2020/1/30, Thu.

 撤去行動は、最初、もっぱらユダヤ人警官によって実行された。二〇〇〇人の警官がこのために動員された。SSは背後に退いて、ユダヤ人自身に毎日の「移住」候補者のリストを作成させ、それを実行させた。[ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人評議会議長]チェルニアコフは、撤去命令を受けるとすぐさまゲットーの諸団体の代表者を召集して、もし、ドイツ人が直接実行すれば事態はさらに悪くなろうと説いて、撤去行動への協力を要請した。多くのユダヤ人警官も同じ理由を挙げて自己の行動を正当化している。しかし、ワルシャワ・ゲットーの住人リンゲルブルムは書いている。
 「ユダヤ人警察は再移住(撤去のこと)の前でさえ悪名高かった。ポーランド人警察は強制労働の徴募には加わらなかったが、ユダヤ人警察はその汚い仕事に携わった。彼らは恐るべき腐敗と非道徳性でも群を抜いていた。しかし、彼らが邪悪の極に達したのは再移住の過程においてである。彼らは、同胞の人々を屠殺場へ引いてゆくというこの忌まわしい仕事を与えられても、一言の抗議さえしなかった。警察はけがらわしい仕事への心理的準備ができていて、それを完璧なまでに実行した。……どうして、ユダヤ人が、女子供を、老人や病人を、みな屠殺場へ送られると知りつつ貨車へ引きずっていけたのか。ある人々は、どの社会も自らにふさわしい警察を持つという。……別の人たちにいわせると、警察は道徳的に弱いという心理的タイプの人間の避難所であるという。そういう人間は困難な時代を生き延びるためには何でもやり、目的が一切の手段を決定すると信じている。そして、目的とは、戦争を生き延びること、たとえ、他人の命を奪うことを余儀なくされようとも、生き延びることである」。
 ユダヤ人警官が一日の「仕事」を終えて家に帰ってくると、家の前に多くの人が群がっているのが見られた。親類を連行された人たちが贈り物をしようと待っているのだ。「たとえ彼らの胸は、ほんの少し前に彼らの親類を自動車に引きずってゆくのを手助けしたかもしれない『青い制服の男』に対する憎しみではり裂けそうになっていたにせよ、人々はへり下った声である種の和解を懇願し、制服の男の機嫌を損なわないようにと努めるのだった。後払いで手付けを受け取ってもらえたものは好運だった。彼はすくなくとも若干の希望を抱くことができるのだ。しかし、大多数は手ぶらで帰った。警官には彼らのいうことをきく時間などないのだ。この種の収賄屋のひとりが我々の建物に住んでいる。そして、撤去された人たちの親類が彼のアパートの前に集まって泣き叫ぶ声が夜通し聞こえた」。
 撤去を免れるための身代金は、最初一人につき一〇〇〇ズオチから二〇〇〇ズオチであったが、やがて一万ズオチにも跳ね上がった。身代金は現金のほか、ダイアモンド、金などさまざまな形で支払われた。「警官が現金の他に女性の肉体による支払いまで要求した例がいくつもある。私の友人カルマン・シルベルベルクは、そういう警官のバッジ番号と、体で自由を購った女性たちの名前を知っている。警察は病院のなかにそのための特別の部屋を持っていた」。
 他方で、ユダヤ人警官も追い詰められていた。あるユダヤ人警官は任務遂行中に、おそらくユダヤ人によって、殺害された。他のユダヤ人警官は集合広場に集められた七〇人のユダヤ人を救おうとして、SSに射殺された。こうして、二~三〇人のユダヤ人警官が殺害された。任務遂行から離れようとするユダヤ人警官が続出した。ドイツ側はこれにたいして、ユダヤ人警官ひとりにつき一日五人の割り当てを課して、これが実行できない場合は、彼と彼の家族が「撤去」されることとした。ユダヤ人警官は、どうしてもノルマを果たせないとなると、知り合いであろうと、友人であろうと手当たり次第連行することとなった。このような仕事に耐え切れず、自殺したユダヤ人警官は八人にのぼった。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、203~205)


