2020/7/27, Mon.

 [「水晶の夜」]事件の捜査指揮はゲスターポの専権となったが、その後の刑訴手続きはナチ党裁判所が執り、犯罪行為についてどの刑事罰に相当するかの判断をナチ党が独占した。ヒトラーへの免訴願が出され、党による処罰も「真っ当なナチ党員の態度・出動準備態勢に即し目的を逸脱した場合に限る」とし、殺人・放火・破壊行為など荒れ狂ったにもかかわらず、正規の裁判所への犯人引き渡しは「不純な動機」にもとづく性犯罪(「人種醜態」)・略奪のみに限られた。ユダヤ人殺害も刑法犯罪にあたらず政治的行為であり、司法介入の余地はないとされ、犯罪を犯した者たちは罪を問われなかった。(……)
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、58)



  • 一二時三〇分ごろ離床。たぶんそれ以前には覚めなかったようで、記憶がなんら残っていない。曇天もしくは雨天で室内はだいぶ薄暗い。
  • 上階に行くとガス台の上のフライパンには肉じゃががこしらえてあり、即席カップのちゃんぽん麺も置かれてあったのでそれらを食べることに。普段は居間の食卓で新聞を読みながらものを食べるが、カップ麺の類はなんとなく自室でコンピューターを見ながら食えば良いかという気になるもので、風呂を洗ったあと(窓外に響くホトトギスの声)、肉じゃがとともに持って帰室した。食事を取りつつインターネットを回り、その後、そのまま数時間ものあいだだらだらしつづける。
  • 途中で茶をつぎに居間に上がったときだろうが、ウグイスと蟬たちとカラスの声が外空間で重なり合うのを聞いた。蟬で言えば最初に居間に上がった際にも南窓の網戸にとまって叫んでいるものが一匹いて、あれはアブラゼミニイニイゼミか、けたたましい声を室内にひろげていたが、トイレに行ってもどってくるとすでに去っていた。
  • インターネットを回って遊んだが、合間、ボールを踏んだりベッドで脹脛をほぐしたりしているのでそんなに無駄な時間でもない。六時前にいたるとようやく食事の準備に行った。と言って大したことをやる気はなく、と言うか米を炊いて餃子を焼くくらいのつもりしかない。炊飯器から余った米を取り、新たに四合弱を磨いでスイッチを入れておくと、餃子は米が炊ける頃に焼いてそのまま食事に入ることにして、一旦室にもどって今日のことを記述しはじめた。 amazarashi『MESSAGE BOTTLE』を流してみたのだが、いまのところ特に面白くはない。ボーカルの歌は低音域では息をはらみがちで、高音を出すときの声の張り方にしてもときおり付与されるざらつきにしても、いかにも切実という印象を与えるものであり、鬱々とした屈託をおりおりに示す歌詞もあいまって感情性がかなり強く、そうした暗い方面の情緒を澄んで綺麗な曲調にくるんで浄化的に昇華したという感じで、なんと言うかたしかに「今時の若者」に受けそうと言うか、ナイーヴ気味な陰鬱さを抱えているような人に好まれそうなセンチメンタルな色合いがあって、一定以上のひろい「共感」を呼ぶだろうということは容易に理解できるものの、こちらにとってはその感情性は重く、押しつけがましく、いくらか鬱陶しいと感じられてしまう。「透明感に満ちた」とでもお手軽に形容されそうな楽曲自体のいかにもな「綺麗」さとかコード進行とかにしても、いまのところ特に興味を惹かれる瞬間は見られず、たとえばThe FrayとかColdplayとかKeaneとかがやったことの範疇からほぼ出てはいないのではないか。普通にメジャーシーンに流通しているJ-POPの類もふくめてだいたいそうなのだけれど、こういったポップスの詞にはほとんど「感情」とか「思い」とか「観念」とか「イメージ」とか「比喩」とかしか出てこず、「風景」すらまったく描写されないことも多いし、なんらかの具体的な「時空」と、何よりも「事物」が圧倒的に欠けているのがこちらにはどうも腑に落ちない。もちろん、抽象的だからこそ人々がおのおのそれに自分を投影することができ、「共感」を呼び、世上にひろく流通するという仕組みになっているのだけれど、こちらにしてみれば、え、それでいいの? そんなに曖昧でふわふわしたコミュニケーションでいいの? とどうしても思ってしまう。と言うか、なんでそんなにやすやすと「事物」の手触りを捨象して「思い」に流れてしまえるのかな? という感じ。そこには結局のところ、自分しかないじゃん、と思ってしまうのだが。
