2020/6/7, Sun.

 この観衆は、プロレスをボクシングから区別するすべを、とてもよく心得ている。ボクシングが、卓越性の証明に基づいたジャンセニスム的なスポーツだということを分かっているのだ。ボクシングの試合は、結果に対して賭けをすることが可能だ。プロレスでは、それは何の意味もなさない。ボクシングの試合は、観客の目の前で築かれてゆく歴史である。プロレスでは、まさしく反対に、理解可能なのは各瞬間であって、持続ではない。観客は、或る運命の上昇に興味を抱いたりせず、むしろ或る種の情熱の瞬間的なイメージを期待している。だからプロレスでは、並列されてゆく意味を瞬時に読み取ることが要求される。だが、それらの意味を関係づける必要はない。試合がこの後いかなる合理的帰結を迎えるかということは、プロレスの愛好者たちの関心を惹かない。いっぽうで、ボクシングの試合は逆に、未来についての学をつねに含んでいる。言い換えれば、プロレスは、どれ一つとして機能とはならないような、複数のスペクタクルの総和である。決して結末という王冠を戴くことに向かって伸びてゆくことのない、真直ぐに単独で現れ出る情熱についての全面的認識を各々の瞬間が課するのである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、10; 「プロレスする世界」; 初出: 『エスプリ』誌、一九五二年十月号)



  • 一〇時過ぎに起床した。起きた瞬間からなぜかギターが弾きたかったので、今日は上階に行くよりも先に、隣室で楽器をいじった。例によって似非ブルースや、適当な即興演奏もする。やはり即興と言うか、「即興演奏」などと言えるほどきちんとしたものではないのだが、なんか適当に弾いているときが一番音楽そのものをよく感じられるような気がする。こちらが即興的なことをやっているときはもちろん一緒に音を合わせる相手もいないし、また何か明確な形を持った楽曲をやろうというのでもないから、コードやスケールの限定もない。とは言えむろん、それをある程度はベースにせざるを得ないわけだけれど、それでもそういう規定なしの条件下(もしくは無条件下)で音を出すというのは、(コードやスケールといった理論などの)外部的な観点から見た場合の失敗がないということだ。つまり、どの音の次にどの音を弾いてもまったく構わないということで、音楽は――と言ってしまって良いのかわからないが――、楽器を弾いたり音を発したりするということは、本来はそういうものなのだと思う。「本来」なんていう言葉を使うと途端に胡散臭くなってくるのだけれど、こちらが言いたいのはすなわち、何の音の次に何の音を弾いたとしてもそれは連鎖として繋がってしまうということで、もしそれが繋がらないように聞こえるとしたら、それはなんか人間の感性的な性質とか理論的な知識とか、あとはいままで聞いてきた音楽から得られた慣例的なイメージに拘束されているからであり、つまりは「文化」に〈汚染〉されているからにほかならず(「感性的な性質」に関しては、「文化」なのか脳(など)が本来持っているものなのか微妙でよくわからないが)、それを取り払って考えればある音の次にある音を弾いてはいけないなどということはまったくない(もちろん、そういう種類の演奏が文化的構築物としての「音楽」に認定されるかどうかは別の話だけれど、現代音楽やフリージャズの試みを見る限りでは、ある程度は認められている)。こういう話は、先日の日記にも書いたと思うが、たとえばこちらの脳内言語領域や小説作品などにおいて、あることを考えて(書いて)その次にまたあることを考えれば(書けば)ともかくも繋がりが生まれてしまうということと同じ話題だろう。何かと何かがただありさえすれば、人間の認識上、そこには常に関係が(意味が)成り立ってしまうということで、もちろんそのなかには通常の観点からすると繋がっていないと感じられる連鎖もあるわけだけれど、これもたびたび記しているように、断絶とは関係の一形式である。そういう関係形態はたとえば「並列」という言葉で捉えられ、無関係なものがただ並んでいるだけだという風に見なされる。たとえば古井由吉なんかはこの「並列」の論理をうまく利用している作家のような気がするが、その話はいまは措き、上の道筋に沿って考えれば、本来的な(純粋な)「断絶」なる事態は人間の認識としてはこの世に存在しないのではないか、という発想に容易に繋がっていくはずだ。