2020/7/28, Tue.

 一九三九年三月一四日、チェコスロヴァキアが解体され、チェコがドイツのベーメン・メーレン保護領ボヘミアモラヴィア保護領)になる(……)
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、61)



  • 一二時半ごろ覚醒。カーテンをひらいたその先、アサガオとゴーヤの織りなすグリーンネットの隙間に覗く空は相変わらずの無差異な白で、風もあるかなしかその葉と花をふるわす程度。上階へ上がると、買い物か何か行っていたらしい母親がちょうど帰ってきたところだった。洗面所で髪を整えうがいをし、ベーコンとジャガイモのソテーなどで食事を取る。食後、風呂を洗っている最中に、なぜかシャトーブリアンのことを思い出した。この作家に『墓の彼方からの回想』という自伝があるのだが、『偶景』に収録されている日記のなかでロラン・バルトがこの本を毎晩就寝前に読んではたびたび絶賛し、これこそ真の書物だみたいなことを言っていたのを思い出したのだ(*1)。それで読んでみたいのだけれど、以前調べたときの記憶によれば古い和訳が一応あるようなのだが、原作はたしか数巻に渡る長いものだったと思うのでたぶん全訳ではないのだろう。だからいずれ英語で読もうかなと思ってあとで調べてみることにしたのだが、いまAmazonを見るとペーパーバックで二三〇〇円ほど、Kindleだと一三〇〇円で買えるようなので(https://www.amazon.co.jp/Memoirs-Beyond-Grave-François-René-Chateaubriand/dp/1681371294)、こういうのを見るとやっぱりKindle導入したほうが良いのかなあと思ってしまう。プロジェクト・グーテンベルクにも一応英訳があるのだが(http://www.gutenberg.org/ebooks/54743)、Alexander Teixeira de Mattosというまったく名前を聞いたことのない人物によるこの訳は一九〇一年のものらしいので、一〇〇年以上も前の英語だとどうなのかな? と思わないでもない。日本語よりはたぶん変動は小さいのだと思うが。
  • *1: 「『墓の彼方の追想』の中のナポレオンの話の続きを夢中になって読んだ」(ロラン・バルト/沢崎浩平・萩原芳子訳『偶景』(みすず書房、一九八九年)、88; 1979年8月24日)。「借りが少し返せると(分割払いで)、本を閉じ、『墓の彼方の追想』に戻って、ほっとする。これは本当の書物だ」(92; 8月25日)。「『墓の彼方の追想』を読み続け、心が踊る」(97; 8月26日)。「ベッドでは、現代物のつらい宿題は勘弁してもらって、すぐにシャトーブリアンの続きを読む。セント=ヘレナ島におけるナポレオンの遺体発掘に関する驚くべきくだりだ」(100; 8月27日)
  • 母親は図書館にも行ってきたらしく、以前から借りながらも読めないでいる『赤いヤッケの男』という怪談物と、京極夏彦などを借りてきたようだ。京極夏彦を見れば『虚談』という作品があったが、この本のデザインはそこそこ悪くなかった。それから帰室前に緑茶をついでいるとテレビで『ナイロビの蜂』という映画が始まって、ナイロビってどこだったかケニアだったかと思っていると母親がまさしくナイロビってどこ、と訊いてくるのでそのように答える。本篇に入る前の冒頭、やや荒涼としたような海沿いの景色が映されて、カメラの至近になんだかよくわからない機械か装置のようなものが一部アップで入りこみつつその奥で水平線が陽炎にぼやけているさまとか、茶色いような鳥の群れが浅い水の上を立ち騒ぐさまとか、それから今度はかすかな赤味をはらんだような白さの鳥群が飛びながら集団の形を微妙に変容させていくさまなどが見られ、何の変哲もない風景ではあるけれどそんなに悪くないのでは? と感じた。どんなものであれ、なんらかの風景が映っていればわりと面白いみたいな感じがこちらにはある。ただ、その場で母親が調べたところによるとこの映画はジョン・ル・カレの小説が原作らしいので、そうするとやはりどちらかと言えばストーリーを主軸とした作品なのかもしれない。監督はフェルナンド・メイレレス(Fernando Ferreira Meirelles)というブラジルの人。
