2020/4/14, Tue.

 歩いて十分ほどの病院まで、その間の通院の時と同じく、車を拾って行った。翌日の午後には手術となり、これも開腹ではなく、まず順調に済んだようで夜に寝苦しいこともなく、朝には安静を解かれたが、なまじの足馴らしはやめにして、起きて立つことも必要のほかは控えた。寝たまま読めるようにと、手に支えるのに軽くて、疲れればいつでも中断できる本を枕もとに置いて、気が向けば手に取ることは前回の入院と同じだが、そのつど読み始めにはたどたどしく文字を拾うようにしていたのがいささか佳境に入ると、睡くなる。おのずと手が降りて、とろとろとしながら、頭の内でまた続きをたどり、ようやく読めたが、なぜこんなことがいままで読み取れなかったのだろうか、と思ううちに眠りこむ。目を覚ませば白い天井がある。こればかりはひと月隔たっても、前回と寸分と変わりもない。一度では済まぬということは、二度とは限らない。しかしそれでもやりきれぬような気持にならないところでは、自分はよほど反復に堪えるように慣らわされて来た者らしい、とこれまでの幾度もの入院の時のことから、二十四時間あまりも不断の苦悶に呻いていた十五歳の少年のことも思い合わせ、さらには防空壕の底から頭上をしきりに低く掠める敵機の爆音に刻々と耳をやっていた七歳の幼年のことに及んで、永劫の反復、反復の永劫を早くに知ったか、だとすればしかしその後、どんな時間を生きて来たことになるのだろう、と考えかけて投げ出した。
 (古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、204~205; 「その日暮らし」)



  • 昨晩はまただらだらと夜を更かしてしまい、結局、五時に至ってようやく床に入った。カーテンが白々と薄明るみ、ガラスの向こうに鳥の声が咲きはじめてからのことである。しかし肝心の眠りは一向にやって来ず、多分一時間くらいは覚めていたと思う。それでも苦労しながら一応寝ついて、今日は一〇時過ぎに覚醒できた。快晴の陽射しが強靭で気持ちよいので、寝床に転がったまま二〇分ほど顔面に熱を浴びた。それからそのままベッドで書見。
  • 朝刊。三面の下に、「ビジネス社」という出版社の広告があった。そこでは例えば宮崎正弘・渡辺惣樹『戦後支配の正体 1945-2020』という本が紹介されており、「戦後史観の闇を歴史修正主義が暴く」との売り文句のもとに、「原爆を落としたのはチャーチル?」だとか、「国連とIMFを作った二人の大物スパイ」だとか、「冷戦後の世界史を動かしたネオコンの正体」だとか、内容を簡易に要約した主題が並べて提示されている。「歴史修正主義」というのは、本来的にはともかくとしても現在では否定的な意味合いで用いられることが一般的だと思っていたのだが(ウィキペディアの記事は、「本来は歴史的な定説や通説を再検討して新たな解釈をしめすことだが、特に歴史学の成果により確定した事実を自分のイデオロギーで都合よく解釈して、誇張・捏造した「事実」を主張する立場(例:ホロコースト否認など)を、批判的に呼ぶ用語として使用されている」と冒頭で説明している)、ここではむしろその語に積極的な価値が担わされ、過去に纏わりついてその姿を隠蔽する「闇」を切り裂き、歴史の真実とされるものを光のもとに照らし「暴く」立場として称揚されているわけだ。これでは一種のひらき直りではないかと思ったのだが、先のウィキペディア記事に引かれた高橋哲哉の言に曰く、例えば「ホロコースト否定論者たちが、みずから歴史修正主義者を名乗って活動している」と言う。この「ビジネス社」もおそらく、そうした人々の顰に倣っているわけですね。
  • 上記の左には同じく宮崎正弘の『さよなら習近平』という本が紹介されてあり、そのさらに左には日下公人渡邉哲也『世界は沈没し日本が躍動する』というタイトルも見えるのだが、それらの広告のあいだには、 「日本はコロナ禍を力強く乗り越え、大復活する!」という言葉が挟まっていて、霊感を帯びた予言者のごとき断言的な未来予測に託した形で、ある人々の願望と思われるものが実に「力強く」表明されている。上記二冊のうち、後者の著作の売り文句としてはまず、「「江戸化」する世界、最強の日本繁栄論!」と掲げられてあり、「日本のスポーツ選手が活躍する理由」、「マスコミよりも大阪のおばちゃんのほうが信頼できる」、「数字では表せない日本の幸福度」、「兵隊、官僚、企業人、立派だった戦前の日本人」、「世界の目標は江戸時代に達成していた」といった具合にやはり簡潔な主題的要約の文言が並び、その下には、「世界は「戦国時代」レベル」との素晴らしくシンプルに圧縮された総括も観察される。ここには、「マスコミ」及び統計的「数字」への軽蔑に基づいた「反知性主義」と呼ぶべき種類の心性や、「戦前」なる時代を筆頭とした過去の「日本」への回帰的な憧憬や、「世界」に比して「日本」を相対的な上位に置かなければ気の済まない、言わば餓鬼大将のごとき強迫観念的な優位性への執着、ほとんど夜郎自大的とも言えそうな自己礼賛ぶりがあからさまに発揮されているように見える。
