石甃[いしだたみ]を行き尽くして左へ折れると庫裏へ出る。庫裏の前に大きな木蓮がある。殆んど一と抱もあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があればなお見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙[す]いている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝を徒[いたず]らには張らぬ。花さえ明かである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまで簇[むら]がって、どこまで咲いているか分らぬ。それにもかかわらず一輪は遂に一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然と望まれる。花の色は無論純白ではない。徒らに白いのは寒過ぎる。専らに白いのは、ことさらに人の眼を奪う巧みが見える。木蓮の色はそれではない。極度の白きをわざと避けて、あたたかみのある淡黄に、奥床しくも自らを卑下している。余は石甃の上に立って、このおとなしい花が累々とどこまでも空裏に蔓[はびこ]る様を見上げて、しばらく茫然としていた。眼に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。
(夏目漱石『草枕』岩波文庫、一九九〇年改版、139)
- 一〇時のアラームで覚醒したのち、遠からず離床することができた。
- 今日もとても暑く、自室にいるあいだは上半身裸で過ごしている。
- ロラン・バルト/花輪光訳『物語の構造分析』(みすず書房、一九七九年)を進める。読み方がちょっと精読的になってきていると言うか、そこに書かれている文のひとつひとつ、あるいは一語一語の意味射程をよく見極めるように、また記述の内容に当てはまる具体的な例なども自分で考えながら読んでいるので、大して進まない。そのときに展開された思考を日記に詳しく記述しておきたいとは思うのだが、面倒臭くてなかなかやる気にならないところだ。
- この部分のメモを取った現在は六月一一日であり、したがって出勤路のことは忘れた。この日の勤務は二時半から一コマ。(……)くん(中二・英語)と(……)くん(小五・国算)が相手。(……)くんはいつもどおりだが、(……)くんのほうが昨日の日記にも記したとおりやや曲者と言うか、ちょっと面倒臭い相手ではあった。大きな声を上げたり、ふらふらと席を立って歩いたりしており、それだけならまだ良いのだけれど、きちんとノートを見せようとしなかったり、果てはこちらの指示に従わなかったりするのだ。それで仕方なく、ちょっと説教をした。具体的には次のような流れである。まず、前回の宿題で漢字のページを出していたところ、やってはきたもののけっこう間違いがあったので、正しく書けなかった問いにはチェックをつけてやり、答えを見ながらで良いのでチェックをつけたこれらの漢字を正しくノートに書いてみてくださいと指示を出した。ところがちょっと経ってから見に行くと、そのうちのいくつかしか書いていない。それで、ここは? と無視されていた問いを指差して訊いてみたところ、忘れてたとか言ったり、いいじゃんとか言ったりして嫌がり、勝手に先に進もうとするので、それなら仕方ない、ちょっと苦言を呈しておいてやるかと思い、まず、僕はさっき、間違えた漢字をすべて、答えを見ながらで良いので、正しく書いてみてくださいと言いましたよね? と確認的な問いを差し向け、で、実際にあなたがやったのは? と追及した。それに対して(……)くんが何と答えたのだったか覚えていないのだが、まあ普通に言い訳をしたか、あまり悪びれない感じの態度を取ったはずである。それに対して、急ぐ必要はない、ゆっくり、自分のペースでやれば良い、といったん寛容さを見せながらも、あなたはなんでここに来ているんですか? と追及を続けた。