 最初に目を覚ましたのはまだ八時台のあたりだったのではないかと思う。そこから入眠と再度の意識浮上を繰り返して、アラームは一一時に仕掛けていたにもかかわらず、最終的に一二時一五分までベッドに留まってしまった。それらの途切れ途切れの睡眠の全体を通じて、Tが出てくる夢をずっと見続けていたように思うのだが、その内容は既に失われてしまった。高校時代を舞台とした夢だったような記憶が微かにないでもなく、わりと幸福な方向性の内容だったような気もする。ベッドから抜け出した身体は端々が錆びついたようにこごっており、前日に長時間の外出をした疲労が残っているようだった。あるいはその身体の固さは、風邪の症状でもあったのかもしれない。数日前から喉の調子にいくらかの乱れが出ており、しかし段々と治ってきていると思っていたところが、この正午に寝床を抜けてみると喉の奥に痰が引っかかるようになっており、鼻水も詰まるので、治るどころかむしろ微妙に悪化したように見受けられたのだ。上階に行って母親に挨拶する声も低く、いくらか潰れたようになっており、その点を母親に指摘されもした。食事はカレーだと言う。それで寝間着からジャージに着替えると、冷蔵庫から大鍋を出し焜炉に乗せて火を点け、大皿に米をよそる一方で、ブロッコリーを辛子などで和えたものが入った小鉢を卓に運び、母親が三本残しておいてくれたコンビニの手羽中も電子レンジで温めた。カレーをよそって持ってくると母親が、それちゃんと温まってるの、何だかぬるそう、と言うので、皿を目の高さに持ち上げてカレールーから湯気が出ているか確認してみたところ、確かにきちんと加熱されていないようだったので、台所に引き返して電子レンジに皿を入れ、一分間温めた。それで卓に就いて食事である。朝刊の一面には、政府の派遣したチャーター機武漢から帰国した二〇〇人ほどの邦人のうち、一二人が病院に入ったとか何とか伝えられていたと思う。ほかの人々は政府の手配したホテルに滞在することになったが、二人だか三人だかは検査を拒否して自宅に帰ったという情報も記されていたのではなかったか。
 今日は晴れ晴れと青さが広がって太陽光も豊富に降っている爽天である。それなので、昨日MUさんに訊かれて答えた通り、久しぶりにベランダに出て読書をしながら日向ぼっこをすることにしたが、その前にまず食器と風呂を洗わねばならなかった。皿洗いは早々と片づけ、風呂場に行くとやはり経年劣化した機材のようにこごった感触のある身体を動かして浴槽を掃除し、出ると洗面所の鏡の前で髪を整えた。それから、時刻はまだ一時前だったから、日向ぼっこの前に一服することにして自室から急須と湯呑みを持ってきて、緑茶を用意した。両手を塞いで部屋に戻ると、スリープを解除したコンピューターに寄って各所を回りながら茶を啜り、そのあいだにEvernoteがいつの間にか落ちており、何故か再度立ち上げることができなかったので、コンピューターに再起動を施すことにした。そのあいだはロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』をめくりながら待った。前日は短歌を作るということで藤原龍一郎『歌集 楽園』を往路で読んだのだったが、それは正式な読書とはせずに一日だけで打ち切って、やはりロラン・バルトの受容に邁進することにしたのだった。コンピューターが復活すると今度はEvernoteも立ち上げることができ、前日の日課記録をつけたり支出を記録・計算したりしたあとに、茶を飲み終わったので日光浴に行くことにした。
 ロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』を持って上階に上がり、ベランダに出て、吊るされた洗濯物のあいだ、陽の照った床の上に腰を下ろした。雲は南の山の稜線に近い空の低みに微かな端切れが暢気なように浮いているばかりで、空は無窮の青さを広げ深めており、この時季には厚めの陽射しが右方から送られてきて身を包み、ダウンジャケットを羽織って前の袷も閉ざしていれば相当に暖かくて汗も滲む。白光を跳ね返す頁の上に細めた眼差しを落としていると、近間の樹の茂みのどこかから鳥が一匹、囀り出した。あれは雀なのかほかの鳥なのか、声を聞く限り一匹なのだが、まるで睦まじい二匹で愛を交わし合っているかのような調子の熱情的な鳴きが弾けるのに、思わず目を閉じて文字を追うのを一時止め、耳を寄せれば、あるいは二、三分にも渡っただろうか、随分と長いあいだ間断なく声は続くのだった。それがようやく止まったあとからは、遮るものの何一つない空間の遠くに、川の響きなのか風の籠りなのか、空気の振動が感じられ、じきに身の回りにも流れが生まれて洗濯物が揺れる。その揺動が、例えば柵に取りつけられたシーツは丸く膨らみあるいは風に押されて反対に柵にぶつかりぴしゃりとした音を立て、一本のハンガーで吊るされた肌着は左右に微かに身じろぎし、集合ハンガーのタオルたちは緩慢な動きで回転する、といった調子に各々異なったリズムを持っており、それらの実に微小でささやかな呼吸による交錯と交歓の一期一会が感覚器官を愛撫して、その合間に置かれたこの身もまた事物たちの作り出す秩序の網目の一部品を担って物化したように感じられ、とても心地良く穏やかな時空が現出するのだった。
 そのうちに陽が陰ったので西空を見上げれば、森の上空を渡ってきたようでいつの間にか巨大な雲が現れており、太陽を隠したそれは背後から強力な光に迫られて内側を濃い灰色に沈めているが、その巨大さをもってしても灼熱の恒星の勢力を遮るには十分でなく、縁の方は明るい白さに固められて輪郭を強調しており、まるで全方向から白波の水飛沫に取り囲まれたように見えるのだった。日向と日陰の転変を何度か通過したあと、ポケットに入れていた携帯を見ると二時を過ぎており、トイレにも行きたくなっていたので腰を上げ、背伸びをしてから戸口をくぐった。すると母親がやって来て、洗濯物入れてよと言ったが、今、トイレに行きたいからと言ってその仕事は彼女に任せることにして、本をソファの背の上に置いておき、便所に行った。ずっと胡座を搔いて座っていたために圧迫が続いて、尻はちょっと痺れたようになっていた。その尻を便器の上に乗せて糞尿を垂れ、出てくると本を持って自室に帰った。そうして今日の日記を書きはじめたのが二時二三分である。普段だったら音楽は掛けないか、それともスピーカーから流し出すところだが、今日は前日にプレゼントしてもらったヘッドフォンの音を味わいたいということでこの昼間から耳を塞ぎ、中村佳穂『AINOU』とともに打鍵を始めた。今日の起床以来のことを書いていき、『AINOU』が終わると音楽はFISHMANS『Oh! Mountain』に繋げて指を動かし続けた。上記したベランダでの一幕の描写には、久しぶりに結構な力を尽くしたような感が生まれたが、終着点が結局物々との調和、すなわち主客合一あるいは主体的自己の消失という馴染みのテーマに落着いているところがやや類型的で、収まりが良すぎるような気がしないでもない。ここまで綴ると三時三五分を迎えている。
 その後、前日分、二九日の日記に取り組んだ。メモと言うべきか下書きと言うべきか、ともかく簡易的で、清書――つまり正式な作文の段階――ではない。記憶を引き出して紙――現実にはモニター――の上に落としておくという感じで、それなので文体や文の質にはまったくこだわらない。文を形成する段階ではないのだ。ひとまずは記憶をなるべく漏れずに言語として具体化し、確かな情報の塊として設置しておかなければならない。一時間が掛かった。それでも上野に向かう前、秋葉原駅へと歩く途中の場面まで、つまりは午後三時過ぎ頃までのことしか記録できなかった。
 打鍵のあいだはFISHMANSを聞いていたわけだが、明らかに以前のヘッドフォンでは聞こえなかった音が前面に姿を現し、耳に近寄ってきていた。具体的には『Oh! Mountain』における左側のキーボードの音など、前はもっと小さく目立たなかった気がするのだが、このヘッドフォンではよく耳に届いて存在感を確立している。また、残響の拡散や奥行きの感覚も広く、全体に解像度が高くて周縁部に散らばっている音も明晰に、鮮明に立っているようだった。実に良い買い物をしてもらったと思う。
