この人間の「条件」の神話は、きわめて古くからあるまやかしの操作に立脚している。その操作の本質はつねに、〈自然〉を〈歴史〉の奥底に位置づけることにある。どんな古典的ヒューマニズムでも、以下のことを原理的に前提している。すなわち、人間の歴史や、人間の諸制度の相対性や、人間の皮膚の表面的な多様性(とはいえ、白人たちに殺されたエメ・ティルという黒人少年の両親に、人類という大家族[﹅8]をどう思っているかと、たずねてはいけないことがあろうか?)といったものの、上っ面をすこし削り取ってやれば、すぐにでも普遍的な人間の本性の内奥に到達するということである。進歩主義的なヒューマニズムは、その反対に、こうした古い詐欺の言葉づかいを逆に入れ替えることをつねに考えるべきだ。すなわち、自然や、その「法則」や、その「限界」をたえず剝ぎ取って、そこに〈歴史〉を発見し、ついには〈自然〉をそれ自体が歴史的なものとして想定できるようになるということだ。
では、そうした例はあるか。いや、この展覧会こそ、そうした例そのものだ。生や死はどうか。たしかに、それは中立的な事実、普遍的な事実である。だが、そこから〈歴史〉が取り除かれると、もはや言うべきことは何もない。その注釈は純粋な同語反復になる。写真の失敗はここでは私の目には明らかだ。死や生を繰り返し言う[﹅6]は、文字通り、何一つ教えはしない。それら自然な事実が、真の言語活動に至るためには、それらを知の次元に挿入せねばならない。言い換えると、それらの事実が変形できて、まさにそれらの自然性をわれわれの人間の批評に従属させうるということを、原理として前提せねばならない。というのは、いかに普遍的であろうとも、それらの事実は歴史的なエクリチュールの記号だからである。おそらく、子供は、いつの時にも[﹅6]誕生するものである。しかし、人間の問題の一般的な厚みのなかでは、これもまたまったく歴史的なものである誕生という行為のありかたを犠牲にしても、その行為の「本質」のほうがわれわれには重要なのだろうか? その子が順調に生まれるかどうか、母親を苦しませるかどうか、その子が死の宿命に襲われるかどうか、そしてこれこれのかたちの将来に至るかどうか。それこそ、同展がわれわれに語らねばならないことのように思われる。誕生についての永遠の抒情詩などではない。死についても同じことが言える。われわれは本当に、またしても死の本質を歌いあげねばならないのであろうか。そうして自分が死に抗して、まだ多くのことを成しうるという事実を、忘れるという危険をおかさねばならないのだろうか。われわれの賞賛すべきは、まだすこぶる若い、あの幼すぎる力であって、「自然な」死という不毛の同一性ではない。
(下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、290~292; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五六年三月号)
- 昨晩は六時直前まで起きていた。ここまで夜を徹したのはたいへん久しぶりのことで、もはや普通に朝だ。それでも一一時四〇分には起床でき、滞在は六時間に達さなかった。今日も相変わらずの真っ白な曇りで、これで三日か四日かあるいはそれ以上続いているのではないか。
- 秋山瑞人/駒都えーじ・イラスト『イリヤの空、UFOの夏』によれば、六月二四日とは全世界的にUFOの日である。
- 母親が冷やし中華を作っておいてくれた。食べていると、傘が折れていたよと言う。このあいだまで普通に使えていたのでそんなはずはないのだが、母親が持ってきたのを見ればたしかに一本の骨の中途が損耗して折れ曲がっている。いつの間にそんなことになっていたのか? 傘屋(商店街途中の「(……)」)に持っていって修理してもらいなと母親は言うのだが、大きくてそこそこ便利とはいえたかがコンビニで買った傘に過ぎないし、面倒臭いし、一部歪んでいてもまだ充分使えるだろう。
- O.Sさんの葬儀は明日。昨日の記事にも書いたとおり、内々で、きょうだいたちだけで済ませると言う。食後に風呂を洗いつつ、洗面所で出勤に向けて身支度をしている母親に、うちの親父もここで引退して精神のバランスを崩さないとも限らないぞと言っておいた。畑仕事や自治会の役目などやることはあるので生きがいの喪失はすぐにはなさそうだが、それでも仕事から引けて家にいることが多くなれば虚しさのようなものを感じることも増えるかもしれないし、顔を合わせる時間が増えればどうせ母親と揉めることも多くなるだろう、先月の悶着の際に当人が断言していたところによれば父親は母親を「愛して」いるらしいけれど、母親のほうはたぶんそうでもないだろうから、その点で報われないと思って疎外を覚え、結果、俺の人生とか夫婦関係とかってなんだったんだろうというような疑念に捕らえられるということもまったくありえないではないだろうと、そんなことを簡単に話しておいたのだった。
