2020/1/22, Wed.

 アウシュヴィッツ収容所長ヘスは、戦後の裁判における一九四六年四月の最初の証言では、一九四一年六月に絶滅収容所建設の命令を受けたと述べたが、その時同時に述べた陳述内容はまったく混乱したものであった。彼は二度目以後は、一九四一年夏ヒムラーから呼ばれてヒトラーの命令を受けた、と証言するようになった。(……)
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 他方、国家公安本部ユダヤ人問題課長アイヒマンは一九五〇年代半ばの『ライフ・マガジン』のインタビューには、一九四一年独ソ戦がうまくゆかなくなってから絶滅命令を受けたと述べたが、一九六〇年に逮捕されて以後の証言では、ロシア侵入二~三ヵ月後、「いずれにせよ晩夏に」ハイドリヒに呼ばれて、ヒトラーユダヤ人絶滅命令を伝えられた、と述べている。
 独ソ戦の最初の停滞は早くも七月末には始まっているから、アイヒマンの証言はほぼ一貫していたといえるであろう。これにたいして、ヘスが最初に述べた六月というのはやはり早過ぎるように思われる。なによりも、六月に既にユダヤ人絶滅が決まっていたのなら、なぜハイドリヒが七月二日に「党・国家に職をもった」ユダヤ人のみを射殺するよう指示したのか理解できないし、また、七月一六日にヘップナーが「人道的な」ユダヤ人抹殺を提案する必要もないわけである。彼が二度目以後「一九四一年夏」に訂正したのは自信が無くなったからであろう。二人が知らされたのが多少前後することがあったとしても、それほどの違いがないとすれば、二人の証言の一致点は「一九四一年晩夏」ということになる。
 この時点は重要である。それは、ゲーリングの一九四一年七月三一日のハイドリヒにたいする「最終的解決」準備命令の直後であるばかりでない。前項でみたように、ヒトラーは一九四一年八月二四日には「T4」計画を中止して、そのスタッフを絶滅政策に利用する準備をしているのである。さきにみたように、ブラック以下の安楽死計画関係者が建設し、支配した絶滅収容所はベウゼツ、ソビブル、トレブリンカ、ヘウムノの四ヵ所である。ヘスが建設し、支配したのは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所である。もうひとつの、ルブリン=マイダネク絶滅収容所もビルケナウと同時、一九四一年九月に建設計画が出発した。そしてこの六ヵ所が、ユダヤ人絶滅に主役を演じた絶滅収容所のすべてなのである。このように、絶滅収容所の建設計画が一九四一年八~九月の短期間に集中して一斉に開始されているのは、中央の一つの決定の存在を予想させるものであろう。(……)
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、90~92)


