2020/5/3, Sun.

 公共土木事業の目玉はアウトバーン建設である。高速道路網の整備はワイマル期から着手されていたが、ヒトラーのそれはモータリゼーションを発展させ、軍事への転用も展望した重点施策であった。しかもこれには彼の強い思い入れと、大衆の歓心を買うねらいがある。一九三四年六月に始まる「国民車[フォルクスワーゲン]計画」がそうである。
 ヒトラーは無類のカーマニアであった。当然、知識も豊富である。富裕者のシンボルであった自動車を「一家に一台」のスローガンで大衆に普及させるために、自ら基本デザインを描き、同国人の自動車設計技師ポルシェに、破格の安値で堅牢な空冷式高性能低燃費の、夫婦と子ども三人想定した大衆車の製作を依頼した。それに応えてポルシェは最終試作車を完成させ、フォード社に学んで大量生産に道筋をつけている。この計画に沿って、積み立て方式による予約購入の募集が大々的におこなわれた。毎週五ライヒスマルク(以下マルクと略記)の無理のない払い込みで、一般労働者でも四年後には憧れの自動車を入手できるはずであった。この計画を差配したのはナチ党国家組織「ドイツ労働戦線」の下部機構「歓喜力行団」(KdF)、車名も「KdF車」である(開戦のために三三万六〇〇〇人の応募者のうちごく一部にしか届かなかったが、戦後になって応募者に行き渡ったという)。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、10~11)