 四時半過ぎで日記作成を打ち切り、運動を始めた。音楽の出力をヘッドフォンからスピーカーに変えて、FISHMANSの演奏を部屋に満たすと、まずはいつも通り何度も屈伸を行って脚をほぐした。それから左右に開脚した上で身体を横にひねった姿勢をしばらく取ったあと、ベッドに乗って合蹠のポーズを実行した。目を閉じて腰や股関節が伸びているかどうか、その感覚を感じ分ける。その次に脚をまっすぐ前に出して前屈である。左右の脚をなるべくくっつけて一つの橋のようにしながら身体を前に押し出し、その後、腰上げ、舟のポーズとこなした。舟のポーズは一度やったあとにコンピューターに寄って、実施した運動の種類を記録し、またTwitterを覗いたりしてちょっと休んだそのあとにもう一度行った。それで身体を温めるのは終いとして上階に行った。五時三分だった。
 母親はまだ帰っていなかった。食卓灯を点けて、台所のカレーの鍋を温め、釜の米をすべて大皿に盛ったあと、取り除かれていなかった月桂樹を巧みに避けながらカレーを掛け、電子レンジに皿を突っこんだ。そうして加熱後、卓に就いて新聞をめくりながら食事を取る。米国の中東和平案が出されたと言うが、明らかにイスラエル寄りの内容で、ヨルダン川西岸地区の入植地をイスラエルの自国領と認める、みたいな事項が含まれているらしく、こちらとしては端的に言って糞だと思う。ふざけていると言わざるを得ない。
 食事を終えるとさっと皿を洗い、そうしてカーテンを閉めたあと下階に戻り、急須と湯呑みを居間に運んできた。それで緑茶の用意である。一杯目の湯を急須に注ぎ、茶葉が緑色を湯に浸潤させるのを待つあいだに仏間に入り、椅子に腰を下ろして黒い靴下を履いた。それから湯呑みに茶を一杯落としたあと、もう二杯分を急須に用意して我が孤独の聖地たる自室へと帰還した。茶を啜りながら、日記の読み返しである。二〇一九年一月二九日火曜日の記事には、Mさんの『囀りとつまずき』についての感想が書かれてあった。大した分析ではないが、「テクストに厳密に即していない単なる印象論」だと断ってわざわざ予防線を引いた以降の考察が、かえってちょっと面白かった。『囀りとつまずき』の話者は、他者の「まなざし」とそこに含まれる〈意味=権力〉を差し向けられることによって「自意識」の動揺を招き、「羞恥」を覚えることがままあったのだが、話者こそが特権的な主体としてそうした己の自意識を読み取り、それを作品の一部として記述してみせるというのは、外部から迫ってくる他者の「まなざし」によって言わば〈汚染〉された精神を、自らの「まなざし」の持つ再帰的な〈意味=権力〉によってある種〈上書き=浄化〉し、言語的に定かに形態化することによってその揺動を停止させる〈固定=治療〉としての意味合いを持つのではないだろうかと、今この日記を書きながら少々思いつきを得た。他者の視線の力に対抗/抵抗して、自己の視線の力を自分自身に及ぼし、浸透させ、主体の空洞を支える〈芯〉として貫通させること。その辺りを、晩年のミシェル・フーコーが追究した「自己への配慮」のテーマと結びつけて、その技法の一環として考えることができないだろうか。

 [三宅誰男『囀りとつまずき』について、]この日読んだなかでは、二五八頁から二五九頁の断章、介護施設に入っている話者の祖母と思しき女性の、これと言って特筆するべき事柄のないありふれた景色にくつろぐ様子の、特にそのなかの、「道路を走る車のなかにときどき観光バスがまじるのだとささやかな楽しみを指摘してみせるおもいもよらぬ口ぶり」が、微細な具体性を伴っていて良かった。ほか、この小説の大きなテーマの一つとして、「重ね合わせ」というものがあるのではないかとも思った。