すると少年は、勉強をするため、と答える。なんで勉強をするんですか? と問いを重ねてみれば、頭が良くなりたいから、と言う。ほう、そうなのか、と思った。まあ本当に彼本人が自分で「頭が良くなりたい」と思っているのかどうかわからないけれど、とりあえずそれを真に受けて、じゃあ、あなたは自分ひとりで、頭を良くすることができるんですか? と訊いてみると、できないと相手は首を振る。ということは、あなたはこの塾に来て、ここにいる先生方にお手伝いをしてもらわなければならない、で、僕たち講師のほうも、あなたが頭を良くしたいと言うのなら、じゃあ多少そのお手伝いをさせていただけたら良いなと思ってここに来ている、それが我々二人がここにいる理由ですよね? と確認すると、同意が返ったので、ところが、こちらが言った指示をあなたが正しく受け取って、それに対して正しく応えてくれないと、授業が成り立たなくなってしまう、ということは、あなたがここに来ている意味がなくなってしまうということです、と諭してみたのだが、一応その理屈は通じたらしい。さらに付け足して、ついでに言っておけば、とまた口をひらき、例えば、大きな声を出したり、例えば、特に理由もないのにふらふらと立ち歩いたりされると、これもやっぱり授業が成り立たなくなってしまいますから、あなたがここにいる意味がなくなってしまう、そのあたりのことをよく考えてもらって、次回から授業に来ていただけるとありがたいですと締めたのだけれど、こうした言い分もしくは論法による説得は一応効いたようで、そのあと彼はきちんと取り組んでいたし、この日以降に当たってみても、いまのところは授業態度は改善されている。
- 上の説得は論理を活用した、かなり「理屈っぽい」ものである。事態を構成する要素をひとつひとつ取り上げ、順を踏みながらそれらを繋げて考えるとこうなるでしょう、ということを示したのだ。これが通じる相手ならひとまずはどうにかなる。今回の相手は小五だから一〇歳くらいだろうが、幸いにも理屈が通じたわけである。しかしもうすこし年齢が下がると通じない場合も増えるのではないかと思うし、一方で年齢がもっと上でも人によってはもちろん通じないだろう。論理というものは言語によって表される諸要素の接続形式であり(数字記号はここでは措く)、言語は論理を導入しなければ基本的には有効に機能しないわけだから、人間が言語を獲得し習熟するにしたがって論理形式におのずから馴染み、それに取りこまれていくのは避けがたいことだ。とは言え、子どもはまだその〈汚染〉の度合いが小さい。ただ、子どもでも中学生くらいになるともう〈汚染〉の程度がかなり高まっているから、そのくらいの年齢のほうがむしろ話が通じるのかもしれない。小学生のほうがかえって厄介だということは充分ありうるし、実際、過去にはそういう事態もあった。で、そういう「厄介」な子どもたちに理屈をとおしてものの道理を教えるというのは、彼らの不定形なアメーバ的精神を刈りこみ、削り、まさしく論理という型に嵌めていく行為であり、これは言うまでもなくひとつの暴力である。「暴力」という言葉が強すぎるとしても、権力作用であることはまちがいなく、つまりは抑圧だということだ。しかしそれは、教育という営みにおいてはどうしても必要なものだろう。そうした抑圧を適切に働かせなければ、子どもたちは物事の道理を考えることができないままに育ってしまうことになる。ミシェル・フーコーとかルイ・アルチュセールとかが言っているらしいのだが(議論の原典に当たったことはないので聞きかじりにすぎないが)、要するに教育機関というものは社会にうまく(同化的・効率的に)適応できる労働主体を生産するためのイデオロギー装置だということで、たしかフーコーは加えて、そこでの権力作用は対象の身体的動作の水準に(こちらの言葉で言えば人の〈心身〉に)働きかけるのだ、とも考察しているとどこかで聞いた覚えがある。