  • 今日も今日とて一時半まで鈍い寝坊を喫した。空は一面、真白く均一に染まった曇天。ただし、色調としては明るめである。
  • 食事を取りつつ『開運!なんでも鑑定団』を眺め、小島與一という博多人形師を知った。「三人舞妓」という作品が鑑定に出されていたのだが、それは一九二五年のパリ万国博覧会に出品されて銀牌を得たものだと言う。もともと四〇〇万円で買ったところが、倍になって八〇〇万の値がついた。小島という人は若い頃には無頼派的と言うかいくらか破天荒な生活を送っていたらしく、芸妓と駆け落ちなんかもしたところ、その出来事が火野葦平の「馬賊芸者」という小説のモデルになったとかいう話だ。美術というものの世界もまったく面白そうである。
  • 風呂洗いの間、外からは鳥鳴の訪れがひっきりなしにある。鶯である。何らかのゲームにでも出てきそうな、近未来的なレーザー銃の発射音を思わせるような、〈放出的な〉声。
  • 茶を支度して帰室するとさっそく昨日今日のメモを取り出したが、すると母親が来て、隣の(……)さん((……))が筍を採りたいと言っているから見てやってくれと言う。何故こちらが? 母親が見てやれば良いではないかと思ったのだが、無理だよねえ、危ないじゃん、とか何とか言いながら母親は二人で一緒に見ようと求めるので、まあ良いかと柔和に折れて了承し、いま茶を飲んでいるから先に行っててくれと伝えた。それでメモを取りつつ茶を飲み干してから階を上がったところが、もう採ったみたいだ、と言われる。どうも息子さん、(……)さん(漢字不明)が来ていて採ってくれたらしい。それでも一応外に出てみたのだが、(……)さんの姿はもうなく、林の縁に寄ってみると中途で断たれた筍が一本あり、その真新しく白い断面に蝿が、おおまかに一見して一五匹から二〇匹くらいはむらがっている。凄え、蝿が集まってるよと口にすると母親は、そう、すぐにたかるんだよねと困ったかのように受けた。あの蝿たちは、栄養素を吸い取っていたのだろうか? (……)さんが去ってしまったのでこちらはもはや用済みなのだが、どうせ外に出てきたからとしばらく林縁にたたずんだ。樹々に埋められた視界が青々と艶明で、植物の緑がかなり充実してきたように見受けられ、風が大きく吹き流れては葉鳴りがそそぎ、肌が涼しさに包まれてとても気持ちが良い。頭上の樹冠のなかには鳥の声が遊んでいて、鶯がまたレーザーを放つとともに、ほかにも線香花火がはじき散らす火花めいて小片的な響きも聞こえてくる。母親が隣家の勝手口で息子さんに、遠慮せずまた採ってくださいとか何とか、よそ行きの高い声で伝えているのも路上を渡ってくる。それから沢と言うか貧相な水路の脇にしゃがんでみれば、蟻が一匹で頑張って、自分の体の何倍か大きい蝿の死骸を引きずっており、傍には小さなピンク色の花があって、四つの花びらが隙間なく合わさり受け口の広いコップのような形を成していた。例によって部屋に戻ってから検索してみたところ、赤花夕化粧[アカバナユウゲショウ]という種ではないかと見えたのだが、それと似ているものとして昼咲月見草[ヒルザキツキミソウ]というのも出てきて、どちらだったのかわからない。
  • 昼間のうちから日記に邁進して今日はかなりよく書くことができた。現在(と言うのはこの日の事柄をメモに取った現在のこと)、四日の三時半前だが、この時点で六時間弱、文を綴っている。そのくせしかし、仕上げられたのは四月一三日分のみである。とは言え一四日も、もう大方書けてはいるが。ところで文を作る肩から多少、力が抜けてきたような気がする。精度を突き詰めすぎずに書けているような、そんな感じだ。
  • 午後四時二〇分頃、上階でロシアから電話が掛かってきたらしき声が聞こえた。暑いからと部屋の扉を開けはなち、窓も網戸にしていたので明確に伝わってきたのだ。それで作文中だったが一旦中断して上がっていけば、タブレットの画面には兄と(……)ちゃんが映っており、女児の名前を呼びかけてやると、音楽、かける、と返しがあって、これは昨年の八月にロシアを訪れた際にこちらがたびたびコンピューターで音楽(ceroとか)を流してあげて、それでこの物体からは音楽が出てこの人間がそれを操っているのだなと理解したらしい(……)ちゃんは、滞在中にもたびたび、音楽かける? と聞いてきたのだが、それをまだ覚えているのだ。つまり、こちらは彼女にとってどうやら、第一には音楽を掛ける人間として認知されているらしい。それから話を聞くと、モスクワは外出禁止で、散歩やジョギングも不可だと言うので、新聞には自宅の周辺一〇〇メートルだか二〇〇メートルだかの範囲ならペットの散歩はできるみたいなことが書いてあったけど、と向ければ、ペットは大丈夫みたいだなと返る。人間は駄目でペットは良いとはよくわからんが、犬など飼っている家は結構多いらしい。マンション敷地内の公園で遊ぶことも禁止であり、公園はいまはすべてテープが張り渡されて閉鎖されていると言う。だから(……)ちゃんも家のなかをうろつきまわるほかはないわけだが、見た限りではストレスはさほど溜まっていなさそうと言うか、元気に屈託なく、快活に動き回っており、おもちゃの類をいじくって遊んでいた。それでも、見えないストレスは溜まってるかもしれないなあと兄は漏らし、それはそうだろうとこちらも思う。お母さんはまだ出勤しているのかと訊かれるので肯定すると、そのあたりがわからんという言が返った。こっちだとプーチンなんかが毎日出てきて、かなり厳しくやってるからさ、ということだ。まったくである。電車通勤が続いてる時点でもう終わりだわとこちらは考えなしに適当なことを言い散らかしたのだが、ところで兄は髭がめちゃくちゃ伸びていた。伸びていたと言うか長さはさほどでないのだが、顎からもみあげのほうまで豊かな茂みに覆われていたので、ロシア人みたいじゃんと笑いを向けてからかった。
  • 四時四〇分あたりでこちらは帰室することにして、まあお互いとにかく、コロナウイルスに掛からず、無事に乗り切れるように気をつけましょうと言い残すと、兄は(……)ちゃんに、(……)くんにバイバイして、と繰り返し呼びかけ、こちらもバイバーイと手を振ったのだけれど、(……)坊は聞く耳持たずに夢中で遊んでいたようだ。自室に帰ると日記を書き続ける。
  • そうして六時前、上へ。夕食にはスライスしたジャガイモとトランプのカードみたいに薄切りになったベーコンを、ローズマリーを添えつつ炒めた。ほか、山梨の祖母からもらったと言う白菜らしき漬物を母親が塩抜き処理したものも炒める。父親は今日は仕事なのだと言う。道理で姿が見えなかったわけだ。良かったじゃん、久しぶりにいなくて、と憎まれ口を叩いてから馬鹿笑いすると、母親も本当だよ、と苦笑し、定年で仕事を辞めて家にずっといるようになったら、ホント、どうしようかって感じだよ、と以前から頻繁に表明している懸念をまた繰り返す。(……)さんという人――(……)くんの家のすぐそばに住まっており、上の「(……)」のおじさんの弟だとか――が朝によく散歩で通りかかるのだが、今日、家の外に出て父親の出勤を見送っているところに行き逢って、仲が良いじゃんかと言われたので、仮面夫婦ですよ、そう見えるだけですよ、行ってくれなきゃ困るから追い出してるのよと、そう返したのだと母親は話した。
  • 支度ができればすぐに食事。新聞の一、二面には御厨貴の小文。「戦後」から「災後」への転換、というようなテーマについて述べていて、コロナウイルス禍によっていわゆる「戦後」の体制、あるいは時代秩序のようなものがいよいよ崩壊し、生活様式や人々の価値観が「災後」のものへと移行していくだろう、みたいなことを言っていたと思うのだが、あまり鋭く具体的なことは書かれていなかった印象。
