2020/1/29, Wed.

 最初の試練はユダヤ人評議会によるリストの作成・提出である。リストはウーチのように撤去要員のみを記載したリストをユダヤ人評議会が作成・提出する場合と、年令、職業、労働可能性などを記載した全員のリストをユダヤ人評議会が作成・提出して、ドイツ側が選別する場合の二つがあったようである。このリストによってゲットーのユダヤ人一人一人の運命が決まる。労働が運命を分ける基準である。労働によって自らを救おうとするものは、我が身を救うために同胞と、結局のところ、我が子を差し出さなければならなくなる。しかし、圧倒的多数のユダヤ人評議会はリストを提出した。
 東部オーバーシレジエン・ユダヤ人共同体中央ユダヤ人評議会議長メリンは、一九四二年五月のソスノヴィエツ・ゲットーの撤去行動を前にして、約三〇人のおもだったものを招いて会議を開いた。会議の冒頭にメリンは、ドイツ側が要求するものは何であれユダヤ人自身が行なうべきであるというのが原則であり、この原則に従わなければならないと述べた。これにたいして、ベンジンユダヤ人評議会員ラスキエールは、ユダヤ人の歴史にいまだかつて、数千人もの同胞を敵に差し出した例はない。ドイツ側が選別のために示した基準、すなわち、「病人、不具者、老人」は、何がおこなわれるかについて疑いを抱かせない。ドイツ側自身に選別させるべきだ、と反対した。数人がこれに賛成した。しかし、ベンジンユダヤ人評議会議長モユチャツキーはメリンの意見に賛成した。メリンは、ゲットーが社会的に無用な分子から解放されるか、それとも外国人にそれをやらせて、最も価値のある個人を失うかであり、彼は、真面目で賢明な政治家として、選択する道に迷いはないと強調した。それにもかかわらず、ソスノヴィエツではドイツ人に選択させる道が選ばれたようである。
 五月半ばに今度はベンジン・ゲットーの番になった。メリンはまず移送の志望者をつのった。誰も志望しなかった。次いで、彼はラビたちの意見をきくための会議を催した。メリンは、ゲシュタポの命令に自分が従えば、多くのユダヤ人が救われ、通報者、泥棒、不道徳者、病人、精神病者、知恵遅れ児童を選別して移送することができる。そうでなければ、ゲシュタポはソスノヴィエツで行なわれたようにアトランダムに多くの「尊敬すべき人たち」を連れ去るであろう、と述べた。会議では、ユダヤ人は移送にかかわるべきでないとの意見も出されたが、支配的な雰囲気は、メリンが実行したほうが良いということであった。最後に、ラビ・グロイスマンがラビを代表して、メリンの提案は基本的にユダヤ人の倫理と宗教に反しているが、しかし、さしあたりより小なる悪をとる以外ない、と述べて、これを支持した。こうして、メリンとユダヤ人警察はベンジンユダヤ人の移送を自らの手で積極的に実行したのである。
 しばしばラビの意見が聞かれた。すでに一九四一年一〇月末に、ハイデミューレ・ゲットーで移送者のリストを作成するよう命令があったとき、ユダヤ人評議会議長は四人のラビに意見をきいている。彼らの意見は政府の命令に従うのは義務である、ということであった。カウナス、オシミアナ、ソスノヴィエツでも同様であった。ヴィリニュスのラビだけは絶対に従うべきでないと主張したが、しかし、彼の意見は無視された。ヴィリニュス・ゲットーのユダヤ人評議会議長ゲンスは、撤去行動の間中、ゲットーの出口に頑張って行動の指揮をとり、誰が移送され、誰が残るべきかを決定した。
 ビアウィストク・ゲットーのユダヤ人評議会議長バラシュは、「もしひとが毒に侵されて手足を切断しなければ命が危ないということになれば、そうするであろう」と述べて、自ら移送者のリストを作成した。ズオチュフ・ゲットーの評議会は、「劣等な分子(病人、虚弱者、老人)だけが引き渡され、若者、健康者、インテリが助かるのだから、……むしろ有益であろう」として、ゲシュタポに協力した。
 スカウァト・ゲットーのユダヤ人評議会の多くも、人間は死ななければならないのだから、老人が最初にゆくべきだ、彼らはすでに十分生きたのだから、として、ユダヤ人警察とともに老人と乞食の狩りだしに熱中した。しかし、スカラトでは第一回の行動のあと、三人の評議会員から異論が出され、激しい議論となった。結局、評議会はゲシュタポに賄賂を贈って交渉してみようということになり、そのための金をもう一度集めてみることになった。
 おそらく、この賄賂作戦が一定の成果をあげたのであろう。スカウァト・ゲットーでは一九四二年一〇月二一・二二日の撤去行動に際して、SS中佐ミュラーと評議会及びユダヤ人警察の代表者との間に取引が成立した。ミュラーは彼らが協力すれば、彼らとその家族の安全は保証すると約束した。評議会とユダヤ人警察のおもな仕事はユダヤ人を隠れ家から発見することであった。行動が終わったあと一群のSS隊員はユダヤ人評議会へ出かけた。宴会が彼らを待っていた。楽しそうな高笑い、音楽、歌声が夜通し聞こえた。その時、約二〇〇〇人のユダヤ人があるいはシナゴーグに封鎖され、あるいは寒さのなかを草原の道路添いに監視されて、移送を待っていた。
 ソスノヴィエツ、ベンジンの撤去行動に際しての議論からも明らかなように、ユダヤ人評議会が自ら撤去行動に協力しようとする理由の大きな一つは、ゲシュタポに任せたのでは「尊敬すべき人たち」――その中には当然、評議会員やラビが入る――が移送される危険があるからである。彼らが移送に協力しようとするのは決して自らを移送するためではない。しかし、ここには少なくとも一つの例外があった。一九四一年八月、ロシア・ユダヤ人の射殺が行なわれていたときのことである。ヴォルヒニアの小都市カミエン・コシュラーキのユダヤ人評議会議長ヴェルブレは、ドイツ側の命令にしたがって、八〇人のゲットー住民のリストを提出した。彼はその用途を知らなかったのであるが、あとでそれを知ったとき、彼は出頭して自分もリストに加えてほしいと頼んだ。ドイツ側は彼の願いを受け入れ、彼は八一人目に射殺された。
 ユダヤ人評議会が撤去行動とリストの作成に抵抗した少数の例は、一般に人間関係が相互に緊密な中小都市のゲットーに限られている。ルブリン地区の小都市ビユゴラーユのユダヤ人評議会の副議長ヤノヴァーと三人の評議会員は、移送者リストの作成を拒否したかどで、移送の前日に射殺された。バラノヴィッツェ・ゲットー評議会議長イジクソンはリスト作成を拒否したため、秘書とともに射殺され、カルーシン・ゲットー評議会議長ガンズはリスト提出を断固として拒否し、自宅で射殺された。ドンブローヴァ・ゲットー評議会議長ワインバークは移送リストの提出を拒否したため、家族全員とともに移送された。ルヴネ・ゲットー評議会議長ベルクマンは、ドイツ側から移送者リストを提出するよう命じられたとき、彼が引き渡すことのできるのは、かれ自身と彼の家族だけであると答えたが、その直後自殺した。
 ルヴネ・ゲットー評議会員スハルチュクは、移送者リスト作成のための会議で、いかなるリストも提出するべきでないと強く訴えたが、評議会の圧倒的多数は提出を決定した。彼はひとり家に帰り、自殺した。グロドゥノ・ゲットー評議会員兼統計部長マルダーは、彼の統計資料がドイツ側に移送者決定の資料にされることがわかったとき、これに抗議して辞任した。評議会は彼を次の移送者リストに加えた。マルダーはこれを知って自殺した。残った彼の家族は移送された。
 ベレザ・カルトゥスカ・ゲットーは、一九四二年一〇月一五日に「ロシアでの労働」のために広場に出頭するよう命じられた。ユダヤ人評議会は直観的になにが行なわれるかを悟った。一〇月一四日の評議会の席で、評議会員ほぼ全員が首をくくって自殺した。一九四二年一一月一日、プルジャーナ・ゲットーがドイツ人によって封鎖されたとき、評議会員を含む四一人が評議会副議長シュライブマンの家に集まり、毒を呑んで集団自殺をはかった。しかし、明らかに毒は不十分であった。翌朝、この光景を見た人々の介抱で一人を除いて全員蘇生した。しかし、彼らは二ヶ月余りのちの一九四三年一月には「行動」によって絶滅されたという。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、194~197)


 七時二〇分頃に自ずと夢のなかから現世に抜け出し、復帰した。驚くべきことに、カーテンには太陽の暖色がはらまれていた。前日時点の予報では、今日もまた雨が続くように言われていたはずで、晴れるとしてもそれは午後以降のことだと思っていたのだ。夢というのは高校の同級生であるHGが出てくるものだった。詳しくは覚えていないが、どこかに出かけたあとに彼と一緒に青梅駅まで帰ってきたはずだ。駅のホームでHGは一度姿を消したかと思うと、ベビーカーを伴い自分の子供を連れてまた現れた。男児は二歳か三歳くらいの年頃で、名前は忘れてしまったが、「レイア」みたいな響きだったような気がする。当然、現実のHGの子の名とは一致していないだろう。アニメが好きだと言うので、何が好きなのかと訊くと、「ウテナ」という返答があった。『少女革命ウテナ』のことだが、この夢のなかではこちらはこの作品名を正しく思い出せず、『地球革命ウテナ』と間違って口に出していた。それでもHGからは、さすが、よく知っているなという反応が寄越され、名前しか知らないと答えると、子供の方も、やるじゃん、みたいなことを呟いた。
