2020/7/12, Sun.

 ホロコーストが、世界的に広く知られるようになったのは、一九七八年にテレビドラマ『ホロコースト――戦争と家族』が、アメリNBCで放映されてからである。日本でも同年秋に、翌年にはドイツでも放映され大きな反響を呼んだ。しかし、日本でより広く一般に知られるようになったのはさらに遅く、『シンドラーのリスト』などの映画を通した一九九〇年代以降ではないだろうか。(……)
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、ⅳ)


 夢見。自宅の居間にいる。普段座っている、テーブルの東側の席に就いている。右隣に(……)がおり、向かいには(……)がいて、雑談している。二人とも高校のクラスメイトで、バスケ部。話していると、(……)の身体からときおり、ぎゅるぎゅるいうような音が大きく立つ。空腹というよりは腹痛のような印象で、本人も音が鳴ると、不安なような、何かを我慢しているような表情になる。それで話している最中に、お前、腹が痛いのかと訊き、トイレに行ってきたらとすすめる。
 このとき自宅は何かホテルのような役割になっていたと言うか、もっと多くの人々が宿泊するような設定になっていた記憶がある。それでそのなかの何人かが風呂に入っていたのではないか。それにもかかわらず、自宅の様相は現実のそれと変わらず、だから一〇人とかそれ以上もの人が泊まるスペースなどあるわけもないのだが、そのあたりの事情は夢に特有のご都合主義的な超論理によって不問とされていた。

 一〇時頃覚め、脹脛をほぐしつつ、腰や首なども指圧。快晴ではないが、久しぶりに太陽の光が寝床に差しこんで明確な日向が生まれ、熱を与える日。一〇時二二分に離床し、コンピューターを点ける。準備が整うと、昨日買ったアコギをさっそく持ってきていじって遊ぶ。まったく良いおもちゃを手に入れたものだ。さしあたっては色々な曲を適当に弾き語れるように練習し、ゆくゆくは何かしらの曲を自作するつもり。

 John Mayerが『Where The Light Is: John Mayer Live In Los Angeles』の冒頭でやっている"Neon"を練習してみるかと思ってタブを調べたのだが、チューニングが普通の場合と違うようだったので、それじゃあ面倒臭えと思ってやめた。ただいま見直してみたら、ただ六弦がCに下がっているだけだったので、そのくらいならやっても良い。一一時半頃まで遊ぶ。

 食事へ。ハムエッグを作って丼の米へ。前日の味噌汁の余りもレンジで温めて卓へ。新聞読みつつ食う。岡井隆の訃報。九二歳。テレビは『うたコン』で、過去の映像を色々流しており、なかにキャンディーズが"暑中お見舞い申し上げます"とかいうような曲をやっていたのだが、コーラスがわりと綺麗で良い質感で、へえ、キャンディーズってこんな感じなんだと思った。母親は素麺を茹でて「すだちうどん」とかいうもののつゆを掛けて食うと言うので、少々もらった。多少酸味はあるものの、特にすだちの風味は感じない。近くの市有の花壇の草刈りをしていたらしい父親が汗だくで入ってきてシャワーを浴び、せわしなく食事を取った。こちらはゆっくり新聞を読む。両親は墓参に行くと言う。明日から盆に入るので。こちらはこのあいだ行ったので良かろうと残ることに。皿は父親が洗ってくれ、こちらは食後、風呂洗い。

 茶を用意していると、外の明度が落ちてきたし、風も吹いて(……)さんの宅の鮎のぼりが泳いでいるくらいなので、これはもう雨が降るんじゃないかと予感して、上半身裸でも怖じずに恥じずにベランダに出て、洗濯物をもう入れた。その際に、ベランダから仏間に続く戸の枠のきわに何か妙なものを見つけて、これなんだと母親に掛けながら目を寄せてみると、最初はキノコが生えているのかと思ったのだが、直後にカタツムリであることが判明した。見えるのは殻のみでからだは出ておらず、その殻もほとんど木化したと言うか、あるいは火で焼かれたように無骨な鈍い褐色になっており、一見して干からびて死んでいるように見える。だが母親は、水を掛ければ生き返るんじゃないと言って、アイロンのときに使う霧吹きでしゅっしゅしゅっしゅ掛けていたようだ。こちらとしてはもう普通に死んでいると思うが。しかし、カタツムリの死とは一体どういうことなのか? たしか、マイナス一〇〇度だか二〇〇度だか、そういう極寒の環境に置いても仮死で済んで、温度が上がればまた復活する動物がいたと思うが、あれはカタツムリの一種だったか? 別の生き物だったか?