  • ふたたび日記に取り組んだのち、八時過ぎに夜歩きへ。道に風が流れており、夜気はジャージの上着を身につけてちょうど良い涼しさ。林の外縁と言うか道に沿った石段上の領域がどうも刈られているらしいのに気がついた。自然にあんな風にはならないだろうから、多分誰かが業者でも入れて頑張ったのだと思うが、随分骨折りだったのではないか? 今日は曇天なので月は映らず、ぽつりとささやかな空気孔のような薄白さが灰色のなかに一点沈みつつ辛うじて見えたものの、気づかなくとも不思議ではないほどのかそけさだ。その位置は先般と比べれば随分高くなっており、だいたい直上のあたりだった。
  • 十字路の傍まで来ると、煙じみた香気、線香のような匂いが鼻に触れてきて、(……)さんの宅から漏れてきたのかなと思ったのだけど、家は石段上に建っていて戸口や窓まで結構距離もあるので不明。十字路に達すると自販機で例によって「Welch's まる搾りGRAPE50」を購入。一三〇円で二八〇ミリリットルである。それから坂を上っていくと、途中で左手のガードレールの向こうに草で覆われた斜面がひらけているのだが、その真ん中に突き立った電柱に虫がとまっており、姿は視認できなかったもののじりじりと騒々しいノイズをまき散らしている。その音がかなり強力な、強烈とすら言うべきもので、傍に寄ると、おそらく耳たぶ、と言うか耳を構成する複雑な段差平面全体に反響するらしく、本当に耳の穴のすぐ隣で鳴いているかのように振動が顔の横まで瞬間移動的に飛んできて、これはあっぱれな威力だった。
  • 進む裏通りには散り伏した落葉の量が増えていたような気がする。歩きながら一瞬、ホトトギスの音[ね]が耳に触れたようにも思ったが、これは多分空耳で、一軒のなかから漏れてきた何かの音がそんな風に響いたようだった。それをきっかけにしかし、そう言えばそろそろホトトギスが鳴き出す頃合いではないか、初音の時候でないか、去年だか一昨年だか、と言うか毎年のことかもしれないが、夜も深まった午前三時くらいに声を張っているのをよく聞いたものだ、と思い出す。直線路を通りつつ一軒の塀に掛かった白い花の連なりに、これは何かと寄って見たところ、コデマリだった。このように縦にぶら下がって雪崩れていると遠目には、いまや旬を過ぎて緑の衣と化してしまったユキヤナギとも見えなくもない。
  • それから前方に猫が現れた。おおかた黒い体で足のほうだけ白いように見え、時折りこちらを振り向きながらちょこちょこ歩いていったあと、横に折れて民家の合間の敷地に入っていった。そこまで来るとなかを覗いたが、まったくの暗闇でとても姿は見分けられず、いるのかいないのかすらわからない。諦めて先を進み、街道に出ると東に曲がって、車道沿いを行く途中で道脇の柵の向こうに、もうほとんど枯れて色を失ってはいたものの、藤らしき植物を見つけて、それで藤の花も頃合いだったかと思い出した。今年はまったく見ていない。もちろん仕事が休みで出勤しないからだが、たしかにこの初夏の時期には街道途中の公園の入口に設けられたごく小さな藤棚、と言うか藤屋根みたいなつつましい造作に通り過ぎざま目を向けたり、裏通りから望む丘の緑のなかに散発的に差しこまれた突然の紫色をまなざしたりした覚えがあるし、そのようなことをあれはまだ結婚前だったか否か、(……)さんに送ったメールのなかに書いた覚えもある。それはたしか彼女が(……)に遊びに来る直前のことだったはずだから、やはりこの時期だろう。(……)
  • 街道をさらに東へ推移していく中途、足もとに何か落ちていて、その淡い青緑色を梅の実だなと視認する。まだよほど小さい。たしかにここの樹は梅だったとそれで思い出し、見ればあたりにいくつも転がっていて、ただしどれもことごとくささやかな、いたいけな赤子のような小粒ばかりだ。それで枝葉を見上げたところが何故か、樹についた実は、全然見つけられない。小暗さに目が利かないためだが、多分まだいくらも結んでいなかったのでもあるだろう。しばらく首を曲げていたけれど、じきに諦めて立ち去った。
  • 最寄り駅前まで来ると、車道を挟んだ先、駅横の小さな広場には、バドミントンに興じている二人があった。多分若い男女だったと思う。夫婦か恋仲かきょうだいか、いずれにせよこんな時勢だから、気晴らしだろうが、しかしこの時間ではシャトルもあまり見えないのでは? 目を向けつつそこを過ぎると、今日は駅正面から下り坂に折れた。靴音が樹の下の空間に明々と定かに響く。途中で林のあいだに建っている家の間近に来れば、先日もやはりここで嗅いだものだが、風呂のような石鹸のようなにおいが香り、その宅のそばのガードレールの向こうでは、草なかに大きな花が咲き盛っている。以前から真っ赤なものが咲いているのに目を留めていたのだけれど、今日はそれに加えてピンク色のものも増えていた。目を寄せれば広い花弁の縁がしわしわと波打っているそれが何の花なのか、もちろん知らない。例によって帰ってから正体を求めてGoogleに頼ったけれど、結局よくわからない。アザレアというのが感じとして一番近かったような気もするが、画像のように群れなしてはいなかったし、これは林に自生するようなものなのかどうかそれもわからないので、答えを掴めずに終わってしまった。
  • 坂を抜けると自販機のある十字路に戻り、そこを左折した先が自宅である。先ほども来た道を、ポケットに両手を突っこみながらぶらぶら歩き、頭のなかには"I Love Being Here With You"や"But Not For Me"や、"That Old Feeling"が去来する。いかにも苦労なしといった感じの、ふらふらとした歩みぶりで帰宅した。
  • Elizabeth Shepherd『Rewind』。Elizabeth Shepherd(vo / ep(rhodes) / org(wurlitzer))、Ross MacIntyre(b)、Scott Kemp(b)、Colin Kingsmore(ds / perc)など。二〇一二年リリース。なかなか良い。#1 "Love For Sale"、#6 "Feeling Good"、#7 "Midnight Sun"(Lionel Hampton作のこの曲は、Dee Dee Bridgewaterも『Live At Yoshi's』で歌っている)、#11 "Born To Be Blue"、#14 "(They Long To Be) Close To You"などを主にしてまた聞いてみたい。
  • 一一時頃まで日記に働いたあと、さすがに身体が凝[こご]ったので臥所に移ってシェイクスピアを読む。福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫、一九七一年)から「あらし」をいくらか読み進めたのち、安西徹雄訳『十二夜』(光文社古典新訳文庫、二〇〇七年)のメモを最後まで取り、同じ訳者の『ヴェニスの商人』も速めに読み返しておおかた記録を終わらせる。それであらためて感じたのだけれど、安西徹雄の訳はやはりかなり素晴らしいのではないか。隅々まで気が配られてうまく整っているように感じ受けられ、言葉が充実して生気のようなものに満たされている感触を得る。通り一遍でなくてよく考え抜かれているように思われるわけだ。例えば大抵の小説作品のように、単にその作家としての、あるいはその作品としての一つの文体が確立され成型されているというのではなくて、戯曲であるからには人物の台詞でもってことが進むわけだから、それら多様な登場人物ごとの語り口をそれぞれ巧みに訳し分け、いかにも典型的な言い方をすれば彼らにおのおの魂を吹きこまなければならないはずだけれど、そうした困難であるに違いない目標に手が届いていて見事に成功しているような印象である。つまり、いくつもの文体もしくは文調がそれぞれのスタイルにおいてどれも高度な水準に仕上げられ、それらがまさしく作品世界を構成する〈声〉のネットワークとして共存し、協調し合い、共鳴している、そんな手触りがあるということだ。少なくとも文としての日本語の組み立てにおいて、優れた翻訳家だとこちらは思う。『十二夜』の「訳者あとがき」には、次のような彼の持論が記されている。