 アラームは八時に仕掛けてあったのでそれまでもう少し休むことにして目を閉じた。意識は明晰で、なかなか淀んでいかなかったが、それでもそのうちにちょっとほどけたらしく、アラームを聞いた時には突然の感があった。起き上がって携帯の作動を止め、ダウンジャケットを羽織って上階に行くと、母親は玄関かどこかに出ていたようでこの時は居間に姿はなかった。こちらは洗面所に入って、頭の側面から後頭部に掛けて整髪ウォーターをちょっと掛けつつ櫛付きのドライヤーで髪の毛を撫でて整えた。それから台所に出て母親に挨拶し、大根の味噌汁を火に掛け、冷蔵庫から昨晩の肉巻きが少量余ったものを取って電子レンジに入れた。ほか、米をよそって卓に就き、NHK連続テレビ小説『スカーレット』にはあまり目を向けず、かと言って新聞もほとんど読まずに、醤油味の染み通った肉巻きや舞茸や大根をおかずにして米を咀嚼した。さらに冷蔵庫のなかにあったピザパンも頂くことにして一度席を立ち、電子レンジで温めてきて、母親と分け合って食べた。南の窓外では、近所の電線に水の粒が無数の鳥のように宿り、朝陽のなかで艶やかに煌めいている光景が見られた。食後、母親の仕事場の話を聞きながら思いの外に長い時間を居間で過ごしてしまった。話を聞く限り、やはり母親の精神においては主体性というものが定かに確立されてはいないのだなと思う。細かく書くのは面倒臭いし、大した内容もなかったので省くが、九時を過ぎる頃合いまで諸々話して、靴下を履いてから下階に下りた。
 着替えである。今日は最高気温が一五度とかそのくらいまで上がって結構温かいようなので、バルカラーコートではなくてモッズコートを身に着けていくことにした。その下はモザイク柄のTシャツにグレンチェックのブルゾンでカジュアル感とフォーマル感を融合させ、ボトムスはUnited Arrows green label relaxingの鮮やかな褐色のズボンを履いた。そうしてコンピューターの前で歯を磨いたあと、中村佳穂『AINOU』とともにこの日のことを書き出して、ここまで綴れば一〇時を回っている。
 一〇時二二分まで二七日の日記を綴り、打鍵を止めると、"忘れっぽい天使"の流れるなかで荷物を準備した。リュックサックに、Kくんに贈るプレゼントの本――ヘミングウェイ小川高義訳『老人と海』に、岸政彦『断片的なものの社会学』を布袋で包んだもの――と、藤原龍一郎『歌集 楽園』などを詰めたあと、"忘れっぽい天使"を最後まで聞いてから上階に上がった。すると母親が、風呂は、と言ってきたが、風呂洗いのことはすっかり忘れており、もう時間がなかったので今日はその日課の家事を彼女に頼んだ。そうしてトイレで用を足し、洗面所で石鹸を使って手を洗ってから出発した。ストールは巻かずにリュックサックのなかに入れていたが、首もとを防護しなくとも全然寒くない陽気だった。家の前のアスファルトには水気が残って路面は青黒いように濡れており、その上に光が照射されて日向を作り、凹凸に沿って貝殻の破片でも埋めこまれたかのようにきらきらと光っていた。西に向けて道を歩いていき、途中で前から来た車をやり過ごすのに立ち止まりながら左方を向くと、家々の合間の裸木の枝先には水粒が引っかかり、椿か何かの濃い緑色の葉も照り映えて、一軒の庭内の茂みから雀が何匹か飛び立って宙を渡っていった。大気は目を細めさせる朗らかな眩しさを孕んでいた。
 Nさんが庭で草取りか何かしていたのでそのもとに近づき、こんにちはと挨拶をした。同様の挨拶を返した相手は、今日はこれから、と訊いてくるので、今日は休みなんですよ、それで、友達に会いに、と告げると、それは良いですねという言葉が返った。今日は暖かくて、と言うのに、はい、と会釈をしながら過ぎ、坂道に入ると、電車の発車まであまり猶予がなかったのでいくらか足を速めた。枝葉の影が靴の下の地に宿っているが、それらはほとんど揺れずはっきりとした黒さで静かに佇んで、先端の僅か一枚だけが辛うじて身を振り遊んでいた。
 最寄り駅に着くとほとんど同時に電車がやって来たのだったと思う。乗って扉際に就き、外の風景を眺めていると、立ち並んだ住宅の瓦屋根の上を、まるで氷の上を滑るかのように光の白さが舐め尽くしていく。青梅に着いて降り、ホームを歩く頃には、額に汗が滲んでいるのに気がついた。ホームの先の方に行って日向のなかに入ると腕も暑く、服の裏に汗の気が仄めく。まもなく到着した電車に乗り、例によって二号車の三人掛けに入ると手帳にメモを取った。比較的すぐに印象を記し終えると、そのあとは藤原龍一郎『歌集 楽園』をひらいた。立川辺りまでは短歌に触れていたと思う。しかし眠りの足りないような感じがあり――あるいはそれは出発前に飲んだ風邪薬の作用だったかもしれないが――意識が下方に引きずられるような感じがしたので、途中で本を仕舞って目を閉じた。すると自ずと頭が前に傾き、垂れる。それで時折り目を開けて体勢を直しながら御茶ノ水まで休み、重いような頭で降車した。ホームは狭く、段差が設けられており、総武線はその段の上、すぐ向かいで、秋葉原御茶ノ水の隣だったが、こんな辺りまで普段来ないので、向かいに来る電車が秋葉原の方向に走るものなのかわからなかった。それでちょっと移動して看板を見上げると、今いるホームに来る電車が秋葉原方面に向かうことが知れたので、先ほどの場所に戻って段を上り、安穏とした薄い陽射しのなかで手帳を取り出し、道中に思いついた短歌の断片を記しておいた。じきに電車が来たので扉際で一駅を過ごし、降りると看板に従って中央改札へ向かった。階段を下り、案内表記に頼りながらフロアを歩き、中央改札に至って出ると正面の壁際にそれらしき姿があった。TD、TT、MUさんの三人で、MUさんが手を掲げてぶんぶんと横に振るのが見えた。近づいていき、頭を動かして挨拶を交わすと、TDが今日は九時半起きだろと訊いてくるので八時だと答えた。
 そうしてTとKくんがやって来るのを待つ。左方には中央北口がひらいており、外はわりと明るいようで、巨大な開口部から駅舎に入ってくる人々の姿が空間の下部に黒っぽい影となって見える――完全に平板に均されはせず、いくらか人間としての姿形と起伏を留めてはいたが。我々のすぐ傍の壁にはシャア・アズナブルのポスターが掲示されており、その横にはスタンプの置かれた台が設けられてあり、『機動戦士ガンダム』と絡めたスタンプラリーが催されているらしい。結構人気なようで、待っているあいだにも、平日の昼間にもかかわらず何人かやって来て印を押していた。その誰も結構年嵩と見える男性だったが、定年後の時間を余した境遇で趣味に精を出しているというところだろうか。
 じきに、今日の予定はどうなっているのかとTTが問うた。飯を食ってからヘッドフォンを見て、その後、上野の美術館に行くと説明すると、飯はどこで食うのかと返る。Tが色々と候補を調べてくれてLINEに投稿していたので、MUさんがそれをひらき、ヨドバシカメラの上のレストランフロアで良いのではないかと話していると、当のTが到着し、次いでKくんもやって来た。飯についてはTも、ヨドバシカメラの八階が六人いても安心ではないかと思っていたらしい。それでヨドバシカメラに行こうと合意され、北口を出ると、通りを渡ってすぐのところに件の電機屋が聳えていた。なかに入ってエスカレーターに乗り、上層階に向かった。途中で一度、手を置いたベルトが何かがたつくと言うか一瞬ずれるような感覚があって、皆、今のは何だと困惑していた。エスカレーターは七階までしか通じていなかったのでそこでフロアに出て、服屋や書店のあいだの通路を行った。GLOBAL WORKの店舗などが入っており、Tはヨドバシって服も売ってるんだねと物珍しげに漏らしていた。エレベーターに至ってボタンを押し、まもなくやって来た箱に入るとなかには若いサラリーマンが二人おり、一階分上がるあいだ、電話した? と話していた。淡々と、って感じ? と一方がもう一人に問いかけると、淡々と、と相手は言葉をそのまま繰り返して答えていた。
 レストランフロアに到着して店舗一覧の前に行くと、誕生日を祝われる立場のこちらとKくんで決めてくれと皆は言う。こちらは何でも良かったのだが、TTは一〇時半頃に飯を食ったと言っていたので、まだ大して腹は減っていないだろう。それだったら何か取り分けしやすい品とか、丁度良いサイドメニューがありそうな店が良いかという頭がどうやらあったようで、中華、と口に出た。「(……)」という店があった。そこに入ることに合意され、そちらに移動するあいだ、Tは花小金井だかにある墓に参りに行く途中で同じ店の別店舗を見る、というようなことを言っていたと思う。店の前に着くと料理サンプルを眺めてメニューもちょっとめくったあと、ここで決定となって入店した。店員はすぐに出てこなかった。すぐ手近の壁際にちょうど六人分空いているところがあったので、手を挙げて中年の男性店員を呼び、そこに入れてもらった。多分この時点でTは既に、この店員の男性のことを良いキャラだな~、中華料理屋似合うな~と言っていたと思う。濁声と言うか結構嗄[しわが]れた声色で、やや丸めの寸胴的な体型の上に短髪の頭が乗っている容貌だった。
 Tが先頭でソファ席の一番奥、つまり最も右に就き、こちらがその隣に続いたあとにKくんが入った。向かい側はこちらから見て右方から、MUさん、TD、TTの順番だった。皆でメニューを見分するのだが、こちらは店の表のサンプルを見た時から、野菜タンメンを食おうと心を決めていた。Tはだいぶ迷い、色々と案を考えながらも、一番中華らしい、外れのないものを食べたいと欲求を述べ、それで結局やはり餃子ではないかと落着いて、大餃子定食なる品に決定した。ほかの面子の注文は、Kくんが麻婆豆腐定食、TTが細切りピーマンと豚肉炒めの定食――とメニューには書かれてあったが、要は青椒肉絲ということで、品物を運んできた店員はそう言っていた――、TDは担々麺、そしてMUさんはスパイシーチキン炒飯である。あとは「やみつき餃子」という呼称の、要は通常の餃子も六個入りのものを一皿頼んで、皆で一つずつ食べてみようということになった。先ほどの男性店員が注文を受けてくれた。この注文の時だったか、お冷の替えを頼んだ時だったか、少々お待ち下さい、と彼は言ったのだが、その「少々」の発語が奇妙に伸びてまるで歌うような言い方だったので、こちらとTは思わず顔を見合わせて笑ったのだった。彼女の言った通り、なかなか良いキャラクターの、独特の間や雰囲気を持った人で、それでいて接客や言葉遣いはわりと丁寧であり――お冷の大きな容れ物をMUさんの前に置いた時、ちょっと置き方が強くなって音が立ったのだが、そのことをすぐに謝っていた――心優しき巨漢といった風情があって、漫画に出てきそうな人だなという印象をこちらは抱いた。