これは今回の件にも当てはまることで、こちらは(……)くんが気分にまかせて無意味に立ち歩くのを禁止し、明確な理由がない限りは椅子に座ったままでいることを要求してそれに同意させたわけで、ここで彼の肉体的行動はそれ以前の習慣から変化している。抑圧がうまく機能したと言えるだろう。こちらは個人的性分として抑圧だの圧迫だのが嫌いな人間なので、自分でもできれば自覚的にそういうことはしたくないと思っているし、だから説教なんて本当はまったく、クソやりたくもないわけだけれど、ただ抑圧をしなければいけないにしてもやり方というものがあるわけで、一応できる限り圧迫的にならないように気をつけたつもりではある。こういう形で今回こちらは、権力装置――学校や塾という教育関連の機関・施設や、教師 - 生徒間の(非対称的)関係に条件上備わっている権力制度――の効力に全面的には、あるいは完全に無抵抗には感染させられず(制度に唯々諾々と〈取りこまれる〉ことは避けて)、ある程度それを遠ざけ距離を取りつつ、しかし最終的には抑圧を有効に機能させ、生徒にきちんと授業を受けさせるという所定の目的を達成した、ということになる。これは権力性という大きな構造(システム)のなかにありながらも、個々の微細な言動の集積によって、あまりにも大っぴらに権力作用を働かせることなく(権力を〈中和〉し)、高圧的な印象をなるべく与えないようにしながら、権力を〈ひそかに〉生徒の身体に浸透させたということで、それは一方では――ロラン・バルトの好きな言葉を借りれば――権力装置を〈はぐらかした〉と言えるのかもしれないが、他方では装置をよりずる賢く利用し、〈狡猾に〉機能させたとも言えるのかもしれない。
- 授業後、駅前の自販機で菓子を買ってきて、(……)先生と(……)先生にひとつずつあげた。ねぎらい。
- 電車で帰る。最寄り駅を出て坂道に入ると、道のど真ん中で黒毛の猫が地べたに寝転び、横向きに回転しながらくつろいでいた。こちらの姿を視認すると警戒して逃げてしまったのだが、猫という生き物はああやって、誰も見ていないところでただひとり、薄陽を受けながら理由もなくごろごろして遊んでいるわけだなあと思った。それはすごく自由で自足的な感じがする。
- 坂下の道を行けば、Nさんが庭で草を取っているところに遭遇したのでしばらく立ち話をした。除去した草を集めて積み上げた山がすこし前から庭にできていて、これはNさん当人がひとりでやったのかなと思っていたのだが、訊いてみるとそうだと言う。すごいものだ。何しろ、ほとんど小山のように盛り上がっているのだ。それから今次の新型コロナウイルス騒動に話が及んで、こうやって人と話すのが一番楽しいのに、それをやるなって言うんだからねえとNさんは嘆く。塾でもオンライン授業をやっていたんですよと話し、六月からまた対面式が再開したんですけどね、とこちら。人間ってのはやっぱりコミュニケーションでしょ、コミュニケーションっていうのが人間が持ってる一番すばらしい能力でしょ、と老人は口にするので、なかなか含蓄のあることを言うではないかと思わず勢いこんで、その通りですよと朗らかに肯定した。こうやって人と向かい合って、ねえ、相手の表情とか動作とかを見て、声の感じを聞いて、ときには周りの風景との調和なんかも見たりしてねえ、それでお互いに受け答えを返していく、それが人間の一番すばらしい能力だと思うのに、それが奪われちゃったもんだから、やっぱりつらいねえ、とのこと。そういう発言を聞く限り、この人はどうやら人間とこの世界の具体性というものを体感的に知っているらしいなと思われたが、上に並べられた諸要素のなかに、目の前の相手に帰属するニュアンスだけではなくて、「風景との調和」が入っているのがなかなか鋭いところだ。さすがに九〇年ほど生きているだけあって年の功というものだろうし、過去には保育園の園長だかもやっていたらしいので、その現場で子どもたちと接しながらそういう感覚と感性を培ってきたのかもしれない。
