2020/6/25, Thu.

 演劇の時間というものは、それが何であれ、つねに滑らかにつながっている。ミュージック・ホールの時間は、定義上、寸断されている。それは直接的な時間だ。そして、これこそがまさしくヴァラエティー[﹅7]の意味なのである。つまり、ミュージック・ホールの舞台の時間は、正しい、現実の、恒星の時間であり、事物そのものの時間であって、決してその予見(悲劇)の時間や、再見(叙事詩)の時間ではないのである。この字義通りの時間の利点は、それが身振りを供する最良のものということだ。というのも、きわめて明白なことに、身振りは時間が切断された瞬間になって初めてスペクタクルとして存在するからである(歴史画においてよく分かるとおり、その場で捉えられた登場人物の身振りは、持続を宙吊りにしており、それを私は別の文章でヌーメン[﹅4]と名づけたことがある)。実際のところ、ヴァラエティー・ショーは、たんなる娯楽の技術というわけではなく、技巧(ボードレールがこの語に与えたような意味において)の条件である。身振りというものを、持続という甘ったるい果肉から外に引き出して、その最上級の、決定的な状態において示し、それに純粋な視覚性を付与して、どんな原因からも引き離し、意味作用ではなくスペクタクルの可能性を汲み尽くすこと、これがミュージック・ホール独自の美学である。対象物(ジャグラーの)や、身振り(軽業師の)は、時間(言い換えれば、パトスとロゴス)をすっかり拭いさられ、純然たる技巧として輝きを放っている。それはハシッシュについてのボードレール的なヴィジョン、すなわち、まさに時間を放棄してしまったがゆえに、どのような精神性からも絶対的に浄化された世界の、冷たい正確さを思わせずにはいない。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、295~296; 「ミュージック・ホールにて」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五六年三月号)



  • 一二時一五分の起床で今日も空は真っ白。六月二五日というのはちょうど七〇年前、一九五〇年に朝鮮戦争が勃発した日付である。
  • 食事はカレー。食いながら母親の仕事の話を聞く。母親はこちらが何か助言をすると、じゃあ、こういう風にすればいいんだね、という具合にすぐに結論的に受け取ることが多く、こちらの母親に限らずあまりものを考える習慣のない人は、こういうときにはこうすれば良いのだという拠り所としての簡単な結論に短絡的に飛びつきがちだと思う。経験から帰納されたある程度の一般的な原則は必須なのだが、それはあくまで一般原則でしかないのだから個々のケースにおいて最適に妥当するものであるはずがなく、その原則をひとつずつ異なる具体的な場・時空・状況に応用していく操作が不可欠なわけで、そのなかで原則のほうも絶えず修正されることを避けられない。だからその都度考えてその都度判断していかないといけない、と言っておき、要するに臨機応変ということだと簡明な言葉でまとめておいた。
  • 五月二五日を作文。もろもろ行ったあと過去の日記の読み返し。2019/6/11, Tue.を見ると、冒頭の岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社、二〇一五年)からの引用に、「人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ」(98)とあったが、これはプリーモ・レーヴィが『これが人間か』のなかに記していたシュタインラウフの言葉と響き交わす考えだろう。

 今も心が痛むのだが、私は彼の正しく明快な言葉を忘れてしまった。第一次世界大戦の鉄十字章受勲者、オーストリア・ハンガリー帝国軍の元軍曹、シュタインラウフの言葉づかいを忘れてしまった。私の心は痛む。なぜなら、良き兵士がおぼつかないイタリア語で語ってくれた明快な演説を、私の半信半疑の言葉に翻訳しなければならないからだ。だが当時もその後も、その演説の内容は忘れなかった。こんな具合だった。ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわねばならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に敬意を表するのではなく、生き続けるため、死の意志に屈しないためだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、46~47; 「通過儀礼」)