  • 部屋にもどって今日のことを記述。すると二時四七分。
  • さらに今日のことと昨日のことを書き足したあと、何をしようかな? と迷いながらもとりあえず、明日Woolf会があるし翻訳も進めなくてはと思って取りかかったのだが、読み返しでまずつまずく。最初の段落に、"all these were so coloured and distinguished in his mind that he had already his private code, his secret language, though he appeared the image of stark and uncompromising severity,(……)"というジェイムズ・ラムジーに関する描写があるのだけれど、ここになぜ"already"が入っているのかその意味がよくわからないのだ。この"already"には「六歳という幼年に似合わずもう」というニュアンスが含まれかねないと思い、こちらも「この歳にして彼はもう」という風に訳していたのだが、"private code"や"secret language"を持つというのはどちらかと言えば子どもの特性ではないか? という気がするし、そのあとが"though"でつながれているということは、前段と後段は意味論的に対立させられているはずである。このあとの内容は、ジェイムズの容貌は際立った厳格さを帯びているのでそれを見ていると母親は思わず彼が裁判官にでもなって活躍している様子を思い描いてしまう、というようなものだから、"though"以降はやはり「大人っぽさ」を示唆する記述になっていると理解できる。だから"though"以前は反対に「子どもっぽさ」をあらわす部分だととらえるべきだと思うのだが、そうすると、この"already"なんやねん、ということになるわけだ。「この歳にして彼はもう」とか、「六歳という幼年に似合わずもう」という意味合いをそこに付与してしまうと、「子どもっぽさ」のニュアンスが拡散してしまう。だからすくなくとも「この歳にして」は省こうかなと思ったのだが、そうするとまたリズムを整えなければならない。まあでもひとまず「もはや」という語を使っておこうかなとかたむいて、この部分は一応、次のように固まった。「手押し車や芝刈り機、ポプラの樹々の葉擦れの響きや雨を待つ葉の白っぽい色、それにまたミヤマガラスの鳴き声や、窓をこつこつ叩くエニシダのノック、ドレスが漏らす衣擦れの音――こういったすべてのものたちが彼の心のなかではそれぞれ鮮やかに彩られ、はっきりと識別されていたので、それはもはや自分だけのひそやかな暗号を、いわば秘密の言語を持っているようなものだった。とはいえ、その秀でた額と激しさを帯びた青い目には妥協をまったく許さぬ厳格さがうかがわれ、人間の弱さを目にすればちょっと眉をひそめてみせるほどに申し分のない率直さと純粋さがこめられてもいたので、鋏をきちんと丁寧に操って冷蔵庫の絵を切り抜いている息子の様子を見まもりながら、母親は思わず、白貂をあしらった真紅の法服をまとって法廷に座ったり、国家的危機のさなかで容赦なく重大な計画を指揮したりする彼の姿を想像してしまうのだった」。「もはや」を使えば、「もう」というニュアンスも取り入れながら、同時にso that構文の持つ「程度」の意味合いもカバーして強調させた形にできるのではないか。
  • そのほかこまかな箇所をちょっと変え、また、四段落目の終わりにあるラムジー氏の独白を倒置の形にした。つまり、「俺の子どもならばまだ幼いころから、人生の厳しさを、事実の動かしがたさを、そして伝説に語られたあの土地への旅、この上なく輝かしい我々の希望も光を失い、我々を乗せて運ぶ小舟はもろくも闇に沈み去ってしまうというあの神話の地への旅には(と、思考がここまでくるとラムジー氏はいつも背すじを伸ばし、水平線を見つめながらその青く小さな目を細めるのだった)、何をおいても、勇気と真実と、それに苦難を耐え忍ぶ力が必要だということを心得ておかねばならん」だったのを、「俺の子どもならばまだ幼いころから心得ておかねばならんだろう、人生の厳しさを、事実の動かしがたさを、そして伝説に語られたあの土地への旅、この上なく輝かしい我々の希望も光を失い、我々を乗せて運ぶ小舟がもろくも闇に沈み去ってしまうというあの神話の地への旅には(と、思考がここまでくるとラムジー氏はいつも背すじを伸ばし、水平線を見つめながら青く小さなその目を細めるのだった)、何をおいてもまず、勇気と真実と、それに苦難を耐え忍ぶ力が必要だということを」としたのだ。そのほうがなんか心中の独白っぽい感じになるかなと思ったし、前の形だとやはり主述間の距離が遠すぎてなんか流れが悪い。