- 夕食はゴーヤやタマネギや卵を合わせた炒め物、要するにゴーヤチャンプルーというやつか。あと、ズンドゥブだかスンドゥブだかいう名前の赤くて辛いスープ。こちらは唐辛子系統の辛さが苦手なので、食えるかなと思いながら啜ったところ、辛いには辛いけれど冷水の助けを借りればどうにかなる程度だった。
- 二〇一九年五月二三日木曜日を読み返す。冒頭に『族長の秋』からの引用。
(……)八時を打つ時計の音が聞こえた。大統領は小屋のなかの牛に牧草を与え、糞を外へ運びださせた。建物全体を調べてまわった。手に持った皿の上のものを歩きながら食った。豆入りの肉のシチュー、白い米、まだ青いバナナの薄切りなどを食った。正門から寝室まで配置された歩哨の数をかぞえた。十四名。みんな、ちゃんと持ち場についていた。第一の中庭の哨舎でドミノをして遊んでいる護衛たちを見た。バラの植込みで寝ているレプラ患者や、階段に転がっている中気病みを見た。まだ食い終わっていない皿を窓のところに置いた。気がついてみると、それぞれ月足らずの赤ん坊を抱いて三人でひとつのベッドに寝ている、愛妾たちの小屋のヘドロめいた空気を手でこね回していた。残飯の臭いのする山の上におおいかぶさり、頭ふたつをこちらへ、足六本と腕三本をあちらへどかした。相手が誰なのか、気にも留めなかった。目も開けず、彼が相手だとはつゆ知らず、乳房をふくませてくれた女が誰なのか、気にも留めなかった。そんなにガツガツしないでくださいな、閣下、子供たちがびっくりしてるわ、と眠ったままべつのベッドからささやく声が、いったい誰のものなのか、気にも留めなかった。やがて建物の内部へ引き返して、二十三個の窓の鍵をよく調べ、入口のホールから個室まで五メートルおきに、火をつけた牛の糞を並べた。焦げくさい臭いが鼻をついた。自分自身のものであるはずだが、とてもそうは思えない少年時代を思いださせられた。しかしそれを思いだしたのは、煙が立ちのぼりはじめたほんの一瞬だけで、すぐに忘れてしまった。さっきとは逆に、寝室から入口のホールへ戻りながら電灯を消していった。小鳥たちが眠っている籠にカバーを掛けていった。麻のカバーを掛ける前に数をかぞえた。四十八羽いた。ランプを手にさげて、もう一度、建物の全体を見てまわった。火の入ったランプをさげた将軍の鏡に映った姿を、十四回も眺めた。時刻は十時、どこにも異常がなかった。護衛たちの寝室へ取って返し、さあ、もう寝ろ、と言いながら電灯を消した。一階の執務室や待合室、トイレはもちろん、カーテンの奥やテーブルの下まで調べた。誰も隠れてはいなかった。手の感触だけで区別のつく鍵の束を取りだし、執務室のドアを閉めた。それから二階に上がって部屋をひとつひとつあらため、ドアに鍵を掛けた。額縁の後ろの隠し場所から蜂蜜の瓶を取りだし、スプーン二杯分を舐めてから横になった。郊外の屋敷で眠っている母親が頭に浮かんだ。コウライウグイスに上手に色付けする、いかにも小鳥売りらしい血の気のない手をして、シュロとランの花に囲まれながら眠っているベンディシオン・アルバラド、横向きの死体のような母親の姿が頭に浮かんだ。お休み、と言った。お前もお休み、と郊外の屋敷のベンディシオン・アルバラドが眠ったまま答えた。大統領は寝室のドアの表側にある鈎にランプを吊した。急いで部屋を出るとき必要な明りだ、絶対に消してはならん、と厳命し、眠っているあいだも吊しておくランプだった。時計が十一時を打ち、大統領は最後にもう一度、暗闇のなかの建物を点検して回った。寝ているすきに何者かが忍びこんでいることを恐れたのだ。回転する灯台の光線の矢、緑がかった光線でつかのま生じる朝のような明るさのなかに、金の拍車からこぼれる星屑のように、泥の痕が残された。大統領は、光が一度明滅するあいだに、眠ったままうろつき回っている一人のレプラ患者を見た。