  • 二〇一九年六月四日のMさんのブログからの引用もあって、馬鹿すぎてあらためてクソ笑う。

18時になったところで部屋を出た。(……)さんから大学に到着したという連絡が入ったのだ。女子寮で(……)さんを拾ってから彼女の待っているという第五食堂付近に向かうことになった。おもては死ぬほど暑かった。女子寮前で(……)さんと別れたが(誘うべきかいなかちょっと迷ったが、今日はあくまでも火鍋のグループチャットのメンツで集まる日である)、寮の中で売店の老板がスイカを切り売りしていたらしく、わざわざ引き返してきて先生ほしいとたずねてみせるので、くれくれと応じた。それで彼女が老板と交渉しているあいだ、女子寮の入り口にある門の柵を動物園の猿のようにわしづかみにしながら、りせい! スイカくれ! りせい! スイカくれ! と日本語で叫び続けた。となりにいた(……)さんが恥ずかしくてたまらずその場から逃げたそうにしているのが面白かったので、ますます悪ふざけして今度は中国語で、给我西瓜! 给我西瓜! と叫んだ。

  • 意外と時間が遅くなってしまったので、こちらには珍しいことだが、もし可能なら送っていってくれないかと母親に頼み、了承されて駅前まで車で運んでもらった。礼を言って別れたあと、コンビニに入ったのは面談した情報をまとめておく用のノートを買うためである。AとBのキャンパスノートを見比べて、Aは罫線の幅が大きいように思われたのでBだなと決定し、一八一円を払ってゲットしてから職場へ。
  • そうしてひたすら面談に励んだ。一人目は(……)さん(小五)。面談をしたいと言っても、えー、やだ、と返されてしまったのだが、一応面談スペースまで来てくれたので話を聞く。なんの教科が好きなの? とか訊いてみても、なんでそれきくの? と問い返してくるような調子で、最初は警戒していたようなのだがそのうち答えてくれるようになった。なんだかんだ素直で屈託なく、可愛らしい子である。理科が比較的好きなようで、科学クラブ(化学クラブ?)に入ったと言い、スライムを作りたいらしい。このあいだも聞いたけれどゲームでは『あつまれ どうぶつの森』をよくやっており、本は読まない。文字がたくさん並んでいると面倒臭くなってしまうようだ。それなので漫画ならいくらかは読む様子。そのほか、岡山の祖母宅までひとりで旅行したことがあると言うので、それはすごいねと称賛した。こちらなどよりもよほど自立的でアクティヴだ。よくわからないが、子どもがひとりで飛行機に乗って旅をする用のサービスみたいなものがあるらしく、それを利用したとのこと。
  • 小学生だし受験をする予定もないしでべつに夏期でそう頑張る必要もないと思うのだが、一応増加の方向で話してみると、本人は当然嫌がる。そこにほかの生徒の面談を終えた(……)さんが来て、夏休みのあいだも(……)ちゃんとたくさん会いたいなー、とか言ってうまく乗せると本人もその気になったようで、算数を二コマ増やす方向でまとまった。
  • 二人目は(……)くん(中一)。勉強は嫌いで体育が好き。魚へんの漢字が好きだとか『モンスターストライク』をよくやっているとかは以前も記した。将来はお金をたくさん稼ぎたいと言うが、同時に楽もしたい様子。大半の人間の望みである。いまは一応英語で通塾しているのだが、英語は一番嫌いらしく、塾の授業もつまらないと言ってはいるものの、しかしこちらの見るところではそんなに鬱屈や屈託の気配はないような気がする。歴史がそこそこ好きなようだったので、夏休み中に歴史を四コマやってみる方向で提案した。
  • 三人目は(……)くん(中二)。(……)中で、(……)くんの弟。兄よりも落ち着いている感じだ。勉強はどちらかと言えば嫌いで、英数が特に苦手らしいが、ただ英語でもたとえば書いた文が正解だったり意味を正しく読み取れたりしたときなどは、多少の面白味は感じる様子で、また最近は理科がちょっと面白くなってきているとのことだった。勉強を離れていま面白いことは何かあるかと訊いてみると、動画を見たり、小説(ライトノベル)を読んだりするのが楽しいようで、アニメもよく見るらしい。釣りもたまにやるというのは、(……)住まいだからたぶんすぐそばに川があるのだろう。将来の具体的な像はまだ持っていないものの、自宅でできるような仕事をしたいと言う。つまり、定時で出社退勤するのではなく、テレワークや、自分で勤務時間を決められるような形(いわゆるフレックスタイム制度というものだろうか)が良いらしく、理由として、縛られたくないからということを言っていた。八月中に英語を四コマ、理科を三コマ増やす形で提案。