 九時二〇分のアラームで一旦寝床から脱出したのだが、例によって布団の下に舞い戻ってしまい、今日は意識を保つのにも失敗して一二時半まで寝過ごすことになった。屑と言うよりは、愚図である。呻き声を上げながら身体を動かし、気を入れて起き上がるとダウンジャケットを持って上階に行った。母親は料理教室の新年会で出かけており、帰りに友人が我が家に寄るかもしれないという可能性を聞いていた。寝間着を脱いで畳むとジャージに着替え、ダウンジャケットにも腕を通して身につけ、それから冷蔵庫を開けて昨晩の肉巻きの余りを取り出した。それを電子レンジに入れて二分加熱するあいだに、洗面所に入って広がっている髪の毛に櫛を通し、整髪ウォーターもちょっと掛けて形を整えた。室を出て、焜炉台の上に置かれてあった大鍋の蓋を取ってみると、なかには素麺が煮込まれていたが、これはのちのち出勤前に頂けば良かろうと判断して、米を一杯よそった。そうして米と肉巻きだけを持って食卓に移り、椅子に腰を下ろして肉巻きの皿を持ち、傾けて白米の上に汁を掛けた。皿は随分と熱くなっており、長くは持っていられないくらいだった。それから食事を始め、一方で新聞の記事に漫然と目を通す。中国は武漢市を発端とした新型肺炎の流行は拡大し続けているようである。頁をめくって半ば辺りには、何とか言う上方の講談師と中井美穂という人との対談が載っていた。講談師と言うと、最近は神田松之丞という人が有名になってきているようだが、この上方の芸人はその人とはスタイルが幾分違うらしい。頁を最後まで移行して社会面を見ると、宍戸錠の訃報が伝えられてあり、その下に、ガルシア=マルケス関連の著作などをものしていた田村さと子という文学者の死去も小さく触れられていた。この人は『サラマンドラ』という詩集を出しており、それは立川図書館に所蔵されていたはずだ。
 食事を終えると台所に立って皿を洗い、トイレに行ったのが先だったか、それとも風呂を洗ったのが先だったか。そんなことはどちらでも良いのだが、ともかく風呂洗いをした。今日の天気は、陽の色が時折り見えないでもないが、空には雲が広く蔓延っているようで無色を基調としており、これでは日光浴への誘惑も乏しい。浴室から出たあと、ベランダに続くガラス戸に寄って外を覗いてもみたが、やはり床には明瞭な日向はできていないので、今日は日光浴は良かろうと払って、それでトイレに行ったのだったかもしれない。それから下階に帰るとコンピューターを点け、各種ソフトを立ち上げておいてその間に緑茶を用意しに行った。冷蔵庫のなかにはケーキがまだ残っているのだが、あるいは母親が友人と一緒に食べるかもしれないと思って食べずに放っておくことにした。緑茶を急須と湯呑みに用意し、両手をそれらで埋めながら階段を下りて廊下を歩く。冷えこみは結構なもので、裸足の裏に伝わってくる床の冷たさも今までと一段違っているように思われた。コンピューター前に戻り、Evernoteで前日の記録を付けて、この日の記事も作成しておくと、今日は最初に一年前の日記を読み返すことにした。書きぶりとしては力が抜けており、やや口語的と言うか、一筆書きでさらりと流れるような感触を目指しているようで読みやすいには読みやすいが、特に印象に残る箇所はない。読み終えるとこの日のことを早速記述することにして打鍵に取りかかり、ここまで書けば二時を目前にしている。
 さらに続けて、前日の日記に取り組んだ。四五分間打鍵を続けて二時三九分に至ると、さすがにそろそろ洗濯物を入れようというわけで部屋を出て、上階に行った。ベランダに吊るされているものは少なかった。衣服や布の類を室内に取りこむと、バスタオル二枚をまず畳み、それから集合ハンガーに留められたフェイスタオルに触れたのだが、これらがまだ湿り気を残しており、陽もまだ一応去らずにベランダの戸口付近に掛かっていたので、もう少し出しておくかと判断してふたたび外気のなかに引っかけた。そうして下階の自室に帰ると、the pillows『Wake Up Wake Up Wake Up』を流しだして運動に入った。まずは屈伸を何度か繰り返し、それからベッドに乗って合蹠のポーズを取る。要するに足の裏を合わせて少々前屈し、股関節を伸ばす姿勢である。それを一曲か二曲分のあいだ続けたあと、今度は脚をまっすぐ前方に伸ばし、両手で指先を掴んだままの姿勢を保ったのだが、身体が非常に固くて脚をきちんと平らに伸ばすことができず、膝が微妙に曲がって浮いてしまう。それでもしばらくその姿勢を取り、次いで「コブラのポーズ」を行って背筋をほぐした。その後、例によって「板のポーズ」及び「舟のポーズ」だが、これらはいくらも続けていられないので、筋肉が呻きを上げて耐えきれなくなると一度姿勢を解除し、しばらく寝転がって休みを挟んでからもう一度行う、ということを三度繰り返した。そうして身体を温め終わると、三六分が経って時刻は三時二二分を迎えていた。ここで食事を取りに行ったようである。
 上記したように大鍋に素麺が煮込まれてあったので、それを温めて丼にすべて移すと、溢れそうなほどに容器を埋めてそのまま運ぶと零してしまいそうだったので、お玉を使って汁を少々鍋の方に戻し、そうして卓に持って行った。椅子に腰掛け、新聞を読むでもなく何をするでもなくただ麺を啜る。汁はすべては飲まず、平らげると台所に移って丼と箸を手早く洗い、多分また緑茶を用意したと思う。ここで茶壺のなかの茶葉が切れてしまったので、買い置きしてあった三重は伊勢産の茶を新しく開けたのではなかったか。そうして部屋に戻ると二〇一四年五月三一日土曜日の日記及びfuzkueの「読書日記」を読み、合間に歯も磨いて、それから確か眉を整えた。コームと小さな鋏を持って洗面所の鏡の前に行き、玩具のような櫛を毛に当てて隙間からはみ出した部分を鋏で切り落とし、眉の上端もいくらか揃えた。それから着替えである。中村佳穂『AINOU』を流し、音楽に乗って身体を揺らしながら廊下に出て、ワイシャツを取って袖を通す。それから紺色のスラックスを履き、青一色のネクタイをつけ、ベストにジャケットと羽織るともう出勤までいくらも時間がなかったが、勤勉なことにふたたび日記に取りかかった。五時を越えるまで二一日の記事を進め、打鍵を止めるとコンピューターをシャットダウンし、バッグに財布や携帯を入れて、コートとストールを持って部屋を出た。上階に行くとトイレに入り、ズボンを下ろして便器の上に腰掛けて、出勤前に腸を軽くしようと思ったのだったが通じるものがなかったので、膀胱の中身を排出したのみで室を出て、コートを着込んでストールを巻いた。そうして出発である。