前をさえぎり、闇のなかを誘導した。その体に触れはしなかったが、見回り用のランプで足許を照らしてやりながら、バラの植込みへ連れていった。暗がりに立っている歩哨の数をもう一度かぞえ、それから寝室に引き返した。窓の前を通りかかると、そのひとつひとつからおなじ海が、四月のカリブ海が見えた。大統領は足を止めずに二十三度、カリブ海を眺めた。四月はいつもそうだが、それは金色の沼のように見えた。やがて十二時を告げる鐘が聞こえた。大聖堂の鐘の舌が最後の音を打ち終わると同時に、大統領は、ヘルニアのかぼそい恐怖の声がくねりながら背筋を這いあがってくるのを感じた。それ以外には物音は聞こえなかった。大統領がすなわち国家だった。大統領は寝室のドアを三個の掛け金、三個の錠前、三個の差し金で締めきった。携帯用の便器で小便をした。二滴、四滴、七滴の小便を苦労してしぼりだした。床にうつ伏せになり、すぐに眠りのなかに落ちていった。夢はみなかった。(……)
(ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直・木村榮一訳『族長の秋 他六篇』新潮社、二〇〇七年、206~208)
- あらためて読んでみてもすばらしいと言わざるをえない。ここにあるものこそが、まさしく小説の具体性というものではないのだろうか。とりわけこちらの印象帯を揺らす箇所を取り上げておくと、まず、「郊外の屋敷で眠っている母親が頭に浮かんだ。コウライウグイスに上手に色付けする、いかにも小鳥売りらしい血の気のない手をして、シュロとランの花に囲まれながら眠っているベンディシオン・アルバラド、横向きの死体のような母親の姿が頭に浮かんだ。お休み、と言った。お前もお休み、と郊外の屋敷のベンディシオン・アルバラドが眠ったまま答えた」という一節にはらまれている叙情性はすばらしく、正直に告白すれば、センチメンタルなことにちょっと涙を催しそうになってしまった。言うまでもないことだけれど、ベンディシオン・アルバラドが「眠ったまま」返答しているからこそ、すばらしいわけだ。この「眠ったまま」があるとないとでは、ここに醸し出される叙情性の度合いはまるきり異なってくるだろう。
- 次に、「回転する灯台の光線の矢、緑がかった光線でつかのま生じる朝のような明るさのなかに、金の拍車からこぼれる星屑のように、泥の痕が残された」の一文がすばらしい。この一節は『族長の秋』をはじめて読んだときから印象帯に引っかかってきて好きだった。言ってみれば尋常な「文学的」作法にしたがった装飾要素としてのイメージではあるのだが、この記述の流れのなかに置かれると充実したきらめきを放つもので、ガルシア=マルケスの言語構成力の基本的な確かさ、その安定性はこうしたところに現れていると思う。
- さらに、「窓の前を通りかかると、そのひとつひとつからおなじ海が、四月のカリブ海が見えた。大統領は足を止めずに二十三度、カリブ海を眺めた」がすばらしい。「二十三」という数字自体はこれ以前にも導入されており(「二十三個の窓の鍵をよく調べ」)、ここでの「二十三度」は一義的にはその繰り返しに過ぎないのだけれど、「二十三個の窓」の前を通り過ぎていく間、大統領がその都度必ず(しかも、「足を止めずに」)海を「眺めた」という動作的反復の具体性がすばらしいわけである。つまり、「二十三度」という数字と、「足を止めずに」「眺めた」という行為の結合が喚起するイメージや雰囲気がすばらしいということだ。