- 五時一五分ごろ出勤へ。道沿い、林縁の石垣上で草が旺盛に生長して、激しく高々とそびえたものが一帯を占拠している。歩いていくと路上に何かの潰れた痕がいくつかこびりついており、そばには梅の樹が立っているので梅の実なのだろうが、柑橘系の果物の残骸のようにも見える。公営住宅前の道端、ガードレールの足もとには薄い黄色に見た目を変えた落葉たちが小動物の集団のように散らばっている。
- 坂道に入れば梅の香が鼻に触れてきた。上っていくと出口付近の脇では草がやはり海をなしており、生命的に波打ちながら繁茂している。出口手前の右手の壁上にはアジサイもまるまると色濃く太っていて、ボンボンというのかそれともポンポンというのか、チアガールが両手に持って振り回すあの飾り玉のような感じだ。最寄り駅に着いて通路を行けば、丘の麓に広がる石段上の土地の縁に、赤やらピンクやら青紫やら淡い白桃色やら花がいくつも咲きならんで鮮やかに盛っている。
- 電車内では北側の扉際に立って外を眺めていた。本当に、視界のなかに緑色が存在しない瞬間が存在しない。
- 職場へ。今日は(……)(高三・英語)、(……)くん(中二・英語)、(……)くん(高三・英語)が相手で、要するに先週および先々週とまったくおなじ面子だ。(……)くんはなぜなのかわからないが今日は授業開始よりもはやく来ていた。しかし授業中にはやはり眠ってしまう。それでも教科書の新しい箇所を一ページ扱うことができたのでまあ良い。
- (……)はいつもどおり。相変わらず脱力的で文句を言いはするものの、しかし普通にやってはくれる。NextStageから関係詞について確認したが、そのなかにThey said, "we'll build a tower whose top will reach up to heaven."みたいな文があったので、これはたぶん聖書のバベルの塔の話から取ってますねと余談を語った。単一言語で意思疎通をしていた人間たちが天まで届く塔を築いて神に楯突こうと調子に乗ったので、人間が増長するのを妨げるためにヤハウェは人々の言語をばらばらに乱し、意思を疎通できないようにしたために塔の建設も放棄されたという神話だ。こちらは聖書などまったく読んだことがないのだが、このエピソードは山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』のなかで触れられていて知った。
[神が「我々」と語る]第三の箇所は、やはり有名なバベルの塔の物語の中に見られる。これは、メソポタミアによく見られた「ジックラト」と呼ばれる高い塔形の神殿を素材にしたものと考えられている。まだ人類の言語が一つであったころ、シンアルの地(メソポタミア)に人々は、「天まで届く塔」のある街を建て、自分たちの名を上げようとする(創一一4)。天上でこれを見たヤハウェは、次のように語って、人間の力を制限しようとする。
彼らは一つの民で、皆一つの言語を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何をくわだてても、妨げることはできない。我々は[﹅3]降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。(創一一5-6)
ヤハウェが人々の言葉を混乱させたので、人々は意思の疎通がとれなくなり、塔の建築を放棄して世界各地に散り散りになっていった。言うまでもなく、この物語は世界各地における言語の多様性ということの由来譚にもなっている。
(山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』筑摩選書、二〇一三年、180)
