品を取り出し、半分に切って分けてくれた。立川駅構内の店で買ったと言う。食後にそれを頂いて、勿論普通に美味いのだが、一つに四三〇円出すに値する味なのかどうかは判断がつかなかった。食後、皿を洗ったあと、既に取りこまれていた洗濯物からタオルや下着類を畳み、そうして下階に戻るとふたたび一三日の日記の作成に精を出した。二時四八分からほぼ一時間で仕上げることができ、インターネット上に投稿したあと、今度は「MN」さんへの返信を綴りはじめた。色々と書こうと思っていたのだけれど、結局とっちらかってまとまらなくなってしまうので、あまり話を広げずに手短にまとめることに決めて、四〇分ほど書いてとりあえず仕上げたあと、この日の日記を書き足しはじめ、音楽の感想を綴っていると、五時前になって外から母親の、手伝っておくれ~、という声が聞こえてきた。物凄く鬱陶しい気持ちになった。飯の支度など面倒臭くて仕方がなく、コンビニまで歩いていって自分の分の食事を買ってくるからそれで許してもらおうかとすら思った。と言うか、食事の支度をするのが面倒臭いと言うよりも、他人と言葉を交わさなければならないことがとても煩わしいという気分で、一人で部屋に籠っていたかったのだ。それでも仕方がないので室を抜けて上階に上がり、まだいいでしょとか文句を呟きながら洗濯物を畳んでいたのだが、やがて諦めて台所に入った。手間の掛かるものは作りたくなかったので、冷蔵庫を探り、麻婆豆腐の素があったので、先日も作ったけれどまた麻婆白菜を拵えることに決めた。それでフライパンに素と水を入れて火に掛けたり、とろみ粉液を作ったりする一方でほうれん草を茹で、洗い桶のなかで水に晒しておくと、紫白菜を切って麻婆豆腐のフライパンに投入した。その頃には父親が帰ってきており、彼はまたすぐに、先般亡くなったY田さんの宅に向かったのだが、その時に持っていった香典か何かの袋に書いた名前の、下書きの鉛筆の線を消していなかったと母親が慌てはじめて、父親に電話を掛けたが繋がらない。それで父親が再度帰宅したところに母親は事情を告げたのだが、その時何か父親を責めるようなことを言ったのだろう、父親の方はうるせえ馬鹿、と吐いて、そうでなくても苛々していたこちらはうるせえなあとさらに苛立ったのだが、同時にしかし、このようにくだらない言い争いをしているこいつらと同レベルに立ってはいけないという自制心も湧いて、ちょっと冷静になるようなところがあった。そうは言っても、その後も母親が愚痴愚痴と、忙しかったから、やることがたくさんあったからとか呟いているのに、うるせえよいちいち、そんな些細なことで、人が死ぬわけでもあるまいし、と思わず漏らしてしまったのだけれど、その後はしかし、冷静さが何よりも大事だと自分に言い聞かせて、黙々と食事の支度に立ち働いた。麻婆豆腐のほかには、玉ねぎと卵の味噌汁を作ることにした。鍋の水を沸かし、冷蔵庫に入っていた玉ねぎを半分切って入れ、椀に卵を割って溶いておき、鍋の方にはあご出汁の袋を投入し、さらに小海老などの混ざった乾燥若布をちょっと振って、煮ているあいだにほうれん草を何束かに分けて掴み上げて、絞って切り分けパックに入れておいた。汁物に味噌も加えて、卵も垂らして完成させると、調理に使った道具などを洗って乾燥機に収め、調理台の上の水気も拭き取って、片づけもきちんとやっておいてから台所を抜けた。そうして下階に帰ると、五時半からふたたびこの日の日記を書きはじめ、六時を越えたところで音楽の感想を書き終わった。それから読み物に入ったのだが、それまでのあいだに一八分ほど間が空いているのは、何をしていたのか覚えていない。六時二五分から過去の日記を読み返しはじめ、一年前のものと二〇一四年の分とを読んでしまうと、英語のノルマをこなそうというわけで、Nancy Bauer, Alice Crary and Sandra Laugier, "Stanley Cavell and the American Contradiction"(https://www.nytimes.com/2018/07/02/opinion/stanley-cavell-and-the-american-contradiction.html)をひらいた。この記事を読了すれば、時刻は七時前である。

