2020/7/4, Sat.

 ここでわれわれは、神話の原理そのものに到達したわけである。それは、歴史を自然へと変形する。いまや、神話の消費者の目には[﹅10]概念の意図や対人志向が明白なままでありながら、利害関係のあるものにはなぜ見えないかが理解される。神話の言葉を発させる原因は、完全に明白なのだが、それはたちまち凝固して、自然となるのだ。神話の原因は、動機としてではなく、理由として読み取られる。もし私が、敬礼しているニグロを帝国性の純然たるシンボルとして読むのなら、私はその映像の現実性を放棄しなければならない。それは、わたしの目から見ると道具になっているため、信頼を失っているからである。逆にわたしが、ニグロの敬礼を植民地性のアリバイとして解読するなら、わたしは神話を、その動機の明証さの名のもとに、いっそう確実に根絶する。だが、神話の読者にとっての解決法は、まったく違っている。まるで映像が概念を当然のように[﹅6]もたらし、シニフィアンシニフィエを根拠付けているかのように、ことが運ぶのである。フランス帝国性が自然の状態に移行するまさにその瞬間から、神話は存在する。神話とは、過度に[﹅3]正当化された言葉なのである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、345; 「今日における神話」; 一九五六年九月)



  • 一一時のアラームでしっかりと覚醒した。滞在は五時間四〇分だから適正と言って良いだろう。なかなかよろしい。今日も相変わらず白曇りの天気が続いている。臥位のまま石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)を三〇分ほど読んでから離床。
  • 卵や竹輪やインゲンを炒めた料理をおかずにして、もうだいぶ水気を失った米を食う。そのほか前日の味噌汁を飲み、母親が作ってくれた生ラーメンも分けてもらいながら新聞を読む。香港関連の報やエネルギー政策の転換について。
  • 今日の活動の最初は復読。やはり復読は毎日するべきだ。あとは書抜きもやらないと溜まっていくばかりでいい加減やばいのだけれど、なかなか取り組めない。「記憶」の八四番はゼーバルトの小説。「マイケルが運んできてくれたポットのお茶から、玩具の蒸気機関よろしくときどきぽうっと湯気が立ち昇る」とあるが、「~よろしく」という語法はこちらの言葉遣いのなかに定着していないものなので身につけたい。この場面は全体としてもなかなか良い感じで、静かで諦念的な終焉の感覚というか、空漠とした黄昏のほの暗さみたいな雰囲気が湛えられていて悪くないと思う。

 ミドルトンの村はずれ、湿原のなかにあるマイケルの家にたどり着いた時分には、陽はすでに傾きかけていた。ヒース野の迷宮から逃れ出て、しずかな庭先で憩うことができるのが僥倖であったが、その話をするほどに、いまではあれがまるでただの捏[こしら]えごとだったかのような感じがしてくるのだった。マイケルが運んできてくれたポットのお茶から、玩具の蒸気機関よろしくときどきぽうっと湯気が立ち昇る。動くものはそれだけだった。庭のむこうの草原に立っている柳すら、灰色の葉一枚揺れていない。私たちは荒寥とした音もないこの八月について話した。何週間も鳥の影ひとつ見えない、とマイケルが言った。なんだか世界ががらんどうになってしまったみたいだ。すべてが凋落の一歩手前にあって、雑草だけがあいかわらず伸びさかっている、巻きつき植物は灌木を絞め殺し、蕁麻[イラクサ]の黄色い根はいよいよ地中にはびこり、牛蒡は伸びて人間の頭ひとつ越え、褐色腐れとダニが蔓延し、そればかりか、言葉や文章をやっとの思いで連ねた紙まで、うどん粉病にかかったような手触りがする。何日も何週間もむなしく頭を悩ませ、習慣で書いているのか、自己顕示欲から書いているのか、それともほかに取り柄がないから書くのか、それとも生というものへの不思議の感からか、真実への愛からか、絶望からか憤激からか、問われても答えようがない。書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない。もしかしたらわれわれみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。その一方でわれわれは、測りがたさという、じつは生のゆくえを本当にさだめているものをけっして摑めないことを、ぼんやりと承知してはいるのだ。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、171~172)