- (……)くんもいつもどおりでテキストの問題はだいたいできているのだが、しかし本人は英語は得意でないと、全然できないのだと言う。できてんじゃんと示すと、長文が読めないのだと返るので、それで実はこちらも長文を読みたいと思っていたのだと告げた。正直文法なんかしこしこやっていてもつまんねえし、どうせ塾に来ているのならまとまった量の文をさっさと読みはじめて英文に慣れたほうが良くない? と思うわけだ。とにかくある程度の量を読むということは絶対に必要だろうし、語彙にせよ文法事項にせよ、文の単位よりも一定の量と内容のある文章のなかで覚えたほうが記憶に残りやすいだろうとも思う。単語より文、文より文章というわけで、こちら自身も現役時には秋の手前くらいまで単語と文法をひたすら固めてから長文に取り組みはじめた口ではあるけれど、もう最初から長い文章を読みはじめてそのなかで語彙と知識を身につけていったほうが良いだろうといまは思っている。受験英語においてはとにかく読めるということが必要なのだし、その後の人生で英語の読解が役に立つかは知らないが、何かしらのことをやろうとするときに英語の文章が読めるか否かで触れられる情報は桁違いに変わる。もちろん並行して単語文法もみずからやってもらわなければならないだろうが、そういうわけで来週はできたらちょっと長文読んでみましょうかと話がまとまった。
- 授業後、自習席にいた(……)さんと会話。社会が覚えられないらしく、各国の特産や主要産業品などが苦手だと言うので、具体的にイメージできると頭に入りやすいかもねと受け、たとえばアメリカでよく作ってるのは……と切り出すと、機械類? と返ってそれももちろん間違いでないが、農産品だと小麦だと一例を提示し、じゃあなんで小麦を作るんですか? アメリカ人は何食ってるんですか? と訊けば、パン? と来るので肯定し、たとえばマクドナルドとかあるわけでしょ? ハンバーガーを作るためには何が必要なんですか? と質問を続ける。するとふたたびパン、と言うのでほかには? と重ねて、肉、牛肉! という答えを引き出し、そう、だから牛も育てて肉も獲らないといけないよね? とそういった感じで具体的な事柄に結びつけられると良いのでは、とか適当に助言しておいた。
- ほか、(……)くんをちょっと手助けしてから帰ろうとしたところが、入口付近で(……)さんに呼び止められて、聞けば授業以外にやってもらいたい仕事があると言う。室長の仕事の代行というか要するにパソコンを使った事務作業とかだったら面倒臭えなと思っていたのだが、生徒面談だと言った。一応七月から夏期講習期間ということになっているのだけれど、着任してきたばかりでバタバタしているし、もう間もないし、自分ですべての生徒たちと話をして夏期の予定を決める余裕がないので、受験生でない生徒たちを代わりに面談してほしいとのことで、F先生のほうが生徒たちのことを色々知ってるでしょうし、そういうの得意だと思うので、と(……)さんは言うのだった。たぶんこちらが折に触れて生徒と話しているのを見てそう判断したのだと思うが、人と話すのが得意そうなどと評されるとは、こんな俺もなかなか成長したものだ。一〇年前にはコミュニケーションなどとてもできなかった。それで了承するとさっそく翌日からはじめることになって、座席表を見ながら誰をやるか確認し、やり方をおおまかに説明してもらっているうちに時間が経って、結局最後の授業が終わる九時過ぎまで残ることとなってしまった。
- 帰路や帰宅後のことは忘却。
- Nさんの返信。
(……)
- 再返信。
(……)
- チェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を読む。印象や引っ掛かりが大して生まれず全体に退屈なのだが、こいつやっつけ仕事で適当に書いてんだろ、面倒臭かったのか? みたいな部分がたまにあるのにはちょっと笑う。また読みながら、俺もなんか短篇書きてえな、そろそろ自分にも書けるのでは? という根拠のない予感を覚えた。
- Mさんのブログ、二〇二〇年四月一日。「文法(論理学は文法にもとづく)の拘束から脱却することが、「観念」なのである」。
一般には、概念は万人に通用する同一性であるのに対して、観念は誰か個人の心に思い浮かべられたものであり、各人によって異なると考えられている。概念の同一性は、結局言語に依るものであり、厳密にいえば、言語の規則体系(共同体)の同一性に依るものである。(……)
(……)『探求Ⅰ』で強調したように、独我論とは、むしろ私にあてはまることが万人の私にあてはまるという前提のことである。そうだとすれば、「概念」で考えることがむしろ独我論的なのだ。というのは、それは規則の共同性を前提しているのであり、そのなかでは規則を共有しない者としての「他者」は排除されているからである。デカルトやスピノザが「観念」を強調するのは、概念=言語の同一性の外部において考えようとしたからである。
くりかえしていうが、デカルトがコギトから出発したのは、個人の意識から出発したということではない。文法(論理学は文法にもとづく)の拘束から脱却することが、「観念」なのである。主語と述語という文(命題)において、個と一般者が考えられ、あるいは「存在」が考えられてしまう。さしあたって、そこから出ることが必要だったのだ。