 品物が届くまでは、『仮面ライダー』シリーズの話などが交わされていた。「クウガ」と「龍騎」が結構ホラー的で怖いけれど、TDによればそれ以降は軽く、ポップな感じになっているとかいうことだった。ほかにはTが、小学校だか中学校だかの同級生が夢に出てきて久しぶりに思い出したと語り、あれは何なんだろうね、ずっと忘れてた人が何のきっかけもなく出てくるのは、と言うので、こちらも今日の夢にHGが出てきたと話し、上に記した夢の内容を物語った。「やるじゃん」の流れには笑いが起こった。
 TTの品が最初に来た。青椒肉絲を頼んだのは、とにかくピーマンを摂取したい欲求が到来していたかららしい。身体が求める時があるのだと言う。こちらの野菜タンメンは結構量が多くて盛り沢山といった感じであり、Kくんの麻婆豆腐も深めの大皿になみなみと注がれて粘りのある赤さを湛えていた。TDの担々麺は濃くどろどろとした赤に染まっており、見るからに辛そうである。MUさんの炒飯も微妙にオレンジっぽい赤という感じの色合いで、この品には唐揚げが入っていたらしい。こちらはタンメンの野菜をちまちまと食い、その後、麺を引っ張り出して啜ったが口のなかに闖入してきたものはかなり熱く、途中で噛み切って口内に含めたあと、手を口の前に持っていって覆い、熱さを示した。少しずつ食っていき、具が大方なくなると蓮華でスープを掬って飲んだ。以前、『マツコの知らない世界』で、タンメンは要は栄養満点の野菜ジュースだと主張している人が出演していたのを思い出した。この店の品は味わいとしてはそれほどいかにもなタンメンといった感じではなく、特有の匂いのようなものが薄い気がしたが、タンメンなどそんなに何種類も食ったことがないので実際のところはわからない。MUさんはこちらが頼んでいないにもかかわらず積極的に炒飯を分けてくれた。ピリ辛という程度の風味が香る品だった。Kくんは相当に満腹になった様子で、TDがいくらか分けてもらって食べており、彼はまたTが食べきれなかった米も担当して代わりにいくらか摂取していた。
 食後は短歌の話になった。今日の会合は元々Kくんの提案によって、美術館を観たあとに街を散策しながら皆で詩歌の類を作ってみようという企画だったのだ――もっとも散歩は、TTが足を怪我しているとかで却下となったが。こちらはそれで前日、ウォーミングアップでもないけれどいくらか短歌を作り、それをLINE上に報告しておいたのだった。隣のTが、短歌などどう作ったら良いのかわからないと言って、昨日作ったものを一つ何か言って、と求めてきたので、「スタジオのアンプの裏の隅にある埃のような曲を書きたい」と口にすると、皆笑って、良いじゃん、と言った。それから、藤原龍一郎『歌集 楽園』をTに渡して見せた。しかし、彼女は情景が浮かぶようなものが自分は多分好きなんだと思う、と言っていたので、現代短歌の類はそれほど好みではなかったかもしれない。帯を挟んでおいた頁に載っていた「前世また来世も虚無をこそ歎く吟遊詩人春逝かしめて」という一首を読んだTは、Fさん、こういうの好きそう、わかるよ、と言ったのでこちらは大笑いし、俺のイメージ、イメージね、虚無が好きそう、と皆に触れ回ってまた笑った。
 Tはまた、こちらの手帳にびっしりと細かく記された日記のメモを見てちょっと感動したらしく、その情動を短歌にしたいと言って考えあぐねていたのだが、そのうちに時間が経ち、こちらが手首から外していた時計を取り出して見ると一時四五分の頃合いだった。Tが時間を訊いてきて、それを機にそろそろヘッドフォンを見に行こうとなり、席を立って一人ずつ順番に会計を済ませた。こちらは最後尾に就き、番が来ると例の男性を相手に野菜タンメンだと告げた。すると男性が、餃子は……と困惑気に言うので、そうか餃子も頼んだのだったと思い出した。皆、そのことを失念しており、誰も支払っていなかったのだ。それでこちらが払うことにして二品の値段を合わせてもらい、一六〇六円を会計して礼を言って退出した。
 エレベーターに移動して、四階に下りた。元々は何とか言うイヤフォン・ヘッドフォン専門店に行くような話になっていたのだが、こちらは特にこだわりなどないし、ヨドバシカメラの品揃えで充分だった。それでヘッドフォンを所狭しと掛け並べた棚のあいだに立ち入って、見分をする。と言って先述のようにこだわりはないし、音の良し悪しも――音楽の良し悪しならともかく、音質の良し悪しとなると――大した耳を持っていないのでよくわからず、一万円を越える程度出せばどれも結構な質を持っていてそう変わらんだろうと身も蓋もない考えを持ち、その辺りの価格帯のものでつけやすいものを探した。もう出先で音楽を聞くということはまったくなくなったので、外で使うことは少しも想定していなかったが、やはり没入感をもたらす密閉型が望ましかった。まず装着感で比べて、つけ心地が良く、耳を上手く覆うようなものを求めていく。するとその時点で既に結構絞られた。DENONの一二〇〇〇円くらいの品が候補に上がったが、現在使っているのもDENONのものなので、何となくほかのメーカーのヘッドフォンを試してみたいような気持ちもあった。それで、Sound Warriorという名も知らなかったメーカーの一一〇〇〇円程度の品が、何が良いのかはわからないのだが直感的に何か感じるものがあって良いような気がしたので、これにしようかなと心が傾いた。こちらは携帯音楽プレイヤーもスマートフォンも持っていないので、TDにスマートフォンを借りて我々の曲である"C"を流したり、Nikolai Kapustinのピアノ演奏を流したりして聞こえ方を調べていたのだが、DENONの品を試しているところでTがやって来たので、これか、それかさっきあっちにあったのが何か良かった気がすると言って、Sound Warriorの品のもとへ行った。手に取って頭につけてみたTは、まずは凄く軽いねと評価し、疲れなさそうと言った。さらに流れ出す音を聞いても、良いね、わりとドンシャリだけど、と彼女は言った。それでこちらも、これで良いかなという心に大方固まった。もっと上の価格帯を狙えばさらに良い品もあるのだろうが、先に言ったように音質に大したこだわりはないし、今日は買ってもらう身なので皆にあまり多くの出費を強いるのも遠慮したかった。加えて、Kくんの品の分もあるのだから。こちらの選んだこの品ならば、四人で分けてもらって一人三〇〇〇円ほどなので、まあ許容範囲だと判断させてもらうことにして、そういうわけでこちらは早々と、Sound WarriorのSW-HP10sという品物に決定した。
 Kくんの方はその後もいくらか迷っていたようだが、最終的にMeze Audioという、やはりこちらにとっては初めて耳にする名のメーカーの品に決定していた。(……)円くらいだったと思う。(……)こちらのものと合わせて四人には(……)円くらいの出費を強いたわけで、誕生日プレゼントとしては結構な額だと思われる。とても有難い。
 Tがひとまず一括でまとめて支払うことになった。Kくんもポイントを貯めると言って二人一緒にレジに行ったのだが、何故か結構待ち時間があった。そのあいだこちらはふたたびTDにスマートフォンを借りて、FISHMANなどを流して自分の購入する品をまた視聴していた。そうして会計が終わって合流すると、品物の入った袋二つはTDが持ってくれた。LINEで待ち合わせ時間と場所を相談した際に、ヘッドフォンを先に買うと荷物になっちゃうけどとTが言ったのに、軽装で行くから俺が持つとTDが宣言していたのだ。それから、TTがキーボードか何かを見に行って一人離れていたので、ぞろぞろとそちらへ向かうと、彼は一同の背後から突然現れた。それから楽器エリアに踏み入って、各々電子ピアノを適当に弄るなどして遊んだ。こちらは例によってCマイナーペンタトニックのフレーズを無造作に鳴らしていた。並んだ楽器のなかに一つ、鍵盤ハーモニカ風の音色の小さな機材があって、それに触れた時にはFメジャーか何かのキーでコードとメロディを鳴らしたのだが、それが自然と一曲のように繋がって我ながら良い感じだと思ったものの、当然のことながらすぐに忘れてしまった。じきにTがカフェを調べはじめて電話を掛けた頃には、時刻は三時の手前に至っていたと思う。こちらはもう上野に移って美術館を観るか公園を散策するかした方が良いのではないかと思っていた。何しろ美術展は五時半で閉まってしまうのだ。一時間半から二時間くらいは観る時間を確保した方が良いのではないかと思っていたのだが、まあ皆に合わせるかとカフェ行きの案に従ってTが電話確認してくれるのを待った。TDとMUさんは同じ一つの電子ピアノに寄っており、MUさんに頼まれてTDが譜面を見ながら何かの曲を奏でていた。