これと同趣旨のこともいままで何度も書きつけているけれど、ただそこで今度はしかし、存在しないはずのそうした「断絶」を一抹どうにかして表現できないのだろうかという疑問と言うか、もしそれを表現できたらすごいことなのではないかという考えが湧いてきて、音楽というものが目指すラディカルな形のひとつとしてそういう試みがあっても良いのではないかと思ったのだが、それはあるいは現代音楽のほうでもうやられているのかもしれない。こうした発想は文学の方面で言えば、言葉を連ねることによって「沈黙」を表現する、という逆説的な命題として言われていることとだいたい同じなのだと思う。「沈黙」という言葉はたとえば石原吉郎なんかによく付与されるし、石原自身もそんなようなことを言っていた気がするけれど、こちら自身は石原吉郎の詩作品において明瞭に「沈黙」を感受したり観察したりできたことはまだない。
  • 「断絶」を表現する試みの一環と見なせるかどうか、よく知らないのだけれど現代音楽の方面では音楽の外部にある何か偶発的な要素を取り入れるために、数的理論の類を応用したり、フィールドレコーディング的なことをやったりという実験があったと思う。ただこちらがこの朝にギターを弾いていて思ったのは、「断絶」の話とはちょっとずれてくるが、一応無条件的と理解されていて「失敗」がないはずのこちらの即興遊びにも「失敗」と感じられる瞬間、すなわち、あ、ミスったわと思う瞬間は明確にあるということで、それは要するに、この音を弾こうと思っていたのにまちがえて別の音を弾いてしまった、みたいなときである。言い換えればこちらの「意図」が成立しなかった瞬間ということなのだが、まずはこちらの精神におけるこの「意図」の表象形式をもうすこし詳細に述べておきたい。こちらはギターを弾いているときには基本的に目をつぶっていて、脳内に浮かぶフレットの配置及びその上の指のポジションを指示する抽象図式的なイメージの変化に従って手を動かしている。もうすこし平たく言えば、あるコードを弾いたときに、そのコードを構成する三つや四つの音のポジションが脳内のフレット図の上に複数の点としてイメージされるということで、その次にまた別のコードのポジションがいくつかの点として浮かんでくるので、まあじゃあそっちに動いてみるか、みたいな感じで手を操ってそのコードを弾く、という感じなのだ。もちろん現実にはこのイメージの推移に従わないことや瞬間的にうまく従えないこともあるし、イメージではなくて手の動きが先行することも往々にしてあり、実際のところイメージと手指とどちらが先でどちらがどちらに従ってんの? ということは絶えず複雑に入れ替わっていて、現実の事態としてそこに優劣はないと思うのだが、仮にひとつの場合を考えると上のようなプロセスになる。本当はさらにそこにメロディ的表象、つまりは旋律のイメージも重なってきて、こういうメロディが浮かんだからそっちに行ってみようと動くこともあるわけなので本来の事態はさらに複雑なのだが、いまはこの旋律的要素は除外して考える。で、こういったことを基礎としたとき、本当はこのポジションをイメージしていたのだけれどまちがえて人差し指をひとつ隣のフレットに置いて鳴らしてしまった、というようなことがときに生じるのだ。これは理論や規則という外部的観点から見た失敗ではなく、こちらの「意図」という方面から見たときの内的なミスである。ただ、こちら自身はあ、ミスったわと思うのだけれど、こちらの即興的お遊びには理論的限定はないのだから、実際のところそれは別にミスではなく、別にその音を弾いても良かったわけだし、隣の音を弾いてもほかの音を弾いても良かったわけだ。どちらにせよ即興的演奏としては成立することになる。そのように考えてきたときに、ここには演者の主体的「意図」という観点から見てひとつの偶発性が生じていると理解されるはずで、要するにミスというものは(少なくとも理論的制約を取り払った音楽場においては)自分自身が拘束されている定型から逃れるための偶然の契機になると思ったのだった。