(柄谷行人『探究Ⅱ』p.148-149)
AOで特に批判されていたのは、精神分析における「解釈」であった。それは、精神分析のセッションでは患者の語りはつねに何かを別のことを意味しているものとして捉えられ、別の言葉に翻訳され、そのような作業が際限なく続く、と一般に考えられていたからである。例えば、分析家との関係のなかで生じた患者の何気ない言葉を、彼と母親との関係を述べたものであると理解するような転移解釈の実践がそれにあたるだろう。このような意味での解釈は、言葉に意味作用を次々と付け加えていくプラス方向の解釈であると言える。しかし、これでは分析のセッションは意味作用の無限の増殖に終わってしまう。AOが目指すのは、それとは反対の方向である。つまり、意味作用を削減する方向に進み、無意識をある種の直接性において取り扱うような実践をガタリは構想したのである。
ガタリは、意味作用を生産するようなプラス方向の解釈とは反対に、数学においてもちいられるような無意味性を特徴とする記号を重視する。つまり、患者の語りの意味作用を支えているシニフィアンを削りとり、「記号を墓から『掘り起こす』」ことを目指すのである(Guattari, 2012, p.270/257頁)。すなわち、スキゾ分析は精神分析の解釈とは反対に、意味作用をマイナスの方向に向かわせる。後に、ガタリはこの方向性を非シニフィアン的記号論と名づけ、現実界を取り扱うことが可能な理論として位置づけている。その理論では、意味作用を生産しない記号は、脱領土化の手段となり、記号をもちいることによって「記号機械と物質的流れとのあいだの生産諸関係ならびにその相互的創生の関係を根本的にくみかえる」ことが可能だとされる(Guattari, 1977, p.37/99頁)。
なるほど、たしかにシニフィアンを削減する方向に向かう実践は、言語の導入の際に最初に起こる是認 Bejahung の外にある不可能なもの、すなわち現実界にかぎりなく接近することが、少なくとも理論的には可能であろう。しかし、ラカンがつかう解釈は、元来、脱コード化を目指すマイナス方向のものであったという事実を忘れてはならない。実際、ラカンは五〇年代後半にはすでに、噛み砕いた意味を患者に与えることは解釈ではないと述べていた。六四年になると、解釈は主体における「無意味の核」を取り出すことであると定式化される(S11, 226/338頁)。さらに七一年には、解釈は主体にとって意味のわからない神託のように機能し、真理を荒れ狂わせる=鎖から解く déchaîner ものとして定式化される(S18, 13)(…)。意味作用をつくりだすシニフィアンの連鎖を解き、無意味の核へと接近し、真理を荒れ狂わせること。このような解釈は、意味作用をマイナスの方向へと向かわせる脱コード化の実践とほとんど同じものではないだろうか。
ミレールは、このような精神分析の新しい解釈を「逆方向の解釈 interprétation à l'envers」と名づけている(Miller, 1996b)。一般的に、一つ目のシニフィアンS1は常にS2(知)を構成しようとする。通常の解釈はこのような知の構成と同じものである。しかし、このプラス方向の意味の増殖は「解釈妄想病 délire d'interprétation」に行き着いてしまうほかない。もし精神分析の解釈がS2(患者の言葉に何らかの知=意味を与えるもの)に相当するのものであるならば、分析家は解釈など口にせずに沈黙していた方が良い。沈黙よりも良い解釈の実践があるとすれば、それは逆方向の解釈である。つまり、S1→S2……と意味の増殖を無限に続ける解釈とは反対に「S2を抑止し、何も付け加えず、S1を包囲すること」、これが解釈の新しいパラダイムとなるのである。意味を増殖させる知S2を退け、あらゆる主体に存する原初的な無意味のシニフィアン(〈一者〉のシニフィアン)へと遡ること、つまりS2→S1という逆方向にむかって分析を進めること。この逆方向の解釈は、主体を自らの享楽へと立ち返らせ、現実界における身体の出来事 événement de corps を取り扱うことをその最終的な目標としている(…)。