  • 六時四〇分あたりで切り、上へ。餃子を焼く。AJINOMOTOの品。水も油もいらず、フライパンに乗せて熱しているだけで勝手にできあがるので楽だ。焼いている合間に冷凍されていた唐揚げを加熱してもう米を食べはじめる。餃子が焼けると米を追加してさらに食う。そのころには母親も帰ってきた。平らげて片づけると緑茶を持って帰室。六月一五日をまた進めているうちにほぼ九時に至ったが、なんだか重い眠気に襲われていたので休むことにして、Wes Montgomery『The Incredible Jazz Guitar of Wes Montgomery』を流してベッドに仰向いた。音楽とともにまどろもうと思ったわけだが、その目論見は成功していくらか眠ったらしく、三曲目と四曲目を聞いた記憶がない。#5 "West Coast Blues"あたりから意識を取り戻したが、すぐには起き上がらずに自律訓練法めいて仰向けのままぴたりと静止し、死体を模しながらまだ休む。Wes Montgomeryの例の有名なオクターブ奏法というのはやはり特筆するべきなめらかさだ。停まっているあいだ、鼻の穴の付近がやたらと痒くなり、眠ったために体温も落ちたらしくややぞくぞくするような感じもあったのだけれど、意に介さずにその感覚を受け止めながら停止を続けた。
  • そうして九時半前に入浴に向かったところが帰ってきた父親が入っていたのでもどり、六月一五日をまた書いた。Wes Montgomeryが終わったのち、The Who『Live At Leeds』を流す。ものすごく久しぶりに耳にしたが、John Entwistleのベースプレイってわりと頭がおかしい類のもので、The Whoというバンドはこのライブ盤と『Who's Next』しかほぼ聞いたことがないのだけれど(図書館で借りた『Quadrophenia』のデータも一応手もとにありはする)、もっと集めて聞いてみても面白そうだなと思った。
  • 一〇時七分で仕上げて入浴へ。身体をいくらか伸ばしてから入湯。沢の響きが窓を埋める。それを聞いていると、やっぱり本当は一日一度は外に出て風を浴びたり世界の意味素を取りこんだりしたほうが良いのだよなあという気になって、あとで深夜にでも家の前に出て無為に耽ろうかなと思った。しかし本当にそうするか不確定。浴槽の横に出て頭を洗ったあと、排水溝のフィルターを掃除しておいた。おりおりやろうと思っているのだが、つい忘れてしまう。引っかかっている髪の毛を取り除き、湯に触れた精液のように白っぽく固まっている石鹸やシャンプーの滓をブラシで擦り取る。
  • 出ると母親がコーラ飲むと訊くのでいただくことにし、氷を入れたコップを二つ用意してまず母親の分を注ぎ、残りはもらって自室に持ち帰った。それを飲みつつ今日のことをここまで記述。一一時半である。何をしようか?
  • Mさんの『双生』をちょっと読みはじめてみることにした。相変わらずの修飾過剰な畸形的文構造。それ自体はMさんの持ち味だから良いと思うのだけれど、ただ、「未だその端々に辿々しさの僅かに残る発語もあるいはひょっとすると単なる老いの仕業でしかないのかもしれぬ口元」の「あるいはひょっとすると」とか、「祖父母の代に金品と交換して得たに違いない得体の知れぬ怪しげな家系図」の「得体の知れぬ怪しげな」とか、意味の距離がかなり近いと思われる類同的な言葉が連続して付されているのがちょっと冗語的で気になった。
  • 三段落目の冒頭、「道楽は芸事に限らなかった。町中を縦横斜めに走る無数の水路もまた遊興の的であった。狭く険しく荒ぶりながら山を抜けるのが本性でありながらその一帯だけは不思議に緩やかでたっぷりとしている流れの、二股に分かれたのがそのまま各々の道を辿るかと思いきや、膨らむだけ膨らんだのち再び萎んで一本に結ばれる復縁の相によって形作られた中洲に住まう人々であった」という箇所はちょっと、おっ、と思った。長い三文目の「(……)人々であった」という収め方にそう思ったもので、まずこの文では「(……)人々であった」に対応する主語が省略されている。普通、主語を省いて書くのだったら、それ以前の文で「人々」と置換されるべき語が主語として提示されているものだと思うのだけれど、ここでは一文目と二文目の主語はそれぞれ「道楽」と「水路」で、「人々」と交換 - 等置できるものではない。