  • その後、'But it may be fine'という夫人の台詞からはじまる第五段落をいくらか進めたが、ここでけっこう挑戦してみたと言うか、岩波文庫御輿哲也訳よりもはやい段階で夫人の独白調をはじめてみた。該当箇所をまず引いておくと、"If she finished it tonight, if they did go to the Lighthouse after all, it was to be given to the Lighthouse keeper for his little boy, who was threatened with a tuberculous hip; together with a pile of old magazines, and some tobacco, indeed whatever she could find lying about, not really wanted, but only littering the room, to give those poor fellows who must be bored to death sitting rake about on their scrap of garden something to amuse them." という原文で、御輿訳ではここは「もし今夜中に編み終わり、明日本当に灯台[ライトハウス]に行くことになったら、この靴下は結核性関節炎の疑いがある男の子のいる灯台守にプレゼントする予定だった。そのほか古い雑誌の束やタバコなど、特に必要でもないのに部屋中に散らかっているもののあれこれも、灯台の人たちの気晴らしのためにできるだけ持って行くつもりだった。何しろあの人たちは、ランプを磨いたり芯を切ったり小さな庭の世話をする以外は、一日中何もすることがなくて死ぬほど退屈しているに違いないのだから」となっており、"to give"あたりから夫人の声に入っていく感じなのだが、こちらは次のような文章にした。「もし今夜中に編み終わって明日本当に灯台 [Lighthouse] に行けることになったら、その靴下は小さな息子がいる灯台守にプレゼントする予定だった。というのも、その男の子は結核性股関節炎におびやかされていたからだ。それと一緒に古雑誌の束やタバコなど、本当は必要でもないのに見回してみれば部屋中に散らかっている雑多なあれこれも、何でも持っていってあの気の毒な人たちを楽しませてあげましょう、何しろあの人たちは、やることといえばランプを磨いたりその芯を切ったりちっちゃな庭を掃除したりするくらいで、それ以外は一日中座りこんで死ぬほど退屈しているに決まっているんだから」。"to give"の箇所から夫人の声に推移していく点は変わらないが、"give those poor fellows(……)something to amuse them"を口語的に訳した点が御輿訳との違いである(御輿訳では"those poor fellows"は「灯台の人たち」とされており、"to amuse them"は「気晴らしのために」と付け加えられている)。やはりこの"those poor fellows"をどう理解するかが勘所だと思うのだが、このthoseは「それらの」というような感じで前に出てきた灯台守およびその息子を中立的に受けることもできるし、「あの」という感じにして夫人の視点を盛りこむこともできるだろう。こちらは後者の言い方を取ったもので、御輿訳もいったん「灯台の人たち」としておきつつ文を締めてからあらためて「あの人たちは」と言う方式を取っている。