- 最後に、これはすばらしいと言うよりはちょっと不思議だと感じた箇所なのだが、それは、「大聖堂の鐘の舌が最後の音を打ち終わると同時に、大統領は、ヘルニアのかぼそい恐怖の声がくねりながら背筋を這いあがってくるのを感じた。それ以外には物音は聞こえなかった。大統領がすなわち国家だった。大統領は寝室のドアを三個の掛け金、三個の錠前、三個の差し金で締めきった」という連なりのなかにある「大統領がすなわち国家だった」という一文である。この一文は、それまでの記述、またそれ以後の文章のなかにあって、明らかに意味の水準(次元)が変わっているように思う。つまり、ある意味では文脈のなかでこの一文の瞬間だけが浮いているとも見なされかねないということであり、前文からこの文に移るにあたっては意味論的飛躍が差し挟まっているだろうということで、さらに言い換えればここにこの文が挟まれているのはどうしてなんだろうという当惑を与えるということである。「それ以外には物音は聞こえなかった」に続く「大統領がすなわち国家だった」という流れは、無音性から喚起される存在のまったき不在という意味路を通り、まるで広大な国中に大統領ただひとりしか存在していないかのような感じがするというイメージを経由したその先で、大統領の「孤独」を表象することになるのかな? ともちょっと思ったけれど、国家のなかにたったひとりの人間しか(たったひとつの存在しか)いない(かのようだ)という事態と、大統領という一個人がそのまま国家総体と一致する、という意味とではすんなりとうまく繋がらないようにも思う。だからこの理解は意味論的に確かな道筋ではないし、同時に、「世界中にただひとり」という形式で表現される「孤独」の感慨は、いわゆる文学にせよその他のジャンルにせよ常套句なので(たとえばBUMP OF CHICKENの"車輪の唄"には、その終盤に、「町は賑わいだしたけれど/世界中に一人だけみたいだなぁ と小さくこぼした」という一節がある)、この箇所にある段差をわざわざ補助的に埋めてそのように還元するのはあまり面白いことではない。だからひとまずは、この飛躍を飛躍のままに受け取っておくべきだろう。
- 「記憶」記事を復読。二三番はムージル『熱狂家たち』。下記の部分はすばらしいが、何がすばらしいのかはちっともわからない。
アンゼルム (……)聞こえましたか、またはじまった? ……たった一人で星の海を漂っているのです、たった一人で星の山に座って、なにも言えずにいるのです。醜い顰めっ面をしてみせることしかできないのです、不良少女のレギーネは……しかし、顰めっ面だって内側から見れば一つの世界で、隣人もなしに、自分の天体音楽を響かせながら無限のなかに拡がっているのです……彼女は甲虫と話せないから、甲虫を口にいれました、彼女は自分と話せないから自分を食べたのです。彼女はほかのひとびととも話せない、しかも――かれらみなと合一したいというこの恐ろしい欲求を感じているのです!
マリーア 嘘、嘘、嘘! そんなことは嘘です!
アンゼルム しかし嘘とは、異なった掟のあいだで揮発する、夢のように近い国々へのノスタルジアですよ、わかりませんか? それは魂により近いのです。たぶん、より誠実なのです。嘘は真実ではありません、しかしそのほかのすべてなのです!
(斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』松籟社、一九九六年、203~204; 『熱狂家たち』)
どんなにあなたが絶望をかさねても
どんなに尨大な希望がきらめいても
死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
どんな小鳥が どんなトカゲや鳩が
廃墟にささやかな住居をつくっても
どんな旗が俄かに高々とひるがえっても
死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
あやまちを物指としてあやまちを測る
それが人間ひとりひとりの あなたの智恵だ
モスクワには雪がふる エジプトの砂が焼ける
港を出る船はふたたび港に入るだろうか
船は積荷をおろす ボーキサイトを
硫黄を ウラニウムを ミサイルを
仲仕たちは風の匂いと賃金を受け取る
港から空へ 空から山へ 地下鉄へ 湖へ
生き残った人たちの悲しい報告が伝わる
死んだ人は生き返らない 死んだ人は!