だからなんと言うか、この三文目はちょっといきなりな感を覚えると言うか、前の部分からわずかに隙間が挟まれているような感じがすると言うか、それは修飾部を取り除いて文を簡略化してみればたぶんよくわかると思う。この三つの文を構造的中核だけ抜き出した形で並べると、「道楽は芸事に限らなかった。水路も遊興の的であった。中洲に住まう人々であった」となるわけだ。二文目と三文目のあいだにかすかな段差が感じられないだろうか。なおかつ、この三文目の大半は「中洲」に付された修飾情報であり、ここで語られているような情報を提示するのだったら、通常はたぶん「人々」のほうを主語にして、「人々は(……)中洲に住まっていた」と書くほうが収まりが良いのだと思う。それに沿って先の要約を変換すると、「道楽は芸事に限らなかった。水路も遊興の的であった。人々は中洲に住まっていた」という連鎖になり、こちらのほうがたぶん流れとしてはスムーズに流れる感覚があるのではないか。ただ『双生』の語り方では、通常は主語に置かれると思われる「人々」が述部に回され、そこに向かって文中のほかの情報が修飾として一斉に収束し流れこんでいくような形を取っているわけで、これはなんと言うか、ばん! みたいな堂々とした提示感があるし、こういう書き方はこちらはやったことがないなと思って面白く感じたのだった。
  • Mさんの小説にはたぶん、「であった」という締め方の文を連続させる書き方がけっこう出てくると思うのだけれど、上に引いた箇所も、「町中を縦横斜めに走る無数の水路もまた遊興の的であった。狭く険しく荒ぶりながら山を抜けるのが本性でありながらその一帯だけは不思議に緩やかでたっぷりとしている流れの、二股に分かれたのがそのまま各々の道を辿るかと思いきや、膨らむだけ膨らんだのち再び萎んで一本に結ばれる復縁の相によって形作られた中洲に住まう人々であった。見ようによっては己の尾を噛む神話の蛇のようにひとつらなりとなっている流れによって外界と隔てられている一帯であった」という具合に三連続させられている。ただここでは、「であった」の内容はそれぞれ、「遊興の的」、「中洲に住まう人々」、「外界と隔てられている一帯」という感じで並列的である。その次の段落では、「不慣れな下駄履きがもたらしたのは乱脈であった。滅多矢鱈と掘り進められていく水路に応じてますます正確な拍子から逸脱していく一方の、こうなるとほとんど自暴自棄になって乱れ打つものとして聞こえなくもない一種狂おしい響きであった」という「であった」の反復が見られ、ここでは「乱脈」の内容が次の文でさらに掘り下げられ詳述される形が取られており、こちらはこういう語り方が好きである。同様の例として思い出すのは『亜人』のなかに書かれていた魅力的な比喩で、「生きるということは期せずして奏でられる音楽であった。はじまりからおわりへと心を方向づける旋律を厭い、なにごとかへの同期にむけて駆りたてるむきだしのリズムとささやかな音色の持続する変容だけがたしかな、ちょうど先住民らのあいだに代々伝わる儀式の伴奏を思わせる、そのような音楽であった」(17~18)というのがその記述だ。ここではどちらの文も「(……)音楽であった」で締めくくられており、それに対する修飾部が(プルースト(*1)を借用すれば水中花のように)展開させられているわけだから、同語反復的でもあり、換言的でもあり、掘進 - 詳述的でもある。この一節は『亜人』のなかでもかなり好きな箇所にあたるものだ。
  • *1: 「ちょうど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙きれを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるものになってゆくものがあるように、今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、善良な村人たちとそのささやかな住居[すまい]、教会、全コンブレーとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ」(マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へⅠ』集英社、一九九六年、92~93)
