2020/5/4, Mon.

 (……)ナチ政権発足時のドイツ総人口約六五〇〇万人に占めるドイツ・ユダヤ人(ユダヤ教徒ユダヤ人)は五〇万人、これに混血のユダヤ系ドイツ人七五万人を加えても二%に満たないマイノリティである。(……)
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、13)



  • 正午の覚醒。空はこの日も真っ白だが、薄光をはらんでいる感触が少しはあって、瞳を弱く刺激する。昨晩から雨が現れ午前のうちは続いていたようだが、このときには止んでいた。
  • 茶を支度していると外から入ってきた父親に、S、お前、お母さんと買い物行ってきてくれよ、と要請される。荷物持ちで、と続くのに、買い物すか、今日すか、とぞんざいな口を利きながらも、まあいいすけど、とこだわらずに了承する。しかし母親は、明日が火曜日で安い日だから明日行こうかどうしようか、と迷っている様子だった。どっちゃでもええすよと適当に言い置いて、こちらは室に下がる。
  • Chet Baker Sings』を流しつつ、四月一四日の日記に取り組んだ。二時半頃、上梓。
  • 四時前に上がっていくと、やはり出かけると母親が言う。何だか知らないがメルカリで売れたものを送る用がある次第。それで寝癖を整えて部屋で着替え、抽象画風のイラストが入った白いTシャツにチェックのスラックス及びブルゾンという馴染みの格好に。ベッドでシェイクスピアを少々読みつつ脛をほぐしてから上へ。母親の支度が整うまでのあいだも、ソファに仰向いて脛を揉みながら本を見る。
  • 先に外へ。向かいの宅の垣根に寄るとピンク色の花の蕾が見つかって、触れれば粘着テープのようにちょっとべたべたしている。近くにひらいたものもあり、躑躅らしい。それから自宅の正面、階段の脇で腰をひねったりして筋を和らげながら待っていると、足もとを這う黒い点に気がついた。目近くしゃがみこめば、昨日と同様に蟻が一匹で、自身の全長よりもよほど大きい蝿の死骸を引きずったり押したりして運んでいるのだった。それを眺めているうちに母親が来る。
  • 母親の車が新しくなってから乗るのは初めてである。暑いのでブルゾンを脱いで助手席に入り、FISHMANS『ORANGE』のCDを掛けた。まず(……)の「(……)」に行って給油。車替えたんですかと店員が訊いてくるのに母親は、私はいいって言ったんだけどお父さんが、と言い訳する。レギュラーを三〇〇〇円分。いつも三〇〇〇円だけしか入れないと笑う母親。
  • 東へ。躑躅がいたるところで咲いている。目的地はコンビニ、スーパー、寿司屋、西友といくつかあって、どこから行くかと順番をああだこうだ言いながら走る。東青梅の途中で信号に停まった際、そばに「柚子の木マンション」という住宅があったのだが、その前に立っていた四本ほどの樹が、何の種なのか知らないけれどピンク色をこまかく灯したもので、明らかに柚子ではなかったので、あれ、「柚子の木マンション」のくせに柚子じゃないぜと隣の母親に教えた。成り行きで、つまり道中にあったので、ひとまずコンビニに寄ることに。クソ腹が減ったと漏らすと、何か買ってこようかと言ってくれるので、じゃあオールドファッションドーナツを頼むと応じ、チョコレートが塗られたやつと補足した。待っているあいだ、結構色々な風貌の人が前を通り過ぎてコンビニに入っていく。全体にラフな格好ながら足もとはヒールのある靴をかつかつ鳴らす女性だとか、主婦なのか一人暮らしなのかよくわからない生活感の、自転車に颯爽とまたがって去っていく女性とか。
  • 母親が買ってきてくれたドーナツをもしゃもしゃ頂いたあと、スーパーへ。「(……)」(……)店である。マスクを持参していた。マスクの能力など大して信用してはいないが、つけないよりはつけたほうが一応ましなのだろうし、他人がマスクをつけていないだけで途端に気色ばんで絡んでくるような類の、社会同調的親切心に満ち溢れまくったお節介好きの人間に遭遇する可能性がないとも言い切れないので用意してきたのだった。ところがそもそも、いまはマスクをつけていないとスーパーには入店できない決まりになっているらしく、入口のところにご協力をお願いしますという紙が貼られてあった。
  • 入店すると単独行動でポケットに両手を突っこみながら店内を悠々と巡り、茶葉やジュースやポテトチップスやレトルトカレーやらをおりおり母親の籠に入れていく。そうして会計。レジカウンターでは店員とのあいだにビニールの仕切りが掛けられており、代金や釣り銭の受け渡しも手から手へ直接ではなく、受け皿を介した形だった。
  • 荷物を整理して車へ帰り、それから「(……)」(……)店へ。途中の公園でやはり躑躅が満開だった。寿司屋では母親が一〇貫入りの握りを見てこれでいいと言うので、それを二パック取り、こちらは一二貫入りの品を頂くことにした。ほか、手巻き四本。さらに母親が煎餅か何かをいくつか加えて会計。ここでも仕切りと金銭の受け渡しは先ほど同様。
  • 西友に行きたいと言うので、車のなかで本を読んで待っていると言って了承する。それで建物側面の通路を上っていき、上層の駐車場に入ると、いくらか明るさが差し入ってくる端のほうの位置に停めてもらった。そうしてシェイクスピア福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫、一九七一年)。二〇分ほどで母親は戻ってきて、帰路へ就く。
  • (……)の踏切りのあたりで白髪の老婆が路傍を歩いていたのだが、それを見た母親は、歳をとったらやっぱりどうしても地味になっちゃうから、なるべく派手な服を着たいな、みたいなことを口にする。これは母親が前々から折に触れて表明している強固な持論である。好きにすれば良いと思うのだが、やっぱりああいう人を見ると、もっとお化粧すればいいのにとか、赤みたいな明るい色を着ればいいのにとか、思うでしょ? とか言って何故か同意を求めてくるので、そんなもんその人の好きにさせてやれよと思った。あなたはそういうの着ればいいじゃんと向けると、でも、何かやっぱり気が引けて、周りの目が気になって、というようなことを漏らすので、じゃあやめればいいじゃんと単純明快極まりない二分法に沿って答えると、でもやっぱり明るくしたいとも言う。矛盾してるじゃんと突っこむと、そうなの、と返る。いずれにせよ好きにしてもらって構わないのだけれど、自分自身に対してそう思うってことは、他人を見ても、それが地味な人だったら、もっと派手に、若々しくすればいいのにって思うわけでしょ? そのくせ、その人が実際に派手な格好をしてたら今度はきっと、あの人もう歳なのにあんな派手にして、年甲斐もない、とか思うわけでしょ? という具合に軽く詰めてみたところ、母親は困ったように笑いつつ、そう、そうと同意したので、偉そうな話、傲慢な話ですよと冗談めかしてなだめるように落とした。