たびたび登場する「錯覚」(あるいはそれよりも頻度は少ないものの「幻視」)のテーマは、言わば「意味の二重化」を描いたものであるし、話者が折に触れて披露してみせる他者の心理の「読解」も、表層と重ね合わされてある裏面を見定めることである。話者が「読んで」いる事柄のなかでも主要なものの一つは、「自意識」の働きだろう(この語は全篇で計一三回登場している)。他者の「自意識」ばかりではない、話者は自分自身の「自意識」の動きにこそ敏感である。具体的には、彼は他者の「まなざし」――ちなみにこの語は、数え漏らしがなければ全篇を通じてちょうど八〇回出てきている――を受けることで「羞恥」や「緊張」を感じたりするのだが、ここから先はテクストに厳密に即していない単なる印象論ではあるものの、そこで話者が覚えている「羞恥」や「緊張」とは、自らの心中を相手に見破られること、読む主体が読まれる客体と化すことに対するものではないだろうか。そして話者が読まれたくない心中の動きとはおそらく、「まなざし」の意味=権力を差し向けられることによって生じる「羞恥」そのものである。他者に見られ、読まれることによって浮上する「羞恥」を表に現しかねないこと、それをさらに読み取られかねないことに対する懸念が「羞恥」を再生産するという再帰的・循環的な構造がそこに成立する。しかしそんななかで、話者の心理的揺動を「読む」ことのできる特権的な主体が作中には存在していて、それは言うまでもなく、ほかでもない話者彼自身である。彼は自らの「自意識」をも記述の対象として取り上げ、視線によって己を客体化し、自己の外界に実在している他者と同じ平面上に転移させてみせるのだ。

 さらにこの過去の日の自分は松浦寿輝・星野太対談「酷薄な系譜としての”修辞学的崇高”」(http://dokushojin.com/article.html?i=1329)を読んでおり、そこから引かれた言葉のなかでは以下の一節が改めて読んでもそれなりに啓発的に感じられたので、ここに付しておく。

星野 真理という言葉は、私の本では第一章に頻繁に出てきますが、そもそもこの言葉をどのような位相で捉えるかは、なかなか難しい問題だと思っています。拙著の中では、これを「本来性」あるいは「ピュシス(自然)」に近いものとして用いています。物事のもっとも本質的な現われ、それが真理であり、ピュシスである。そういった意味での真理と技術の関係を、第一章では主題としました。つまり通俗的には、「技術(テクネー)」というものは、あらかじめ存在する真理を歪めてしまうものだと理解される。しかし私の議論では、物事の真理としてのあり方を露わにするものこそがテクネーである、というかたちでピュシスとテクネーの関係を論じています。その意味で言えば、崇高さとは、テクネーによって真理としてのピュシスが本来の姿で現われる、そのような事態のことなのではないか。

 続いて、二〇一九年一月三〇日水曜日の記事である。この日に新聞記事から得た情報によると、「イスラエルでは、体外受精不妊治療制度の整備が手厚く、出生率は三. 一一パーセント、日本の倍以上に達しているらしい。それにはユダヤ人民が被ったホロコーストの歴史だとか、イスラエル建国後も続いたアラブ諸国との戦争で大量の人間が死に、人口を増やそうという意志が国家的に形成されたことが大きいのだと。紙面の左方にはユダヤ教の「超正統派」について触れた区画があり、こうした宗派のことは初めて知ったのだが、彼らはユダヤ教の戒律研究に一生を捧げようとする人々で、その多くは就労しておらず国の補助金で生活費を賄っており、嵩む財政負担が問題となりつつあるということだった」と言う。
 日記を読み返しながら歯磨きも済ませ、その後、中村佳穂『AINOU』とともに服を着替えた。水色のワイシャツの上にネクタイも濃い目の、黄昏時の空の色のような水色のものを選び、スーツは黒を纏った。ジャケットを着ると"GUM"の途中からヘッドフォンをつけてキーボードに触れ、この日のことを現在時までメモ書きすると時刻は六時八分を迎えていた。