  • そこからさらに左方へ移ると、ケント・ギルバートと、銀座にあるらしい「稲葉」なる店の白坂亜紀という「右寄りママ」とが二人で、「日本人が知らない"日本の美徳"を再発見!」したと謳う著作や、同じくギルバートと曽野綾子の共著が提示されており、それらを通過した先の左端には、井沢元彦『崩れゆく韓国 あの国をダメにした五つの大罪』という題名が見られる。そこに紹介された「本書のポイント」として一つには、「韓国の「デタラメな主張」を井沢史観で的確に論破」と書かれているのだが、「論破」という言葉は今や懐かしき2ちゃんねるの面影をいかにも彷彿させる用語であり、「論争」という名で呼ばれるゲームにおいて主観的勝利を得ることを至上命題と思いこんでは相手を「論破」したかのような気分に浸ることに無邪気な喜びを覚える似非ソフィスト的な世俗性を、あるいは市場戦略的にそれにおもねった感性の軽薄ぶりを、一端覗かせているように見える。
  • 一二時半頃食事を取ったあとベランダに出て、久しぶりに日向ぼっこに安らぎながら書見をした。暑かったのでダウンジャケットはすぐに脱いだ。風はあまり流れなかったようだが、一度林を震わせ、ざわめきを吐かせる時間があったのを覚えている。
  • 蓮實重彦『小説論=批評論』(青土社、一九八八年)は書評の区画に入った。菅野昭正の『小説の現在』が大絶賛されている。「実際、洋の東西を問わず、隣接し敵対するジャンルとしての「小説」の解放にこれほど真摯な貢献をなしえた「批評」は稀であり、『詩の現在』に続いて本書を発表した菅野氏の密度の高い批評体験は、ほとんど「批評」そのものを嫉妬に狂わせかねぬ言葉からなっているのだ」(220)と熱を籠めて書くほどの激賞ぶりである。大いに興味を惹かれるが、菅野昭正に関しては、『セイレーンの歌 フランス文学論集』という本を持っているので、まずはそれを読んでみなくてはなるまい。訳業の方で気になるのは、ナタリー・サロートプラネタリウム』、「トロピスム」、『あの彼らの声が……』、ピエール・ガスカール『逃亡者』、クロード・シモン『ファルサロスの戦い』(これは確か既に持っていたような気がするが)あたりか。近年だと、ジョナサン・リテルの『慈しみの女神たち』にも共訳者の一人として関わっているようだ。
  • あとはまあ、蓮實重彦が影響を受けたらしい中村光夫なんかも、やはり早いところ読んでみなくてはなるまいなあとは思う。
  • 夕食には筍・エノキダケ・ブナシメジ・挽き肉を炒める。調理のあいだ、バターなど入れていないのに、それに似たような芳しい風味がフライパンから立ち昇ったが、どうも茸の香りらしい。名古屋味噌で味つけ。そのほか、大根・人参・茸二種・玉ねぎ・葱などの具で汁物も拵える。大鍋に具材を放りこむと、平板な白を基調に敷いて、シメジの頭の黒さや、思いのほか鮮やかに際立つ人参の橙色や、葱類の透けるように希薄な白っぽい緑が雑多に混ざって、ある種印象派めいた色彩の混合体を作り出す。
  • 蓮實重彦『小説論=批評論』(青土社、一九八八年)を読了。次はまあ何か小説作品を読もうかなと思った。なおかつ、現代のまだ若い作家のものを読もうと考えて積んである蔵書を探ってみたのだが、そこでびっくりしたのは、存命の作家の本をほとんど持っていなかったということだ。自分がいかに現在の潮流に興味がないか、と言うかいかにそこに目を向けられていないか、非常によくわかった。古い本しか持っていない! アレクサンドル・ポチョムキン『私(ヤー)』という群像社ライブラリーの一冊があって、これ多分現代の人だよなと思っていたのだけれど、著者紹介を見てみると一九四九年生まれだからもう七〇歳で、存命は存命だが全然若くはない。ほかに探したなかでは、一応、管啓次郎が一番若いようだった。彼だって一九五八年生まれだから六二歳で、とても若いとは言えないし、しかも小説ですらないのだけれど、仕方ないので彼の『ストレンジオグラフィ』(左右社、二〇一三年)をひとまず次に読むことにして、もっと年若な人の本も読んでいこうとちょっと反省した。