  • その後、何かの拍子に父親の話になって、お酒を飲むともう人が変わっちゃう、話も全然聞いてくれない、素面のときじゃないと、と母親は愚痴る。今日だって、雨が降ってたから家のなかのことをやるかなと思ってたら、外に出て畑ばっかりやっててなかのことは放ったらかしだし、買い物も行ってくれなかったし、Sに行ってもらえって言って、それに畑やると汚くなるじゃない? あんな格好で一緒に連れて歩くの嫌だよ、もっと小綺麗にしてほしい、といった具合である。そういう風に言えば良いじゃんと端的に返すと、いや、言っても聞かないよホント、酒を飲むとホントに人が変わっちゃうから、と繰り返すので、まあ、あなたたちは、結婚してもう三五年ですか? それだけの時間を一応一緒に過ごしてきたわけだけど、夫婦としてその程度のことも話し合えないような関係しか作ってこれなかったということでしょ、と切り捨てると、本当にそうだねと母親は同意した。
  • 帰宅すると荷物を運んで冷蔵庫や戸棚に収め、それから着替えてきて料理。買ってきた豚肉で筍を巻いて焼く。それで七時前になったのでもう食事にした。寿司は美味。
  • この日は散歩はしなかった。大して歩いてはいないけれど一応外出したので、それで良しとしたのだ。食後は階を下がってギターに遊び、そのあと「英語」と「記憶」の復読を久しぶりに行うことができた。そうしてベッドで書見しつつちょっと休んでから一〇時前に風呂に上がり、洗面所に寝間着を運んだあとトイレに行って戻ってくると、台所で両親が、何だか知らないがふざけていて、どうも父親がまたババアとか言ったらしく、笑いながらではあったもののちょっと言い争っていた。こちらはいつものように、糞だな、グロテスクだな、おぞましいなと感じ、いい加減不愉快だったので、このあたりでちょっと言っておいてやるかと思い、洗面所に落ちていた保冷袋を台所の床に投げつけて怒りを示そうとしたのだが、あまりうまく叩きつけることができず、怒りの表現としては何とも中途半端でダサいことになってしまった。それでも一応、不快を顔に表しながら黙って立っていると、父親が笑みの残滓を顔に帯びたまま振り返って、え? 何? 何怒ってんだよ、とか言ってきたので、ふざけんなよ、と低く呟いたところ、突然相手は激昂し、何? 何がふざけんなだ? お前にそんなこと言われる筋合いねえぞ! とか何とか、正確な言葉は違ったと思うがそんなようなことを叫びながら掴みかかってきたので、こちらも応戦し、大声で罵倒しながら押し返そうとしたものの、やはりどうしても肉体的に貧弱で華奢な人間なので押しこまれてしまい、洗面所のなかにどんどん追いやられて、浴室の入口横の壁を背に倒れかかるような姿勢になった。そうなりながらもこちらは一応、父親の首を、絞めるとまでは行かずとも掴み返していたのだが、その間もちろん母親は、やめなよ、やめて、やめて、と言いながら父親の後ろで顔を顰めてあたふたしているわけである。とは言え、何だかそこまで動揺したような雰囲気でもなかったように思い返される。
  • 母親の執りなしもあってひとまず父親が離れ、こちらも体勢を立て直し、お互い直立したまま近距離で向かい合うことになった。父親の顔は、酒気をはらんでいるので結構赤く染まっていた。そこからまたちょっと言葉の応酬があったのだが、最終的に一応頭を冷やしたらしい父親がこちらの言い分を聞くという流れになったので、以後はおおむね冷静に、時折り声を高めて激しいトーンで糾弾しながらも、家庭内での父親の振舞い方について長々と批判的な意見を述べた。
  • まず核心として、こちらにとって不愉快極まりないのは、父親が頻繁に母親のことを「ババア」とか「クソババア」と呼び、なおかつそれに色々な形容詞を付して主に母親の年齢を馬鹿にするような言辞を弄することなのだが、それを主要素としつつも、要は全体に父親の言動に観察される抑圧的で厚顔無恥な高圧性が気に入らないわけである。第一に主な論題である「ババア」問題から記述したいと思うが、話し合いの序盤で父親はそれについて、お前が口出しする問題じゃねえだろ、俺とお母さんのあいだの関係なんだから、というようなことを述べ、俺たちは夫婦なんだ、お前は女の人と夫婦っていう関係になったことがないからわからないかもしれないが、俺たちはいままで一緒にいて、そこで作ってきた関係があるんだよ、俺はお母さんのことを愛しているし、愛情表現として言っているんだ、みたいな主張を提示した。この文章はもちろん全篇に渡って、その場で発された言葉をそのまま正確に記録することはできないわけだが、可能な限り内容としてそれに近づける努力はするつもりだし、意味合いとしてはそんなところで大きく外してはいないと捉えていただきたい。ところでこの主張は、こちらが考えるところでは糞尿以下の代物であり、正しく反吐を吐きつけてやるべき悪質な論法、一年間に腹のなかで分泌生産される胃液のすべてを吐きかけて溶かしてやるか、さもなければ端的に小便を頭からぶっかけてやりたいような肥溜め未満の言い訳で、下劣拙劣卑劣低劣陋劣愚劣といった具合に、この世のあらゆる劣悪性を一列に編み合わせてこしらえたどす黒い経帷子くらいに烈々と劣等な汚穢の類であって、それが父親のお好みなのならばその衣装を身につけたままどこへなりとさっさと旅立ってもらってもこちらは一向に構いはしないのだが、大体において「愛」などというこの世界で最も抽象的な観念の一つを恥ずかしげもなく実に堂々と、まるで牛の涎みたいに口からでろでろ垂れ流しただけでなく、その美名でもって自身の醜悪極まりない行いを包み隠して上っ面だけ綺麗に飾り立てようとしているわけだから、そんなに粉飾が好きなら会社の経理でも担当して粉飾決算を活用しながら金の横領でもしていれば良いんじゃないだろうかと思う。こちらとしては、この現世においてこれほどまでに、「醜悪」とか「グロテスク」とかいう言葉がぴたりと当てはまる振舞いはないと感じられる。のちほどまた記すかと思うが、ここには明確に女性差別の構造が看取されると考えられ、例えば躾を理由にして児童虐待を働く親とか、自らと妻との関係の特権性を言い訳として家庭内暴力を振るう男性とこちらの父親の言い分は、本質的には異なっていないと思う。程度としてはもちろん差があるだろうけれど、立派に聞こえる大義名分を隠れ蓑にしつつそれを濫用・悪用・搾取して他人を不当に抑圧するという構図としては、こちらにはほとんど同じものに見えるし、少なくともそう遠いところにはいないのではないか。