 その後一同は集まって、喫茶店に行くことに相成った。候補は二つあり、Tが先ほど電話した一店は、あまり感じは良くなかったと言うものの、六人分の席は確保できるらしい。もう一つ、電話予約を受けつけていない猫カフェの類があり、まずそちらに向かうことが決定された。それで『ドラゴンクエスト』の旅のパーティーよろしく一列に並んでエスカレーターを下っていき、ビルを出て街を歩く。先頭を行くのはTとKくんの夫婦で、Tは秋葉原の街並みを眺めながら短歌を作りたいと言って、目に入るものを題材にしようと試みていた。こちらは最後尾に就くか、TD及びMUさんと並んで歩いていたのではなかったか。それとも並んだ相手はTTだったか? そうだったかもしれない。この道中で確か、足が痛い、怪我は関係なく普段全然歩いていないから足が痛くなってきたとか、正直体調が悪くなってきた、微熱があるようだとか彼が漏らすのを聞いて、気遣ったのだったかもしれない。TTも非常に忙しい身なので、身体があまり休まらないのだろう。頭上の空間を貫いて横切る高速道路の下をくぐって横断歩道を渡り、裏路地に入ってTの先導に従いしばらく歩くと、こじんまりとして古色蒼然といった風合いの店構えがあった。Tが扉を開けて覗きこみ、話を訊いていたものの、さすがに六人は入れないようだった。それでもう一軒に行くことになった。路地を抜け、先ほどの高速道路を頭上に冠した表通りに移ると、Kくんがいつの間にか姿を消していたのだが、それはコンビニに寄ったらしかった。ほかの一同でコンビニの前に佇んでいるあいだに、そろそろ時間がないのではないかという声が出て、実際既に時刻は三時を回った頃だったと思う。それで、もう上野公園に行ってしまえば良いではないかという話になった。ここのコンビニで買いたい者は飲み物など買っていって、何はともあれひとまず上野に移動し、美術館に入るか公園で駄弁るかはそこで決めれば良いということになり、それでTTは店のなかに買い物に行った。TDも行ったのだったかもしれない。Tはすぐ近間にあったりそな銀行に行きたいと言うので、行ってきて良いよと答え、こちらとMUさんが店の前に残り、まもなくコンビニに入っていた者たちが帰ってきた。TTとKくんは、美術館のなかのカフェに入っても良いのではと店内で話し合っていたと言う。それからTが行った銀行の方に向かって合流し、もう上野に行こうと改めて決定し、秋葉原駅への道を辿った。TTが足が痛いと言ったのは、ここから駅に向かっているあいだのことだったかもしれない。そこでこちらはTDに声を掛けて、出番が来たぞと言ったのだった。TTを背負ってやれという冗談を意味したつもりだったのだが、TDは思い当たった様子を見せたあと、しかし前方に歩いていたMUさんの方に小走りに近づいて彼女が運んでいたヘッドフォンの袋二つを交替に担ったので、意図が伝わらなかったこちらとTTは笑い、TD、そうじゃないと改めて声を掛け直し、真意を説明した。それには条件があったよね、とTDは答えた。TがKくんをお殿様抱っこして運んだならば、自分もTTを背負ってやろうという妙な話になっていたのだった。
 そんなことを話しながら秋葉原駅へ向かう道中、駅付近に続く横断歩道を渡った際に、鳩が一羽、車道の真ん中で死んでいた。TTが見つけ、こちらも目を向け、本当だと驚きの声を上げた。既に息をすることのなくなった鳩はぐったりと横向きに伏せていた。それを見ながら短歌にしたいというような気持ちが湧いたがまとまらず、ただ首を曲げて死体を見返しながら進んだ。
 駅に入ってホームに上がるまでのあいだのことは覚えていない。ホームに到着すると、TDに向けて荷物を渡すようにとの意味を込めて右手を差し出したが、TDは空とぼけていた。手のひらを上向けて四本の指をくいくい動かしてさらに要求を続けるものの、彼はとぼけ続ける。するとMUさんがこちらの身体を押してきたのだが、彼女はこの日、時折りこちらに攻撃を仕掛けてきた。具体的には腹のあたりを押してきたり、脇腹をつついてきたり、背後に忍び寄って身体を軽く叩いてきたりである。最後の行動を取ったあとに小動物めいてちょろちょろと逃げた際には、TTに痴漢じゃん、と笑われていた。
 電車は山手線に乗ったはずだが、よくも覚えていない。上野までは二駅。車内で確かTに、最近はどうかと漠然と訊かれたのではなかったか。最近? うーん……と考えて、わからない、と笑い、特に思いつかないという阿呆のような答えを返した。Tの方は料理の話をしてくれた。北海道の友達に良いジャガイモを送ってもらったが、それを調理するのに失敗して泣いたと言うので笑った。ジャガイモを細切りにしてチーズと合わせて焼こうとしたところ、鉄のフライパンを使ったためにチーズが貼りついて焦げてしまい、上手く焼けなかったということだった。あるいはそれよりも先にパスタの話があったかもしれない。店で提供されるものは別として、自宅で茹でる際にはTとKくんはパスタは細い方が良いと合意しているらしく、それでできる限り細くしてみようと思って相当に細いものを作ったら、それはもう素麺だったと彼女は笑ったのだった。料理はやはり奥が深いと言うか、知っていると思っていても油断ならないものだというようなことを言って、Tは話をまとめていた。そのような言葉を聞きながら上野駅構内を歩き、ほかの四人の後ろから二人でついていく。その結果、山下口と言ったか、小さな出口から出ることになった。公園口から市街方向へちょっと移動したところにある目立たない出入口で、そこを通るのは初めてだった。出る前にTがトイレに行くと言い、秋葉原駅で既に一度トイレに行くか迷っていたTTもここで用を足しに行き、ほかの四人は二人を待って各々佇んだ。こちら以外の三人と戻ってきたあとのTTは外の道に出ていたが、こちらは一人、通路内の角でTを待った。戻ってくると、皆別々の場所でばらばらに待ってて面白い、と彼女は笑った。
 それで合流し、横断歩道を渡ると、警備員の服装をした案内人が、上野公園はこちらから上がれますとエレベーターを示していたので、それに従って個室に入った。あまりない入り方だね、と皆口にした。普通は多分、公園口から出て正面から入園するのだ。ほかの人々とともにエレベーターで上り、出るとそこは上野の森美術館の近くだったと思う。歩きながらTに、前夜に聞いた"C"のコーラスについて伝え、それからTDと並んで彼にも思いついた改善案を話した。何かパフォーマンスをやっている人の前で一度停まったが、その時もTDと話していて演者の方を全然見なかったので、この芸人が何を行っていたのかまったく覚えていない。正岡子規記念球場の横を過ぎ、国立西洋美術館の付近まで来ると曲がって広場に入り、中学生だか高校生だかの女子が多数集まって賑やかに戯れている脇を通り、鈍く赤っぽい色の外観を持った東京都美術館へと向かった。館の前に着くと四時頃だった。もう入るか、先に"C"のコーラスについて話し合うかと選択肢が提示された。話し合うならば、音源を流すので外の方がやりやすいのだが、後回しにすると日が暮れて気候が寒くなってしまう。カラオケにでも入れば良いのではないかとTTは提案したが、結局、閉館の五時半まで一時間観られれば良いだろうという判断に固まって、先に楽曲について話し合うことになった。それで間近のベンチや遊具が設置された区画に移り、幼児らのあいだに入っていってドーナツ型のベンチに腰掛けて会議を行う。
 Kくんがスマートフォンで鍵盤のアプリを用意し、Tが音源を流した。懸案と言うか、皆の案や意見を募るべき箇所は四つほどあったのだが、確か二つ目まで話し合った時点で早くも三〇分が経過し、すべては協議できないままに美術館に入ることになった。我々が会議をしているあいだ、MUさんは一人、付近をうろうろしていたようだ。戻ってきたあとだったか、それとも話し合いの前だったか、動物の形を模した遊具の一つ、乗って揺らして遊ぶものに跨っていた。会議後には、円型の土台から棒が垂直に伸び立っている形の、飛び乗った勢いで回して遊ぶものにKくんが目をつけて乗っており、MUさんはこれにも乗っていたかもしれない。Tも試したいと言って、彼女が少々危なげなジャンプをして飛び移るのを、皆で見守った。
 それから美術館に入った。正門をくぐったところの庭には巨大な銀色のボール、辺りの風景を歪曲させながら映しこむ、甚大な大きさの球体のオブジェが設置されており、Tはこれの写真を撮っていたようだ。そこを過ぎて、ほかの皆がエスカレーターに乗る一方でこちらは階段を下り、館内に入った。戸口をくぐって脇に消毒液が置かれてあったので、新型肺炎やインフルエンザに掛からないように注意しようというわけで手にスプレーし、すりこみながらロビーに入ってチケット購入窓口に向かった。TDが、誕生日プレゼントとして、Kくんとこちらの分は皆で出そうと提案してくれた。ヘッドフォンに加えて美術館の代金も出してもらえるとは非常に有難く、Kくんと顔を見合わせて甘えることに決めた。それでTがまとめてチケットを買ってきて、一人ずつ配っていった。「ハマスホイとデンマーク絵画」展である。
 そうして展示室の方へ。途中でTDがロッカーに荷物を入れたのを見て、Tも収めに行き、それから受付に行ってチケットをもぎってもらい、通路を辿って展示室に入った。出品作品リストを手に取ってこちらは先陣を切り、早々と皆から離れて自由行動に入った。Tは事前に四〇作品と言っていたのだが、リストを見ると八六作品あったので、四〇というのはハマスホイに限ったことだったのだろう。残り時間もあまりなかったので、一つずつゆっくりと観るのではなく、あとで戻ってくるつもりで興味を惹く作品に目星をつけていくことにした――もっとも、時間がたくさんある時でも大体そのやり方を取っているが。
 展示は四つのパートに区分されていた。第一部は「日常礼賛――デンマーク絵画の黄金期」。第二部は「スケーイン派と北欧の光」、第三部は「19世紀末のデンマーク絵画――国際化と室内画の隆盛」で、そして最後に第四部「ヴィルヘルム・ハマスホイ――首都の静寂の中で」である。まず一番最初に、クレステン・クプゲ(Christen Købke)「カステレズ北門の眺め」という作があった。シンプルな風景画なのだが、色点の組み合わせ方が印象派の前段階といったような感触で、早速なかなか良い感じの印象を覚えた。一つの絵の前にちょっと留まりじっと目を凝らして、自分の精神に与える刺激や巻き起こす感覚を吟味していき、あまり時間がないので際立った感触をもたらさない絵は残念ながら早々に見限って次へと進んでいった。最後まで進んだあと、一度下階に戻った。展示室の端に触れて開閉するタイプの曇った戸の自動扉があったので、そこに指を差し出すと、扉は実に滑らかにすっとひらいた。出ると下りのエスカレーターがあって職員が控えていたので、下に戻りたいんですけどと口にすると、それでしたらこちらで、とエスカレーターを示されたので下り、そうしてふたたび自動ドアから展示室に入った。最初の二部はもう一階下のフロアにあったので、先ほど挙げたクプゲの一番と、後述する一五番、三〇番、三一番の絵は見返すことができなかった。再度鑑賞できたのは三四番以降の作品である。