・eclecticism: 折衷主義
・undistracted: ひたむきな
・cleave to: 忠実である、くっつく
・prerequisite: 必須条件、前提条件
・preoccupation: 夢中、最大の関心事
・wherewithal: 必要な手段
・knack: 才覚、こつ、要領の良さ
・anathema: 忌み嫌われるもの
・ilk: 同族、同類
・herd: 群れ; 群衆、民衆
・persevere: 目的を貫く; 我慢する、辛抱する
・surcease: 休止、停止

 さらにもう少し読み物を続けることにして、牟田和恵「「強姦神話」を暴く---山口敬之氏手記を批判する」(https://wan.or.jp/article/show/7508)を読み、続いて福島香織「日本人が香港デモに無関心のままではいけない理由」(https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191114-00058241-jbpressz-int)も読み通した。

 12日深夜、香港中文大学構内で警官が催涙弾とゴム弾を発射し、60人以上の学生が負傷。デモ隊も火を放って応戦し、キャンパスが戦場となった。
 大学は本来、警察の介入を拒否できる強い自治権を持つ。副学長、学長らが自ら学生と警察の間に立って交渉にあたり警察の学内侵入を防ごうとしたが、警察は交渉に応じず、大学に突入した。これは香港デモ始まって以来、警察が初めて大学の自治権を犯したということであり、香港の学問の砦が警察の暴力に屈したと国際社会は衝撃を受けた。

 もちろん、迷惑に思っている市民は多くいるし、デモ隊を批判する市民もいる。デモ隊側の暴力性が日に日にエスカレートしているのも事実だ。デモを批判するだけで、リンチを受ける場面もある。だが、それ以上に、今の香港警察は完全に中国公安化しており、事実を隠蔽した虚偽の情報を平気で公式発表したりもしていて、警察や司法権力に対する不信感がものすごい。この不信感が、過剰な自衛意識につながり、異見者を見付けると袋叩きにしかねない攻撃性となる。
 また、中国からの公安警察が相当数香港に送り込まれ、香港警察や新聞記者、市民の姿をして香港世論や国際世論をデモ批判に誘導しようとし、過剰にデモの暴力を演出したり、市民の不安を煽って過剰な攻撃性を引き出したりしている可能性は確かにある。(……)
 また、警察の暴力行使が、いわゆる“勇武派”の最前線にいるデモ隊に対してだけでなく、女性や子供、すでに無力化された抵抗の意思がないことを示しているデモ隊や一般市民、買い物客らに対しても容赦なく、警察署内や拘置所などでのレイプや虐待がえげつないことも、多くの証言や映像などで判明している。

 最近、香港警察の内部関係者が韓国メディアKBSの匿名取材に応じて、興味深い告発をしている。
 1つ目は、香港警察に逮捕されたデモ参加者が、拘留中にレイプされたという噂に関する証言だ。過去5カ月の香港デモに対する取り締まりの中で、4人の警官が関わった、デモ参加者に対するレイプ事件が少なくとも2件あり、署内で医学的証明も行われているという。この警官によれば、実際のデモ参加者の拘留中のレイプ事件はもっと多いとのことだ。

 ここで注意すべきは、来年春に予定されている習近平主席の国賓としての訪日の影響だ。今の予定では、習近平主席は天皇陛下との特別会見が設定される。中国共産党の歴代政権が、日本の天皇陛下との会見を国内に向けての権威強化に利用してきた経緯は今さら繰り返す必要はないだろう。だが、考えてほしい。香港情勢がこのまま悪化し、万が一、解放軍を出動するようなことになれば、天安門事件後の天皇陛下訪中と同様に、軍によって学生デモを鎮圧した専制政治に対して日本の天皇陛下が権威付けを行ったと、国際社会から受け取られるような場面も想定されるのではないか。