  • ひとまず、ほかならぬ父親自身が、これは自分と母親とのあいだの排他的な問題だと主張していたので、それならまずはその二者間で考えてみようと提案した。それで、実際じゃあお母さんは、「ババア」という風に言われてどう思ってるの? どう感じているの? と訊いてみたところ、あまりにも当然のことだとしか思えないのだが、嫌だと思っているよとの答えが返る。したがって、この時点で早くも父親の「愛情表現」は、単なる独りよがりの自閉的な妄想でしかないことが明らかになったわけである。このような、とても簡単で至極順当な他者の心情に気づく程度の基本的な自己相対化の能力も持ち合わせずに、いままでよく他人の怒りを買って殺されることもなくこの世を生き延びてこられたものだなあ、とほとんど呆れるまでに驚愕せざるを得ないところだ。
  • 次に、こちらだって一応同じ家屋のうちで生活を共にさせてもらっている人間なのだから、例えば両親二人の関係、そのあり方をはたから目にして見苦しく不快に感じることはおりおりありうるわけで、この点で少なくともこちらと父親のあいだで「関係」が生じているのは明らかだと思われる。もしそれがどうしても理解できないのだとすれば、父親の顔表面に二つ空いているのは瞳の置き場所ではなく、残念ながら障子の破れ目と同程度の機能しか持たない空っぽの隙間、蛆虫の住処にでもしてやったほうが役に立つ単なる穴ぼこだということになるだろう。そうではなく、こちらと父親のあいだにかりそめのものであれ「関係」が生まれていることが認められるのだとすれば、それならこちらが横から「口出し」して、自分にとって不愉快に感じられるあなたの振舞いを改めてほしいと要求したって、悪いことではないどころか、それはむしろ当然の自由ではないだろうか。とは言え、論理上こうした主張が瑕疵なく成り立つかどうかは、別にどちらでも良い。「口出し」が「当然の自由」として認められようがそうでなかろうが、こちらがそうしようと決断したときに実際に行動するのを止めることは基本的にはできないはずで、現実の事態としてこちらの口から発される言葉の流れを停止させたいのだとすれば、それこそ首でも絞めて喉を使えないようにするか、あるいはこちらを殺して口を利けないようにするくらいしか有効な方法はないだろう。
  • ついでに付言しておくと、母親は、たしかに私も「ジジイ」とか「おじさん」とか、つい頭にきて言い返しちゃうけど、でも言ってくるのは必ずそっちからじゃない、私からそういうことを言うことはないじゃない、と指摘して、これは具体的な観察に即した正当な言い分だとこちらは考える。つまり、おそらくこれといった理由もないのに自ら喧嘩を売って悶着を誘発させるのは常に父親のほうだということだ。さらに母親は、「ババア」とか「クソババア」とか口にするときの父親の言い方には、いかにも憎々しげな、「上から目線」のニュアンスが感じられるということも指摘して、この点にもこちらは全面的に同意する。念のために明確にしておくけれど、こちらにとって問題なのは「クソババア」という言葉そのものではなくてその使い方であり、つまり父親がその語を発したときに同じ空間に居合わせた人間に対して展開される機能や、その場合にこの語が帯びるニュアンスのことである。「クソババア」という、辞書的にはいくらか乱暴な意味合いを持った一語が、しかし実際には互いを快く笑わせるための単なる軽口として機能する場面や関係だってこの世には存在するはずなのだが、父親がそれを使うときのニュアンスは母親の指摘した通り、まったく「憎々しげ」で他人をむやみに貶めるようなものだし、また機能としてもそれは、母親の発言を「上から」押さえつけて封じこめるように働いているということだ。
  • 次に夫婦関係の特殊性と父親が主張するものについて論述を続けると、実際こちらは夫婦関係というものを誰かと築いたことがないので、そのこまかな具体性について理解していないことはたしかに色々とあるかもしれない。しかしだからと言ってその「夫婦関係の特殊性」が、自らパートナーとして選んだ人間に対して継続的に傲慢に振舞い、相手を馬鹿にして貶めるという行為を許す論拠になるわけはないだろうとこちらは考える。それは単なる一関係の権力的な特権化、神秘化である。夫婦だろうが何だろうが、男女だろうが男性同士だろうが女性同士だろうが、恋仲だろうが友人だろうが家族だろうが赤の他人だろうが、人間関係とは言うまでもなく人間と人間のあいだに成立する関わりなのであって、一人の人間と一人の人間が関係するにあたって最低限それにふさわしい振舞いを取ってほしいとこちらは述べているに過ぎない。つまり、こちらの見るところ、現状父親は、母親を一人の人間としてそれにふさわしく扱っていないということだ。さらに考えるに、「夫婦関係」と呼ばれるものが仮に、「一人の人間と一人の人間」同士の広範で一般的な関係よりも高度に親密で、特殊で、父親の言葉が含意しているように「愛情」を媒介にして繋がれたほとんど特権的なまでの関係、一口で言って「尊い」ものなのだとしたら、それはなおさらその「愛」にふさわしく、互いを穏やかにかつ慎ましく「尊敬する」ような敬意に支えられた人間関係でなければ、ことの道筋としておかしいのではないだろうか。もちろん現実には、物事はそううまくは行かないだろう。しかし、少なくともそういう関係を作れた方がより望ましいということは言えるはずであり、同時にまた、いやしくも「愛」などといってまことに美しく素敵な言葉を口から吐き出すからには、わずかばかりでもそうした方向に歩みを進めていく努力をしても悪くはないだろうし、努力ができないとしてもその振りくらいはするべきではないだろうか。ところが現実に生きているこちらの父親は、当人の言うところでは紛れもなく自分の「愛」の対象であるはずの母親に対して、あられもなく「ババア」「クソババア」と口にしてやまず、相手の言うことをたいして聞こうともせずに荒っぽい口調で大きな声を出して黙らせるというような、小学生の餓鬼大将も顔負けの幼稚極まりない振舞いに耽っているわけなので、それに対してごく控えめに苦言を呈するならば、まるで打ち上げ花火みたいに愉快にふざけ散らかすのはおやめになったほうがよろしいのでは? ということになるだろうし、もう少し率直に言うならば、いますぐこの世界から消えろという一言に尽きるだろう。ここまでこちらが感じたこと考えたことを色々と長く書いてきてしまったので、もしかしたら重要なポイントが拡散してしまってよくわからないと思われるかもしれない。そこで、ここで事態をわかりやすくするために核心に立ち戻って非常に短くまとめておきたいが、父親の立場は、こちらの理解によれば、俺は妻を「愛」しているから彼女を馬鹿にしたり罵倒したり怒鳴ったりしても許される、と主張しているのと同じことである。それに対してこちらは、そのような主張は糞だと言っている、ということだ。以上述べてきたことはこちらにとってはとてもわかりやすく、理解するためにさほどの思弁的努力は必要としない種類の明白な意見だと思われるのだが、もし父親がそのような物事の道理も理解できず、また極めて残念なことに行為においてそれをわきまえることができないのだとしたら、とっとと頭をかち割って、そのなかの腐った脳味噌を海に流して魚の餌にしてやる代わりにウニの身でもたらふく突っこんでおくのが良いんじゃないだろうか。