 序盤の絵でもう一つ良かったのは、リストの一五番、ヨハン・トマス・ロンビュー(Johan Thomas Lundbye)「シェラン島、ロズスコウの小作地」という作品である。明るい土色の牛が画面中央に据えられた田舎の風景画で、何となく全体的に、とりわけ牛の姿に艶があるようで好感触を抱いた。画面左上の方に配置されていたと思うが、緑樹の枝葉が開放的に広がって描かれており、それが風が吹いているように見えて爽やかな印象を与えるのだった。ただ同時に、確か建物から煙が立っていたと思うのだが、そちらには揺動する様子がなかったのでこの絵画世界のなかでは実際には流れるものはなく、風の表現は意図されていなかったのかもしれない。ただ、こちらの精神のなかに風の表象が湧き起こったのは確かな事実で、その感覚が何だか良かったのだった。前半の風景画は全体的に穏やかで、月並みな表現になるが温かみを帯びた感触のものが多かったように思う。ふわりとした質感に、朴訥とも言うべき独特の感触が多少見えるような気はした――筆触なのか色調の問題なのか、その要因は見分けられなかったが。
 リストの三一番、ピーザ・スィヴェリーン・クロイア(Peder Severin Krøyer)という画家の、「スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア」は展覧会のホームページにも載せられていたもので、構図や色彩としてわかりやすくまとまっており、優れているという評価を受けやすい絵だろうなと思った。砂浜に佇む人物を捉えたもので、地と海の境界線が斜めに緩くくねりながら手前から奥に向かって走っており、画面の左方は海が清涼に澄んだ水色を湛え、その波打ち際に白い衣服を纏った二人の女性が配置されている。砂浜と海水はそれぞれ一つの色調に統一されており、その境に人間が立っているという明快な構図で、ほんの少しのアクセントといった風に小さく現れている女性たちは後ろ姿だったはずである。ここでは人物が主役なのではなく、自然の風景の方が主であり、人は広大無辺の天地に包まれた極小の一片に過ぎない。しかも後ろ姿で顔は見えないから彼女らはほとんど人間的な意味としては機能しておらず、自らの意思を持ってそこに来て散策していると言うよりは、何か偶然的に、あたかも神の手によって設置されたかのような感じを覚えさせる。服装はドレスと言って良いのか、裾の長いものだったはずで、それなので人物もほぼ一色の断片として目に映った記憶があり、絵画は全体に動きのない静謐さを漂わせていたのだが、そういう〈無音〉や〈静止〉のテーマは後半のハマスホイの絵にも通じるものだっただろうと思われる。
 確か三一番の隣に掲げられていたのではなかったかと思うが、リストの三〇番、同じくスィヴェリーン・クロイアの「詩人ホルガ・ドラクマンの肖像」も良かった。ただこれに関してはあまり時間を掛けて見られなかったし、その後に戻ってきて見返すこともできなかったので、よく覚えていないが、筆触が全体的にややラフで動きのある感じで、束の感触があったと言うか、筆触そのものに風が含まれているかのような印象を抱いた記憶がある。舞台も確か森のなかと言うか、樹々のもとかそんな感じの場所だったような気がして、舞台設定と筆の質感とが相応していたのではないか。詩人の衣服は濃い青だったはずで、その色の鮮やかさも印象に残っている。
 その次に目に留まったのは三四番、ヴィゴ・ピーダスン(Viggo Pedersen)の「居間に射す陽光、画家の妻と子」で、これはかなり良かった。この展覧会で目にしたなかでこちらが一番素晴らしいと感じたのはハマスホイの「農場の家屋、レスネス」という作品だったが、このピーダスンの絵がそれに次いで二番目に良かったように思う。陽光に触れられた若い女性と赤子を描いたもので題材としてはシンプルなのだが、色彩の使い方が巧みで、また月並みな表現を使ってしまうけれど全体に温かみのある色調のなかに、淡い青の寒色が組み合わされているのだった。特に赤子の顔の側面、こめかみのあたりに一抹顕著に差しこまれているのがかなり効果的にひやりとした感触を与えるもので、太陽光を反映した明るい顔貌をそのように表現できるのだという新鮮な称賛が湧いた。二〇一六年にMさんが来京した際に、あれも確かこの東京都美術館だったか、ゴッホゴーギャンの展覧会を観たのだが、おそらくゴーギャンが描いた肖像画の類でもやはり顔に青い寒色が使われているものがあって、その幾分奇妙な、異物的な挿入にMさんが注目していたのを覚えている。その時彼は多分、ちょっとぎょっとするような感じ、という風な言葉で評していたと思うのだが、あれと同じような感覚かもしれない。ただ、ピーダスンのこの絵にはほかに、女性の頬を彩る実に健康的なピンク色や、室内の調度装飾に用いられた黄色などがふんだんに含まれており、全体的にどぎつくない、穏和かつ鮮やかで浮遊的なカラフルさが織り成されていたと思う。そのなかに清冽な青の寒色が力を持って取り入れられ、配されており、それが〈切断的な調和〉とでも言うべき様相を生み出していた――そう、あくまでも調和の相のもとにあるのだ。
 三五番のヨハン・ローゼ(Johan Rohde)「夜の波止場、ホールン」は、印象派的と言って良いのだろうか、平面的な色の接触といった感じの、まるで切り絵のような港の表現でちょっと目に留まった。続く三六番はユーリウス・ポウルスン(Julius Paulsen)「夕暮れ」で、これは夕暮れと言うかほとんど宵に近いような時刻の絵で、空間の中央に大きな樹が一本鎮座して樹冠の茂みを広げているのだが、画面が全体的にぼやけた効果を付与されていた。あまりにもありきたりな比喩だが、曇ったガラスを通しているような、カメラのピントを敢えてずらして写したような感じで、その技法はわかりやすいものではあるもののちょっと面白かった。
 そうしてついに、ヴィルヘルム・ハマスホイ(Vilhelm Hammershøi)の区画に到達した。まず序盤は、五二番、「夏の夜、ティスヴィレ」と、五三番の「ゲントフテの風景」が良かった。何と言っても意味の希薄さである。ロラン・バルトの考えた意味の零度をほとんど実現しているのではないかと思わせるもので、あるいは杉本博司の海の写真があるが、あれを連想させるようでもあった。静止性及び停止感、すなわち〈動きのなさ〉――この停止感はハマスホイの絵には概ね一貫していると思う。静寂に凍りついたような感じ、とでも言ってみて良いと思うが、しかしそのような言葉を仮に使ったとしてもその作品は冷たい感覚は与えず、むしろ一般的に柔らかい質感と温和さを帯びているように感じられる。ただ、その動きの停まった感じが、ことによると非人間的とも言いたくなるような印象を観者のなかに生み出すかもしれない――ともあれ、意味の希薄さというポイントに戻ろう。前者の「夏の夜、ティスヴィレ」は、正直あまり覚えていないのだが、夏の黄昏や宵めいて薄暗いような青さのなかに、家が二軒ばかり鎮座しているというものではなかったか。空の面積が広く、その色も一様に統一されていたはずで、その何もない、すべてを吸いこむかのような空漠的な空間の広さという点でも羽毛めいて頼りないほどの意味の軽さが際立つのだが、後者の絵はそれがより顕著だった。この作品は白を基調としたものだったと思うが、空と平原と地平線と、画面奥の左側に申し訳程度に配された二、三の灌木――やや鈍い色の小さな人形のような塊――とが描かれているだけの絵で、この意味の薄さはちょっとなかなかのものだなと称賛したのだった。風景が色彩と形態とに解体され、還元されていると言えば確かにその通りなのかもしれないが、ただ、いわゆる抽象画とは趣を異にしており、「抽象的」という形容は何か違うように感じられる。単純に、そこまで還元が徹底されていないということなのだろうか? よくわからないが、あくまで風景は風景として、自然は自然として保たれながらも、しかしそこから意味を吸い取られ希釈化されたというような様相を提示していたと思われ、そういう点でやはり、ロラン・バルトの用語で言ってまさしく〈中性的〉な絵画だったような気がする。ちなみに後半にも「風景、ゲントフテ」という題で同じ地方を描いたらしい風景画が展示されていたが、これはもっと色合いとして明るく、空は青く地は薄緑で、なおかつ空には丸みを帯びた雲が点々と水平に並んで浮かび漂っており、いかにも牧歌的でいくらか類型的に思われたため、一八九二年作の「ゲントフテの風景」の方がこちらとしては興味深かった。
 階を上がって後半になると室内画が増えていったのだが、この時期の絵に表れたハマスホイという人の特色はまず一つ、そのテクスチャーだと思う。実に独特の柔らかさと言うか、仄かさのようなものを持っているのだ。上にも書いた通り、この展覧会で紹介されていたデンマークの絵画には全体的に、ふわりとした淡い感じが付き纏っているものが多く見られたように思うのだが(テクスチャーの質感としての〈淡さ〉を言っているのであって、必ずしも色彩が淡いということではない)、多分その路線を高度に洗練させた一つの形として、ハマスホイがあったのではないか。彼に至ってはかなり絵画表面の肌理が細かくなっているように感じられ、卓越した技量で画面が作りこまれ、派手ではないが実に精緻な細工を凝らされているという印象を得た。高級な和紙のようでもあり、優美な手触りの絨毯のようでもある――高品質な布や紙の、〈織物〉の質感なのだ。そのようなテクスチャーを持っているから、扉にせよテーブルにせよ本来は固く定かなはずの事物が、堂々と、いかにも物体の堅固さを持って圧倒的に迫ってくるという感じでない。かと言って曲線的で撓むような柔らかさとも違っているその感覚は、やはり〈仄かさ〉と言うべきなのかもしれない。第二に、上にも記したがそのようなテクスチャーの向こうに表出された物々や人物の静止ぶりが特徴的である。無音、沈黙、静止性、停止感、静謐、時空が凍結したような感覚――人物は不在か、ほとんど必ず後ろを向いていて表情を見せないので、それは先にも言及した通り、場合によっては非人間的な雰囲気にも繋がってくるだろう。また、テクスチャーの仄かさとも相まって、一種存在感が希薄な、幽霊のような印象を与えもするかもしれない。ここに存在していながら同時にいない。目の前にありながら別の位相にあるような、現前と不在が同居しているような、今にも消えていきそうな、〈かそけさ〉の絵画とでも呼ぼうか?