 緑茶持って帰室。暑い。そこにわざわざ温かい飲み物を飲むので、もちろん背は汗にまみれる。

 日記。一時から五時四〇分までぶっ続け。記録を見ると。そんな感じもなかったが。六月三日を完成させることができた。

 近藤和彦Substance』。大坂昌彦というドラマーは、かなりこまやかで巧みなほうではないか。なおかつ、#6 "Unexpected"の導入に聞かれるように、ときには密な重さもある。#7 "E-Z Pass"のサックスなどもよく流れて充実している。#10 "Black Beans"はイントロのピアノの和音が良い。片手間に耳にしているだけなのできちんと感受できていないが、全体的に質の高いアルバムだと思う。

 食事の支度へ。餃子を焼き、豚肉のこま切れもあったので野菜と炒めることに。母親は煮物。牛蒡・ニンジン・鶏肉・シイタケなど。昨日、(……)家で出たという話を聞いて食べたくなったらしい。餃子は冷凍でなくて生餃子。焼くあいだにタマネギやニンジンを切る。餃子は相当にうまく焼けた。底のきつね色の染まり具合がベスト。炒め物もわりとうまくできたと思う。生姜をたっぷりすりおろす。砂糖と醤油で味つけ。できるともう食事を取ることに。おのおの盛って卓に運ぶ。新聞読みつつ食べる。餃子がクソみたいな味だった。九個入り一〇八円の安物なので仕方がないが、よい色にこんがり焼いたにもかかわらず、ぜんぜんかりっとした感触になっておらず、何だったらちょっと固い。一個一二円なわけだが、これだったらうまい棒のほうがうまくて満足感がある。煮物は(……)の圧勝である。まずくはないが、店には出せない。

 食後、帰室。ギターちょっとまたいじる。弾き語りをしたいものは色々ある。小沢健二Mr. ChildrenDonny Hathaway、"エイリアンズ"など。あとは適当なブルース。と言うか、もはや何でもいい。コードを鳴らして言語に乗せてメロディを歌えば気持ち良いのはまちがいないので。

 八時から一時間、六月四日を進める。今日は何となく、久しぶりに散歩に出ようかという気になっていた。しかし復読はしたい。音楽を流せる時間のうちにやらねばと九時で切りとし、「英語」を読む。そうして九時半になると歩きに行くことに。赤褐色の幾何学風Tシャツをまとう。今日はいままでずっと上半身裸だった。上がって、皿を洗っている父親に行ってくると告げる。