  • とは言え上のように、「人間同士」として「最低限それにふさわしい」関係というものを志向する立場を、安直なヒューマニズムとでも言うか、いかにも楽観的で、ことによると反動的でさえあるかもしれない近代主義の産物だと見ることもおそらく不可能ではない。例えばショアーというあまりにも圧倒的な事件を引き起こした二〇世紀ののちに、近代的な人間主体にふさわしい「理性」的な振舞いだの何だのと言っても――先に記したこちらの主張を換言するとそういうことになると思うのだが――そんなものはもはや信用できないという言い分はあり得るだろう。つまり、「理性」などというものはそんなに万能なものではなく、こちらの主張はその観念、あるいはその能力に重きを置きすぎているという反論だ。そして、それはその通りだと思う。例えばナチス第三帝国の行いだって、少なくとも一面においては、まことに「理性」的な計画と計算と推論の能力に、そして極めて「合理的」な形態を取ったその能力の遂行に基づいていたはずなのだから。言わば、「理性」的能力が十全以上に精緻に機能しながらも、しかし根本的な地点でその方向を捻じ曲げられたことによって二〇世紀最大の災厄の一つは生まれた、と考えられるのかもしれない。と言ってこのような主題についてはよく知らないので確たることは言えないのだが、理性批判という仕事は多分、アドルノをはじめとしたフランクフルト学派の人々などがやっているのだろうか? 『啓蒙の弁証法』というのはそういう種類の書物なのではないかというイメージを何となく持っているし、あるいは同時に、ペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』などという著作の名前も思い起こされるけれど、いずれにしてもこちらはそれらの知見に触れたことはないので、理性批判については現状、何も言えない。ただ今回の問題は、遥かにそれ以前の段階の話だと考える。ここでは例えば父親のような態度に対して、現時点でのこちらの知見の範囲内で次のように勧めておきたい。すなわち、近代を通過したのちの世界に生まれた人間として、もう少しばかり自らの精神を「理性」的に洗練させる努力をしても悪くはないのではないかと。ところで父親はこの話し合いのあいだ頻繁に、「それはお前の感じ方ね?」とか、「お前の感覚ね?」とか、「お前の意見ね?」「お前の主張ね?」といった具合に、こちらの発言がこちらに所属するという明快極まりない事実を繰り返し念入りに確認してきたのだが、それは多分、お前はそう感じるかもしれないが、それはお前個人の感じ方であって、俺はそうは感じない、ということを含意していたのではないか。実際、(俺とお前では)感覚が違うわけよ、という言葉もたしかに耳にした。しかし、こちらと父親とではもちろん違う人間なのだから、それぞれの感じ方が異なっていることなどわざわざ確定するまでもない自明の前提のはずであり、それを踏まえた上でこちらははっきりと、あなたは自らの妻に対する振舞い方を見る限りただの下劣な糞野郎だ、と糾弾しているわけである。だから、「理性」的思考能力を有効に具えているはずの近代的主体としてはまだおしめも外していないようなよちよち歩きの赤ん坊ほどの段階にいるにもかかわらず、悪しき通俗ポストモダン風にクールな似非相対主義を気取って言い逃れを試みるのはやめてほしいし、そういう態度は少なくとも、まずはおむつを外して自らトイレで用を足せるようになってから取るべきではないだろうか。
  • 次の主題に移ると、あなたたちはいままで人生を六〇年、つまりこちらの倍以上も過ごしてきて、そのなかで色々な経験も重ね、物事の道理についてもさまざまに学んできたはずなのに、その結果がこのような「夫婦関係」で良いのか? という問いも差し向けた。これは祖母に対する祖父の振舞い方を見ていた頃から、つまり中学生か高校生の時分からこちらはずっと思っていたことで、当時の自分は祖父に対して、この爺さんは七〇年だか八〇年もの歳月を生きてきたのに、そのあいだに一体何を学んできたんだろうという疑問を抱かざるを得なかったのだが、それと同じことである。このような問いに対して父親は、お前はまだ実際に六〇年間生きていないからわからないかもしれないが、人間ってのはそんなに性格とか本質とかが変わるものじゃないんだ、というような反論を提示し、お前はいま三〇歳で、自分はいまこのくらいの地点にいるな、あと三〇年生きて六〇歳になればこのくらいのところに行ってるかな、という考え方をしているのかもしれないけれど、実際にはそんな風には行かないんだ、みたいな主張をした。これはこちらの理解では、人間は歳月を重ねるとともに発言や振舞いの面で洗練されていくわけではないという言い分であり、それによればこちらの考え方は「実際」的な現実を知らない空疎な進歩主義だということになるだろう。そして、こちらがいくらか進歩主義に寄った価値観に立っているというのはその通りかもしれないのだが、とは言えそうだとしても、父親が自らの醜悪さを顧みない停滞主義にひらき直って良いということにはならないだろう。上のごとく小賢しく悟ったようなふりをして道教の仙人にでもなったかのような言葉を吐くのは、まずは霞を食うだけで生きていけるようになってからにするべきではないか。それでこちらは、まあお父さんはそう言うけれど、でも一方でやっぱり、歳を取った人間のほうが若者よりも物事の道理を知っている、そういう見方が世の中には一般的にあるよね? もちろん現実にはそうは行かないかもしれないけれど、年上の人間にそういうことを期待するのは、これはごくありふれたことだよね? という風に、世間的常識を召喚する論法を用いた。これは社会的に容易に観察できる通念のはずで、と言うのも、そうした常識的価値観が流通しているからこそこの世界には、少なくともこの日本国には、例えば「年甲斐もない」とか、「いい年をして」とか、あるいは「年寄りの冷水」というような言葉が存在しているわけだろう。そのなかからここでは試みに、「年甲斐もない」という表現の辞書的な意味を引いておきたいと思うが、「精選版 日本国語大辞典」によればこの語は、「大人がその年齢にふさわしくない愚かな事をする。いい年をして浅はかな行ないをする」こと(https://kotobank.jp/word/年甲斐もない-583395)として定義されている。