  • 夕刊に『大鏡』の紹介。花山天皇が出家するくだりである。この帝は時の藤原氏の画策で退位・出家に追いこまれたわけだが、この部分は遥か昔、高校時代に古典の授業で読んだような記憶の感触がか細く残っている。寺院に向かう天皇一行が安倍晴明の邸宅前を通り過ぎる際に、自分は花山天皇の出家を予見していた、とこの陰陽師が口にする声が漏れ聞こえてきた、というような記述があるらしい。
  • 何故だか知らないが何となく、芥川賞の歴代受賞者を調べると言うか、ウィキペディアで眺めてみるかという気分になった。未だ知らぬこの国の優れた作家を調査してみようというわけだ。第一回(一九三五年上半期)の受賞は石川達三『蒼氓』。
  • 第三回(一九三六年上半期)は、小田嶽夫「城外」と鶴田知也『コシヤマイン記』が受賞。小田は魯迅を日本に紹介し、太宰治と交流があった人物だと言う。鶴田知也については、「この頃になると戦時体制による統制は著しいものになり、40年には日本出版文化協会が設立され、出版用紙の割当は完全に国の統制下に置かれた。1943年には書籍・雑誌出版社が十分の一に整理された。そのような社会の中で、国策との軋轢を生まないような作風を選んできた鶴田の作品は、戦争が進むにつれ、あからさまな戦時協力体制むき出しの作品へと変化していった。1944年に刊行した『土の英雄』は国家総動員体制で一致団結した開拓民の子の成長物語であり、被征服民の苦しみを描いた『コシヤマイン記』と対立するものであった」とウィキペディアには記述されている。講談社文芸文庫に『コシャマイン記・ベロニカ物語 鶴田知也作品集』という本が入っているようだ。
  • 第四回(一九三六年下半期)は石川淳「普賢」と、富澤有爲男「地中海」。石川淳金井美恵子なんかも若い頃には好きだったようだし、ちょっと興味を持っている。「祖父は漢学者で昌平黌儒官の石川省斎で、省斎により6歳から論語素読を学び、淡島寒月より発句の手ほどきを受ける」という幼少期。文化エリートじゃねえか。「関東大震災山内義雄の家に避難し、ここで1924年アンドレ・ジッドの『背徳者』翻訳刊行」ともあるが、山内義雄という人はロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を訳した学者で、この作品は小津安二郎の『麥秋』のなかで言及されている。確か結構序盤、朝の通勤電車に乗る前、駅のホームで行き逢った男女の会話にその名が出てきたような気がするが、この映画を観たのは鬱症状で頭がおかしくなっていた時期なので、その記憶に自信はない。ともあれこの件については蓮實重彦も、昨日の日記にも引いた『ユリイカ』のインタビューで、「とりわけその最終巻の刊行は小津も『麦秋』(一九五一)で描いているようにいわば国民的な事件だったのであり、フランス文学がどうこうという次元の話ではありませんでした」(11)と当時の世相を証言している。
  • 富澤有爲男については、「戦前から戦時中は国策協力として戦記小説を多く書き、戦後はもっぱら児童読物と外国文学の児童向け翻訳が主となった」と。佐藤春夫と知り合ったことで小説を書くようになり、一九二五年に創刊した同人誌『鷲の巣』には、井伏鱒二などが参加していたらしい。
  • 第五回(一九三七年上半期)は、尾崎一雄『暢気眼鏡』ほか。いわゆる「心境小説」とか呼ばれるもの(一体それが何なのか、知る由もないのだが)の代表作家の一人として、一応名前は知っている。三重県宇治山田町(現・伊勢市)出身と言うが、これは(……)さんの地元だ。「16歳で志賀直哉の『大津順吉』を読んで感動し、作家を一生の仕事にしようと決心」したとのこと。文学者周りの回想録である『あの日この日』なんかはちょっと興味がないでもなく、古本屋で目にして買おうかと迷ったこともある。また、『楠ノ木の箱』という一九六九年の作品が、こちらの部屋には積まれたまま長く放置されている。
  • 蓮實重彦三島由紀夫についてどんなことを言っているのか調べてみようと思って電脳空間をうろついたところが、例の『伯爵夫人』が三島由紀夫賞を与えられた件に関連したどうでも良いページしか出てこない。ただ一つ、その際の選考委員・平野啓一郎の選評を載せているブログが見つかって、それに曰く次のようにあるのだ。「新人は、どれほど才能があろうと、経済的にも社会的にも不安定な場所から出発せざるを得ない。文壇は彼らを自らの新しさとして広告し、『対外的に』バックアップするのである。/新人賞にとって重要なことは、受賞によって生活が少し楽になるだとか、実家の親が喜んでくれたとか、鼻で笑っていた周囲の人の態度が変わったとか、そういうことではあるまいか? そして、その新しい才能が、次なる新しい作品を生み出し得たならば、それは、文壇にとっても大いに利とするところである」。