  • 続く八五番も良い。「呪われた魂みたく、ひとつところにずっと縛られて今日まできた」。「この世にとうとう慣れることができなかった」。

 (……)それでわたしたちは呪われた魂みたく、ひとつところにずっと縛られて今日まできたのです。娘たちのえんえんとした縫い物、エドマンドがある日はじめた菜園、泊まり客をとる計画、みんな失敗に終わりました。十年ほど前にクララヒルの雑貨屋の窓にチラシを貼ってからというもの、あなたは、とアシュベリー夫人は言った、うちにいらしたはじめてのお客さまなのですよ。情けないがわたしはとことん実務にむかない人間、じくじくと物思いにふける性分です。家じゅうそろって甲斐性のない夢想家なのですわ、わたしに劣らず、子どもたちも。ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と。(……)
 (207~208)

  • BGMはJimi Hendrix『Blue Wild Angel: Live at the Isle of Wight』からBuddy Rich『The Roar of '74』へ。このアルバム冒頭の"Nuttville"はたしかHorace Silverの曲だったと思うが、菊地成孔が明らかにこれをパクったと思われる曲を作っていた。『爆問学問』のオープニングに使われていたはずだ。
  • 今日は六時からまた面談の予定。ひとりなのですぐに終わるはずだが、出勤までに(……)くんの記録を完成させておかなければならない。Donny Hathaway『These Songs for You, Live!』とともに五月二八日の記述に邁進したものの、書くことが多すぎて終わりがなかなか見えてこない。Donny Hathawayはもちろんすばらしく、"Someday We'll All Be Free"とかいずれは弾き語れるようになりたい。三時四〇分まで書き物。
  • その後、Mr. Children『Q』をバックにちょっと柔軟したあと、ひどく伸びていた足の爪を切った。そのあと(……)くんの面談記録をノートに手書きし、五時頃になると食事へ。豆腐とバナナで腹を埋める。母親は、旧友と飲み会だという父親を送りに行った。ジャガイモやタマネギなど畑で採れた野菜を分けるらしいが、そんなにあげなくてもいいのに、と母親は昼頃文句を言っていた。
  • LINEを覗くと今日がTDの誕生日だったらしくみんなが祝いのコメントを送っていたのでこちらも言葉を投稿しておいた。新しいスマートフォンがほしいと言うので、俺は割り勘は一向に構わんと表明しておく。その後歯磨きや着替えを済ませて出発。道を行きながらハンナ・アーレントの"judge without banisters"について考える。また、引き受けるということについて。何を? 先人を、その仕事を、ひいてはこの世界を、自分なりのやり方で。公営住宅前を通る際、ガードレールの向こうだけれどすぐ間近に伸び上がった木からヒヨドリの激しく騒ぐ声が立った。坂の入口付近には青のガクアジサイがただひとつのみ残っている。
  • 電車内には山帰りの人々がおり、七人がけの席を両側とも、一区画まとめて占めている。がやがやした話し声とときおり弾ける激しい笑い。よく見なかったがわりと若い集団だったような気がする。着くとちょっとメモしてから降車。階段口に来ると録音された鳥の囀りが頭上から落ちてくる。青梅駅構内ではなぜか周期的に鳥の声を放送しており、たぶんなんらかの「自然」的な雰囲気を醸成しようという意図かと思うが、線路の向こうからは本物の鳴き声が普通に聞こえてくるわけで、余計ではないか? と思う。録音なので響きにかすかに籠ったような人工感というか、やはり実物とは違う質感があるわけだし。
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  • 駅でメモを取る。電車に乗ってメモを続けているうちに、突然雨が降りだして激しい音があたりに響き、マジで? と思った。傘は持ってきていなかった。また濡れて帰れば良いのだけれど、それにしてもこれは苛烈だぞという勢いだったのだ。しかし最寄りに着く頃にはかなり弱まっていたので安堵し、顔にいくらか粒を受けながらも問題なく帰路をたどった。下り坂に入ってすぐ脇の壁には、夜闇のなかでもアジサイがまだピンク色を灯している。空気をよくはらんだ、蒸気が軽く噴出するかのような虫の声が坂には生まれて消えていく。平らな道に、風はない。公営住宅に接した公園の桜も枝葉を宙に凍らせ静まっているが、その葉の緑が相当に濃く、ほとんど硬いように映った。林のなかで地や葉や枝を叩く水滴の音がこまかいざわめきとして道脇からにじみ響いてくるなかに、雨をかけられながら行く。
  • 帰ると着替えて夕食。肉じゃがやコンビニの炭火焼鳥など。テレビはダウンタウン坂上忍が出ているなんだかよくわからない番組で、広瀬香美がゲストだった。キーボードを弾きながら浜田が小室哲哉とともに過去にヒットさせた"WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント"を歌う。こんな曲あったなあという感じだが、しかし一九九五年の曲だからこちらは当時五歳なのになぜ知っているのだろう? 広瀬香美の歌唱はなんだかもったいないなあという印象。こちらの感覚では明らかに声を放り出しすぎており、緩急がちっともなくて一本調子なので、イメージで言うなら日蔭を一片も生み出さないひどく明け透けな夏場の太陽みたいな感じで、これじゃあ聞く人は疲れちゃうんじゃないの? と思った。音程操作もべつに悪くはないけれどやはり放り投げるだけ放り投げてあまり気にしていないような感じで多少前後するし、何より声質および響きが歌声調ではなくて語りに近くなるような箇所が多く、そうすると押しつけがましいニュアンスもときには生まれかねない。もうすこし声を引くというか、無邪気に気持ち良く放り投げてばかりいるのではなく、多少は統御して陰影を施したほうが全然良いと思うのだけれど。要するに官能性がまったくなかったのだ。エロスが微塵も存在しなかった。音楽とのあいだで駆け引きをしないのだろうか? 高音は高いところまで行ってわりと綺麗に出るようだから、そういう点でもったいないと思ったのだった。もちろんプロだからニュアンスの付与くらいやろうと思えば普通にできるのだとは思うが、このときの歌唱を聞いた限りではそんな印象だ。
  • 入浴後は書抜き。バーバラ・ジョンソンおよびロラン・バルトである。復読と書抜きをとにかく毎日やるようにしたい。一一時半前から日記にかかり、三時間以上かけて五月二八日をようやく仕上げたのだが、それでも記録できなかったことがたくさんあるわけで、人間って一日に一体どれだけの情報を受容し伝達しているの? と思う。
  • 三時台後半からTo The Lighthouseを訳した。当然だがめちゃくちゃ骨が折れる。ただやっていて面白いことは間違いない。五時一八分まで取り組んで就床。