 道に出ると、ヤマユリのにおい。玄関で嗅いだのと同じにおいなので。林のほうのどこかに咲いているのだろうが、見えない。ずいぶんと香る。林縁の石段上は繁茂の度合いがはなはだしい。盛り上がっている。伸び上がっている。草が。だいたい二、三メートルはあるだろうし、一番高いものだと五メートルくらいあるのではないか。空気はわりと涼しい。夜気。(……)さんの前あたり、道の右端には濃い茶色になった枯れ葉が溜まって道を縁取っている。草のにおいが流れる。たぶんそこの斜面は、刈られたのではないか。暗くて草の襞がよくわからなかったが、香ったということはそういうことでは。公営住宅の一棟の下、物置か何かよくわからない室の入口に、真っ黒な人影が座っている。たぶん煙草でも吸っていたのではないかと思うが、火の色は見えなかった。
 十字路で自販機に寄る。「WANDA」の缶コーヒーと、ロイヤルミルクティーと、「リポビタンD」に売り切れランプが灯っている。「Welch's まる搾りGRAPE50」を買う。二八〇ミリリットル。「Welch's」は一八六九年から続いているらしい。そうして先を進む。小橋の周り、沢の上は草が膨らんでいる。坂を上っていくと視界がややひらけて、暗い曇天と南の山の真っ黒な影が現れる。より近くにある樹々との境がまったくつかないそのまったき均された黒さはすごい。本当は白っぽく濁った空こそ何もものがない無の空間で、地上には山なり樹々なり家なりの襞があるわけだが、これを見るに、むしろその山影こそが完璧な無の平面的形象化で、空の広がりのなかを突然侵した闖入的な〈穴〉と言うか、いかにも文学的な常套句を使えばそれは完全に「深淵」のイメージだし、黒の空白、というような感じの非在的な様相。ただ、そのなかにも、乏しいながら川向こうの集落の明かりが、黄色く小さくいくつか花のように息づいてはいる。
 そういうものを見ながら裏通りを進むに、やっぱりゆっくり外を歩くことほど面白いことってこの世にそうそうないなと思う。本とか音楽とか映画とか、もろもろの創作物ももちろんとても面白いけれど、一番面白いのはやはりこの世界そのものなのではないか。こういう夜があと五〇年か、せいぜい七〇年も繰り返されれば俺ももういないわけだと思って、それはやっぱり残念だというか、長生きできたとしても一〇〇年程度ではやっぱり生は短いなあという感じがした。いま三〇歳なので、一〇〇歳まであと七〇年間見事に生存すると一応仮定して、七〇年を日数に直せば、三六五×七〇で二五五五〇という数字が導き出せて、あと二五〇〇〇回くらいこういう夜を過ごして書けると考えれば、けっこうたくさんあるような気もしてきて悪くはないが、しかし七〇年という年数で考えたり、いままで生きてきた三〇年という年月をあと二回重ねるくらいでだいたい終わりだと思うとやはり短い感じがしてくる。第一、実際にそんなに長く生きられる気もしないし。一〇〇年よりはやはり二〇〇年のほうが良かったし、できれば一〇〇〇年くらいあったほうがちょうど良かったのではないかという気がする。一〇〇〇年生きれば、もうそろそろいいかなという気分に自然になるのではないか。
 裏道から見上げる空はもちろん数分前とおなじく雲で白っぽく淀んでいるのだが、西方向のスクリーンは下降するにつれてその白さが黒さのなかに吸収されて、曖昧な暗さに沈んでいる。染まっている。街道に向けて曲がると、一体どういうわけでそこにあったのかわからないのだが、蜘蛛の糸が道の途中に浮かんでいたようで、右腕に付着してきてくすぐったい感触が生じるとともに、左腕のほうにもすぐ引っかかってきて、だから道の真ん中を横に張るようにあったと思うのだけれど、しかし一体どこからつながっていたのか? 表に出ると風が流れて涼しい。道端に何やら黄色い花が群生しており、ネギみたいに細長く突き立った上にその花は生えていて、足もとの葉っぱはかなり大きくて、アジみたいな感じでむしろ水辺に生えていそうな感じ。花はスープを作る最後に溶き卵を熱い湯のなかに入れて不定形に固まったときみたいな形をしていて、花弁の内側にはオレンジと言うか茶色と言うか赤っぽいような色の斑点が付されており、こまかな蟻がたくさんその花のなかや、そばの柵の横棒の上に集まっていた。で、例によって画像検索などをして名を調べてみると、これはカンナという花である。花の形と斑点の感じからしてまちがいないだろう。
 街道を進む。遠く、東の市街のマンションなどの点描された明かりが果てに見える。消防署や「(……)」のそばに来ると、ジョギングする人がいた。走っている人はほかにも、街道を行くあいだにあと二、三人見かけた。あと、裏通りを出るあたりで、腕に水の感触が触れはじめて、視認できないものの雨が散りはじめたことが知れて、その後もたまに点じられていたのだが、結局降り出しはしなかった。街道の途中、最寄り駅の手前には梅の樹がいくつか並んだところがあって、丸っこい葉っぱがたくさん散らばっていて避けようもない。あたりからは虫の声がいくつも立つが、この時季の虫声はどれも無機質で、秋虫のような色気と叙情的音楽性はまったくなく物質的で、SとZの音の中間みたいな響きでトゥルルルトゥルルルいっているのだけれど、そんな単純な音色であっても人間の声帯と言語記号は無力で、それを定かにぴったりと書き表すことができない。コオロギの種なのかなんなのか知らないが、その夏虫たちの声の字義性と言うか、色のなさと言うか、余計な意味を帯びず単なる振動でしかない大気性と言うか、要するに隙間の多い〈風っぽさ〉みたいなものは、それはそれで悪くない。梅の樹の下を過ぎると今度はピンク色のアジサイがいくつも咲いていたが、もう褪せ、いくらか黒ずんで色は濁りはじめている。
 風はおりおりあり、ときにだいぶ厚くもなって、汗はむろんかいているけれど暑くはなく、肌の感触は涼しい。街道をずっと東に進んでまた裏に戻るあたりで、John Lennonの『Rock 'N' Roll』をデータで買おうかなと思った。このアルバムは昔持っていたけれど売ってしまって、しかしこの作品の冒頭の"Be-Bop-A-Lula"が印象的でけっこう好きで、アコギも買ったし弾き語りできるようになりたいなと思ったのだ。二曲目には"Stand By Me"も入っているし。そういうわけでそのうちAmazonで買うかもしれない。裏に入るとガードレールの向こうに下り斜面があってその底から沢の水音がうごめき泡立ち昇ってくる。道に沿って沢音は続くが、家のそばに続く坂の上まで来ると、今度は林の向こうに川が近くなるので音響はより大きく広範なそちらに統合される。坂の入口付近にはここにも茶色い枯れ葉の帯ができていて、(……)さんの宅の隣の小斜面、つまり(……)の実家の土台の側面はたぶん最近刈られたのではないか。草が短くなっていたようなので。坂道を下りて出口では、下の道に家がいくらかあるからたぶんその隙間を縫ってくるのだろうか、川音がほそくなったかわりに、凝縮されて鋭いようになった気もする。ともかく響き方が変わった。ガードーレールの下で草音が立ったので止まって戻って、トカゲだろうかと草むらを見てみるものの、よくわからない。なんか草の上に何かしらのものがあるにはあって、ただトカゲとも見えず、植物の部品のようでもあるのだけれど、どうもけっこう大きめの、と行って手のひらに収まる程度だが、蜘蛛ではないかと思われた。なんか脚みたいなものが放射状にいくつもあったようなので。