原文の書き方にもどってみると、まず"a tuberculous hip;"とセミコロンで締めたあとに、"together with(……), to give(……)"という風にうしろから情報を付け足す形になっているので、"together with"あたりから文構造が明確に固まらずほどけていくような感じがあるし、進んで出てくる"poor"の語からは夫人の主観が入ってきているのではないかという気がするのだ。加えて、この小説の大きなテーマのひとつとして経済的階級性というものがあると思われ("lawnmower(芝刈り機)"が必要なほどの庭をそなえた別荘を所有している時点で、ラムジー一家が金持ちであることは冒頭の数行目から明らかである)、たしか夫人は社会福祉活動に熱心だという描写もあとで出てきていたはずで、よく覚えていないけれど福祉支援にはげむ上流層の偽善性をいくらか皮肉るみたいな雰囲気も作中にあったような気がするので、「あの気の毒な人たちを楽しませてあげましょう」という風に、ちょっと「上から目線」っぽい言葉でとりあえず訳しておいた。"their scrap of garden"を「ちっちゃな庭」としたのもおなじ意図からで、岩波文庫では「小さな庭」となっているけれど、「ちっちゃな」という言い方にしたほうが「上から目線」ぶりが出るかなと思ったのだ。ただこれはいくらか踏みこみすぎかもしれない。
  • いまのところできている訳文は記事下部に載せておく。
  • 五時で切ったが、料理をする前に身体をほぐしておきたかったので、Mr. Children『Q』を流しつつ柔軟。運動しながら窓外を見やると、大気は微弱な雨にけむっているような色合いで、外に出て風を浴びたいが降っているとすれば傘を差すのが面倒臭いなと思ったところで、昔の家の縁側というのはこういうときに便利だったのだなあと気づいた。降っていてもさほど濡れることなく、外気の感触や音に接することができるわけだ。西洋と比較したときの日本の文化的特質として「自然」を対象化せずにそれと一体的に生きるみたいなことがよく言われると思う。この紋切型も、本当に確かなのかな? という疑問をこちらは感じるのだが、たぶんある程度までは当たっているのだろう。家屋建築の観点からすると縁側という場所はそれを象徴するような空間になっているはずで、そこで人はなかば家の内にありながらも同時に外界の「自然」と触れ合うことができるわけなので、つまり縁側は内外をつなぎ仲介する中間的な場だということになる。昔の日本の住宅様式は、西洋のそれに比べるとたぶん、外となかのあいだの移行(自然 - 文化間の移行)がゆるやかで段階的なのだろうと思う。ただ西洋圏にそれと似たものがないかと言えばそんなことはないはずで、たとえばバルコニーというものがそういう機能を果たすこともありうるだろうし、サルトルがミラノ旅行を伝えた手紙のなかでそんなようなことを書いていた記憶もある。というわけでいま書抜きを見返してみたのだが、これはミラノではなくてナポリの話だった。

 (……)ただ、それらの部屋が生あたたかく、薄暗く、強く匂うので、そして街路が眼の前にじつに涼しく、しかも同一平面上にあるので、街路が人々を引き寄せる。で、彼らは屋外[そと]に出る、節約心から電灯をつけないですますために、涼をとるために、そしてまたぼくの考えではおそらく人間中心主義から、他の人々と一緒にひしめき合うのを感じたいために。彼らは椅子やテーブルを路地に持ち出す、でなければ彼らの部屋の戸口と路地に跨った位置に置く。半ば屋内、半ば屋外のこの中間地帯で、彼らはその生活の主要な行為を行なうのだ。そういうわけで、もう屋内[なか]も屋外[そと]もなく、街路は彼らの部屋の延長となり、彼らは彼らの肉体の匂いと彼らの家具とで街路を満たすのだ。また彼らの身に起こる私的な事柄でも満たす。したがって想像してもらいたいが、ナポリの街路では、われわれは通りすがりに、無数の人々が屋外に坐って、フランス人なら人目を避けて行なうようなすべてのことをせっせと行なっているのを見るわけだ。そして彼らの背後の暗い奥まった処に彼らの調度品全部、彼らの箪笥、彼らのテーブル、彼らのベッド、それから彼らの好む小装飾品や家族の写真などをぼんやりと見分けることができる。屋外は屋内と有機的につながっているので、それはいつもぼくに、少し血のしみ出た粘膜が体外に出て無数のこまごました懐胎作用を行なっているかのような印象をあたえる。親愛なるヤロスラウ、ぼくは自然科学課目[P・C・N]修了試験の受験勉強をしていたとき、次のことを読んだ。