  • 上のようなことを考えるとともに思い出したのが深町純がむかし言っていたことである。深町純というのはたとえばBrecker Brothersなんかとも共演していたフュージョン方面の鍵盤奏者なのだが、大学のときに取った「美とは何か」みたいなテーマの授業の教師がなぜか深町純と知り合いで(ちなみにいま検索エンジンを駆使して突きとめたところでは、この講義は「感性への問いの現在」というものだったようで、講師は志岐幸子という人だった)、ある日の授業で彼が招かれて即興演奏をしたことがあったのだ。その即興演奏というのは、生徒をひとりだったか複数人だったか選んで適当に音を弾いてもらい、たとえば「ド・レ・ミ・ソ」みたいな簡易な単位のメロディをひとつ作り、それをベースに据えて通奏的モチーフとしながらさまざまに変奏するみたいな形式だったのだけれど、その授業のあとに講義室の外で深町純とちょっと立ち話をする機会があったのだ。なんか突っ立って暇そうにしていたので声を掛けてとても良かったですみたいなことを伝えたもので、陰鬱な内向性に満ち満ちていた大学時代のこちらからするとずいぶん積極的な振舞いに出たものだと思うのだが、そこで二、三、話を聞いたときに、コードとかスケールとかは全然考えないということを彼は言っていて、いまから考えれば、そんなことを言ったってコードやらスケールやらを一旦知った人間がそれを「全然考えない」などということは端的に無理であり、それは自転車の乗り方を身につけた人間にとって自転車を下手くそに運転するのがかえって至難であるのと似たようなことだと思うけれど、だがそれはともかくとして今回重要なのはそのあとに述べられたもうひとつの言葉のほうで、深町は、ミスをしなくてはいけない、みたいなことを言っていたのだ。「しなくてはいけない」とまで断言していたかどうかちょっと自信がないけれど、要するに、ミスをしないということは挑戦をしていないということだ、という意味の言葉を彼は述べていたのだ。それは確実である。で、この言葉のおそらくより正しい意味が、今朝の音楽的お遊びのなかでこちらには理解されたという話で、つまりミスというものはひとつの偶発性であり、それは新たな音の連ね方を発見し、みずからが拘束されている枠を破り、そこから逸脱して自分がそれまで想像していなかったような新たな方向に進むためのきっかけ(第一歩)になるということだ。
  • こうした発想を、たとえば科学の方面で言われる「セレンディピティ」という概念や、またたとえば、ほったゆみ・原作/小畑健・漫画『ヒカルの碁』の後半に描かれていた進藤ヒカルの碁のスタイルと繋げて考えることは容易である。進藤ヒカルの碁の特徴は、試合の中途で一見悪手としか見えないような一手を打つことから始まる。その一手は、周囲で観戦している誰にもその根拠が理解できないような、天才的な碁の才能を持ったライバルである塔矢アキラにさえもその意図や理路がわからないような、完全にミスとしか思えない一手である。ところが、明らかに失敗だと思われたその一手(まさしく死に手)が試合の後半に至るとどういうわけか息を吹き返し、進藤ヒカルの勝利に繋がる枢要な支柱として機能しはじめるのだ。漫画の現場そのものにおいてどのように描かれていたのか覚えていないので以下は作品にきちんと拠らずにこちらの文脈に引き寄せた想像にすぎないが、おそらく進藤ヒカルは上のような展開をあらかじめ見通していたわけではない。彼は時空を超える神の目を持っていたわけではない。彼が「悪手」を打ったとき、なぜ自分がその手を打ったのか、その理由はおそらく彼自身にも理解されていない。上述した即興演奏の場合とはちょっとずれるかもしれないが、これは理論的意図や根拠にもとづいていないという点で、こちらの言う「ミス」と類同的なものだと考えられる。この「ミス」は、それが盤上に放たれた時点ではまったく無意味だった。あるいはむしろ、余計なものですらあった。そこに積極的な意味はなく、あるとすればそれはマイナスの意味だけだった。ところが試合展開の変容によって、すなわちその一手を包みこむ周辺の環境や文脈の変化によって、この「悪手」に潜在的にはらまれていながら誰にも見えなかった意味がまざまざと現前する。ということは、進藤ヒカルはみずからの「ミス」を、その後の展開によって意味づけし直し、新たに機能させ、生まれ変わらせたということだ。