  • 四人目、(……)(中二)。常にスマートフォンを手放すことのないやる気なしの問題児として塾では扱われており、久しぶりに対面したが、やはり顔立ちがいくらか大人びてきていた。勉強は好きではないが特別嫌いでもなく、ただ自分のなかでの優先度が低いのだと言う。やらなければならない状況になればやると口にしており、やれば一応それなりにできるつもりでいるらしい。もう中二で高校受験も見えてくる時期なので、そろそろ真面目に取り組まなければと一応思ってはいるとのこと。教科では数学が比較的性分に合っている様子。家ではよく夜更かしをしており、この点は兄の(……)からも前に証言を得ている。夜更かしも含めて自由時間にはゲームをやったりライトノベルを読んだりしているらしく、ゲームでは『フォートナイト』をやると言うので、(……)くんの名前を出すと、彼とはゲーム内で会うこともあるらしく、あいつパソコンになってたよと言う。なんだか知らんがそういうのがわかるようだ。ライトノベルは具体的なタイトルは挙がらなかったがアクションや戦闘物が好きで、恋愛物は嫌いだと言っていた。ほか、機械をいじるのが好きだと言うので、パソコンとか? と訊くと、それ以外にも色々、と返ったがそれ以上は突っこんで訊かず。機械系というとこちらにはバイクくらいしか思いつかないのだが。いずれにせよ、そういうことが好きならと工業高校を進路の可能性として提案しておいた。増加授業は数学を提案したはずだが回数は忘却。
  • 五人目、(……)さん(高二)。(……)高校の生徒で、久しぶりに顔を合わせた。勉強では数学が好きで、ひとつのことがわかればそれがほかの事柄にも繋がって順々に理解できるからと言う。ほか、生物もなかなか面白く感じているようだったので、人間の細胞は三か月くらいで全部入れ替わっていて、三か月経てば細胞的にはまったく別人だとか、福岡伸一っていう学者がよく言ってますねと衒学ぶって話すと、そういうことも授業で学んだらしい。生物に興味があるのは現在のことを扱うからだと言う。つまり、たとえば歴史などはもうなくなってしまった過去のことを学ぶのであまり自分の身に引き寄せて考えられないのだが、生物で学ぶようなこと、たとえば上記の細胞の変化などは今現在も常にこの世の至るところで発生しているので、身近に感じやすいということだった。動物について学べば動物園に行ったときに、あいつってそういえばああなんだよなあとか思うこともできますねとこちらも例を出して受ける。
  • 最近面白いことはアニメ。コロナウイルスで休みだった期間中にはまったと言い、『かぐや様は告らせたい』と『ハイキュー!!』の名前が挙がったはずだ。しかし最近は学校も部活も始まってしまったので、忙しくて見られていないと。部活はサッカー部で、サッカーをやるのももちろん面白いと言う。
  • 将来像としてはわりと具体的に目標があって、理学療法士になってスポーツ選手をサポートするようなことがやりたいとのこと。中学生のときと言っていたか、救急救命講座みたいなものを通じて興味を持ったのだが、その後、部活の合宿中に怪我をしたときに治療をしてもらい、自分もこういうことをやりたいという思いを強くしたと言う。生物に興味があるのはおそらくそういうことも関連しているのだと思われ、受験でも使うことになるはずなので、勉学としては英数と生物を向上させていければ良いだろう。そういうわけで数学の増加を提案したはずだが、これも回数は忘れてしまった。生物のほうは教えられる人材が塾にいるのかわからなかったので、ひとまず映像授業というのもあるよと触れるだけは触れておいたが、しかしこちらは映像授業などというものを大して信用してはいない。
  • 六人目は(……)さん(高二)。(……)高校。この時点で面談できなかった生徒が二、三人残っていた。(……)さんからはひとり二〇分くらいでと言われていたのだが、実際やってみると二〇分程度ではとても終わらない。べつにそんなに丁寧にやる必要もないのかもしれないが、しかしきちんと話を聞いて生徒のことを多少なりとも理解しようと思ったら最低でも三〇分は必要だし、実際にはだいたい四〇分以上費やしていたはずだ。それで(……)さんは高校に入ってからはほとんど当たっていないものの馴染みの生徒でもあるし、授業後に残ってもらって話を聞いた。学校の勉強は当然つまらず、塾も辞めたいと思っていると言い、先日父親にその旨伝えたところがうまく説得できず、いまのところは一応通い続ける話になっている(しかし、この日の日記を記している八月二三日現在、結局彼女は退会しており、すでに塾にはいない)。父親との仲はとりたてて悪くはないと言うが、よく話す時期とそうでもない時期の波があり、また(……)さんは家では部屋に籠りがちでそんなに喋らないらしく、突っこんだ話はあまりしないようだ。