 終盤の具体的な作品として印象に残ったものを挙げると、まず「室内」とシンプルに題された一品があった(七〇番)。真っ黒な服を身に纏った女性の後ろ姿を捉えた室内画で、これと似た構図及び題材のものとして、「背を向けた若い女性のいる室内」(七三番)という作品もあった。後者はチケットにも印刷されていた絵であり、多分ハマスホイのなかでも一番有名なものの一つなのではないかと推測する。展覧会後の会話においては、皆は後者の作品に言及していた。「背を向けた若い女性のいる室内」では、女性の傍らの台の上につるつると光沢を帯びた陶器が置かれており、直線を生かした構図のなかに丸みを帯びた物体が一つ配されていることの妙について、KくんやTTなどが語っていたのだが、実のところこちらはむしろ「室内」の方により惹かれるものを感じていた。この絵画のなかでは女性の手前にクロスを掛けられたテーブルが設置されていて、実に凡庸な受容感覚ではあるが、女性の黒い衣服とテーブルクロスの白さとの対照が鮮烈に映えていた、というのがその理由の一つだろうと思う。また、奥の壁に何も映していない楕円形の鏡が掛かっているのも、何故だかわからないが印象を惹いたもので、この絵は本当はもう少し時間を掛けて観察してみたかった。
 「室内」の隣にはリスト中の六五番である「寝室」という作品が飾られてあった。ハマスホイは意外と、と言うか、事前に何となく抱いていたイメージに比して暗めの色調を頻繁に用いているような気がしたが、この「寝室」は暗さのまったくない、全体が清純な白さで統一された一品だった。壁もカーテンも窓枠も調度も女性の衣服もすべてが明晰な白さに彩られており、これもありがちな鑑賞ではあるが、やはりどうしても「純粋無垢」という言葉で表される属性を喚起せずにはいられない。ある種の聖性のようなものが空間中に満ち渡った作品で、整然とした優雅な統一感が好ましいものだった。
 この展覧会を通してこちらが一番素晴らしいと感じたのは、作品リストの六六番、「農場の家屋、レスネス」というハマスホイの作品で、この絵画の前に留まるのに一番多くの時間を費やしたと思う。二軒の白壁の家屋が描かれているだけの、題材としては何ということもないような作品なのだが、やはりその意味の希薄さ、穏やかな〈無音〉の表現に強く惹かれたのだった。この作品でも空は広めに取られていた記憶があり、空白の空間が多分画面の上から半ば以上までを占めていたのではないか。屋根は除いて家屋の壁と地面と空とがそれぞれ微妙に異なった種類の白さで組み合わされており、光が空気に通[かよ]っている時刻のようで全体的な印象は明るい。しかし決して派手ではなく、陽光の艶めく美々しさはまったくなく、空気は品良く控えめに落着いており、飾り気のないある種の〈謙虚さ〉を孕んでいる。その〈謙虚さ〉は、画面のどこか一部分を突出させず全体をなだらかに編み合わせた統一性として、絵画空間の端から端まで静かに染みとおり、滑らかに結実していたようだ。画面上に動きはほぼ皆無で、煙突から辛うじて吐き出された細い煙――空にほとんど溶けこむように希釈されている――もまっすぐ上方に昇っており、風はないようだが、そのかそけき煙だけが僅かな動きの感覚を、水面に触れて波紋を広げる一滴の雫のように、静謐のなかのたった一音のように垂らし、点じているのだった。まさしく時間の流れが停止したかのような昼下がりの静寂が、実に見事に表象されている典雅な一品だった。
 最後の室に展示されていたものでは、「聖ペテロ聖堂」(七七番)も優れているように思われた。ヴィゴ・ピーダスンの「居間に射す陽光、画家の妻と子」と並んで、二番目に気に入られた作品だ。これは絵のサイズも大きく、聖堂というテーマもまさしく堂々としており、わかりやすい大作という感じだった。しかし、そのような題材を扱っていながらも、画面全体に透明なカバーが掛けられたかのような、大気中に蒸気が湧いて空間に万遍なく混ぜこまれているかのような、籠って霞んだ効果が施されて巨大な建造物の存在感を希釈化しており、さらには堂の上から下まで全貌を明らかに収めた構図で描くのではなく、ある種半端なような視点で拡大的に捉えられていた覚えがある。そういった点で、聖堂という誇らしげな主題を取り上げていながらもその提示の仕方をちょっとずらしていると言うか、その壮大さ、荘厳さを前面化して強調するのではなく、むしろそれを淡く屈折させる方向に持っていったというのがこの作品の特徴なのかもしれない。
 ほか、最後の方にあった「室内――陽光習作、ストランゲーゼ30番地」や、まさしく出口の手前に掛かって終幕を飾っていた「カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレスゲーゼ25番地」などもなかなか良いように思われ、もっと時間を掛けて眺めれば何かしらの印象や感覚が得られそうな気はしたものの、如何せんそのための時間はなかった。閉館の五時半に至るぎりぎりまで見回ってから、出口をくぐった。ショップがあったが五時半でもう閉まるという話だったし――警備員風の格好をした職員が折に触れて展示室のなかに入ってきて、その中央で周囲の観覧客に向けて閉館や閉店の旨を口頭で知らせ、注意を促していたのだった――グッズの類にはあまり興味はないので、Tなどが品物を眺めているなかをほとんど一瞥もせずにさっさと通り抜けて通路に出た。そこの廊下には展覧会のチラシがたくさん並べて置かれてあった。じきにTDが来たので合流し、エスカレーター脇のスペースに二人で仁王立ちして、ほかの人々が来るのを待った。まるで待ち構えるかのように二人で並んで立ち尽くしていたのが、Tにはちょっと面白かったようだ。
 そうしてエスカレーターを下り、下階に戻って展示室を退出すると、こちらはトイレに行かせてもらい、放尿して手を洗って出てくると、ロッカーの前のベンチに座っていた皆のところに合流した。TとMUさんもトイレに行っていたのだったか? じきにMUさんは戻ってきて、警備員がもう正門が閉まりますよと客に声を掛けているなか、Tも出てきたので、こちらはもう閉まるよと言って先導し、館を出た。時刻は六時前、空気は暮れて黄昏の青さに浸り、空も鮮やかな青に染まったなかに細い三日月がくっきり浮かんで、その傍らには相当に明るい星が一つ、輝かしく刻まれていた。あれは何かと訊けば、金星だろうとTDが言う。以前見たのと同じだと返ったのは、先月TDが我が家に泊まった翌日の帰路、夕刻に青梅駅まで歩くあいだに見たのだった。宵の明星だなとこちらは受ける。
 どこか飯屋か喫茶店の類に行こうとなって、ひとまず駅の方に向かってぶらぶらと歩きながら、この時間の上野公園は初めてだなと思った。三日月と金星をたびたび見上げながら人気の乏しくなった園内をおもむろに行く。そのあいだTDに、東京文化会館でコンサートを聞いたことはあるのかと問いを向けた。あるいはそれは往路のことだったかもしれないが、それに答えて彼が言うに、五回くらいあるらしい。東京では結構古い言わば老舗のホールで、音響は明快でわりと良いみたいな評価を口にしていたと思う。駅前に出たところで、携帯で店を調べていたTの促しでatre上野に入ろうということになった。道がよくわからなかったのだが、駅の横の高架歩廊のような場所に出た――こちらは下の歩道を通って市街の付近に行き、その辺りの飯屋にでも適当に入れば良かろうと漠然と考えていたのだが。歩いているとKくんが寄ってきて、どうだったと展覧会の感想を訊いてくるので、思いの外に良かった、と答えた。観る前は正直なところ、ホームページなどを閲覧した際のイメージからして、ハマスホイはおそらく結構地味な種類の画家で、そこまで興味を搔き立てられないのではないかと思っていたのだったが、確かにまったく派手ではないものの、確かな質と特有の具体性を定かに立ち上げることのできる、充実した実力の画家だった。Kくんは気づきが色々あったと言うので、それを聞かせてもらいながら歩く。一つには、何だかちょっとホラー的と言うか、怖いような、不安なような感覚を得たということを言っていたと思うが、何故そうだったのかという彼自身による分析の部分の内容を忘れてしまった。あるいはそれは、上に書いたある種の非人間性のようなものが寄与していたのかもしれないな、とこちらは話を聞きながら思った。こちらからはテクスチャーが独特で、蒸気が籠ったような質感になっていたのが珍しく、あまり見たことのない特徴だったと返したが、喜々として語るのも何だか野暮な気がしてあまり詳しくは話さなかった。
 そのうちに高架歩廊上からatre上野の小さな入口に至り、なかに入ってフロアマップを見た。喫茶店の類が良いという話だったので、その種類の店をいくつかピックアップしたなかで、「(……)」というのがすぐ近くにあることが判明したので、そこにしようと決めてフロアに入った。店の前から覗いてみると六人分のテーブル席も空いていたので、ここで良いだろうと合意決定し、入店して卓に就いた。こちらは一辺の一番左に腰を下ろし、そこを起点に右に向かってTTにT、向かいはこちらの正面がTDでそこから右にKくん、MUさんという位置取りになった。皆はパフェとかアイスクリームとかの甘味を頼んでいたが、こちらは一人だけ夕食として、「オリーブ豚とレタスのあんかけ焼きそば」を注文した。
 そうしてそれぞれ品物を食ったのだが、そのあいだの会話は忘れた。食後、短歌の時間が始まった。先にも記したように、もともと今日の会の企画としては、街を散策しながら皆で詩歌を作るという催しが予定されていたのだが、その時間がここでやって来たわけである。こちらはいつものように目を閉じじっと静止して、頭のなかに言葉を招き寄せる風に沈思したが、やはり一人で自室にいる時とはちょっと違って、そうスムーズに言語が寄ってこないようだった。それでもいくつか作ったので、行きの電車のなかで考えたものも合わせて以下に掲げる。

 深緑の初夏鶯の狂い鳴き流星群の散乱に似て
 ジーパンのひらいた穴に覗く膝の白を称えよ平和のために
 星影を吸って華やぐ君の瞳[め]のブラックホールなら呑まれたい
 ジミヘンを崇める子供二十七歳で死ねずに父親を呪う
 目を閉じて思念の渦に飛びこめば脳は奏でる言の葉の唄
 静寂に白く凍った絵を見れば上野の森に暮れる三日月

 二番目と三番目、ジーパンとブラックホールの歌がわりと気に入りである。ジーパンの一首は、最後の「平和」の語がありきたりではあるが。ブラックホールの歌は思いの外にロマンティックにまとまって、そのために甘ったるさの臭みが漂わないでもないが、まあご愛嬌というところだろう。最後の三日月の一首は、後日思い返して、「上野の森に暮れる三日月」よりは、「上野の森は暮れて三日月」の方が良かったかもしれないなと思った。