  • これと同じようなことが即興演奏についても言えるはずである。つまり、「ミス」は発生する。そして何よりも、「ミス」は発生しなくてはならない。しかし、その「ミス」を起点としてほの見えた新たな経路に踏み入っていくことで、人はそこに新しい道筋を形成し、「ミス」をまったく予想されなかった意味合いを持つものへと変換することができるのだ。これがおそらく「即興」という言葉が意味する事態のひとつの内実であり、また「セレンディピティ」と呼ばれる科学的発見のプロセスの具体的な描写であるはずだ。そして、人間がもし「神の一手」に束の間触れることがありうるとしたら、それはきっとこのような形でしかありえないのではないか。人間はみずからの「意図」によって「神の一手」に至ることはできない。どれだけ完璧に「意図」を制御したとしても、人間にできることはたかだか人間にできるだけのことでしかない。もし人が「神の一手」に触れることがありうるとしたら、それにはおそらく偶然性の介在が不可欠だろうということだ。それは「偶然性」である以上、人間の「意図」によって引き起こすことはできない。人間はただ、おのずからそれが起こるのを待つほかはない。もちろんそれは必ず起こるとは限らないのだから、ここで人は完璧に受動的な立場に置かれる。しかし、もしたまさか「偶然性」が発生した場合に、人はそれを捉えて新たなる方向へ身を広げていくことができる。とは言え当然、それがうまくいくとは限らないし、むしろ失敗することのほうが通例だろう。それに、「偶然性」の介在が不可欠だからと言って、人は何もせずにそれをただ待ち呆けていれば良いということでもない。ここで言う「偶然性」とは、どれだけ完璧に「意図」をコントロールできたとしてもどうしてもそこから漏れてしまう余剰的なしずくのようなものなのだから、それを受け取り、掴んで、引き受けるためには、前段階としてまずは「意図」をできる限り制御し実現するという試みが必要である。そのような真摯な「努力」がまず下地にありながらも、しかしどこかで不可避的に「偶然性」が発生してしまう。そこで人間は、それを己の統御下に組み入れながら、と言うか正確にはそれに導かれるようにしながら新たな「制御」の形を開発していかなければならないということだ。ゴドーは来るかもしれないし、来ないかもしれない。あるいはゴドーはすでにここにいるのかもしれない。しかし、もし何かがやってきたときにそれがゴドーだとわかるためには、あるいはいま目の前にいるものがゴドーだったと気づくためには、それにふさわしい行為の積み重ねが必要なのだ。そのような営みの追究を絶えず継続しながら、人は同時に、来るかもしれないし来ないかもしれないものを待ち続けなければならない。これが正しく倫理的な姿勢であり、なおかつすぐれて政治的な態度ではないのだろうか? 「神の一手」ばかりでなく、そもそも「進歩」とか「発展」とかいう事態が、もしかすると原理的にこのような形でしかありえないのではないかという気もしてくるのだが、いままで述べてきたことをもっとも通有的な言葉に要約するなら、「人事を尽くして天命を待つ」という定式表現になるだろう。さらに以上の内容は、「絶対精神」とかいうものに至らんとするヘーゲルのいわゆる弁証法的道筋の図式とも多少重なってくるようにも思うのだが、しかしそう考えると途端に退屈なことになってしまう。
  • 昨日のスンドゥブに米を入れておじやにしたものを食った。
  • 正午からさっそく今日のことをメモ。上記の思考を下書き的に記録するだけで一時間二〇分が掛かった。その後、Horace Silver『Blowin' The Blues Away』を背景に「英語」記事を復読。復読は声に出してやっている。高速音読が脳機能を高めるとか巷では言われていて、こちらも一時期取り組んでいたのだけれど、いまのこちらの感覚ではできる限りゆっくりと、丁寧に読んだほうが明らかに良い。と言ってゆっくり読むということをことさらに目的化する必要はなく、みずからの自然な感覚に従う範囲で良いのだけれど、そのほうが明らかに文の質感とか一語一語の意味とかが頭に入る。外を歩くときと同じことだ。と言うかこれは生の全域において同じで、生のどのような一瞬にあっても己に対して丁寧に生きるというのがたとえば禅の修行(座禅のみならず、立禅・歩行禅や食事の作法などがわかりやすい)の目指すところでもあるだろうし、それはもちろんヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス的行動様式の最終目標でもあるわけで、これはミシェル・フーコーが考察したテーマで言えば明らかに「自己への配慮」の一形式である。こちらも一応それを目指したいという気持ちは持っており、だから文を書くときなどももっとゆっくりと言うか、急がず丁寧に書きたいのだが、どうしても指をけっこうはやく動かしてしまいがちだ。