 夕空はまだ光を失いきっておらず、いくらか浮かんだ雲の端切れがさらりとした青さを寄せられているが、五分経てば明るさは随分違ってくるはずだ。空気はかなり冷たく身を包みこんできて、先日の土曜日の降雪を境に格段に冷えこんだ印象である。今日はまだしも風がないのが救いだが、それでも流れるものはあり、公営住宅の敷地を画する柵の向こうから生えた裸の木枝を揺らす力もないものの、その程度の空気の揺動でも鼻の頭がひりひりとする。坂に入って上っていくと電灯に照らし抜かれたこちらの影は地面にまだ薄く、樹々の向こうには明るさと色味が残っており、複雑な形の樹冠の隙間に覗くその青は、発生して以来何万年も経って風化しきったかのような、ほとんど白に近い淡青である。
 表通りに出ると、駅舎の前に自転車に跨った人影が見えて、横から眺める形になったその影の、ところどころ僅かに曲がった黒い線と化していて折れそうなほどに細い。通りを渡って見れば、高校生らしく見える男子二人が談笑しているところで、一方の声が(……)に似ており小太りの体型も相まって当人かと思ったが、近づいてみれば別人だった。その横を過ぎて階段に入ると背後からは笑い声が立つのだが、細い身体の方の男子が定期的に上げるその音声は、エンマコオロギの鳴きを思わせるような回転的な振動のリズムを持っていた。階段を上りながら自ずと視線が行く空には安定大陸めいた巨大な雲が浮かんでおり、縁だけ燃え尽きたような白灰色を細く塗られて、その両側は、内はくすんだ鈍い青に、外はそれより明るく浅瀬めいて柔らかな青に包まれていた。
 ホームに入るとベンチに就いて、コートのボタンを一つ開け、隙間に手を突っこんでジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、メモ書きを始める。じきに電車がやって来ると暖気のなかに踏みこんで席に座り、引き続きメモを取った。青梅で周囲の客が降り、また新しい客が乗ってくるそのあいだも目を上げず、頁の上にペンを走らせ続け、静寂に満ちた車内で切りの良いところまで記すと、立ち上がって扉に寄った。ボタンを押して戸を開けて、外に出ながらすぐにまた閉じるボタンを押して車内に配慮しておき、ホームをゆっくりと行く。前方には原色じみた強い黄色と青を組み合わせたウインドブレーカーを着た職員がおり、警備員的な風貌のその人は、開きっぱなしになっている電車の戸口があると、ボタンを押して閉めて回っているのだった。
 駅を出ると南の空は深い青さに沈んでいるが、雲がところどころに生えていて、個々で結構広く空を覆い、遮って占領しており、星もそれであまり見えず、ある雲の裾に一つ、針で開けた穴のように極小の微光を放っているのみだった。
 職場に入ると室長は不在だった。座席表を見れば、授業の相手は(……)くん(高三・国語)、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中一・英語)である。(……)くんの(……)大学の過去問は以前読んでおいたので、準備をすることはほとんどない。割り当てられた授業スペースに行くと彼が既にいたので挨拶をし、センター試験などについて少々話したあと、手帳にメモを取った。そうして余った時間で今日扱う国語の文章を確認しておいたのだが、これが木村敏のもので、部分的に結構小難しいような書き方になっていた。
 時間が来たので生徒の出迎えをするため教室の入口付近に行くと、(……)先生が近づいてきて、(……)先生来てますかと訊くので、来てませんねと答える。こういうの何回目だよっていう、と(……)先生は困ったように苦笑し、それで彼の担当するはずだった生徒をほかに振り分けることになった。(……)先生に一人、(……)先生に二人を移動させ、(……)先生も四対一を行うことになった。こちらは(……)先生に追加された生徒の計画表を持っていって頼んだり、(……)先生に(……)先生の代わりの号令をしてくれるよう頼んだりと回って、さらに(……)先生も急場の生徒をシステムに追加するやり方がわからなかったので、それを教えたあとにようやく自分のスペースに行って、お待たせして申し訳ありませんと生徒に謝った。(……)さんの席の机上には数学のテキストが置かれてあった。それで今日は英語だよと言ったのだが、聞けば、昨日室長に伝えて数学に変えてもらったはずだと言う。それなので数学をやることに覚悟を決めて、自信はないですが、解説に頼らせてもらいますと笑った。
 (……)くんはやはり文章の内容自体が難しく感じられたようで、もっと簡単に、わかりやすく書けよと怒って文句を言っていた。まあ確かになあ、高校生に木村敏は難しいだろう、とは思う。それで彼はげんなりしたと言うか、顔から生気が失われてしまった。部分的に読むのか、文章を全部読むのか、結局どちらが良いのかと訊いてくるので、こちらはそもそも傍線部付近だけ部分的に拾い読みをして問題を解くという方策を取ったことがないし、それは効率的な情報処理の問題であって読解ではないから、生徒がそのような方式を時に取らざるを得なくなる受験制度の方が間違っていると思うが、質問に答えては、不正確だけれどスピードの方を取るか、それとも時間が足りなくなっても良いから確実性を取るかの二択ですよと言わずもがなのことを述べた。