  • この先の目標としてはメイク関連の仕事をやりたいと言う。メイクには昔から興味があって、自分で化粧をしたり友だちにメイクを施したりしていたと言い、それで美容の専門学校に進もうと色々資料を集めてはいるものの、どこの学校が良さそうかというところまではまだ絞れていないとあった。また、さらに具体的に訊いてみると、他人にメイクをする仕事より化粧品の会社に入って製品を開発したり売ったりするような方向により大きな興味があるようだった。というのも、自分は映画にかなり影響を受けやすいと(……)さんは言い、この面談中にも二つの作品が出てきたのだがひとつは忘れてしまった。もうひとつは『プリティ・ウーマン』ってやつだったかなと彼女自身は言っていて、そのタイトルを聞けばこちらの頭のなかには当然、Roy OrbisonもしくはVan Halenが演じたあの曲が流れるわけだけれど、帰宅後に検索してみたところこれは一九九〇年の映画だし(こちらが生まれた年だ)、Wikipediaで内容を見てみてもどう考えても彼女が話していた映画ではない。それで検索し直してみたところ、(……)さんが言及していたのは『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング』という作品だとわかった。容姿に自信のなかった女性が事故で頭を打ったことによって自分を美しく素敵な女性だと思うようになり、化粧品会社の受付嬢になって社長などと交流しながら化粧品販売についてのアイディアを提案して活躍していく、というような話らしい。
  • 専門学校に行くにしてもたぶん英語の試験はあるような気がするので、ひとまず英語の増加を提案。話が終わるころには一〇時が近くなっており、ちょうど父親から電話がかかってきたので替わってもらい、遅くなってしまって申し訳ありませんと謝った。その後、(……)さんおよび(……)さんに報告をしたり、今日できなかった生徒の面談をいつするか決めたりしていると一〇時一五分までの勤務になったのだけれど、こんなに遅くまで働いたのははじめてのことだ。一〇時以降は深夜手当がつくと言う。二人はだいたいいつもこのくらいの時間まではいるらしく、(……)さんなどは新入社員だからまだ二三歳くらいだと思うのだけれど、まったく大変なものだ。この世の労働環境および経済制度は間違っている。地球全体でさっさとベーシック・インカム導入しろや。
  • あと、九時頃には腹がめちゃくちゃ痛くなっていた。今日は昼から何も食っておらずそれがかえって良くなかったようなのだが、それで実はいま腹がめちゃくちゃ痛いと(……)さんに伝えていったん職場を出て、公衆便所に行くと壁に猥雑な落描きが記されてあるじめじめした個室で便器に座り、糞便を少量排出した。それで腹痛はいくらか収まったので、もどって面談を続けた次第だ。
  • 帰室は零時過ぎ。五月二五日を完成させたあとベッドでチェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を読んだのだが、正直こちらの感じではまったく「傑作短編集」などではなく、全然大したことのない文章ばかりで、やっつけ仕事的な感じではないかと思う。出典を見ても一八八三年の二月半ばから後半に集中しており接した日付になっているので、雑誌だか新聞だかに載せるために手間を掛けずに次々と量産したという感じなのではないか。そのなかでも一三三ページから一三八ページの「感謝する人」という篇はほんの少しだけ面白かったが、わざわざ詳しく説明しようと思うほどのものではない。


・作文
 13:45 - 14:35 = 50分(5月25日)
 14:45 - 15:29 = 44分(5月25日)
 24:30 - 24:56 = 26分(5月25日)
 27:28 - 28:36 = 1時間8分(5月26日)
 28:36 - 29:06 = 30分(6月24日)
 計: 3時間38分

・読書
 15:50 - 16:29 = 39分(チェーホフ: 114 - 139)
 16:43 - 16:52 = 9分(日記)
 25:13 - 26:41 = 1時間28分(チェーホフ: 139 - 173)
 29:06 - 29:15 = 9分(チェーホフ: 173 - 179)
 計: 2時間25分

・音楽