  • 新聞、二面。【米「黒人の命は大切だ」広場/ワシントン 市長が改称 抗議後押し】。「米国の首都ワシントンのムリエル・バウザー市長は5日、中西部ミネソタ州で黒人男性が白人警官に首を押さえつけられて死亡した事件を受け、ホワイトハウス近くの通りの一部を「『黒人の命は大切だ』広場」に改称したと発表した」。「この通りは、デモに絡む騒乱で一部が焼かれたセント・ジョンズ教会に接する。トランプ大統領が1日にこの教会を訪問する直前、治安当局が抗議デモに催涙ガスを用いて批判を浴びた経緯がある」。
  • 五面には【台湾「反中」高まり/高雄市長解職/香港の混乱に危機感】。「台湾・高雄市の韓国瑜[ハン・グオユー]市長の解職が6日、圧倒的な賛成多数で決まった。住民の審判は、韓氏が所属する最大野党・国民党が掲げてきた対中融和姿勢に対し、拒絶反応を示す結果となった」。「市民団体による解職請求の直接の理由は、韓氏が2018年12月の市長就任直後に、総統選(今年1月投開票)に出馬表明したことだった」。「韓氏は、民進党の牙城だった高雄の市長に当選した18年の統一地方選で「韓流」と呼ばれる旋風を起こし、国民党の党勢回復に貢献した。市民団体は「『韓流』の出現は、赤い媒体(中国メディア)が台湾の民主に介入した結果だった」ことも解職請求の理由に挙げた」。
  • 同面、【バイデン氏 「融和」強調/黒人男性死亡 トランプ氏批判】。「米大統領選で民主党候補となることが固まったジョー・バイデン前副大統領(77)は、指名争いを通じて「この国には『癒やしの政治』が必要だ」と分断の克服を訴えてきた」とあるのだが、それを読むに、うーん、「癒やし」なるものを志向しても本質的にあまり良いことにはならないのではないかなあ、でもやっぱり人々は「癒やし」を求めているのかなあ、と疑念に惑った。
  • 【「警官が首圧迫」禁止/米ミネアポリス議会】によれば、「[ミネアポリス]市議会は5日、警官が容疑者を取り押さえる際、首を圧迫したり、押さえつけたりすることを禁止する議案を可決した。議案には、ほかの警官が首を圧迫するのを目撃した場合、速やかな制止と報告を義務づけることも盛り込まれた」。「米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ミネアポリス市警の規定では原則、警官の生死に関わる状況なら首への圧迫は認められていたという」。
  • (……)さんのブログは二〇二〇年三月二七日。いつもどおり柄谷行人『探究Ⅱ』。

 幻想を幻想といいうる根拠は、「神の存在」にしかないという、このデカルトの証明は、熟考に値する。デカルトのいう〝神〟は、人々がそれぞれ信じそのために互いに殺しあっているところの神ではない。そのような神こそ幻想である。いいかえれば、他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを〝超越的〟な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にも属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすようなメタレベルではありえない。
 夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることに変りはない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的な立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。むろん、どんないい方をしようと、デカルトの「方法的懐疑」が、もはやどんな立場でもありえない立場、《外部性》としての立場においてのみ可能であるということが肝心なのである。くりかえしていうが、それが一つの立場として定立されてしまえばおしまいである。
柄谷行人『探求Ⅱ』p.105-106)

  • また、(……)さんの作文も載っていたのだが、この人はものを書く人間として生きていったほうが良いのではないか?