 (……)さんに対しては先にも述べたように、解答を全面的に参照しながら、作図や関数のグラフの問題など指導をしたのだが、今日のノルマを半分しか終わらせることができなかった。説明は丁寧にしたつもりではあるが、授業終わりに、今日は、あまり満足にできなくて申し訳ありません、と謝ると、いえいえ全然、と彼女は首を振ってくれた。
 (……)くんは相変わらずのやる気で、いつものことではあるがそもそも三〇分ほど遅刻をしてきた。初めにアンケートを書いてもらったのだが、その最後に「自分と合わない先生はいますか?」というような質問があり、彼は名前を覚えていないと言って記録ノートを見返しながら、(……)先生、(……)くん、(……)先生と三人もの名前を、それぞれを呼び捨てにしながら遠慮なく書いていたので、笑うほかはなかった。何で、と訊くと、うざいから、と端的に言うのでこれにも笑う。何故うざいのかはよくわからないが、(……)くんに関しては、何だか、こんなことも知らないの、という風に馬鹿にされているような雰囲気を感じる、みたいなことを言っていた。こちらの印象では、そんな振舞いを取るような人間ではないと思うのだが。「合わない先生」の欄の上に、「教え方がうまい先生は誰ですか?」というような質問の欄もあったのだが、さすがにここにこちらの名前を書いてくれるということはなかった。それでも彼とはかなり頻繁に、と言うかほとんど毎週当たっているし、それなりに上手く相手をしている方だとは思うが。今日扱ったのはWhy~及びBecause~の文である。
 授業後、片づけをしていると、(……)先生が寄ってきて、都立の過去問を忘れてきた生徒がいるのだがどうすれば良いのかと言った。誰かと訊けば、(……)くんだと言う。それで棚にある冊子を取り出し、コピーをするようですねと手渡す。最新の年度からやるか古い年度からやるかもまあ諸説考え方はあるが、こちらは結局どちらでも良いと思っており、(……)先生に任せていると、それじゃあ古い方からやりましょうかということで、平成二九年度のものを今日は扱うことになった。それで彼がコピー作業に取りかかったところで、こちらはもう授業はなかったので、コピーしておきましょうかと申し出て、(……)先生には生徒の元に戻ってもらった。そうして作業を進めてプリントを拵えたあと、授業の場に持っていき、(……)くんに対してにやにやしながら、忘れたの、と掛けるとはい、と言うので、忘れちゃ、駄目だ、と勿体をつけるようにゆっくりと笑った。そうすると相手はすみませんと謝ったが、何だか改めて正面から顔を見てみると、顔つきが以前よりもしっかりとしていたような気がする。そうしてタイマーを渡し、ひとまず三〇分で実施するようにと指示を出し、そうでないと解説をしたり記録ノートを記したりする時間がなくなるでしょうから、と(……)先生に補足しておいた。
 その後、(……)くんのところに行ったり、(……)くんのところに行ったりしてちょっと話したあと、退勤した。駅に向かっていると背後から子供たちの賑やかな話し声が聞こえてきて、サッカークラブか何かの中学生たちだなと判別する。駅に入って改札をくぐり、通路を行って階段を下りていると彼らは、あと三〇秒で発車する、間に合わねえだろ、とか言いながら、こちらにぶつかりそうなほど近くを騒がしく駆け抜けて行った。こちらはそのあとからゆっくり行ってホームに上がり、奥多摩行きの二号車三人掛けに就き、発車まで大した時間もなかったので目を閉じて待っていたのだったと思う。最寄り駅に着くまでのあいだほとんど一度も瞼をひらかず、到着すると立ち上がって戸口を降りた。
 こちらよりも後ろから降りてきた客に抜かされながらホームを行き、駅を抜けると通りを渡って、今日は東に向かわず駅正面から木の間の坂道に入った。電灯を受けて光を弾いている緑葉に目を向けながら下っていると、前から小さな金属が揺れて触れ合うような音が聞こえてきて、暗がりのなか二つの影と化した男女が現れた。夜のウォーキングでもしているものらしく、音は、男性の腰につけられたキーホルダーか何かが散らす響きのようだった。彼らとすれ違って平らな道に出て行けば、空には揺らめく炎のような不定形の雲が湧いており、飛行機の低い唸りが二種類交錯しながら降ってくる。
 帰宅してなかに入ると母親がいつものように、外は寒いでしょと訊いてくるので、肯定して階段を下りた。コンピューターを点けておき、服を着替えたあと、ダウンジャケットを羽織って上階に上がる。台所に入るとフライパンに魚肉ソーセージを合わせた野菜炒めがあったが、それは父親が作ったものだと言うので、有難うと礼を言った。そのほか若布とエノキダケの味噌汁が小鍋には拵えてあり、小松菜の芥子和えと、あとは大根の生サラダか何かがあったはずだ。テレビは何を映していたのか、まったく覚えていない。新聞は夕刊の一面の文字をちょっと追った覚えがあるが、その内容も覚えていない。多分、中国を越えて日本や米国でも感染者が見つかった新型肺炎関連の記事を追ったのではないかと思う。
 食後、皿を洗うと今日は先に風呂に入ることにした。湯のなかに浸かって静止し、まったく音を立てないでいると、勝手口の外に母親が出た気配がしたのは、ストーブの石油を補充しているらしい。寒い寒いと呟いていた。その後、温くなった湯たんぽの水を風呂に入れておいてと言って戸口の外に湯たんぽが置かれたので、上がってパンツを履いてからその水をどぼどぼと浴槽に注ぎこんだ。そうして服を着て洗面所の扉を開け、空になた湯たんぽを母親に渡し、ドライヤーを稼働させて髪を乾かすと室を出て、自室から燃えるゴミの箱を持ってきた。あるいはそれを持ってきたのは、風呂に入る前だったかもしれない。どちらでも良いが、燃えるゴミは手近にあったビニール袋に入れて台所のゴミと一緒にしておき、それから緑茶を用意して我が塒に帰還した。そうして茶を飲みながら、ちょうど一〇時からMさんのブログを読みはじめた。冒頭に付された松本卓也からの引用が簡明でわかりやすい。