ふたたび戦争 かさねて戦争 又しても戦争
この火事と憲法 拡声器と権力の長さを
あなたはどんな方法で測るのですか
銀行家は分厚い刷りもののページを繰る
経営者はふるえる指で電話のダイヤルをまわす
警官はやにわに駆け寄り棍棒をふりおろす
政治家は車を下りて灰皿に灰をおとす
そのときあなたは裏町を歩いているだろう
天気はきのうのつづき あなたの心もきのうそのまま
俄かに晴れもせず 雨もふらないだろう
恋人たちは相変わらず人目を避け
白い商売人や黒い野心家が
せわしげに行き来するだろう
そのときピアノの
音が流れてくるのを
あなたはふしぎに思いますか
裏庭の
瓦礫のなかに
だれかが捨てていったピアノ
そのまわりをかこむ若者たち
かれらの髪はよごれ 頬骨は高く
肘には擦り傷 靴には泥
わずかに耳だけが寒さに赤い
あなたはかれらに近寄り
とつぜん親しい顔を見分けるだろう
死んだ人は生き返らない 死んだ人は
けれどもかれらが耳かたむける音楽は
百五十年の昔に生れた男がつくった
その男同様 かれらの血管には紛れもない血が流れ
モスクワの雪と
エジプトの砂が
かれらの夢なのだ そしてほかならぬその夢のために
かれらは不信と絶望と倦怠の世界をこわそうとする
してみればあなたはかれらの友だちではないのですか
街角を誰かが走って行く
いちばん若い伝令がわたしたちに伝える
この世界はすこしもすこしも変っていないと
だが
みじかい音楽のために
わたしたちの心は鼓動をとりもどすと
この地球では
足よりも手よりも先に
心が踊り始めるのがならわしだ
伝令は走り去った
過去の軍勢が押し寄せてくる
いっぽんの
攻撃の指が
ピアノの鍵盤にふれ
あなたはピアノを囲む円陣に加わる。
(『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、170~175; 「ショパン」; 「8 モスクワの雪とエジプトの砂」; 『頭脳の戦争』より)
- 今日は午前中に五月四日の日記を、すなわち父親との悶着及びその権威的愚劣さに対する長たらしい批判を綴った記事を完成させて投稿し、六月七日の午前三時半前には翌五日の分も仕上げることができた。五月五日の記事には、シェイクスピア/福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』で解説を書いていた中村保男の言に対する疑念を色々と記したのだが、こんなことは本来は別にどうでも良いわけで、「批判」(というのは悪口を言うということではなく、分析的な吟味に努めて自分の感覚や思考や対象への評価を正確に捉えるということなのだが)するならもっときちんとやるべきだし、五日の記事に綴った事柄はとても「批判」のレベルには達していない。まあこの文章はたかだか日記に過ぎないので、無根拠で無責任な主観を適当に書き散らしたって別に良いのだけれど、いずれにせよあんなことにかかずらって時間を消費せずにさっさと記述を進めるべきだったところが、そこは貧乏性が働くと言うか、一応メモも取ってあるしやっぱり書くだけは書いとくか……みたいな気分に何となく引きずられた感じだった。
・作文
11:03 - 11:57 = 54分(5月4日)
20:34 - 21:18 = 44分(5月5日)
21:54 - 23:51 = 1時間57分(5月5日)
26:17 - 27:22 = 1時間5分(5月5日)
27:22 - 27:45 = 23分(6月6日)
計: 5時間3分
・読書
12:30 - 12:56 = 26分(バルト: 97 - 100)
13:06 - 13:27 = 21分(バルト: 100 - 103)
17:03 - 17:30 = 27分(バルト: 103 - 107)
18:49 - 19:34 = 45分(日記)
19:40 - 20:33 = 53分(英語 / 記憶)
23:51 - 25:48 = 1時間57分(バルト: 107 - 129)
26:05 - 26:12 = 7分(ブログ)
28:09 - 28:31 = 22分(バルト)
- ロラン・バルト/花輪光訳『物語の構造分析』(みすず書房、一九七九年): 97 - 129
- 2019/5/23, Thu.
- 「英語」: 75 - 100
- 「記憶」: 22 - 35
- 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-26「あなたなら遠慮もなしに笑うだろうぼくの短所をジョークにしても」
・音楽
- Blankey Jet City『Live!!!』
- Diana Krall『Live In Paris』
- Horace Silver『Blowin' The Blues Away』