 ある朝、目を覚ますと、私は一匹の巨大な虫に変身していた。頭がないし、四肢もないし、確かに蝶になった。羽は透明で、羽の端には2箇所の血のような赤みがあった。朝のナイル川のほとりのルーフガーデンのバラのようだった。
 先日カフカの『変身』を読んで、思いもよらないことに、本当に変身した。考え続ける暇がなくて、
「あちっ!」
と叫んだ。足に火傷をしたようだった。ここは私の部屋ではないことに気がついた。ふわふわした寝床がなくなり、涼しいエアコンもなくなった。真夏のアスファルトの匂い、消えていく飛行機雲、喧騒の道。ここはどこだと思った。一応ここから早く逃げようにした。羽ばたいてみたいものの、動けない。怪我の程度がひどいような体は痛くてたまらなかった。もはや死にそうになるかもしれなかった。
 いきなり誰かが来てきた。おかっぱの女の子だった。彼女の顔をこちらに向けた。
「こんにちは」と彼女は笑った。
「えっ」
 背筋が寒くなった。彼女は私と同じ顔をしていた。
「すぐに痛くないよ」と彼女はゆっくりと近づいてきて羽を掴んで、私を彼女の掌に置いてきた。彼女がポケットからカッターナイフを取り出したのを見た。
「狂っているの!誰か、誰か助けて!」
と泣き叫んだ。でも、蝶は話ができないので、だれも気づかなかった。
 羽が千切られて、鱗粉がチラチラ落ちた。そして、カッターナイフで解体されて、死体がライターで焼かれた。火の中で美しい銀色の糸が現れた。この糸に縋り付くと、何でも分かった。これは罰ゲームなのだった。
 先週の月曜日、同じ匂い、同じ飛行機雲、同じ場所、同じカッターナイフ、同じライター、私は1匹の美しい蝶を殺した。罪悪感を感じなくて、平気の平
左だった。
 目を覚ますと、人間の姿にもどった。真夏のアスファルトの匂い、消えていく飛行機雲、喧騒の道。何かを感じたようだった。俯いて見ると、掌には1匹のバラのように美しい蝶がいた。現実は、意地悪だった。

  • フランツ・カフカ『変身』の冒頭が下敷きにされており、「私」が「変身」した「蝶」が羽の端に持っている「血のような赤み」が「バラのようだ」と言われているのは、もしかしたら同じカフカの「田舎医者」で少年の「脇腹に咲いた薔薇色の花」(フランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』白水社白水uブックス、二〇〇六年、17)、「薔薇色の大きな傷」(同)と通じ合っているのかもしれないが、それは措きつつこちらがすごいと思うのは、その「バラ」に「朝のナイル川のほとりのルーフガーデンの」という形容が付されていることである。とりわけ、ここで「ナイル川」が出てくるのにはほとんど脱帽してしまうもので、こちらにはこの文脈で「ナイル川」を思いついてここに書きつけることはたぶんできないと思う。彼女本人にとっては何か体験的な基盤があったり、何でもないような連想だったりするのかもしれないが、こちらにとってはかなり意外な切断感をもたらしてくれる。ここに確かに他者がいるな、という感じ。
  • (……)さんのブログ、二〇二〇年三月七日。ジョナス・メカス「ウォールデン」について書かれているが、これにはちょっと興味を惹かれる。まずもってソローが住んでいた湖の名が題になっている点からして気になるが、ただ(……)さんの記事によると主な舞台はニューヨークのようなので、ウォールデン湖が出てくるわけではないのかな? そうだとしても、「これは映画で、同時にこれは日記で、そもそも日記とは何か、これはその問いに対するひとつの答えだろう。日付で区切られているわけでもないし、作者の考えが言葉で記録されているわけでもないが、そのときのこと一回限りが、これ以上なく強烈に刻まれている。撮影された出来事一つ一つを驚きながら受け止めている視線の力が、それを一つの日記たらしめている」などという言葉を読んでしまうと、興味を持たないわけにはいかないだろう。二つ目の段落には、「60年代のニューヨークという区切り前提で、その風景がすばらしいということではない。時や場所がどうであれ、そんなことはどうでも良くて、何しろその時、その今のこれ!がすばらしいということ。三時間がっつり見ても、五分か十分だけ見てもいい。極端なことを言えば他の誰かの映像でもかまわない。とにかく、いつかどこかの誰かによって撮影されたという、その驚きだと」とも書かれてあって、「三時間がっつり見ても、五分か十分だけ見てもいい」などというのはほとんど理想的な映画(もしくはコンテンツ)じゃない? と思うし、「時や場所がどうであれ、そんなことはどうでも良くて、何しろその時、その今のこれ!がすばらしいということ。(……)極端なことを言えば他の誰かの映像でもかまわない。とにかく、いつかどこかの誰かによって撮影されたという、その驚きだと」という評言は、敢えて言うならば、これこそが「リアリティ」という語を与えるに値する感覚なのではないかとも思う。最後に紹介されているメカスの人物評(アンディ・ウォーホルによる)、「彼はあらゆることにまじめな、笑うときさえまじめに笑う、そんなタイプだった」というのも良い。
  • (……)さんからメッセージ。

(……)