 戯曲の翻訳は、ただ単に、字義的な意味[﹅2]を伝えるのが目的ではない。生きたせりふのいき[﹅2]、その躍動感を、できる限り直に、役者や観客、あるいは読者の方々に追体験していただくことにある。
 大体せりふというものは、あくまでもある特定の人物が、ある特定の情況のもとで、誰か特定の相手にむかって、何か特定の情念や思念を、具体的に訴えかけ、働きかけるものである。つまり、何かの行動にともなって発せられる言葉というよりも、むしろ端的に、言葉そのものが行動であり、身振りなのだ。
 したがって、せりふを訳すということは、ただ単に意味[﹅2]を伝えることではなくて、この身振りとしての言葉の生動――全人格的な運動の言語的な発動、その息遣い、弾み、ほとんど筋肉的な律動を、できる限り生き生きと喚起・再現するものでなくてはならない。
 (……二段落省略……)
 つまり、例えばオーシーノとフェステ、あるいはマルヴォリオやサー・トービー、サー・アンドルーでは、そのせりふはそれぞれ独得の、固有のスタイルを持っていなければならないし、他方また、同じ一人の人物であっても、個々の情況に応じて、ある時は重々しく、ある時には軽々しく、またある時は皮肉に、ないしはまたトゲトゲしく挑戦的になるかと思えば、まったくストレートに、感情を吐露する叫びの形を取ることもあるだろう。
 (241~242)