 それで出勤へ。往路の記憶は全然残っていない。空気はまったく寒くなかった記憶がある、とメモには記されており、ストールも持たなかったようだ。それ以上の記録はないので、記述を一気に職場に飛ばそう。この日の相手は(……)くん(中三・社会)、(……)くん(中三・国語)、(……)くん(中三・英語)の三人だった。このうち(……)くんと(……)くんは過去問を扱ったのだが、三人中二人が過去問を解くという授業構成になるとさすがに厳しく、それぞれ三〇分で実施したもののいくらも確認はできなかった。それでもわりあいに健闘した方ではあると思うのだが、(……)くんが結構割を食う形になり、復習だけで終了してしまったのだ。過去問の結果については、正確な点数はもはや覚えていないが、(……)くんは思ったよりもできなかった印象だ。しかし彼はこの翌日に結果が発表された都立推薦の試験で既に合格しているので問題はない。(……)くんはなかなか良い点数だった覚えがある。
 退勤後、帰路の記憶も記録もないので一挙に自宅に移動する。帰り着いて玄関に入ると、台の上に包みがあって、見ればMさんが送ってくれた誕生日プレゼントの本である。レターパックライトという白い小包封筒に収められていた。持ち上げてみると二冊入っているらしき感触が伝わってきたので、これは中国語版『族長の秋』だけでなく、こちらが読める日本語の本も何か送ってくれたのだなと推し量った。それを持って居間に行き、母親に挨拶して、Mさんが送ってくれたのだと荷物について説明してから下階の自室に向かい、早速鋏で包みを切って開封した。一冊は無論、事前に知らされていたガルシア=マルケス『族長の秋』の中国語訳である。タイトルの中国語表記は『族长的秋天』で、ガルシア=マルケスは加西亚・马尔克斯と記されてあった。訳者は轩乐という字だったが、簡体字なのでどの漢字を表しているのかわからない。のちほど調べてみたところ、日本語の漢字に変換すると「軒楽」という語になるようだ。
 そして、もう一冊入っていた日本語の本が、何とジョルジュ・ディディ=ユベルマン橋本一径訳『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』だった。こいつは素晴らしく、最高である。この著作が出てくるとはまったく予想していなかった。ニコラス・チェア/ドミニク・ウィリアムズ/二階宗人訳『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』でも取り上げられていた本で、当然、いずれは読まねばならないと思っていたのだ。大変感謝する。
 そうして食事に行った。飯はカレーの余りを用いた素麺で、汁が全然なかったので水を麺つゆを足して火に掛けた。父親は飲み会でまだ帰宅していなかったので、洗面所に入って浴室の戸の前に立ち、入浴中の母親に向けてすべて食ってしまって良いのかと問いを掛けると、肯定が返ったので、煮込んだものを全量丼に注ぎこんだ。そのほかにはどんな食べ物があったか、もはや覚えていない。食事を取りながら『アウシュヴィッツの巻物』のことを考え、そこでジョルジュ・ディディ=ユベルマンの議論がどのように俎上に載せられ検討されていたか想起しようとしたのだが、しかし全然思い出せなかった。『アウシュヴィッツの巻物』は、単純な難解さとはちょっと性質が違ったような気がするが、何を言っているのかよくわからないような箇所が結構多くて、あまり印象に残らなかったのだ。正直、物凄く啓発的な、知的に興奮するような分析や解釈もなかったと思うのだが、しかしそれはこちらがきちんと読めていないだけかもしれない。ともあれ、いずれもう一度、詳しく読み直してみなければならないなと思い直した。それを措いても、ゾンダーコマンドたちの証言が遺され、偶然の導きによって発見されて今に伝えられているということ、この事実にはやはり心を打たれるものである。これが奇跡というものだろう。このことを奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶことができると言うのか?