ということは、辞書に載るくらいにごく一般的に共有された価値観として、「大人」は「その年齢にふさわしく」、「愚か」や「浅はか」ではない振舞いを取るものだという観念がこの世界には広く通用していると理解されるはずで、だからこそそれを時に破ってしまった「大人」に対しては、「年甲斐もない」という批判的な形容が付されるわけだろう。ところで父親はこちらの見る限り、例えばテレビドラマを見て感動の涙を流しているときなどがその一例なのだが、ほかの場面では世の中の大勢に合わせるのが比較的得意と思われるにもかかわらず、先に述べた点ではひどくありふれた世間的通念に同調できていないわけで、これは一体どういうことなのか? ついでに言っておけば、父親は数年前に、こちらが読み書きばかりに耽っていることを取り上げて、そんな風に自分の世界に浸りこんだ結果、自己本位に陥って世間から外れてしまわないように、みたいなことを忠告してきたのだが、以上の記述を踏まえた上で、父親とこちらのどちらのほうが一体、健全な「世間」的常識からより「外れて」いると判断されるのか訊いてみたいものだ。父親はこちらよりもよほど長いあいだ「世間」のなかで暮らしてきて、その世界で通用しているさまざまな価値観や規則などについても通暁しているはずなのだが、その体験からいままで何を学んできたのだろうか?
  • 次の問題としては、そもそも人生経験を積んでも若い頃と人間性が変わらなかったというのは、あくまで父親個人の限定された一体験に過ぎないという点が挙げられる。こちらの批判に対する父親の反論を見返すと――もちろんそれはこちらの視点で父親の発言の意味内容を言語化したものではあるものの――「お前は女の人と夫婦っていう関係になったことがないからわからないかもしれないが」とか、「お前はまだ実際に六〇年間生きていないからわからないかもしれないが」という言葉が観察されるのだが、この二つの文は言うまでもなく同一の論法形式を取っているもので、そこにはまず第一に、「実際に」体験しない限り、物事の性質や道理を正しく理解することはできない、という発想が読み取られる。それを基盤としてその次には当然、例えば「夫婦関係」や「六〇年間」にまたがる人生行路というものを「実際に」体験していないこちらは、そうした事柄の性質について正しく知ってはおらず、したがって理解してもいないので、それらの主題に関しては父親の見方のほうが現実に即した真なるものだとする立場がきわめて論理的かつ明快な推移でもって帰結することになり、つまりは何かを理解するという知の行為において「実際」の「体験」を思考や想像力よりも上位に据える序列的判断がここには働いているとともに、父親はこちらに対して、実経験に基づき俺はお前よりもものを知っていると主張しつつ自らの優位性を言明していると思われるのだが、それをもう少し敷衍すれば、こちらのような考え方はなまなましいこの世の現実を知らず地に足がついていない一種の理想主義であり、父親の立場は確固たる実例に基づいた信用に値するリアリズムだということになるだろう。たしかに父親は話し合いの後半において、お前はいつも難しい本を読んで難しいことを考えていて、人間とは理想としてこうあるべきだ、みたいなことを考えるのかもしれないけど、とか何とか漏らしてもいた。しかし、こちらとしては「理想」などという高邁な概念を持ち出しているつもりはまったくない。そうではなくて、仮にも文化というものを知っている人間として自己規定をしているならば、それに応じて「最低限」具えておくべき穏当な慎みを持て、と要求しているつもりである。もちろん現実とはそううまく行くものではなく、この世にはそういう「慎み」を持ち合わせていない人間はいくらでもいるわけだし、上のような「最低限」の「要求」自体がそもそも「理想」的に手の届かない領域にある美しく高尚な精神だとも言えるのかもしれないが、仮にそれが事態を正確に描写する言葉なのだとしたら、この世の悪辣さならびに人類の愚劣さとはあまりにも計り知れないものだということになる。そして、それはおそらく正しい。しかしともあれ、こちらは何も殊更に「難しい」話をしているつもりはなく、ここで語られている事柄は、理屈としては中学生や小学生の子供でもわかるような道理のはずだと思っている。つまり、根拠もなく他人を馬鹿にしたり貶めたり圧迫したりして相手に嫌な思いをさせるのはなるべくやめたほうが良いのではないかと言っているだけであって、それは例えば小学校の教師などが、ひとがやられて嫌だと感じるようなことはやらないようにしましょう、相手の気持ちをよく考えて行動しましょう、と子供たちに言い聞かせるのとほとんど同じ内容のはずである。なるほどたしかにそれを実際に行為の面で守れるかどうかはひとまず措くとしても、こちらが話しているのは要約すれば、意味内容としては五歳児でも理解できると見なされているくらいに簡明な事柄であるわけで、子供が小学校に入学してからそう遠くないうちに教わるような古典的道徳原則を、還暦を越えるほどの時を通過してきたにもかかわらず、現実に即していない「難しい」「理想」だとのたまい、その程度の常識的な共通理念も守れない己を免責しようとするのだから、これは一個の人として恥じ入るべき暗愚不明だと評価しても良いのではないだろうか。それでいながらしかも同時に、こちらにはあまりよろしいとは思われない社会の趨勢に自ら望んで同調していく付和雷同的な習癖は立派に具えているのだから、もしも父親がナチス第三帝国体制下に生まれ変わったとしたら、多分、模範的に善良な一市民として大した疑問もなしにユダヤの人々を迫害していたのではないかと思う。
  • もともとの論点に戻りたいのだが、多くの年月を過ごしさまざまな経験を積んだとしても人間は本質的に変化するものではない、というのが父親の発想だった。この考え方の論拠になっているのは、「お前はまだ実際に六〇年間生きていないからわからないかもしれないが」という発言から判断する限り、父親自身が通過してきた「六〇年間」の時間的体験である。つまり父親は、俺は「実際に六〇年間生きて」きたけれど、俺の「性格」や「本質」は最終的には変わらなかったのだと言っており、その一例を根拠として、「人間」一般とはそのように停滞的な存在であると主張しているわけだが、ここには急激なカテゴリーの拡張による飛躍的な一般化が明瞭に観察されると思う。数十年の長きに渡る時間をもってしても人間性を変化させることがなかったというのはあくまで父親個人の体験に過ぎず、言うまでもなくこの世には、多種の経験を積み重ねた結果、まさに「その年齢にふさわしく」成熟したと判断されるような人物だって、よしんばそれが多数派ではないとしても、「実際に」一定数存在しているわけである。