ひとで[﹅3]は或る場合には《その胃を裏返し[デヴァジネ]にして露出する》、つまり胃を外に出し、体外で消化をはじめる、と。これを読んでぼくはひどい嫌悪感をもよおした。ところが、いまその記憶が甦ってきて、何千という家族が彼らの胃を(そして腸さえも)裏返しにして露出するナポリの路地の内臓器官的猥雑さと大らかさを強烈にぼくに感じさせたのだった。理解してもらえるだろうか、すべては屋外にあるが、それでいてすべては屋内と隣接し、接合し、有機的につながっているのだ。屋内、つまり貝殻の内部と。言い換れば、屋外で起こることに意味をあたえるのは、背後にある薄暗い洞窟――獣が夕方になると厚い木の鎧戸の背後に眠りに戻る洞窟――なのだ。(……)
 (朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』(人文書院、一九八五年)、83~84; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

     *

 (……)ナポリにはぼくたちがイタリアのどこでも見なかったものがある、トリノでも、ミラノでも、ヴェネツィアでも、フィレンツェでも、ローマでも見なかったもの、つまり露台[バルコニー]だ。ここでは二階以上の階の扉窓にはどれも専用の露台が附属していて、それらはまるで劇場の小さなボックス席のように街路の上に張り出し、明るい緑色のペンキで塗られた鉄格子の柵がついている。そしてこれらの露台はパリやルワンのとは非常に異なっている、つまりそれらは飾りでもなければ贅沢品でもなく、呼吸のための器官なのだ。それらは室内の生あたたかさから逃がれ、少し屋外[そと]で生きることを可能にしてくれる。いってみれば、それらは二階あるいは三階に引き上げられた街路の小断片のようなものだ。そして事実、それらはほとんど一日中そこの居住者によって占められ、彼らは街頭のナポリ人が行なうことを二階あるいは三階で行なうわけだ。ある者は食べ、ある者は眠り、ある者は街頭の情景をぼんやり眺めている。そして交流[コミュニケーション]はバルコニーから街路へと直接に行なわれ、部屋に一度入り、階段を通るという必要がない。居住者は紐でむすばれた小さな籠を街路におろす。すると街頭の人々は場合に応じて籠を空にするか、満たすかし、バルコニーの男はそれをゆっくりと引き上げる。バルコニーはただ単に宙に浮いた街路なのだ。
 (89~90; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)

  • 運動ののち、料理へ。長いインゲン豆を茹で、ブナシメジと鶏肉をソテーする。ローズマリー、粉の出汁、味の素、ニンニク醤油、名古屋味噌、味醂などさまざまな調味料を入れて味つけ。おかげでなかなか美味いものになった。できあがると丼の米に乗せ、サラダとともにもう食事。新聞を読みつつ腹を満たし、皿を洗うと緑茶を持って帰室。今日の日記を書くのだが、To The Lighthouseについて記すのになぜか時間が掛かって、書きはじめてからもう一時間も経ってしまった。現在はちょうど七時半。やはり外気に触れたい気はする。
  • 上階へ。父親が帰ってくると言うので風呂に入ることにしたが、その前に玄関の外にちょっと出た。雨がそこそこの厚みで降っているなかに、隣家からただよってくるのか、コロッケみたいなにおいがわずかに感じられた。戸口を囲んでいる柵と軒のあいだに蜘蛛の糸が一本渡されているのが道の黒さに浮かんで見え、向かいの宅の前、電灯を掛けられた樹の梢は濡れた葉をこまかく光らせており、雨粒に打たれて宿り場が一瞬揺らぐためだろう、その光点は、虫が翅をひらいては閉じるように薄れてはもどる動きを至るところでくりかえす。風は流れず、空気の微動もほぼ感じられず、隣の空き地に立った旗も今日はくねらず沈黙しているが、それは雨水を吸って重くなったからだろう。数分のあいだ、雨と沢の音を聞く。