 食後に入浴へ行くと、湯船に入った瞬間にポストを弄る音が外から聞こえ、次いで階段を上る足音が立った。父親が帰ってきたのだが、ゆっくり浸からせてもらおうと横着して、特に急がず湯に浸って身体を温め、目を閉じてふたたび『アウシュヴィッツの巻物』のことを思い返した。この本の第六章では、「アレックス」という名前で伝わっている匿名の収容者が撮影した四枚の写真――アウシュヴィッツ=ビルケナウのガス室で殺害された人々の裸の死体が地面に無数に横たわったなか、野外に掘られた坑の周りでゾンダーコマンドたちがその焼却処理に従事している光景がそのうちの二枚だ――が主題化されており、そこでディディ=ユベルマンの議論も援用・検討されていた。ただ、その内容がどんなものだったか、如何せん全然思い出せなかった。『アウシュヴィッツの巻物』の著者たちは、アレックスの写真のうちの一枚、何を写そうとしたとも思えずただ光と梢とが写っているだけの抽象的な図像は、撮影者の動揺や恐怖、目の前の光景を正視することができなかった逡巡のようなものを表している、と結論していたような覚えがあるのだが、これは正直、解釈としてさほど鋭いものだとは思えない。そんなにありふれた、通りの良いことを彼らが本当に言っていたかどうか疑問で、こちらが内容をうまく理解できず、矮小的に要約してしまっている可能性があるだろう。
 風呂に浸かっていると居間にいる両親の声が伝わってきて、時折り大きくなるそれは何かについて話し合っているようでもあり、言い合っているようでもある。またつまらぬことでいがみ合っているのだとしたら困り物だと思ったが、しかし風呂を上がって洗面所に出ると、どうも智子さんから電話が掛かってきており、それに二人で答えているらしいと気がついた。出産を終えて報告を寄越してきたのだろう。こちらが髪を乾かしているあいだにしかし通話は終わってしまい、洗面所から出た次男を迎えたのは、今、電話が掛かってきたという母親の報告のみだった。
 自室に帰ったあとは日記に邁進して二九日のことをひたすら思い返し、記憶を文字として画面上に落下させていった。一時間五〇分ほどを費やして午前二時を越えると、作文は今日はここまでにしようと切りをつけて、そのあと音楽を聞いた。まずは空気公団 "旅をしませんか"(『こども』: #9)である。改めて聞いてみてもこのメロウさ、スムースな浮遊感は特筆物だろう。ボーカルのささやかな、音をそっと置くような柔和な歌い方もその手触りを生むのに大いに寄与しており、女性としては低めの音域を用いたその声に歌い上げるという感覚はなく、感情は淡く希釈化されていて、ついこの前日に目にしたヴィルヘルム・ハマスホイの絵画の中性的な様相をあるいは連想させるようでもあった。ボーカルメロディのリズムは各所でよく嵌まっており、特に気持ちが良いのは曲のすぐ冒頭、「(すぐに朝が過ぎる)それからでも遅くはない」の「遅くは」の部分で、この四音はすべて一六分の裏拍に入っているため、シンコペーション特有のずれによる緩い進行感が身体感覚をくすぐる。加えて、最後の「は」では長く伸びて、「ない」でふっと解決的に終止するので、収まりも良い。純な心地良さが開始から終演まで一貫して満ち渡っている逸品だと思うが、最後のサビの裏には「Ah」という発声のコーラスが重ねられており、幾分カウンターメロディ的なその推移の仕方も巧みで、ここに至ってシルクの織物めいた滑らかな音楽の質感がとりわけ際立っているように感じられた。
 続いて、Bill Evans Trio, "Alice In Wonderland (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#3)。ヘッドフォンを変えたのでScott LaFaroの豊穣な重量感が今までに比べてより際立ち、ふくよかに膨らんで、存在感の滲出がちょっと強すぎるくらいだ。Evansのフレーズは放物線を描くかのように実に綺麗な上下の推移を奏で上げる。彼の演奏はその大部分、この理想的な放物線を形象化したような滑らかな運動の大小の繰り返しで成り立っているような気もするくらいだ。ベースソロの後半でピアノが消えて以降のLaFaroの演奏の嵌まり方も流石と言わざるを得ず、リズムはぴったりでフレーズは明快に流れ、音楽の呼吸に非常によく寄り添っていると思う。
 そうして三時を越えた。本当は読書ノートへのメモもしたかったのだが、頭があまり使い物にならなそうだったので、やむなく就眠を選択して寝床に移った。


・作文
 14:23 - 15:35 = 1時間12分(30日)
 15:37 - 16:32 = 55分(29日)
 17:57 - 18:08 = 11分(30日)
 24:17 - 26:05 = 1時間48分(29日)
 計: 4時間6分

・読書
 13:16 - 14:01 = 45分(バルト)
 17:19 - 17:47 = 28分(日記)
 計: 1時間13分

・睡眠
 3:10 - 12:15 = 9時間5分

・音楽
 26:27 - 27:07 = 40分(空気公団; Bill Evans Trio)