したがって、父親はここで自らの個別的体験をあたかも普遍原則であるかのように混同して語っている。そのような帰納的一般化はこの世の誰もが行う思考操作だし、最終的には誰だって自らに見えた狭いものの範囲で判断や信条を形成せざるを得ないのだから、一般化そのものをどうこうあげつらうつもりはないのだが、ただしこの場合のそれは質の悪いものだと言うべきだろう。なぜなら第一に、上に記したような父親の論理展開は実例によって明らかに反証される粗雑かつ飛躍的なものだからである。第二に、それが同時に父親自身の醜い(としかこちらには感じられない)行為を正当化する言い分として利用されているからである。つまりこちらが見るところ父親は、人間というものは本質的には経験の蓄積によって変わるものではない、俺も若い頃と比べて進歩することはできなかった、だから人として「理想」的に素晴らしい(こちらの考えでは「最低限」の)振舞いを取れなくてもそれは仕方のないことなのだ、と言ってひらき直っているように思われる。ここでこちらの心中には不可避的に一つの疑問が湧き上がってくるのだが、父親はそもそも、一人間として「その年齢にふさわしく」成熟していきたいというような、健気とも言うべき向上心を抱いたことがあるのだろうか? もしないのだとしたら、夏目漱石が『こころ』のなかに書きつけたあまりにも有名な定義に照らす限りで、こちらの父親は馬鹿だということになる。なぜなら、『こころ』におけるKの発言によれば、「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」(夏目漱石『こころ 坊っちゃん』文春文庫、一九九六年、360)からである。もしそのような向上心を抱いたことがあるのならば、次に、それに基づいて多少なりとも実践的な行動を試みてきたのだろうか? 仮にそうしながらも人間的に変化することができなかったのだとしたら、それは残念なことに父親が、自らを変容させられるほどの運を掴めない不運で気の毒な人間だったということであり、他方で同時に、自己変革の能力を身に具えることも有効に発揮することもできない無能だったということである。反対に、向上心を具現化する試みをそもそもしてこなかったのだとすれば、それは父親がその程度のありふれた殊勝さすら持ち合わせることのない気の毒で無能な人間だったということである。いずれにしても、自らの体験に基づいて人間の「性格」や「本質」が変わる変わらないということを言うのだったら、少なくともまずはそのような人格的修養を「実際に」試みてからでなければならないはずだろう。
  • 父親が過去に自己修養を志したことがあるのか否か、その点はわからないしこちらに特段の興味もないが、上記した発言からも窺われるとおり、なぜだか知らないけれど父親は、人間とは自らを変革することはできないものだとむやみに思いこむ傾向を持っているらしい。と言うのも、相手の発言を受けてこちらが、人間は歳を取ればそれだけ賢くなるとは限らないってことかな? とその内容をより平たくパラフレーズしてみたところ、賢くって言うか、「個性」として捉えて……とか何とかぶつぶつ呟いたからで、そこからさらに父親は、生まれつきそうなのかもしれない、もともとの性格なのかもしれない、というような言葉を続けたのだ。つまり、自分が母親に対して高圧的な(としかこちらには思えない)態度を取るのは「生まれつき」の「もともとの性格」なので変えられない、ということであり、言うなれば生得的決定論にもたれかかり、先天性神話に居直ってみせたわけだが、それならそれは恥ずべき「個性」だとこちらはひとまず切り捨てておいた。すると父親は、「逆ギレ」でもないけれど、じゃあ俺はどうしたらいいの? とか言って嘆き返してきたので、正直に言ってその程度のことは、いまから考えるまでもなくこれまでの人生経験から当然わきまえていてほしいと思うのだが、もしじゃあ自分が何かこう、例えば悪口を言ってしまうとか、まあ偉そうに振る舞ってしまう、生まれつきそういう性質を持っているのかもしれない、もしそうなのだとしたら、まずはそれを自覚する必要があるよね、つまりは自分をよく見る、自分をよく知るってことだ、で、その次に、その性質が良いものなのか悪いものなのか、それを判断しないといけないでしょう、そのときには、いまこうやって俺があなたに言っているみたいに、他人の意見を聞くということも当然必要になってくるはず、そういうプロセスを辿らないといけないよね、それで、その結果としてその性質が良いものだと思うのなら、そのまま伸ばしていけばいいだろうし、もし悪いものだと思うなら、まあできれば、直すような方向に行ったほうがいいんじゃないっすか、という具合で一つの筋道を提示した。まことに基本的かつ道徳的に簡明なことをこちらは言ったつもりだ。
  • だいたい、こちらが一貫して述べているのは、母親を一人の人間としてそれにふさわしく扱ってほしいという「振舞い」の問題、「行動」の面の問題なのであって、己の内面的「性格」だの人間的「本質」だのを変革せよなどという大きなことは要望していないつもりだ。つまり、まず第一に、母親のことを「クソババア」と呼んだり、例えば年齢を取り上げたりして貶めるその具体的な行為を金輪際やめろということ、ひいてはそれに類同する抑圧的な言動を控えろと要求しているわけで、一体そうするために自らの「性格」とか「本質」とかを変容させるような大事業が必要なのか、こちらには疑問である。もう少し平たく言い直せば、父親が心のなかで母親のことを例えば「クソババア」とか、あるいは萎びて衰えたしわくちゃのババア(というような意味のことを父親は実際に口にしたことがあるのだが)とか思う瞬間があるとして、それ自体は別に構わないし、心中で両親が互いのことをどう思っていようがそんなことはこちらにとってはどうでも良い。ただ、それを具体的な行動に反映させて目に見える形で表出し、相手を蔑み見下して馬鹿にするような振舞いはやめるべきだ、仮にも人族の一個体として理性の能力をひとしずくでも具えて生まれてきたつもりなら、その程度の恥じらいは持ち、その程度の自制は働かせたほうが良いだろうと言っているに過ぎない。そのついでに触れておけば、この夜の洗面所における話し合いのあいだにも父親は、母親が何か発言を挟んできた時とか、こちらと父親に対して何かしらの形で働きかけようとしてきた際などに、お前は黙っていろという意味のことを言って母親の言葉を聞こうとせず、また片腕を用いて相手を押しのけるような振舞いを見せもしたのだが、そうした行動こそ、こちらが抑圧的だと言って批判している当の対象なのだということを、おそらく父親はまったく理解していない。