 ラカンは、人間には「象徴界(le symbolique)」と呼ばれる言葉の秩序があり、その秩序においては様々な言葉(これを「シニフィアン」と呼びます)が相互にネットワークをつくっていると考えます。あるシニフィアンの意味は――辞書を引いてその言葉の意味が分かるのと同じように――他のシニフィアンとの関係のなかで決定されますが、そのような関係の総体がひとつのネットワークを形成していると考えるのです。しかし、シニフィアンが単に相互に繋がっているだけでは、そのネットワークそれ自体はどこにも繋ぎ止められていないことになり、シニフィアンの意味は全体としてきわめて不安定なものになってしまいます。そこでラカンは、このシニフィアンのネットワークにはひとつの中心となるシニフィアンがあり、それが他のすべてのシニフィアンのネットワークの総体を固定していると考えました。この中心的なシニフィアンのことを、ラカンは「〈父の名〉(le Nom-du-Père)」と呼びました(Lacan 1966, p.578)。
 (……)
 統合失調症の発病は、結婚、出産、進学、就職、昇進といったライフイベントの際によく観察されることが知られています。ラカンによれば、それは精神病の人々のこころの構造では、中心にあるはずの〈父の名〉のシニフィアンが欠如しており、象徴界の真ん中にひとつの穴があいている――このことを、ラカンは〈父の名〉の「排除(forclusion)」と呼んでいます(ラカン 一九八七b、(下)二八五頁)――にもかかわらず、こういったライフイベントの際には〈父の名〉を参照することが要求されるからだと考えられます。
 (……)
 (……)さきほど述べた結婚、出産、進学、就職、昇進のように、「人生のステージを一段のぼる」際には、どうしても〈父の名〉を参照することが必要になります。すると、それまでは漠然と「あそこにあるだろう」と思っていた〈父の名〉が、いざそれを参照する段になって、実は最初から存在していなかったことが明らかになります。すると、これまで仮固定のような形でネットワークを形成していた諸々のシニフィアンがバラバラになってしまいます。これが精神病の発病である、とラカンはいいます(同書、(下)一六〇頁)。
 (松本卓也『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』p.236-238)