  • その後、入浴。さほど時間を掛けずに出て部屋に帰ると、アコギを弾いた。いつもやっている適当なブルースとか即興を録音しておけば一年後にでも聞いて成長がわかるかもしれないということで、先日マイクによる録音を試みたのだが、それは音質がクソだったので今日はラインで録ることにした。と言ってパソコンに接続されているオーディオアンプにギターから直接シールドをつないで、ソフトもWindowsに付属しているサウンドレコーダーを使うだけという手抜きぶりで、実際録ってみると音質はやはりクソなのだけれど、まあとりあえず聞ければ良いかということで適当に三回録った。これだったらマイクの位置を調整したほうが良い音になるかもしれないが、むしろもうそれなりのレコーダーをひとつ買ったほうが手っ取り早いのだろう。聞き書きをやるときにも使う予定だし。ひとまず今日のところは我慢し、九時四〇分ごろまで楽器で遊んで、録った演奏はブログとかにあげて残しておこうと思っていたが、noteの音声アップロードはmp3でないと対応しておらず、ところがWindowsサウンドレコーダーはなぜかwmaで録音される。それでOnline UniConverterとかいうサイトで変換しつつ、はてなブログには音楽をアップロードできるのかなと調べてみると、なんかよくわからんがDropboxを使わなければならないらしい。Dropboxは以前たしか登録した気がするのだが情報を忘れたのでGoogleのアカウントであらためて登録し、ダウンロードとインストールをしたのだけれど、そのためにコンピューターがやたら重くなったので一度落として回復させることにした。
  • それでシャットダウンし、ベッドに転がってウィリアム・シェイクスピア小田島雄志訳『シェイクスピア全集 マクベス』(白水社白水uブックス29、一九八三年)を読んだのだけれどじきにちょっと眠ってしまい、床を離れたのが一一時半過ぎ。コンピューターをまた点けて録った音源を聞いてみたところ、そんなに悪くないように思われ、格好良く弾けている箇所も多少はある気がする。mp3に変換したそれらをnoteに投稿しておき、Dropboxをせっかく用意したがそれを使うのもなんか面倒臭くなったので、はてなブログのほうにもnoteの記事を貼っておけば良いかと落として、演奏を聞きつつ六月一六日を書き(書くことがすくなくてすぐに仕上がった)、今日のこともここまで記せば午前一時。音源のURLは下。
  • 小さな豆腐とカレーの挟まったパンをコーンスープを用意してきて、Uくんのブログを見ながら食い、その後書抜き。バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス、二〇一六年)。かなり久しぶりにできた。毎回言っていることだけれど、書抜きもやっていかないといい加減やばい。この本なんて、三月下旬に読んだものだ。打鍵のあいだはnoteでまた自分の演奏を聞いていたのだが、遊びなのでもちろんミスもあるし拙い部分も多いけれど、意外に良いのでは? と思った。
  • その後、FISHMANS『Oh! Mountain』を流す。#3 "RUNNING MAN"で左から聞こえる音が良い。チャカポコやっているのでたぶんワウか何か噛ませたギターではないかと思うのだけれど、豊かな残響をまといながら波打つ感触が気持ちよく、耳を愛撫されているような感じ。書抜き後もウェブを見ながら聞いていたのだが、FISHMANSってやっぱりすごいなと思った。演奏はもちろんなのだけれど、#4 "夜の想い"の途中で「動き出してるこの空 走り出した白い犬/動き出してるこの空 走り出した白い犬/明日は何があるのかね あなたは誰に会うのかね/明日は何があるのかね あなたはどこに いるの」とくりかえす箇所を聞いたときにあるかなしかの叙情性が香りひろがって、いや、これでいいんだよなと思ったのだ。愛だの希望だの絶望だの哀しみだのなんだの、大げさな類型に落とし入れた感情を直接歌い上げるしか能のない人々はこの控えめさを見習ったほうが良いんじゃないか。こんなすかすかの、薄っぺらなこときわまりない言葉にもやわらかなにおいとほのかな彩りと、それでも確かな手触りを持った質を付与することができるのだ。これが機微というものだと思う。それはもちろん言葉だけの問題ではなく、その背景をなしている演奏とメロディ・リズム間の結合と佐藤伸治の歌声があってのものに違いないだろうが。#8 "感謝(驚)"もやはりこの上なくすばらしい。とりわけ間奏のベースとBパートのギターがすごい。ここまで気持ちのよいリズムを生み出しているバンド演奏をこちらはほかに知らない。かなり不思議なことのように思うのだが、充実して密に埋め尽くされた種類の完璧さとは違うタイプの完璧さ、隙間が至るところにひらいていて風通しのよい、浮遊的な完璧さみたいなものがここで実現されている気がする。全人類が聞いたほうがよい。