  • ここで語られていることが『ヴェニスの商人』及び『十二夜』で、とりわけ後者においては、かなりの水準で実現されているように思われる。『十二夜』は「九本の喜劇を連作した時代」(226)の締めくくりとなる一作で、「まさしくこれら喜劇群の総決算」(同)として位置づけられているらしいのだが、多分シェイクスピア自身の台詞を作る筆致も言わば脂が豊かに乗って冴えていた、そういうときの作品なのではないか。それに加えて安西徹雄の綿密な翻訳能力がすばらしい調和を見せたと、そういうことではないかと想像するのだけれど、この優れた翻訳者もしかし、二〇〇八年に既に亡くなっている。もっと多くの作品を訳してもらいたかったと切に思うが、とは言えシェイクスピアではほかに、『リア王』、『ジュリアス・シーザー』、『マクベス』、『ハムレットQ1』が光文社古典新訳文庫に入っているようなので、これらはいずれ読んでみるつもりだ。
  • 「対談:ホー・ツーニェン×浅田彰 《旅館アポリア》をめぐって」(2020/1/5公開)(http://realkyoto.jp/article/ho-tzu-nyen_asada/)を読んだが、浅田彰という人は相も変わらず、まったくもって明晰極まりない、見通しが良すぎるほどにクリアでわかりやすい整理図を提示してくれる。脱帽せずにはいられない鋭利さを具えた道筋整理家、あるいは舗装業者。ところで下記に出てくるブルース・リーの「水のようであれ(Be formless, shapeless, like water)」という言葉は、Kendrick Scott Oracleの"Be Water"(『Conviction』)冒頭に出てくる語りの元ネタだと思う。