 二日分を読むと、前日、二一日の日記を書きはじめた。四四分綴り、一一時を越えたところで何とか完成させることができた。それからさらに一八日の記事を三〇分ほど書き足して、すると零時まで二〇分ほど余ったので、久しぶりに短歌でも作るかと頭を回し出したのだが、零時になるまでのあいだに留めるつもりだったところが、作っているうちに興が乗って、一つ拵えてはTwitterに流しているうちに一四首ができて、気づけば一時間が立っていた。

夕暮れにあなたの影を奪えたら結婚しよう残照のなか
空蟬に夏の記憶を置き去って秋を歌おうあの子を悼み
裸木[はだかぎ]に刺した屍肉を鳥が喰う 罪など所詮糞尿なのさ
完璧な自由に縛られ恐怖して夢のなかでは石になりたい
虹色のエクリチュールに貫かれ傷が吐き出す血が僕の文
有史以来すべての作家の影を負いペンから垂れる一滴が僕
空っぽの胸に言葉を詰めこんで君を欺く花束とする
真理とは枯れ木の涙 世界から踏み捨てられた孤児の証明
原初以来すべての死者を繋げたら時間を越えて神に至るかも
作家とはぎらぎら光るイミテーションこの世の何より真正な嘘
芸術は爆発だとか言うけれど僕の点火は君の役目だ
睾丸がなくなるような悲しみと友達になり空を飛びたい
僕とあなたの唇の平等は残照だけが目撃者です
でたらめな転生譚を信じたい次の生でも文を書くため