  • そもそも父親が憎まれ口を垂れるその対象としては、まず第一に母親の寄る年波があり、それに付随する容色の衰え、つまりは老化があるわけだが、これらの事柄は言うまでもなく、母親当人に責任を帰せられるものではない。生きている限り人は避けようもなく歳を取っていく存在だし、それに伴ってその人の肉体的容貌が変化することも、個人差はあるだろうしそれを防ぐべく尽力している人もいるだろうけれど、大体においては順当なことだと思われ、仮にその変化によって容姿が若い頃よりも美的に「衰えた」と判断されたとしても、それは明らかに本人のせいではない。生物として抗いがたいほとんど法則的なうつろいのはずである。つまり父親が殊更に取り上げて馬鹿にしているのは、母親の取っている具体的な行動ではなく、基本的には母親自身がどうするすべも持たない属性としての特徴だということだ。それに対して、こちらが批判しているのは先にも記したように父親の取る具体的な「振舞い」であり、振舞いとは個別的な場において表出される行為のことである。そして、行為であるからには、それは基本的には父親自身の意思に沿ってなされているものだと考えられる。「意思」という観念も色々と問題含みなものではあり、人間は本当に「意思」的に行動しているのだろうか? などという疑問も問いうるわけだが、そんなややこしい問題は哲学者たちに任せておいて、ここではあくまで一般的な理解のモデルに従って考えたい。すなわちこちらが思うところ、父親は己の行動をある程度は制することができるはずだということだ。「クソババア」という言葉を口に出さないことができるはずだし、最終的にはどうしてもその語を発してしまうとしても、少なくともなるべくそうしないように心がけ、暴言への本能的な誘惑にいくらかは抵抗することができるはずだと思う。またあるいは、「クソババア」と言ってしまったあとからでも、それが良くない振舞いだったと反省する心がもしあるのなら、例えばその旨を母親に伝えて謝るということができたはずだと思う。ところが、敢えてこのような言葉を使わせてもらうが、これらの「努力」を父親はいままで何一つ目に見える形で実行してこなかった。ということはこちらの推測するところ、父親は多分、自身の振舞いが「良くない」ものだとはこれっぽっちも思っていなかったのではないか。それはつまり、自己をかえりみるという精神の働きがそこには生じなかったということである。したがって、おそらくはこちらが上に挙げたような「努力」の行為を、その一部であれやろうという発想すら、そもそも持つことがなかったのではないかと思われる。そして現実には、母親自身に何の咎もないと思われる要素をつつき上げて、馬鹿にし、笑い、罵倒するという習慣に得々と安住してきたわけである。これはこちらの判断するところ、まず第一に卑劣な振舞いである。つまり、少なくともこの一行為を見る限り、父親の行動は屑の所業だとこちらは考える。したがってこちらに言わせれば、馬鹿にされ、笑われ、罵倒され、見下され、蔑まれるべきなのは、母親ではなく、明らかに父親の方である。また第二に、父親の振舞いは愚劣なものだと判断される。なぜなら、他人の視点を取り入れながら自分を相対化して、より適切だと思われる自己像や行為様式を作っていくという精神の操作、一言で言って反省が、そこには欠如しているからである。それを言い換えるならばまさしく思考の不在としか言いようがなく、愚かさとはこの世においては、端的に言ってものを考えないこととして定義されているはずだ。
  • 言及可能な論点は少なくともあと三つある。一つは父親の愚行が母親のみを対象としたもので、ほかの女性に対しては抑圧的な言動は見られないという事実の持つ意味合いである。二つ目は、今回の悶着の起点において父親がこちらに働いてきた肉体的暴力についての批判である。三つ目は酒という要素が父親の精神や行動に及ぼす影響の評価であり、さらに四つ目としては、今次の出来事が精神分析的に見るとあまりにも月並みな典型であるということへの厭悪感も挙げられるが、それらの主題について詳細を記すのはもう面倒臭いので控えるし、この件に関する記録もいい加減にそろそろ終わりにしたいと思っている。上記、実に長々と述べてきたことからしてこの上なく明らかだと信じたいのだが、最後に一応こちらの言いたいことを短く要約しておくと、それはまず第一に、父親の行為は恥ずべきものであり、したがってそれにふさわしく恥を知れ、ということである。第二に、恥を知ることができたのならば、ほんの少しでも良いから頭を使って自らをかえりみること、すなわち反省をしろということである。正直に言って、なぜ息子たる身分であるこちら――それも経済的に自立せず、いまだに生計を父親の財的基盤に頼っている放蕩息子としてのこちら――がわざわざ懇切丁寧に言葉を尽くして、あちらの振舞いの馬鹿げた幼児性に気づかせてやらなければならないのか、まるで理解ができない。曲がりなりにも六〇年の時を本当に生きてきたのなら、その程度のことは自分自身で見出してほしいと思う。ハムレットの言葉を借りれば、「神が造った同じ人間を冒涜する気はさらさらない」けれど(シェイクスピア/野島秀勝訳『ハムレット』(岩波文庫、二〇〇二年)、155)、下手くそな人類の真似事をして戯れる猿ではなくていやしくも人間種族の一体としてこの世に生まれ落ちたつもりでいるのなら、少しは自分の知性と理性と悟性の尻を蹴ってきびきび働かせてやり、それにふさわしい振舞いを取れということに尽きる。シェイクスピアの言葉をもう一つ、引いておきたいと思う。「人間とは一体、なんだ、/食っては寝るだけが人生の能だとしたら? 畜生とどこが違う? /前を見、後ろを見、それで物事を考え計画する、/そんな知力をふんだんに人間に授けてくださった方は、/この能力、神のごとき理性が、まさか使われずに黴を生やすなどとは、/思ってもいらっしゃらなかったにちがいない」(同上、226)。
  • これで本当に最後にしたいのだが、あと一点、話し合いの幕引きについてだけ触れておくと、父親はこともあろうに、お前は俺とお母さんの仲を色々心配してるかもしれないけど、大丈夫だから、俺たちは仲が良いし、愛し合ってるから、とかいう言葉を吐いて事態をまとめたわけである。この発言からして、こちらの批判の意味を父親がまるで理解していなかったことはあまりにも明白だろう。まずもってこちらは両親の仲を「心配して」などいないし、父親と母親の仲が良かろうが悪かろうが、二人が「愛し合って」いようがいまいが、そんなことはどうだって良い。そうではなくて、上に何度も書いてきた通り、互いに相手を不当に貶めずに一人間としてふさわしく扱い、自らも一人間としてふさわしい振舞いを取れ、とその点を強調して繰り返したつもりである。ところがそれは、どうも正確に伝達されていなかったようだ。最後に一応、上に記した父親の要約を受けて、あなたの言っているその点こそがまさに問題であって、「愛」を大義名分として抑圧を覆い隠すのは言ってみれば女性差別の構造であり、(最初の方にも書いたように)躾を理由にして子供を虐待する親とか、まさしく愛情を言い訳にしてDVを働く男性などとあまり変わらないだろうということを噛み砕いて指摘しておいたのだが、果たしてそれがきちんと正しく理解されたかどうかはわからない。ともあれこの出来事の記録を終えるに当たって、誤解はないだろうと確信しながらも念のために付け加えておきたいのだが、以上に綴ってきた事柄はもちろんすべて、こちらの父親に対する「愛情表現」である。