  • それからなんとなく久しぶりに音楽をきちんと摂取する気になったので、Bill Evans Trioを聞くかというわけで例によって"All of You (take1)"を再生した。以前の印象から進歩していないのだけれど、Bill Evansのピアノを聞いたときにまず顕著に感じるのはこの上ない均整の感覚で、音の配置がとにかく整っている。くわえて、最初から最後まで彼の呼吸(ペース)は一定であまりにも乱れなく、変な話なのだが〈展開しない〉というような感じがある。こう言ったとして自分の感じたことをうまく言い表せてはいないのだが、Scott LaFaroPaul Motianもそれぞれ音楽の流れに合わせて呼吸を変化させて〈展開する〉し、もちろんそれが再帰的に音楽の流れを生み出していくわけだけれど、Evansだけはそれらの揺動から触れられないところで、完璧に超然と我が道を行っているような感じを受ける。現実にはそんなはずはないと思うが。彼はほとんど最高度に洗練された構造主義者だと言うか、構造的感性がとにかくやばくて、何を弾いてもぴたりとはまってしまうような調子で、隙がまったく、一瞬もない。こういう弾き方をするにはやはり相当な集中力がいるのではないかと言うか、集中と言うよりほとんど音楽そのものになるというような同化的変容の能力が必要なのではないかと普通に思うのだけれど、一体何がEvansにこうさせたのか不可思議ですらある。苛烈なまでの、鋭く鬼神的な整い方だ。やはりなんか実存的な生理に根ざしたものがあったのだろうか?
  • 四時半で寝床に移ってコンピューターで遊び、六時直前に就寝へ。ホトトギスの声を聞いた。もう七月も終わりだから、なかなか長い。例年このころまで鳴いていたのだろうか?


・読み書き
 14:04 - 14:47 = 43分(日記: 7月28日)
 14:52 - 15:13 = 21分(日記: 7月28日 / 7月27日)
 15:21 - 16:59 = 1時間38分(Woolf: 4/L14 - L25
 18:26 - 19:31 = 1時間5分(日記: 7月28日)
 22:28 - 23:00 = 32分(シェイクスピア: 92 - 110)
 23:54 - 24:22 = 28分(日記: 6月16日)
 24:29 - 25:02 = 33分(日記: 7月28日)
 25:13 - 25:20 = 7分(ブログ)
 25:41 - 26:27 = 46分(日記: 7月27日)
 26:32 - 27:13 = 41分(ジョンソン: 238 - 241)
 27:40 - 28:03 = 23分(日記: 7月28日)
 計: 7時間17分

・音楽
 20:14 - 21:43 = 1時間29分(ギター)
 28:14 - 28:25 = 11分(Evans Trio)


 「ええ、もちろん、もし明日、お天気だったらね」 ラムジー夫人はそう言って、「だけど、ヒバリさんと同じくらい早起きしなくちゃね」と付け加えた。
 たったこれだけの言葉が息子にとってははかりしれない喜びをもたらすことになり、まるで遠足に行けるということはもう確かに定まって、幾星霜ものあいだと思えるほど長く待ち焦がれていた魅惑の世界が、一夜の闇と一日の航海とを通り抜けたそのすぐ先で手に触れられるのを待っているかのようだったのだ。彼はまだ六歳に過ぎないとはいえ、ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができず、未来のことを見通してはそこに生まれる喜びや悲しみでもって、現にいま手もとに収まっているものにまで覆いをかけずにいられないあの偉大なる一族に属していたのだが、その種の人々にあっては、もっとも幼い時期からでもすでに、ほんのすこし感覚が転じるだけで陰影や光輝を宿した瞬間が結晶と化しその場に刺しとめられてしまうものなので、床に座りこんで「陸海軍百貨店 [Army and Navy Stores]」のイラスト入りカタログから絵を切り取って遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母親の言葉を耳にしたときちょうど手にしていた冷蔵庫の絵に、まるで天にも昇るかのような無上の喜びを恵み与えたのだった。