 香港関連の記事をいくつか「あとで読む」記事にメモしておくと、最後に「「ブロックチェーン的」な世界を、アートから切り拓く:起業した美術家たちが考える「美と価値と公共」」(https://wired.jp/2018/09/03/open-art-coalition/)を読んで、そうして食事を取りに行った。炬燵テーブルに集まった両親は既に膳の皿を空にして、糞みたいにくだらない、あまりにもどうでも良く頭が空っぽで卑俗なテレビ番組を眺めていた。こちらは膳を用意して卓に就くと、テレビの方はほとんど一瞥もせずに新聞に目を落としながらものを食ったのだが、テレビの音声に妨害されて文の内容があまり上手く頭に入ってこなかった。さっさとこの場から離脱しようというわけでそそくさと飯を食い、食器を洗ったあとに洗面所に行って、入浴前に髭を剃った。剃り終えると電動の髭剃りの充電が切れかかったので、父親に充電器の場所を訊いて、見つけ出されたそれを接続してコンセントに挿しておいた。そうして入浴。何よりも大事なのは弛まぬ勤勉さとどんな時にも揺るがない確固たる冷静さである。湯に浸かりはじめたのは七時五〇分だった。それから二〇分ほど、目を閉じて静止し、両腕は縁に置いて手のひらを緩く握り、思念を散漫に巡らせたり自分の肉体の感覚を観察したりした。そうして出てくると、緑茶を仕立てて自室に帰り、茶を飲みながら、(……)。そうして九時に至ると日記を書き足しはじめ、ここまで綴って九時四二分である。
 それから「MN」さんへの返信の文言を少々調整し、Twitterのダイレクトメッセージ欄に貼りつけて送信しておくと、手帳の学習を行った。二〇分ほどで切りとすると次に、机の端に積まれた本の下から黒い表紙のリングノートを一冊取り出し、これを「記憶ノート」として用いることに決めた。今まで本を読んだなかで記憶したい事柄は読書ノートに記したメモのなかから手帳の方に選択的に写して、それを折に触れて反芻するという形を取っていたのだが、最近では手帳は日記作成のために使う用途が大部分となってきているので、外で手帳に記した知識を読み返し学習する機会はほぼなくなった。それなので手帳はこのまま外出時にメモ書きをするための道具として使い、別の新しい一冊を「記憶ノート」と位置づけて、そこに頭に定着させたい知識情報を集約し、毎日の日課として自宅で読み返すことにしたのだった。そういうわけで、今まで手帳に記していた情報のなかから、また少しずつこの「記憶ノート」の方に覚えたい事柄を写していかなければならない。それでペンを動かし、いくらか情報を写したのち、多分一〇時五〇分頃からだろうか、また音楽を聞くことにした。
 まず、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』から六曲目の"Peri's Scope"である。これはScott LaFaroPaul Motianも尋常のサポートから逸脱しておらず、演奏の時間そのものも三分少々と短くてシンプルな曲で、ちょっと物足りない感も受けるものの、それでもBill Evansのピアノソロはやはり非常に綺麗で、端正に統一されており、初めから終わりまで一点の乱れもなく、淀みなく流れている。終盤では、素早く上下に動く鮮やかな旋律もちょっと聞かれたように思う。このくらいの演奏だったらいくらでもできるのだろうと思わせるような、いかにも事も無げな雰囲気が恐ろしい。
 次に、"What Is This Thing Called Love?"。テーマでのMotianのハイハットの散らし方などに、このアルバムではようやくのことだが、僅かに彼らしさを感じないでもない。テーマが終わるとドラムが休止してインタープレイ的な交錯になり、ベースとピアノが複線的に絡み合う。それからドラムが入ってきたかと思うと、何小節かでまた休み、しばらくして復活するとその後はそのままピアノソロに移行する。テンポ速めの、疾走感溢れる演奏である。Evansはこの曲では、休符を幾分か長めに取って間を空けることが多いような気がしたが、だからと言って躊躇と思えるほどのものは感じさせず、ソロの後半に見られる駆け巡り、細かく音を詰めてフレーズを転がしたあとに最高音を強調する疾走などの技法は見事だ。テンポが速いこともあってか、この演奏では縦のリズムが折々に強く際立たせられているような気がした。LaFaroのソロもスリリングだが、しかし全体的な音楽構成はまだいくらか固いように思われ、流体的と言うほどの融通無碍さは未だ生まれていないようだ。