 それから歯を磨くあいだだけ小林芳樹編訳『ラカン 患者との対話 症例ジェラール、エディプスを超えて』を読み、(……)エリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』(河出書房新社、二〇一二年)の書抜きを行った。BGMは中村佳穂『AINOU』である。

 「アイデンティティに到達するには、つねに法に媒介された他人との関係が前提となる(……)。自由とは意識的決断の成果にはほど遠いものであり、このように論理的な要請に、無意識的な特性に従うものなのだ。(……)言い換えれば自由になるには、無意識が主体性に課す諸規定を見定めることができなければいけないのである」
 「一九五三年から一九五六年にかけての初期のセミネールの時点から、ラカンは無意識を一つの言語活動と見なしており、人間存在はおのれの存在を絶えず暴露するようおのれを導いていくパロールに住まわれていることを論証している。(……)こうした意味で主体の諸行為と運命を構成することになる要素を、ラカンは「シニフィアン」と名指す」
 「不安とはまた、ラカンに言わせれば、不安状況にある主体に固有の状態というよりはむしろ、現象学者たちが考えたように、人間の主体性いっさいのシニフィアンでもある」

 そうして時刻は一時四五分、そこから今度はこの日の日記に取りかかり、書き進めていたものの、途中で疲労感が重くなってきたのでメモに切り替えて、二時半には切りとしてコンピューターを停止させ、明かりも落として寝床に入った。


・作文
 13:34 - 13:54 = 20分(22日)
 13:54 - 14:39 = 45分(21日)
 15:38 - 16:15 = 37分(21日)
 16:46 - 17:01 = 15分(21日)
 22:21 - 23:05 = 44分(21日)
 23:05 - 23:37 = 32分(18日)
 23:40 - 24:45 = 1時間5分(短歌)
 25:46 - 26:27 = 41分(22日)
 計: 3時間59分

・読書
 13:16 - 13:31 = 15分(2019/1/22, Tue.)
 16:16 - 16:33 = 17分(2014/5/31, Sat.; fuzkue)
 22:00 - 22:17 = 17分(「わたしたちが塩の柱になるとき」)
 24:50 - 25:01 = 11分(小林)
 25:20 - 25:45 = 25分(ルディネスコ; 書抜き)
 計: 1時間25分

  • 2019/1/22, Tue.
  • 2014/5/31, Sat.
  • fuzkue「読書日記(166)」: 「フヅクエラジオ」
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-01-14「口癖は自覚するなり禁句とすそうしていつか唖となるまで」; 2020-01-15「溶岩と氷河がかつてくちびるを重ねておたがいを失った」
  • 小林芳樹編訳『ラカン 患者との対話 症例ジェラール、エディプスを超えて』: 91 - 96
  • エリザベート・ルディネスコ/信友建志訳『ラカン、すべてに抗って』河出書房新社、二〇一二年、書抜き

・睡眠
 3:10 - 12:30 = 9時間20分

・音楽

  • the pillows『Wake Up Wake Up Wake Up』
  • 中村佳穂『AINOU』