- 「AO」というのは『アンチ・オイディプス』のことだと思うが、それにおいて批判されている(プラス方向の)「解釈」というのは、「作者の死」とか『S/Z』あたりの段階でロラン・バルトが提出していた「エクリチュール」の概念と似たものなのではないかと思われた。すくなくとも一時期のバルトにとって「エクリチュール」というのは、意味の横滑り的転移が永遠に続き、単一性に還元されえない複数性が生き生きと躍動するユートピア的(言語)空間のようなものだったとこちらは理解しているのだけれど、これは「患者の語り」が「つねに何か別のことを意味しているものとして捉えられ、別の言葉に翻訳され、そのような作業が際限なく続く」という「精神分析のセッション」と似ているのではないか。それでは「分析のセッションは意味作用の無限の増殖に終わってしまう」わけだが、バルト的には最終着地点に決して至らないそのような無限の拡散的連鎖運動こそが言語とテクストと意味の遊戯の賭け金であり価値であるという話だったと思っていて、しかし西洋文化というものはどのような意味生成性をも最終的に回収して捕らえてしまう終極点を持っている。それは「神」である。バルトはこの究極的な意味の固定化、単一性への終着 - 停止を嫌っていたはずで、だから彼は一方では無限の意味生成作用の戯れを擁護するのだけれど、しかしもう一方でバルトは日本という文化領域に遭遇し、そこで西欧文明とは異なった意味体系を見出すことになる。つまり、日本という文化においては、意味がある地点で停止しながらもそこに充実した還元体が待っているのではなく、「神」の代わりに「空虚」すなわち「無」が最終地点に据えられているということを発見することになった。意味の糸が充実体に巻き取られて回収されるのではなくて、空白的な「無」のなかに漂流して消えていくみたいなイメージでこちらは理解しているのだが、バルトはこの意味体系からの断絶的解放もまた擁護(というかむしろ欲求?)していたはずだ。「悟り」(や「俳句」)に対する彼の興味もそこから出てくるものだと思われるが、したがってバルトは二方向的な戦略、というよりはおそらくほとんど生理に等しいものを持っていて、一方では意味の無限生成が、他方では意味の真空化的停止が好きだったはずだということだ。で、上記の引用の話はバルトのこういう考えとなんとなく似ている気がしてあるいは接続できるのではないかと思ったのだけれど、しかしガタリやラカンの理論のこまかな理屈はこちらにはわからないし、バルトの理解にしてもテクストをきちんと読み返して調べたものでないので極めて大雑把で誤っているかもしれず、第一印象ほど相同的な話ではないのかもしれない。
・作文
14:08 - 14:18 = 10分(6月22日)
14:18 - 14:33 = 15分(6月24日)
14:33 - 15:47 = 1時間14分(5月24日)
23:46 - 24:16 = 30分(5月24日)
27:46 - 28:06 = 20分(5月25日 / 6月24日)
計: 2時間29分
・読書
12:58 - 14:02 = 1時間4分(英語 / 記憶)
15:48 - 16:31 = 43分(バルト: 150 - 235)
16:57 - 17:05 = 8分(日記)
25:02 - 25:18 = 16分(ジョンソン)
25:18 - 26:39 = 1時間21分(チェーホフ: 48 - 99)
26:43 - 27:25 = 42分(ブログ)
27:32 - 27:41 = 9分(ブログ)
28:25 - 29:01 = 36分(チェーホフ: 99 - 114)
計: 4時間59分
- 「英語」: 205 - 224
- 「記憶」: 220 - 227
- ロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年): 150 - 235
- 2019/6/10, Mon.
- バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇一六年、書抜き
- チェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年): 48 - 114
- 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-04-01「吉凶を海に投じるわたしからあなたに言いたいことがあるかも」
- 「at-oyr」: 2020-03-23「ところてん」; 2020-03-24「喫茶店の記憶」; 2020-03-25「うたうひと」
・音楽
- Keith Jarrett Trio『Standards Live』
- Kiko Loureiro『Universo Inverso』(#1 - 2)
- Mr. Children『Q』
- Mr. Children『DISCOVERY』(#1 - #6)
- Kiko Loureiro『Universo Inverso』
- Larry Carlton『Last Nite』