  • ひとつの名詞のまわりにあらゆるイメージ・比喩・形容詞・アフォリズム、などなどをひたすら集めつづけることで名詞を〈混沌化〉させ(無内容化 - 真空化させ?)、もしくは宗教的儀式のように崇めたてまつるような小説というものはありえないのだろうか?(むしろ、詩でやるべきことなのか?) ロラン・バルトの語っていた「アルゴー船」(*2)と〈愛 - 言語〉(*3)。
  • *2: 「しばしば心にうかぶイメージ。(光輝く白い)アルゴー船だ。「アルゴー船員たち」がすこしずつそれぞれの部品を交換してゆき、その結果、ついにはまったく新しい船になってしまったが、船の名前と形を変えることはなかった。(……)ひとつの同じ名前のもとでさかんに結合をした結果、〈もとのもの〉はもう何も残っていない。アルゴー船とは、その名前のほかには何の起源ももたず、その形のほかにはいかなる自己同一性ももたない物体なのである」(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、52~53; 「アルゴー船(Le vaisseau Argo)」)
  • *3: 「(……)愛の呼びかけは、毎日、時の経過を通じて反復され、同じ文句で繰りかえされるものであるにもかかわらず、それは私によって発言されるその都度、ひとつの新しい状態をあらわすことになるのだ、と私には思われる。アルゴ船の一行がその航海の間に、船名は変えることなく、しかもその船には新装をほどこしていく、あれと同じように、愛し焦がれている主体は、同じひとつの感嘆のことばを通じて長い道のりを行く。そしてその間に、はじめにいだいていた求める心を次第に弁証法化しつつ、しかも最初の話しかけがもっていた白熱の光を曇らせることがなく、また、愛の働きと言語活動の働きとはまさに同一の文に対してつねにさまざまの新しい声調を与えることにほかならないと考え、そのようにして、いまだかつてなかったひとつの新しい言語を創作していく。それは、記号の形態は反復されるけれどもその記号内容は決して反復されることがない、という言語である。そこでは、話し手と愛する人は、ことばづかいというもの(および精神分析的な科学)によって私たちの心情すべてに強制されてしまうあの残虐きわまる《還元作用あるいは縮約作用》に対して、ついに打ち勝つことができるのだ」(佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルトみすず書房、一九七九年、174~175; ことばの働き Le travail du mot
  • 上とおなじ段落にはまた、「審美の豚となり浅ましく大地を穿り返す不届き者らの蛮行をとうとう見兼ねた土地の神による、それは一種の天罰だったのだろうか?」という文もあるが、こういう風に主部の「それは」を修飾のあとに回す形、挿入的と言うか部分倒置的と言うか〈シガーボックス的〉な書き方もこちらは好きだ。
  • あと、この点はMさんもやめると言っていたと思うけれど、やはり漢字とひらがなの表記は戦前戦後で変えるのではなくて作品全体をとおしてバランスの良い形に統一させたほうが良いような気がする。序盤を読んでみる限り、固いとは感じないのだけれど、漢字という記号の持つ短縮性と言うか、圧縮的な力がなんかもったいないなと感じられるところがあって、もっとひらがなを取り入れたほうが視覚的に伸び伸びとした感覚が出るのではないかと思う。たとえば、「夏の夕べには、腰を屈めて葉物を洗う夕餉前の姿や、熱を宿した裸足の爪先を浸して涼む人影が、畔の情景を恭しく形作った」という一文の終わりに「恭しく」という語が出てくるけれど、ここを読んだときこちらは、ああそうか、「うやうやしく」って漢字で書くとこうなってしまうのか、「うやうや」というひらがな二文字の伸びやかな反復が見えなくなってしまうのか、それはなんかもったいないなあ、という気がしたのだった。
  • 一時まで『双生』を読んだあと、Wikipediaから"Dancing mania"を読む。Dancing maniaと似た集団舞踏病的な現象としてイタリアには"Tarantism"というものがあり、これはLycosa tarantula(タランチュラコモリグモ)に咬まれることによって起こると信じられていたらしい。この蜘蛛は現在一般にタランチュラと呼ばれているあの毒々しくて巨大なやつとはまったく別物で、ターラントという街の近辺で見られる種だと言う。