浅田 この作品の中に出てくる京都学派について、予備知識を持たない聴衆の方々のためにきわめて基本的なことを言うと、ふたつ大きな問題があると思います。ひとつは、特に西田幾多郎に言えることですが、ロジカルというよりはレトリカルだということ。もうひとつは総じて非常に図式的だということです。
 前者に関しては、鈴木大拙と比較してみればいい。彼は西田と同世代で親しい関係にありましたが、禅をはじめとする仏教について英語で書き、ジョン・ケージや抽象表現主義者といったモダニストたちにも大きな影響を与えた。大拙がかなりロジカルに書いていて、わかりやすかったからでしょう。しかし西田は、それより真面目だったというか、座禅などの体験において体で感じ取るべきこと、言葉で言えないことを言葉で言おうとしているので、非常に無理のあるレトリックを反復していくことになるんですね。だからロジカルに理解することがとても難しい。西田に比べて田邊元はロジカルだとは思いますが。
 後者は京都学派一般に関して言えることで、特に西洋に対する東洋という形で非常に図式的な議論を組み立てるきらいがあるということです。例えば西洋思想では全体論と要素論、全体主義個人主義が対立しているが、東洋思想は全体でも要素でもない「関係のネットワーク」に重点を置くものであって、その東洋的関係主義によって西洋の二項対立は超えられる、というわけですね。「人の間」と書いて「人間」というように、人間は全体の一部でもなくバラバラの主体でもなく、関係のひとつの結節点である、と。西洋では全体主義個人主義の二項対立がある。全体主義の中でもスターリン共産主義ムッソリーニヒトラーファシズムが対立しており、それらに対して英米の自由資本主義が対立している。そうした対立を、関係主義、あるいは京都学派左派だった三木清の言う協同主義で乗り越えられる、と。要するに、東洋の知恵によって西洋の二項対立を全部乗り越えられる、それこそが西洋近代の超克だ、というわけです。しかし、それは図式的な言語ゲームの上での超克であって、現実的に関係主義とはいかなるものか、協同主義はどういう制度なのかというと、よくわからないんですね。
 ついでに言うと、西田も1938年から京都大学で行った講義『日本文化の問題』でそういうことを言っているんですが、41年のはじめごろ、真珠湾攻撃より前に、天皇を前にした「御講書始」において、いま言ったようなことを生物学のメタファーで話しています。生物学者でいらっしゃる陛下はよくご存じのことと思いますが、森というのは全体でひとつというのでもないし、バラバラの動植物の総和でもない、エコロジカルな関係のネットワークなのであります、といった感じですね。だから社会もそうでなくてはいけない。アジアに関しても、西洋に代わって日本が全体を帝国主義的に支配するのではなく、トランスナショナルかつエコロジカルなネットワークとしての大東亜共栄圏を築くべきだ。日本はその先導役を務めるべきだけれども、西洋の植民地主義帝国主義に取って代わる新しいヘゲモンになってはいけない、と。京都学派の主張は総じてこうしたもので、耳障りはいいのですが、それが日本の植民地主義帝国主義を美化するイデオロギーでしかなかったのは明らかでしょう。京都学派は海軍に近く、陸軍のあからさまな全体主義帝国主義に対して最低限のリベラリズムを守ろうとしたのだ――そういう見方はある程度は正しいものの、大きく見れば海軍も陸軍と同罪であり、京都学派も同様だと言わざるを得ません。
 ひとことだけ付け加えると、西田が禅の体験などについて言っていることは、東洋武術の人がよく言うことに似ています。西洋では、筋肉の鎧をまとい、さらに鉄の鎧をまとった剛直な主体がぶつかり合って闘争が起こり、その結果、次のものが出てくる。これが西洋の弁証法だ。東洋は違う。水のように自在な存在として、相手の攻撃を柔らかく受け止め、相手の力をひゅっとひねることで相手が勝手に倒れるように仕向ける、と。西田の好んだ表現で言えば「己を空しうして他を包む」というわけです。ブルース・リーと同じことで、「水のようであれ(Be formless, shapeless, like water)」という彼の言葉を香港の民主化運動家たちが運動の指針としているのは面白いことではあります。ただ、西田は『日本文化の問題』の中で、それを天皇制と結びつけるんですね。西洋には「私は在りて在るもの(存在の中の存在)だ」という神がおり、神から王権を与えられて「朕は国家なり(国家、それは私だ)」という絶対君主がいる。それが近代では大統領などになり、そういうものを頂く国家が、上から植民地主義帝国主義で世界を支配しようとするわけです。しかし、東洋は違う。そもそも、日本の天皇は「朕は国家なり」とは絶対に言わない。むしろ、皇室とは究極の「無の場所」であって、だからこそすべてを柔らかく包摂し、トランスナショナルかつエコロジカルな大東亜共栄圏の中心ならざる中心になりうる、というわけです。美しいレトリックではある。しかし、「無の場所」としての皇室がアジア全体を柔らかく包むと言われて、アジア人が納得するとは僕には思えませんが。