'Yes, of course, if it's fine tomorrow,' said Mrs Ramsay. 'But you'll have to be up with the lark,' she added.
 To her son these words conveyed an extraordinary joy, as if it were settled the expedition were bound to take place, and the wonder to which he had looked forward, for years and years it seemed, was, after a night's darkness and a day's sail, within touch. Since he belonged, even at the age of six, to that great clan which cannot keep this feeling separate from that, but must let future prospects, with their joys and sorrows, cloud what is actually at hand, since to such people even in earliest childhood any turn in the wheel of sensation has the power to crystallise and transfix the moment upon which its gloom or radiance rests, (……)


 「ええ、もちろん、もし明日、お天気だったらね」 ラムジー夫人はそう言って、「だけど、ヒバリさんと同じくらい早起きしなくちゃね」と付け加えた。
 息子にとってはたったこれだけの言葉でもはかり知れない喜びをもたらすことになり、まるで遠足に行けるということはもう確かに定まって、幾星霜ものあいだと思えるほど長く待ち焦がれていた魅惑の世界が、一夜の闇と一日の航海とを通り抜けたその先で手に触れられるのを待っているかのようだったのだ。彼はまだ六歳に過ぎないとはいえ、ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができず、未来のことを見通してはそこに生じる喜びや悲しみでもって、現にいま手もとに収まっているものにまで覆いをかけずにいられないあの偉大なる一族に属していたのだが、そういう人々にとっては、もっとも幼い時期から既に、どのような感覚の変転であれ陰影や光輝の宿る瞬間を結晶化し


・作文
 13:52 - 13:59 = 7分(7月4日)
 13:59 - 14:05 = 6分(7月3日)
 14:05 - 15:41 = 1時間36分(5月28日)
 23:22 - 26:37 = 3時間15分(5月28日)
 計: 5時間4分

・読書
 11:00 - 11:30 = 30分(バルト: 87 - 93)
 12:55 - 13:24 = 29分(英語)
 13:24 - 13:49 = 25分(記憶)
 22:23 - 23:21 = 58分(ジョンソン / バルト)
 27:47 - 28:15 = 28分(Woolf: 3/L1 - L6)
 28:29 - 29:18 = 49分(Woolf: 3/L6 - L12)
 計: 3時間39分

  • 石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年): 87 - 93 / 書抜き
  • 「英語」: 65 - 93
  • 「記憶」: 80 - 91
  • バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇一六年、書抜き
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994): 3/L1 - L12

・音楽