  • 「三〇年つくり続けた折り鶴を燃やしたときの君の横顔」という一首が固まったが、そんなに面白いものではない。第五句(「とき」以降)は色々変えられると思うので、もうすこし探ってみたい気はする。
  • マクベスはダンカン王を殺す前は王殺しに対する「恐怖」をたびたび表明していたのだが、いざダンカンを殺害して自身が王位を得たあとはそれが「不安」に変わる。七六ページから七八ページにかけての独白にそれは語られており、そこではバンクォーが不安の対象として名を挙げられている(「バンクォーへの/おれの不安も根が深い。もって生まれた気高い気品は/不安の念を呼ばずにはおかぬ」、「あの男をおいてほかにはいない、おれの不安を/かき立てるものは」)。「恐怖」はたぶん、弑逆という行為そのものに対する情動で、ただ人を殺すこと自体には慣れているはずのマクベスが、「王」を殺すとなると途端に意気阻喪し怯えに支配されるのはなぜなのかという点がいまだ明確にわからない。ともあれ、それに対して「不安」は普通に考えればバンクォー(やほかの者)に王位を奪われることへのおそれなのかなと思ったのだが、七六~七八ページの独白を見ると、それよりもむしろ「無意味さ」への「不安」が強いのではないかと思われた。関連する行が多いので、やや長めに下に引いておく。

 おれの頭上には実を結ばぬ王冠を押しつけ、
 おれの手には不毛の王笏[おうしゃく]を握らせておいて、
 それを血のつながらぬものの手にもぎとらせ、
 おれの子供にあとを継がせぬ気か。そうだとすれば、
 バンクォーの子孫のためにおれはこの手を汚し、
 あの慈悲深いダンカンを殺したことになる。
 バンクォーの子孫のためにおれはこの平和な心の杯に
 憎悪の毒をもったことになる。おれの永遠の魂を
 人間の敵悪魔に売りわたしたのも、彼らを王に、
 バンクォーの子孫を王にするためだったのか!
 (77~78)

  • つまりマクベスの「不安」は、せっかく弑逆を成し遂げて王位を手にしたはずなのに、結局その地位は彼自身の子孫には受け継がれないということ、したがって多大なる恐怖に耐えそれに逆らいながら敢行した「王殺し」という過去の自分の行為が無意味だったと証されてしまう可能性に向けられたものなのではないか、と思ったわけだ。
  • おなじ独白のなかで、バンクォーは「恐れを知らぬ」と形容されている(77)。したがって、彼はその点でマクベス夫人と性質を共有する存在である(四四ページでマクベスは夫人に向けて、「恐れを知らぬその気性からは、とうてい男しか/生まれまい」と言っている)。バンクォーの「恐れ知らず」な性格はたしかにほとんどその登場と同時にあらわに示されており、マクベスとともに荒野で三人の魔女に遭遇したとき、彼は「おれはおまえたちの好意も求めず、/おまえたちの憎悪も恐れぬ男だ」(19)と雄々しく言い放っている。また、ダンカン王が殺害されたことが発覚した際にも、発見者のマクダフなどは恐ろしい恐ろしいとくりかえすのだけれど、バンクォーはその形容詞を口にせず、ただ「あまりにも残酷な!」(64)とか、「この血なまぐさい残虐非道の所業」(67)とか言うのみだ。もっとも六七ページではその直後に、「いまは恐怖と疑惑にふるえるのみだ」と続けて「恐怖」という言葉を使ってはいるけれど、ここのバンクォーの台詞は一同に向けて王殺しの真相を調べようと呼びかけ反逆者と戦う決意を表明しているものなので、この「恐怖」はバンクォーの個人的な真情を述べたというよりは、フォーマルな建前と解することができるだろう。「恐ろしい」という形容詞はこの劇にものすごくたくさん出てくるもので、それは天候の様子にすら付されるのだが、「恐ろしさ」の意味素を集めてみればそれがなんらかの体系をなしていることがもしかしたら見えてくるかもしれない。そのうちにやってみようかと一応思っているが、さしあたりいまは「王殺し」に関連する部分のみ拾って記録しておく。
  • まずマクベス。「なぜおれは王位への誘惑に屈するのだ、/それを思い描くだけで恐ろしさに身の毛もよだち、(……)」(25)、「手のなすことを見るな、目よ、たとえ/見るも恐ろしい行為を手がなすとはいえ」(30)、「憐れみが(……)天童の姿となって目に見えぬ大気の天馬にうち乗り、/その恐ろしい所業を万人の目に吹きつけよう」(40~41)、「不動の大地よ、/おれの足がどこに向かおうとその音を聞くな、/でないとおまえの小石までおれの居場所を告げ、/この場にふさわしい恐ろしい沈黙を破るだろう」(50)、「もうおれは/行く気にはなれぬ。自分がやったことを考えるだけで/身の毛もよだつ」(55)。