  • 浅田彰の上の発言に続けてホー・ツーニェンは以下のように応じているけれど、この人も鋭い見地を持っていてなかなか興味深い人物のように思われる。

ホー 田邊は天皇が「絶対無」の象徴になるべきだと言っています。この考えはレトリカルにも美学的にも興味深い。でも、浅田さんが最初に言及された鈴木大拙に少し戻りたいと思います。私が鈴木のことを知ったのは、ジョン・ケージについていろいろと読んでいたときです。「カリフォルニア的禅」とでも言いますか、そういうものに対する鈴木の影響について知りました。でもそれより前の鈴木の著作を読んで、強い違和感を持ったと言わざるを得ません。戦後、鈴木は西洋で平和主義者として知られていたと思いますが、たしか1896年、日清戦争直後に、彼は中国との戦争は宗教的行為であると言っているんです。ですから、それ以降に大きな変化があったものと思われます。
 他の京都学派の人々が言っていること、例えば『中央公論』に掲載された座談会などを読むと、彼らは戦争に反対していたと言えることは言えます。ただ、彼らが反対していたのはアメリカとの戦争だけであって、アジア諸国との戦争に反対していたわけではないようです。まるで、アジア諸国との間で起こっていたことは戦争と見なすことさえできないかのようで、浅田さんがおっしゃった大東亜共栄圏の理念の下に、日本がアジアに対して発揮するべき道徳的リーダーシップとして、ほとんど正当とされているのです。
 浅田さんが指摘された非一貫性は西田の思考システムにも散見されます。でも私は、これらの非一貫性は西田の思考さえ超えて、もっと深く広く蔓延していると思っています。西田そのものを時代の徴候のひとつと見ているんです。例えば禅と武士文化の緊密な関係ですが、浅田さんが語られた禅の柔らかさや液体的な性質の中にも、武士の刀のような硬さが同時にあると思う。私が京都学派に興味を持ったのも、まさにそうした非一貫性や矛盾においてでした。そしてこれは、日本の汎アジア主義における矛盾とどこか通じていると思います。ユートピア的な次元で起こったこの動きが、私には非常に間違ったものに見えてきたし、アジア諸国の多くの人々にもそう見えたでしょう。私にとって、こうした矛盾こそがアポリアであり、先ほど話に出た「深淵」なのです。
 もう少し続けると、こうした非一貫性は汎アジア主義の概念それ自体にも見られると思います。真に汎アジア的であるためには、アジア諸国間の国境を何らかの形で解消しなければならない。しかし、20世紀初頭の日本における汎アジア主義的言説は、それが同時にきわめてナショナリスティックな運動だったことを示しています。そういう意味で、20世紀初頭の日本には、歴史に関する非常に興味深く豊かな鉱脈が見られます。当時、アジア各地のナショナリスティックで反植民地主義的な多くの指導者たちが、日本の右翼的で汎アジア的な組織とつながりを持っていたのです。それにはヴェトナムのナショナリスト、インドのナショナリスト、あるいは中国の孫文のような人も含まれます。人が同時に汎アジア主義者かつナショナリストであることができるという、興味深い矛盾がそこにはあります。
 やがて私はこの矛盾を、先ほど浅田さんが言及された、「空」や「虚無」の概念に内在する非一貫性、そしてそれを明確に述べることの難しさに結びつけて考えるようになりました。こうして「虚無」はとても柔軟な概念となり、容易に形を変えながら、さまざまな政治的目的に利用することができるようになる。例えばこのようなことを西田と彼の遺産について考えているんです。でも同時に、こういう批判的なことを一通り言った上でですが、私は西田の最初の著作『善の研究』を読んでずいぶんエモーショナルに感動してもいるんです。この本の難解さは悪名高いですけれども、それでも、簡単に言ってしまえば、西洋とどう向き合うか、東洋・西洋とは何を意味するのかという苦悩、そして歴史のこの段階における思考の新しい基礎をつくろうという野心を読み取ることができます。この野心そのものは感動的で、このようなものは現在そう簡単には見つけられないと思います。

  • ほか、気になった箇所をいくつか。

浅田 あともうひとり、《旅館アポリア》にいたら面白いと思うのは、谷崎潤一郎です。『中央公論』の1943年1月号には京都学派の3回の座談会の最後である「總力戰の哲學」が掲載されており、3月号には「總力戰と思想戰」という高山岩男のエッセイが載っています。この1月号はなかなかのもので、新連載として島崎藤村の『東方の門』と谷崎潤一郎の『細雪』も載っている。表紙の左に「總力戰の哲學」、右に『東方の門』『細雪』のタイトルが並んでいるんですが、いま見れば圧倒的に『細雪』の勝利でしょう。藤村は8月に亡くなるので、『東方の門』は連載が始まってすぐに中断され、未完の作品となります。他方、谷崎の『細雪』は、哲学者や歴史家が「總力戰の哲學」を熱く論じている傍らで、大阪の商家の4人の姉妹が、「新しい帯がきゅきゅっと鳴るのは嫌だ」とか言って騒ぐとか、どうでもいいような日常生活のディテールを延々と書いている。すごいですよ。これがすごいということは権力もよくわかっていて圧力をかけたらしく、早くも6月号には連載中断の「お斷り」というのが出る。「引きつづき本誌に連載豫定でありました谷崎潤一郎氏の長篇小説『細雪』は、決戦段階たる現下の諸要請よりみて、或ひは好ましからざる影響あるやを省み、この點遺憾に堪へず、ここに自肅的立場から今後の掲載を中止いたしました」と。現在の表現の自由の問題と絡めてみると面白くて、ここから進歩しているのかどうかわかりませんけど(笑)、谷崎は戦争中もひそかに『細雪』を書き続け、「總力戰の哲學」が忘れ去られたいまも読み継がれる大作を完成させるわけです。そういう意味で、《旅館アポリア》のどこかの部屋で谷崎がひとり机に向かっていてもいいのではないかと思いますね。

ホー 実際、私がこの旅館に招待したいと最初に思った「お客様」のひとりが谷崎でした。最終的に、彼はゲスト出演のような形で作品中に存在することになりました。《旅館アポリア》の大きな送風機がある部屋で、谷崎の『陰翳礼讃』に言及しています。彼は伝統的な日本家屋における床の間について書いていて、電灯は床の間の闇を損なってしまうと言っています。谷崎にとって、床の間は常に薄暗くなくてはならない。「虚無」や「空」は直視してはいけないものだからです。電灯を使うと、床の間の空無があまりに明らかになってしまう。私たちは「無」をあまりに明らかに見てしまってはいけないのだと。私はこれが、「絶対無」という概念を基盤に思考を組み立てた京都学派に対する、ありうる最も賢明な注釈のひとつだと思っていました。絶対無は、それをちょっと薄暗がりや影で覆ってあげたほうが良いものになると言えるのかもしれません。