 そして、"Spring Is Here"。音数少なめで抑制的な美しさのバラードであり、水平的に走ってメロディを奏でると言うよりはコードプレイが基調となっているので、Evansの精妙な色合いの和音をたっぷりと堪能することができる。後半にはいくらか細かく駆け回ってみせる場面もあるが、その際もタッチは優しく、抑制と均衡を崩すことがない。空白を大きくひらいてLaFaroがふっと入りこんでくる余地を与える箇所も折に見られる。Motianはこの曲では非常に地味なサポートに徹しており、それもあってか三者の音響のあいだで分離感が強いと言うか、空間が大きくひらけて風通しが良くなっており、そこを埋めるEvansの左手のコードがサウンドの中心を成していると思う。
 その後、一一時四〇分から読書を始めた。イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』である。一時間余り読んで最後まで読了したが、この作品は全体として、残念ながらこちらにあまり大きな印象を与えるものではなかった――つまらなかったわけでもないのだが。「嫉妬」や「同情」、あるいは「無気力」のテーマを軸にして何かしらの読み方が生まれないだろうかと思っていたのだが、それらのあいだで明確な論理が固まらず、特段のアイディアも湧かないままに最後まで至ってしまった。
 (……)一時二五分からふたたび書見を始めた。次に何を読むのかについては、いつものことだが少々迷って、図書館で色々と借りているのだからそれを読まなければならないとは思いながらも、自分で所有して積んである本も読みたいような気がして、そのなかから文学評論と言うかテクストを読解するタイプのものに気が向いたので、高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』を読むことにした。図書館で借りている本は、また再度貸出手続きをしながらゆっくりと読んでいこう。この夜は母親は上階でテレビでも見ながら長く起きていたようで、読書を始めてまもない一時半頃になってようやく寝室に下がる音が聞こえた。こちらは二時に至ってからおにぎりを作りに上に上がり、それを貪りながら書見を進めたあと、ものを食べてあまり時間が経っていなかったので横になるのは憚られたのだが、睡気が嵩んできたので二時二〇分には読書を切り上げて寝床に就いた。


・作文
 12:16 - 12:30 = 14分(14日)
 13:50 - 14:16 = 26分(13日)
 14:48 - 15:47 = 59分(13日)
 15:56 - 16:38 = 42分(DM)
 16:38 - 16:49 = 11分(14日)
 17:29 - 18:07 = 38分(14日)
 21:00 - 21:42 = 42分(14日)
 21:43 - 21:55 = 12分(DM)
 計: 4時間4分

・読書
 18:25 - 18:53 = 28分
 18:55 - 19:20 = 25分
 22:00 - 22:21 = 21分
 23:41 - 24:54 = 1時間13分
 25:25 - 26:20 = 55分
 計: 2時間22分

・睡眠
 1:30 - 10:40 = 9時間10分

・音楽

  • cero, "Yellow Magus (Obscure)"
  • Mr. Big, "Just Take My Heart"
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 3)", "My Man's Gone Now", "Detour Ahead (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D3#4, D2#2, #4)
  • Bill Evans Trio, "Autumn Leaves (take 2)", "Witchcraft", "When I Fall In Love", "Peri's Scope", "What Is This Thing Called Love?", "Spring Is Here"(『Portrait In Jazz』: #3, #4, #5, #6, #7, #8)