 こちらが焼きそばを食べ終わったあと、器の縁の方に付着した黄色い辛子の、半端に使われて余っていたのを指してTDが、これで一首、と求めてきたのでしばらく考えて、崩れた辛子の形の湾曲ぶりが潰れたガムのように見えたので、「靴底に踏み潰されたガムのように余った芥子の悲哀を思う」という一首を適当に拵えたが、これは遊びのようなものなので正式な作品としては採用しない。TDも同じくこちらが食べ終えた焼きそばの空の器を題材にして、思いの外に写実的な一首を作っていたが、そのなかに含まれた「油の浅瀬」という表現が皆から称賛を受けていた。ほか、TTは「ヒュゲ」という語を盛りこんだ歌を一つ拵えた。「ヒュゲ」というのは「くつろぎ」や「心地よさ」という意味を表すデンマークの言葉で、美術館の絵の解説に書かれていたらしいのだが、こちらは解説をまったく読んでいなかったので気づかなかった。TTのそれは、我々仲間で集まるこのような時間はまさしくヒュゲである、というような内容だったと思う。Kくんも絵画鑑賞と絡めた一首を作り、Tもメンバー皆の後ろから歩いている時に感じたことを歌にしたためた。MUさんは最初のうちは卓上にあったコーヒーカップなどの絵を描いていたが、最終的に、より良い音楽を作って奏で続けていってほしいみたいな意味の作品を作っていた。
 短歌を考えている途中で一度トイレに立った。案内に従って廊下を歩き、扉をくぐって、中間的なスペースと言うか、大きな吹き抜けの設けられて眼下に下階の人の流れが覗く区画を過ぎていく。吹き抜けの周りの柵には、多分ホームレスの類ではないかと思われる高年の、あまり身なりの小綺麗でない男性が何人か寄りかかって、何をするでもなく佇んでいた。その近くを通ると臭いが伝わってきた。あれは何の臭いなのだろうか、小便の臭いなのか、それとも風呂に入っていないことから来る体臭なのだろうか? トイレは吹き抜けスペースを渡って別の棟に入ってすぐのところにあった。ホームレスらしき人々のうちの一人もトイレにやってきて、そうすると先の臭いが室内に満ちたのだが、こちらは排便をしたかったのでそのなかでただ一つの個室が空くのを待ち、入って糞を垂れると尻を拭いて、石鹸を用いて手をよく洗ったあとにハンカチで水気を拭いながら店舗に戻った。
 そうして短歌を拵えたあとは、できた作品のなかから自分の好きなものをそれぞれ、MUさんの職場で売っている短冊に書き記す段になった。短冊を包む透明なビニールの袋に「白鳥の子紙」と書かれたラベルが貼ってあったので、「白鳥の子」とは一体何かと思ったのだが、これは「白」と「鳥の子紙」で区切るのが正しくて、和紙の一種なのだと言う。筆ペンを用いてそれに皆で文字を記していくのだが、トップバッターとなったのはTだった。彼女は習字を習っていたのだろうか、やたらと字が上手くてバランスも良く、皆の手本として最初に書くよう求められたのだった。次のTTはそれでかえってプレッシャーが掛かったようで、緊張すると言い、別の紙に練習してから慎重に取り組んでいたが、それでもミスを避けられず、修正テープを用いていた。それからTD、Kくんと記してこちらの番が来た。こういうのはね、さっと、自然に書くものなんですよ、と偉ぶって知ったような口を利き、自然に書けばその人が出るから、下手くそでも良いんですよと予防線を張っておいて筆ペンを操る。こちらの筆跡は薄く細いいかにも貧弱なもので、昔から色々な人にその点を指摘されてきたのだが――塾の生徒に揶揄されたこともままある――このたびも本当に筆ペンだよねと訊かれるほどに細い字となった。Tのものと比べるとかなり貧相だったが、冴えない文字を完成させ、左下に小さく署名もつけて、そのあと最後にMUさんも自分の短冊を埋めて、晴れて皆完成となった。
 短冊はK家に飾ってもらうことに合意された。それから雑談の時間である。TTが最初は八時で帰ると言っていたのだが、結局翌日は有給を取ることに決めたようで、最後の一〇時半まで残ることになった。今日の会の趣旨としてはもう一つ、誕生日祝いを機にこちらとKくんのことを皆でより知ろうということをTが考案しており、それでTTが質問をするように促された。すると彼はまずこちらに、今後数年の予定を聞かせてくれと求めてきたので、まったくわからないなと端的に答えた。先が全然見えない、一寸先は闇だと言うと、それはまあ誰もそうなんだよな、とTTは漏らす。ただ、読み書きを続けるということだけは定まっているので、その点では単純でわかりやすい人生なのだ。あとはどのようにして自分で生計を立てるか、ということが問題になるわけで、だから、今は楽な環境に甘えさせてもらっているけれど、いずれは貧乏で困窮した一人暮らしをしなければならないだろうと述べた――これも随分前からそう言い続けながら、一向にその段階に移らず、親元に寄生しながらだらだら生きている暢気で不遜な身である。もっとも、現在の収入ではどんなに貧しい生活をするとしても一人暮らしは端的に無理なので、独立するならばもう少し仕事を増やして金を稼がねばならない。そうすると当然、読み書きの時間があまりなくなって、やりたいことを充分にやれなくなるという問題が出てくる――まあ現在だって、怠惰を一つの大きな要因として、あまり充分にはできていないわけだが。と言うか、どれだけ時間があったとしても充分になどできはしないのかもしれないが、ともあれ一応の形で一人暮らしが可能になったとしても、貯金など到底できるはずもない生活にならざるを得ないので、端的に危うく、いつまでそれが続けられるかわからないという問題もある――そのようにも話した。Tからは、家を出ようかっていうのは何でなの、自分で出たいの、という質問が送られた。昔はともかくとしても、今現在は家族の存在に苛立つことも比較的なくなり、そんなに出たいという気持ちもないけれど、まあ両親もいずれ死ぬわけだし、なるべく出ておいた方が良いかなとは思っていると答えた。ただ、有難いことに今すぐに、あるいはできるだけ早く出るように要求されたり、状況として追いこまれたりはしていない。人間、どうにもならなくなったら動くよ、とTは言う。こちらもまあ、生きていれば一応どうにかなるかな、というくらいの緩く甘く軽い感覚で日々を暢気に暮らしてはいて、不安を感じるということは以前に比べればなくなった、と応じる。そういうわけで当面は現状維持、随分と長引いているモラトリアムを続けさせてもらうということになるだろう。あとはとにかく、毎日読み書きをするというこおと、それを絶対にやめてはならないとその原点的な決意を改めて述べた。
 毎日読み書きを続ける時間を充分に確保しながら生きるための方策としておそらく理想的なのは、やはりパトロンを見つけるということになるのだろうが、現実、そんな存在は易々と現れるはずもないし、そのような人がいたとして、結局は寄生先が両親からその人に替わるだけなので、その人がもし死んでしまったら生活が立ち行かなくなるという点には変化がない。できればやはり、極限的に貧しくとも自らで生計を立てたいとは思うものだが、能力や欲望ややる気の観点から見て、こちらにはそれすらなかなか困難なようにも思える。この春から大学助手として働きはじめるTDが大阪でルームシェアをしないかという提案をしてくれてはおり、この席でもそれがちょっと話題になった。もし実現すれば、TDが働き、こちらは多少のアルバイトをしながら家事をこなすという生活におそらくなるだろう。要は専業主夫のような形で、TDが相手でなくともそれを許してくれるパートナーの類を、男女を問わず見つけたいような気はするものの、同時に他方ではやはり、独力で生活を保ち、ただ一人で孤独の営みのなかに沈潜したいというような気持ちもないではない。
 こちらの話は措いておき、次にTTからKくんに向けられた質問の話題に移るが、それは、今後の人生の課題は何かという問いだった。それに対してKくんが答えたのは、仕事という回答である。現在の職に留まっていれば、何もしなくともわりと収入は入ってくるのだが、仕事に対するモチベーションは最近はかなり低く、転職を考えてもいる。しかし転職した結果として、もっと稼げるけれどひどく忙しい環境に行っていわゆる「仕事人間」になることにはKくんは抵抗があるようだった。ただ、転職活動は自分の市場価値がわかるので、実際に転職をしないとしても活動自体はやるべきだとは考えていると言う。子供を作るかどうかは未定だが、もし拵えるとなると、現在の収入ではおそらく足りないだろう。そういう可能性も考えてやはり職場を移るべきかとも思うが、ワーク・ライフ・バランスの兼ね合いもあって、仕事以外にも音楽など人生でやりたいことは色々とあり、今の環境に留まりながらそちらに労力を割くか、仕事の面でもより高い方向を目指していくか、働くという営みへの向き合い方を探り、定めていくのが課題だということだった。配偶者であるTの方は、子供については当面は考えていないと言う。金銭面の問題などは子供が実際にできてから考えれば良く、今のうちは心配せずに自分のやりたいことを考えて追求してほしいというスタンスのようだった。
 その後、もう帰路に就くか否かという微妙な空気が漂いつつも、会話が緩やかに続き、そのなかでTから、テンションが上がる時はいつかという質問がこちらに渡された。テンション、上がらねえなあとひとまず呟き答えて、そのような時間があるか考える。中村佳穂聞いてる時だろと向かいのTDは言い、それも間違ってはいないのだが、しかしもう滅茶苦茶にテンションが上がって気分が高揚するということはほとんどなくなったと思う。Tは年齢でものを考えるのを嫌うようだが、そのような点で、どうしたって歳は取ったということに、一つにはなるのだろうとこちらは思う。何しろ、この憂世に産み落とされて曲がりなりにも三〇年が経ったのだから。質問には、まあやっぱり本を読んでいる時かなと一応答えたが、しかしそう言うこちらの念頭にあったのは、多分皆が想像していたのとは違って、文学作品を読んで凄く面白いということではなかった。そういう瞬間も無論あるのだが、こちらがこの時想定していたのは、ホロコースト関連の本を読んでいるあいだの気持ちだった。このようなとんでもないことがこの世界で起こってしまったという事実、そしてその意味についてもっと学ばねばならない、という強い決意の感情のことである。ワルシャワ・ゲットー住民の九割がトレブリンカに送られて殺害されたということを知った時の驚愕と困惑、ゾンダーコマンドたちが残した文書が発見されこの世に伝わったという奇跡を、あるいはトレブリンカで、そしてアウシュヴィッツで、敗北と破滅と死を決定的に定められた絶望的と言うほかはない反乱を、それでも起こした人間たちが確かに存在したというその事実を、自分は、絶対に記憶しておかねばならないという強烈な使命感のような感覚だ。誰かが引き受けなければならないのだ。そして、現実に引き受けている人間は確かにいる。この世界に存在している。それでもなお[﹅6]、自分は、この自分が[﹅5]、できる限り、引き受けていかねばならない。そのための努力をして、引き受けることを、引き継ぐことを、試み続けなければならないのだ。