その絵は、歓喜の縁飾りを授けられたわけである。手押し車や芝刈り機、ポプラの樹々の葉擦れの響きや雨を待つ葉の白っぽい色、それにまたミヤマガラスの鳴き声や、窓をこつこつ叩くエニシダのノック、ドレスが漏らす衣擦れの音――こういったすべてのものたちが彼の心のなかではそれぞれ鮮やかに彩られ、はっきりと識別されていたので、それはもはや自分だけのひそやかな暗号を、いわば秘密の言語を持っているようなものだった。とはいえ、その秀でた額と激しさを帯びた青い目には妥協をまったく許さぬ厳格さがうかがわれ、人間の弱さを目にすればちょっと眉をひそめてみせるほどに申し分のない率直さと純粋さがこめられてもいたので、鋏をきちんと丁寧に操って冷蔵庫の絵を切り抜いている息子の様子を見まもりながら、母親は思わず、白貂をあしらった真紅の法服をまとって法廷に座ったり、国家的危機のさなかで容赦なく重大な計画を指揮したりする彼の姿を想像してしまうのだった。
 「だがな」と、そのときちょうど通りかかった父親が、客間の窓の前で足を止めて言った。「晴れにはならんだろうよ」
 斧でも火かき棒でも、とにかく父親の胸に穴をぶち開けて彼を殺せるような何らかの凶器が手もとにあったならば、このときジェイムズはその場ですぐにそれを掴み取ったことだろう。ただそこにそうしているだけでラムジー氏の存在は、それほどまでに激しい感情の揺れ動きを子どもたちの心中にかき立てるのだった。ナイフのように痩せておりその刃にも似て鋭い細身の彼はいまもまた、いかにも皮肉っぽくにやつきながら立ち止まっていたのだが、それは単に息子の幻想を打ち砕き、また、(ジェイムズが思うには)あらゆる点で彼自身より一万倍もすばらしい夫人を馬鹿にして楽しむためばかりではなく、自身の判断力の正確さに対するひそかなうぬぼれに耽るためでもあったのだ。俺の言うことは本当だ。いつだって本当のことしか言わない。嘘なんてつけるはずもないし、事実に手を加えてねじ曲げたこともない。この憂き世に生きるどんな人間を前にしても、その喜びや都合におもねって不愉快な言葉を言い換えてはならないし、まさに自分の腰から生まれ出た子どもたちを相手にするならなおさらそうだ。俺の子どもならばまだ幼いころから心得ておかねばならんだろう、人生の厳しさを、事実の動かしがたさを、そして伝説に語られたあの土地への旅、この上なく輝かしい我々の希望も光を失い、我々を乗せて運ぶ小舟がもろくも闇に沈み去ってしまうというあの神話の地への旅には(と、思考がここまでくるとラムジー氏はいつも背すじを伸ばし、水平線を見つめながら青く小さなその目を細めるのだった)、何をおいてもまず、勇気と真実と、それに苦難を耐え忍ぶ力が必要だということを。
 「でも、晴れるかもしれませんよ――晴れるといいんですけど」とラムジー夫人は言って、そのとき編んでいた赤茶色の長靴下を、いらいらした様子でちょっとひねってみせた。もし今夜中に編み終わって明日本当に灯台 [Lighthouse] に行けることになったら、その靴下は小さな息子がいる灯台守にプレゼントする予定だった。というのも、その男の子は結核性股関節炎におびやかされていたからだ。それと一緒に古雑誌の束やタバコなど、本当は必要でもないのに見回してみれば部屋中に散らかっている雑多なあれこれも、何でも持っていってあの気の毒な人たちを楽しませてあげましょう、何しろあの人たちは、やることといえばランプを磨いたりその芯を切ったりちっちゃな庭を掃除したりするくらいで、それ以外は一日中座りこんで死ぬほど退屈しているに決まっているんだから。だって、一度に一か月も、それどころか嵐のときはもっと長く、テニスコートくらいの広さしかない岩の上にずっと閉じこめられていたいなんて思う? と夫人はよく問いかけるのだった。手紙も新聞も見られないし誰にも会えない、結婚していても奥さんにも会えないし子どもの様子もわからない――病気になっていないか、転んでしまって手や足でも折ってやしないか、それもわからないのよ。