 二〇一九年六月二八日金曜日。

 小林 『声字実相義』のなかで、サンスクリット文法の複合語の説明がえんえんと出てくるところは、現代のわれわれからすると、別におもしろくもない。注釈者もあまりそこのことは書いていないように思うのですが、こここそが、空海にとっての論理の「鍵」だったんだなあ、と思ったわけですね。なにしろその複合語のつくり方で、顕教密教の世界理解がわかれるわけですから。簡単に言えば、「実相は本質的に翻訳不能であり、それを簡単に言葉で埋めてはいけない」という真理隔絶の立場は、あくまでも顕教的な、大乗仏教的な浅い解にすぎない、と。それに対して、空海密教的立場では、「声」、「字」、「実相」は同格か、あるいはきわめて近接している「隣近釈[りんごんしゃく]」と理解しなければならないというわけです。「声字は即実相である」と言っているわけではないけれども、それこそ、「即身成仏」という論理とまったく同じです。つまり、直接に「身口意、即、仏」の論理につながっていくわけですね。しかも、3部作の最後の『吽字義』でも「吽」という1字のなかに、4つぐらいの言葉が一緒になっていますと言っているので、結局、空海はこの3部作の全部を、いわば複合語の論理に依拠して書いているんですね。すごい飛躍。なんという過激。わたしは、ここでは、空海をとても偉い弘法大師としてではなく、若いときの求聞持法の経験から出発して、こういう世界との向かいあい方を必死に理論化しようとしている知性として考えたいんですね。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、82~83)

 谷川俊太郎なども読んでいる。以下の二つの節が良い。

 普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
 鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で
 たとえば日曜日の動物園に似てるんだ
 猿と人間でいっぱいの
 (谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』青土社、一九七五年、21; 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」; 「7」)

     *

 水鳥の鳴声が聞える
 あれは歌?
 それとも信号?
 或いは情報?
 実はそのどれでもないひびきなんだよ
 束の間空へひろがってやがて消える
 それは事実さ
 一度きりで二度と起らぬ事実なんだ
 それだけだ今ぼくが美しいと思うのは
 (53~54; 「干潟にて」)

 Twitterで、(……)のあとに新しい古本屋ができるという情報をキャッチ。名を忘れたが、(……)、みたいな感じで、「(……)」という語が入っていたはず。



 バルト、書抜き。九二から、六二へ。「(二項)対立」に対する姿勢。

 京都大学医学部附属病院クラウドファンディングで募るのは、室内の空気が部屋の外に漏れないようにする陰圧室を整備するためで、少なくとも3000万円を目指すということです。
 簡易の診察室を陰圧室化すると国からの補助金の対象となりますが、対象外となる手術室や集中治療室などの施設でも改修工事が必要不可欠だということです。京大病院では3月下旬から新型コロナウイルスの感染拡大防止のため手術の件数を制限してきたため、工事の資金が不足しているということです。

 【AFP=時事】ドナルド・トランプDonald Trump米大統領が、自身の顧問を長年務めたロジャー・ストーン(Roger Stone)元被告(67)の刑を免除したことを受け、共和党ミット・ロムニー(Mitt Romney)上院議員は11日、ツイッターTwitter)への投稿で「前代未聞の歴史的腐敗」と批判した。(……)
 2016年大統領選におけるロシア介入疑惑をめぐってストーン元被告は、証人に対する不当圧力や下院による調査の妨害など7件の罪で有罪判決を受け、14日から禁錮3年4月の刑に服す予定だった。
 トランプ氏の弾劾裁判の投票では共和党議員として唯一賛成票を投じ、同氏を激怒させたロムニー氏は、11日にも一切手加減せず、「前代未聞の歴史的腐敗:米国の大統領は、まさにその大統領を守るためにうそをついたことで有罪判決を受けた人物の刑を免除した」とツイートした。

 検索用のデータベースを作るかと思う。情報はEvernoteにすべて集約して記録しているのだが、なぜかいかんせん検索が不便と言うか、検索するとかならずしばらくフリーズするので。ブログにあげておけばバックアップにもなる。そういうわけでもうひとつのアカウントを利用することに。と思ったが、無料アカウントでも三つまではブログを持てるようだったので、ならばdiary20161111で良いと戻る。「(……)」と簡明な名前のブログを作成。デザインは面倒臭いので「雨のよく降るこの星で(仮)」とまったく同じ。