     *

浅田 (……)ちなみに、谷崎に関するありがちな偏見は、彼が西洋の明るい外延的な空間を否定し日本の暗い内包的な空間にこもった、という見方です。しかし、谷崎は基本的に快適な生活が好きな快楽主義者で、実は電化生活をしながら電気のケーブルは隠している。陰翳を愛しているのも、ゴージャスな着物が、上から電気照明を当てられたときより、下からゆらめく灯明に照らされたときのほうが、美しく見えるからである。つまり、座禅堂のように質素で暗い空間で自己と向かい合うというより、陰影の中にゴージャスなものがひそかにきらめくのを見たいだけなんです。実際、谷崎は早くから映画に興味を持ち、映画の原作小説も書いているし、映画化されると女優たちと付き合ったりもしていた。だから、確かに谷崎の趣味と小津の美学は随分違うとしても、案外似たところも多いのではないか、小津がシンガポールに派遣されながら肝心の大東亜共栄圏のための映画を撮らず、安楽な生活をしながら日本で観られなかったアメリカ映画ばかり観ていたというのは、谷崎的な態度と言えるのではないか、とも思いました。

ホー 小津は非常にモダンな人だという印象を私は持っています。それは写真で彼の生活ぶりや服装を見ても感じることです。谷崎や小津のような人の作品では、伝統と現代という問題が非常に複雑に展開し、ある種の曖昧さに到達します。私の好きな、《旅館アポリア》でも引用している『晩春』のショットでは、笠智衆が本を鞄にしまっているんですが、その本がニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』であることが一瞬見えます。一見ファミリードラマである小津のこの映画に、このドイツの哲学者が登場するというだけでも面白いのですが、私はこれは確実に意図的な選択だと思います。
 実際、『晩春』の別のシーンでは、笠智衆が電車で雑誌を読んでいるんですが、その雑誌がかつて京都学派の座談会が掲載された『中央公論』であることが見てとれます。そういったさまざまな参照項が、彼の映画のテクスチュアに非常に繊細に織り込まれている。明快な、簡単に分類できるような立場表明の不在が、彼らの作品をどこまでも豊かにしていると思います。彼らはすでにアポリアなんです。なので、彼らは《旅館アポリア》のお客様として完璧でした。

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浅田 僕は先生と呼ばれるのは嫌です(笑)。肩書きとして「思想家」と書かれているけれども、思想家や哲学者を自称したことは一度もなくて、単なる一介の批評家です。その上で言うと、成功裏に終わったという楽天的なことを言ったつもりはなく、大きなトラブルになって、これからが大変だろうとも言ったつもりです。会期の終わりが近づいて、愛知県が「表現の不自由展・その後」の再開に向けて動くと報じられたとたん、文化庁が採択済みだった補助金の交付をやめるという無茶苦茶なことを言い出しました。だから、これからどんどん闘争が続くんですよ。だけど、そういう国にいま我々は生きているんだということがわかっただけでも、「トリエンナーレでいろんなものが見られてよかった」で終わるよりよかったんじゃないか。というか、アートを含む文化一般はつねにイデオロギー闘争の場なんです。それにアクティヴィストとして関わっていく人もいれば、アクティヴィズムから距離を置く人もいるでしょう。最初に言ったように、僕は、実行委員長の知事とアーティスティック・ディレクターが最後まで粘り腰で頑張ったのは大したものだと思うけれど、彼らが一時的にせよ検閲を行ったと批判するアーティストがいてもいいでしょう。そうした矛盾を孕みつつ、キュレーターもアーティストもそれぞれの立場から忍耐強く創意工夫をもって闘争を続け、限定された形ではあるけれども、最後の段階になって、公開中止になっていた展示が再開されるところまで漕ぎつけた。これはひとつの成果であり、今後の闘争にとっても大きなヒントになるだろうと評価しています。

  • 上に言及したKendrick Scott Oracle『Conviction』のベーシスト、Joe Sandersの参加作を探っていたら、Raul Midonの『Bad Ass And Blind』で弾いているのを発見した。彼とともにGerald Clayton、Gregory Hutchinson、Nicholas Paytonといった人々が数曲で客演している。なかなか面白そうだ。