  • 『伯爵夫人』自体については、「知的な意味では、読後にこそ始まる小説なのだろうが、主人公の祖父が射精なしで『女を狂喜させる』ことに徹していた理由が、『近代への絶望』と『仄めかされる』点など、私は、つきあいきれないものを感じた」と平野は言っており、さらに、「私が推したのは、『新カラマーゾフの兄弟』で、今日の国家の弱体化と『個人』という概念の解体、そして恒常的なニヒリズムを、ドストエフスキー本人と『カラマーゾフの兄弟』の世界、更にはソ連解体後のロシアの混迷を参照しつつ見極めようとする野心作だった」と亀山郁夫作品への評価をまとめている。
  • 現代日本文芸業界の第一線で活躍しているれっきとしたプロの「作家」が権威ある文学賞の選評という言わば華々しいような場にこれらの文を提示したという事実には、まあやはりそれなりに驚いて、そこそこ強い印象を与えられもした。それなので、この日のメモを取った時点では、日記を正式に書く際に上記の発言のそれぞれについていくらか論評を書きつけておこうと思っていたのだが、面倒臭くなったのでやめる。益のない、どうでも良いことだ。ただまあ一応ごく手短に触れておくならば、まず二つ目の引用に含まれている言葉についてだが、「読後にこそ始まる小説」という『伯爵夫人』への評価には疑問を覚えざるを得ないところではある。「知的な意味では」と前置きされているのが一体どのような「意味」なのかこちらにはよくもわからないのだが、それをひとまず措いても、よりによって蓮實重彦が書いた作品に対して、「読後にこそ始まる小説」と言ってしまうのは、さすがに的を外しているのではないかと思うのだけれど――そのような疑念の根拠としては一応、次の発言を引いておく。「(……)かりに自分が自分の批評家であったとすれば、蓮實重彦のこれまでの仕事は、一貫して、魂の唯物論的な擁護であるということになるでしょう。魂の唯物論的な擁護ということが、僕自身にとっての批評の意味でもあるわけです。魂というのは、きわめて具体的な言葉なら言葉の魂ということです。記号でも作品でもいい。文章でもかまわない。それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評なのではないか」(『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、二〇一三年、235)。
  • また、亀山郁夫作品に授与された評言についても述べておけば、これはとても素晴らしい、これ以上ないくらい見事に平均的な要約になっていると思う。ともすればほとんど純然たる空虚にまで達しかねないこの希薄さは、それが故にかえって一つの具体性を獲得しているとすら感じられるほどだ。まるで超高性能な布団圧縮袋のようなこの縮約の技は、桶谷秀昭による後藤明生作品の要約――ちょうどこの日に読み終えた蓮實重彦『小説論=批評論』の文芸時評で触れられていたもの――をこちらの脳裏に連想させずにはおかなかった。「『挾み撃ち』は帰るべき『根』を求めて、一日、二七年前に上京して浪人生活を送ったあちこちの地名を、彷徨する男の物語である。二七年前にお茶の水の橋の上で着ていた、ゆくえ不明の外套は彼が戒める[ここの「戒める」は、ことによると「求める」の誤植か?]『根』の象徴にほかならないので、外套のゆくえはついにわからずじまいである」(桶谷秀昭「歴史の暴力に抗う生の記憶」; 蓮實重彦『小説論=批評論』(青土社、一九八八年)、200)。言うまでもないことだが、この文を引用した蓮實重彦自身は、「だがそれにしても、あの刺激的な『挾み撃ち』は、かくも貧しい図式に還元されてしまうものなのか」と嘆息を漏らしている。
  • そういう具合でおよそ余計な、どうでも良いことにかかずらっていたので、日記に取りかかるのがまたしても随分と遅くなってしまった。
  • 管啓次郎『ストレンジオグラフィ Strangeography』(左右社、二〇一三年)を読みはじめたのだけれど、管の記述を辿っていると、自分は何だか文章にこだわりすぎてかえって滑っているのかな、という気もしてきた。滑っていると言うか、窮屈に強張っていると言うか、力を籠められていると思っていたのは自分一人の思いこみで、実際にはそれほど上手く流れていないのかもしれない、と。どうも文章を密に固めたくなってしまうのだが、もっと平易に、ありふれた表現で書いても良いのかもしれない。