 その後、TDがKくんにジャズドラムの話を振って、それに応じてKくんは、今までジャズドラマーの呼吸や考えている意図などが全然わかっていなかったと気づいたのだと話す。ドラムも歌っているということが、実感的に理解できたのだと言う。youtubeでプロのドラマーが演奏しながら、どういう意図でこのフレーズを叩いているかなど、考えを詳細に解説する動画があるらしく、一つにはそれを見たことで開眼させられたらしい。そのような深い音楽的コミュニケーションというのは、まさしくこちらの大の気に入りの、一九六一年のBill Evans Trioなどが非常に特異かつ高度な形でやっていることだと思われるのだが、ここでもあまり喜々としてそれについて語るのも野暮かと思われて聞く一方に徹していると、あまり伝わらないかもしれないけど、とKくんは弱気な言を吐いたので、いやわかるよ、Bill Evans Trioなんてまさにそういうことだもんと一応受けておいた。そういう話をしているあいだにこちらの右方ではTが、何かに悩むような、急に気分が沈んだような顔をして、何か考えるような素振りを見せていたので、そちらに視線を送り、何で落胆してるの、と笑いかけると、いや、何か、今、泣きそう、という返答があった。ええ、何で、とKくんは目を見ひらいて意外を表し、それに対してTが、うーん、何か、その、何て言えば……と考え考え、詰まりながら語りはじめようとしたのだが、そこでちょうど店員の介入があったはずで、会計だけ先にしてもらいたいと言う。一括で払ってほしいと求めてくるので、じゃあ俺がひとまずまとめて払うとこちらが率先して席を立ったのだが、すると店員は、レジの方に来ていただければ個別でも、と言うので、結局皆でそれぞれ払うことになった。こちらが最初に支払いながら、ここって一〇時までですかと尋ねると、一〇時半までだということだった。その時点の時刻は九時半を過ぎた頃だったと思う。
 その後、各々払ってふたたび席に戻り、Tの話を聞いた。こちらにテンションが上がる時はいつかという質問をしたのは、自分が最近あまり感動をしないこと、感情が以前よりも動かなくなったことに気づいたからだと言う。それでこういう時は大概TTが相談を受けて助言を送る役目を積極的に担いに行くので、今回もそうなるに任せ、最初のうちは隣り合った彼がTの話を聞き、分析や考察がまとまるあいだにほかの人々は別の話をしていたのだが、じきにKくんがTたちの方に加わり、こちらもそちらの流れを注視しはじめて、TDとMUさんはKくんをあいだに挟みながらアニメか何かの話題を続けていたものの、じきにそれも尽きたようで最終的に皆でTの話を聞く流れになった。
 T自身の考えでは、結婚をしたことによる気持ちへの影響が大きかったのではないかということだった。何か、結婚したから落着かなきゃいけない、みたいな観念があったのかもしれないと言う。TTの見立てでは、結婚に付き纏う諸々の雑事と言うか、色々とこなさなければならないことが次々と必然的に迫りくるので、それの連続で気づかないうちに無理をしていたのではないか、思ったよりも疲れていたのではないかという推測が述べられた。それはおそらく一つにはあるだろう。(……)
 (……)
 (……)その辺りに話はまとまり、一〇時半直前になって店員が、申し訳ありませんが閉店のお時間ですと声を掛けてきたので、荷物をまとめて席を立った。レジ台の横に立った女性店員の前を過ぎる際、長いあいだすみませんと声を掛けておき、有難うございましたと礼を送ってから退店した。TTは閉店前にトイレに行っており、それなので彼の荷物はTが持っていた。吹き抜けのスペースに皆で出るとTTがちょうど戻ってきたので合流し、ここでKくんとこちらにプレゼントのヘッドフォンが贈呈された。こういうのはきちんとやろうとTが言って、二人で並び、有難うございますと言って差し出された袋を受け取り、写真を撮影されるに任せた。そうして帰路に就くことに。エスカレーターを下り、atreから出るとちょうど上野駅の改札前だった。くぐると、山手線で新宿まで行くルートを取ることになった。TTはその途中、池袋で離脱である。
 ホームに上がって電車に乗ったあと、池袋までのことはよく覚えていない。TTが離脱したあとは、扉際にこちら・T・MUさん、そこからちょっと離れてTD・Kくんの二グループに分かれていたのだが、途中で若くて姦しい女性の一団が乗ってきたためにグループ間が分離された。TDたちは多分ひたすらアニメの話をしていたのだと思う。こちらのグループでは、頭上のモニターで天気予報が流れて翌日も晴れると伝えられたのをきっかけにしてだったと思うが、MUさんが、日向ぼっこする、と訊いてきた。晴れていたらしたいと思うけどね、と答えたこちらは、それにしても、こちらがベランダでの日向ぼっこを晴れの日の習慣にしていることを知っているとは、日記を結構読んでいるようだぞと思い当たった。それで、って言うか、日記読んでくれてるのと訊くと、自分からURLを聞いたからわりあい読んでいると言う。引用部分などはさすがに飛ばしているらしいが、それでも有難いので、笑って、有難うございますと畏まるとTも笑っていた。
 新宿で降りて乗換えである。階段を下り、名も知らぬ無数で無縁の人々でごった返した地下通路を辿っていき、ホームに上がると特別快速の高尾行きに乗車した。この車内では五人とも一所にまとまっていたはずだ。MUさんは中野で降り、電車が発車するまで見送ってくれるので皆で手を振ったのだが、この時こちらが左右に交互に円を描くような奇妙な手の振り方をして戯れてみたところ、彼女は笑ってくれていた。三鷹までのあいだには他愛もないことを話した覚えがあるのだが、よほど他愛もないことだったようでその内容を思い出せない。ただ、Tが携帯を使って何かについて調べていたような記憶がうっすらとある。三鷹に到着してTとKくんが降りる直前に、例によってKくんに向けて手を差し出し、おめでとう、有難うと互いに言い合いながら別れた。降りた二人はMUさんと同様に見送ってくれるので、扉を背にして立ち、TDとともに手を振って応じた。
 そうして立川までTDと帰路を共にする。二月は予定がたくさんあるなと向けると、追いつかないなと返るので、何かと問えば日記のことだと言う。それは確かにそうだ。ほか、沈黙したTDの表情が何となく屈託しているように見えたので、悩みがあるのかと訊いてみると、ちょっと考えてから彼は、悩みは特にはないと一度は言ったが、それから、強いて言えば来年度から働かなければならないことだと続けた。これは以前からたびたびTDが漏らしていることだ。それは悩みだなとこちらが笑って受けると、あとは家を決めなければならないのが糞面倒臭いと言う。これも非常にわかる気がする。こちらは一人暮らしをしたことがないが、社会的かつ事務的な諸々の手続きというものが嫌いで苦手なこと極まりないので――国民年金口座振替願いも届け出ていないくらいだ――実際にそれらをこなすことになったら相当に面倒臭く感じるだろうと推測する。TDはこの前日、結構無意義に時間を使ってしまったと話した。だらだらと過ごしたあとに、残った時間でせめて少しでも有意義な休日の使い方をしようと考え、一日も後半になってから辛うじて音楽を弄りはじめたのだが、ストレスが溜まっていたのか、端から見ればまるで知的障害者の人のようにも見える奇妙な動きをしたり、意味のない声を上げたりしていたと言う。精神と肉体がそのようにして自ずとストレスを発散しようとしたらしい。
 立川で降車すると、階段のすぐ近くだった。降りると、途端に階段に向かって先陣を切り、駆け足で殺到する者らがあるのだが、何故あれほどまでに急ぐのか? 階段を上がると、TDとの別れである。有難うと互いに言い合い、TDが後ろを向いて歩き出しかけてからさらに、本日は、まことに有難うと、ヘッドフォンや美術館など諸々の礼を籠めて声を飛ばすと、彼は半ば振り返って手を挙げながら去っていった。そうしてこちらも背後に向き、一番線ホームへと降りていった。向かうのはいつもとは逆の端っこ、一〇号車である。一号車まで歩くのが面倒ですぐ近間のそちらに行ったのだが、これは奥多摩行きの最終電車で、青梅で一号車から六号車までは切り離されるので、むしろ都合が良かった。乗って扉際に立つとメモを取り出し、しばらく揺られて中神辺りで七人掛けの端が空いたので腰を下ろした。車内には一人、ベビーカーに乗った赤子を連れた若い女性がいた。何か動画を見せたり写真を撮ったりして戯れていたようだが、じきに赤子が愚図りだすと、女性は現代版抱っこ紐と言うか、赤ん坊を抱くためのサポート道具を身につけて子を胸の前に包み、空いたスペースでスクワットのように身体をゆっくり上下させ、穏やかに揺らしてあやしていた。すると赤ん坊の方も機嫌を直して快活に笑いはじめたので、大したものである。
 帰りの車内ではさすがに疲労感が高かったので途中でメモを止め、目を瞑って青梅まで休んだ。それからも引き続き瞑目の内に静止して肉体と精神を休め、最寄り駅に着くと降りて階段通路を行った。駅舎の出口に向かいながらホームの方を見ると、例の、いつも大きな声で独り言を言っている――あるいは見えない存在と会話をしている――老婆の姿があった。駅を出て通りを渡ると、何だか喉が渇いていたので自販機に寄ってコカコーラ・ゼロを購入したが、リュックサックにペットボトルを入れて歩いていると、背後の遠くから老婆の声が響いてきた。この距離を渡ってくるのだから、かなり大きいもので、ほとんど叫びだったのではないか。朝鮮半島人が多いからよお、とか言っているのが聞こえ、死ね、とも叫んでいたかもしれない。それらしい雰囲気の発語が、曖昧ながら耳まで届いてきたのだった。
 帰宅すると零時半前だったと思うが、母親はまだ起きていた。今、もう生まれそうなんだって、と言う。兄夫婦の第二子のことである。そうなのと受けて下階に行き、コンピューターを点けてLINEをひらくと、皆に礼のメッセージを送っておいた。T個人にも気遣いの言葉を送って、以前彼女にカウンセラーみたいと言われたのを踏まえて、カウンセラー役ならいつでもやるので、話の聞き手が必要な時は言ってくれと伝えておいた。(……)
 (……)
 (……)
 それから入浴に行ったが、風呂のなかでのことは覚えていない。出てくると、今、生まれたところだと母親が言う。「TK」という名前をつけたらしい。写真や動画がいくつか送られてきており、今は平気でこういうところも撮るんだね、と母親は漏らした。それらを見てから下階に行き、我が窖に戻ったあとは何をやったのか覚えていないが、日課以外のことにだらだらと過ごしたようで、二時一三分に至ってからようやくこの日の日記を書きはじめている。四〇分間綴って、三時が近づいたところで、さすがに疲労が相当に嵩んでいたからだろう。寝る前にBill Evans Trio, "Alice In Wonderland (take 1)"を一応聞いているのだが、それも定かな聴取にならなかったはずで、印象を記したメモも何も残っていない。音楽を一曲分だけ聞き終えると、ベッドに移って意識を闇に委ねた。


・作文
 9:40 - 10:03 = 23分(29日)
 10:05 - 10:22 = 17分(27日)
 26:13 - 26:52 = 39分(29日)
 計: 1時間19分

・読書
 11:00 - 11:25 = 25分(藤原)

・睡眠
 2:20 - 8:00 = 5時間40分

・音楽
 26:53 - 27:00 = 7分