  • Mさんのブログ、二月二四日。

オープンダイアローグにおいては、うまく語ることのできない出来事をどうにか語るということの重要性が強調されていた。語りがたい出来事、語り損ねてしまう出来事、とどのつまりはいまだ象徴化されていない現実界の出来事=外傷を、どうにかして語る(象徴化する)こと。これもまた小説に関する言説としてアナロジカルに読み替えることができるが、そのときラカン派とは正反対のアプローチを仕掛けているようにみえる。物語(象徴化されたもの)をかいくぐって出来事-外傷(象徴化されていないもの)にせまろうとするラカン派的小説家と、出来事-外傷(象徴化されていないもの)を物語(象徴化されたもの)として語ろうとするオープンダイアローグ派的小説家——と書いていて気づいたのだ、オープンダイアローグ理論をアナロジーとして採用するのであれば、ダイアローグに参入する他者の存在に触れないわけにはいかない。この対比はいくらなんでも雑にすぎる。とはいえ、小説家のいとなみというものを考えるにあたって、「物語(象徴化されたもの)をかいくぐって出来事-外傷(象徴化されていないもの)にせまろうとする」と態度と、「出来事-外傷(象徴化されていないもの)を物語(象徴化されたもの)として語ろうとする」態度は、一見すると正反対のようにみえるが、実際はさほど遠くないのではないか? というかこの両者のせめぎあう運動——それがゆえにそのどちらもが十全に達成されることは決してなく、挫折を余儀なくされ、中途半端な癒着としての失敗に帰結せざるをえない——こそがほかでもない、「物語(全体性-象徴化)とそれにあらがう出来事(断片性-未象徴化)が同居するメディアとしての小説」——その価値はいかにあらたな失敗のフォルムを生み出したかで測られることになる——なのではないか。

  • 一時過ぎから日記。四月一五日分。なぜだかわからないが、書きぶりが結構軽くなってきたような気がする。それほど堅苦しく頑張って固めずに緩くやるような雰囲気。それに応じたのか口調も何だか軽いようになったが、このくらいの緩さでも別に良いだろうし、一応、軽いなりに文の流れ方はそこそこ注意しているつもりではある。
  • Bill Evans Trio, "Gloria's Step (take 1, interrupted)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#2)を聞く。白銀的に静かで冷たい質感の曲で、LaFaroが作る曲には、"Jade Visions"もそうだけれど特有の冷たさがあるように思う。と言って、そもそもこの二曲しか彼の作曲を知らないわけだけれど。"Gloria's Step"は小節の区分がちょっと独特なのだが、EvansにしてもLaFaroにしてもまったく自然にその上に乗って泳いでいくので、どういう風に数えているのか、どこかで分割して考えているのか、それとも感覚的に身に染みついているのかよくわからない。
  • Horace Silver, "The St. Vitus Dance"(『Blowin' The Blues Away』: #2)を続けて聞く。管抜きのピアノトリオ。曲にせよ演奏にせよ小粒だと言うべきなのだろうが、このアルバムを入手した当初から、こちらは結構この二曲目が好きだ。ちょっと複雑な感じの陰影と言うか、ファンキー一辺倒ではない特殊な色合いや香りが漂っているように感じられ、Horace Silverの作曲にはこのような、明朗明快だけではなくすっと一筋縄では行かないような色味が織りこまれていることが結構多い気がする。とは言え、ソロ自体はファンキー・ジャズを代表するピアニストらしい、弾力的に転がり跳ねるような球体感覚が随所にはらまれている。


・作文
 12:47 - 14:21 = 1時間34分(14日)
 14:37 - 15:34 = 57分(4日 / 3日)
 25:04 - 27:23 = 2時間19分(15日)
 計: 4時間50分

・読書
 15:43 - 16:05 = 22分(シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』: 212 - 239)
 17:37 - 17:58 = 21分(シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』: 239 - 267)
 20:53 - 21:25 = 32分(英語 / 記憶)
 21:26 - 21:51 = 25分(シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』: 267 - 284)
 23:24 - 24:25 = 1時間1分(日記 / ブログ)
 24:47 - 25:04 = 17分(青空文庫
 28:23 - 28:29 = 6分(ウィキペディア
 計: 3時間4分

  • シェイクスピア福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫、一九七一年): 212 - 284
  • 「英語」: 96 - 115
  • 「記憶」: 64 - 70
  • 2019/3/25, Mon.; 2019/3/26, Tue.; 2019/3/27, Wed.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-02-24「引き換えに手に入れたもの引き換えに差し出したものコーヒーを飲む」; 2020-02-25「貿易は換喩であると口にする負債を抱えたあなたの指輪」
  • 「at-oyr」: 2020-01-19「モノトーン」; 2020-01-20「女は女である」; 2020-01-21「喫煙所」
  • 青空文庫: 太宰治「ア、秋」、「I can speak」
  • ウィキペディア: 「ヴラド・ツェペシュ

・音楽
 28:29 - 28:45 = 16分