  • あの「恐れ知らず」のマクベス夫人でさえ、三四ページで一度だけ、王の殺害を「恐ろしい」という言葉で形容している(「あわれみ深い人情が訪れて、私の決意をゆさぶり、その決意が恐ろしい結果を生み出す邪魔をしないように」)。殺されたダンカンを最初に発見したマクダフも、二度に渡りその恐ろしさを叫びたてている。「おお、なんと恐ろしい! この恐ろしいできごと、/思いもよらぬ、口にも出せぬ」(61~62)、「マルカム! バンクォー!/その墓から立ちあがり、亡霊のように歩いてこい、/この恐ろしい光景にふさわしく!」(63)という調子だ。したがって、この劇では「王殺し」という行為はほぼ無条件的に「恐ろしい」ものなのだが、そのなかでバンクォーだけが先の「建前」を除いてはその「恐ろしさ」に言及していないわけで、彼の「恐れ知らず」性は際立っていると言えるだろう。
  • 八六ページでマクベスは、「不安がつづくここしばらくは、/国王の地位にある身を追従の流れにひたし、/作り顔を心の仮面として、本心をかくさねばならぬ」と述べており、「仮面/本心」という表裏二元論が見られるのだが、これは三五ページで夫人がうながしていたことに実質上応じた振舞いである(「世間を欺くには/世間と同じ顔つきをなさらなければ。目も手も舌も/歓迎の色を示すのです。うわべは無心の花と見せて、/そのかげに蛇をひそませるのです」)。この夫人の台詞についてこちらは、表(外面) - 裏(内実)間の接続を〈切断〉するよう誘う言葉だと理解していたのだが、八六ページでマクベスの言を受けた彼女は、今度は「もうそのようなお考えはお捨てになって」と諭しており、したがって今度は〈切断中止〉をするように説得している。
  • 八七ページに続くマクベスの台詞と、三三~三四ページにある夫人のそれとは、あきらかに対応していると思われる。

 (……)さあ、瞼を閉じあわせる夜よ、
 早くきてあわれみ深い昼の目を包んでくれ。
 おまえの血なまぐさい見えぬ手で、おれを蒼ざめさせる
 あいつのいのちの証文を、ずたずたに引き裂き
 無効にしてくれ。薄暗くなってきた。カラスが
 森のねぐらに帰っていく。
 昼の正直ものたちは首うなだれてまどろみ出す、
 夜の暗闇の手先どもは餌を求めてうごめき出す。
 (87)

 カラスの声までしわがれる、ダンカンが私の城へ
 運命の到来するのを告げようとして。さあ、
 死をたくらむ思いにつきそう悪魔たち、この私を
 女でなくしておくれ、頭のてっぺんから爪先まで
 残忍な気持でみたしておくれ! 血をこごらせ、
 やさしい思いやりへの通り道をふさいでおくれ、
 あわれみ深い人情が訪れて、私の決意をゆさぶり、
 その決意が恐ろしい結果を生み出す邪魔を
 しないように。この女の乳房に入りこみ、
 甘い乳を苦い胆汁に変えておくれ、人殺しの手先たち、
 いまもどこかで姿も見せず人のいのちを
 奪っていることだろう。きておくれ、暗闇の夜、
 どす黒い地獄の煙に身を包んで、早く、ここへ。
 (33~34)

  • まず中核的な要素として、「夜」に対して到来を呼びかけるという身振りが共通しており、この点でマクベスは知らずして夫人を反復している。そのほか台詞にふくまれている語彙や意味素にも共通性が見られるだろう(「あわれみ深い」、「包んで」、「いのち」、「カラス」、「手先」。また、不可視性(「血なまぐさい見えぬ手」と「姿も見せず」))。


・読み書き
 17:51 - 18:27 = 36分(日記: 7月27日)
 18:32 - 18:42 = 10分(日記: 6月15日 / 7月27日)
 19:29 - 20:55 = 1時間26分(日記: 6月15日)
 21:29 - 22:07 = 38分(日記: 6月15日)
 23:09 - 23:28 = 19分(日記: 7月27日)
 23:33 - 25:03 = 1時間30分(『双生』)
 25:08 - 25:38 = 30分(Wikipedia
 25:50 - 26:15 = 25分(Wikipedia
 27:50 - 28:55 = 1時間5分(シェイクスピア: 70 - 92)
 計: 6時間39分

・音楽