2020/8/5, Wed.

 だが、ソ連侵攻とともにはじまったユダヤ人の無差別大量射殺は、非常にセンセーショナルであり、直接の執行者たちに心理的抵抗を引き起こしつつあった。親衛隊のトップであるヒムラーでさえも、大量射殺をミンスクで実見し気分が悪くなったと伝えられている。のちに絶滅収容所へのユダヤ人輸送の最高責任者となったアードルフ・アイヒマンも、その名高い「イェルサレム裁判」(一九六一年)で、一九四一年九月ないし一〇月にミンスクで射殺の現場を視察し、死にきれず手足をなお動かしている女性を見て「耐えられなかった」と告白している。
 一九四一年八月一五日、ヒムラーはそのミンスクで、他の殺害方法の検討を国家保安本部刑事警察の責任者で行動部隊[アインザッツグルッペン]の指揮官ネーベに依頼した。
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、126~127)



  • 一二時五〇分に至って離床。明らかに室内の空気の温度が高い。居間に上がってみても、窓外にいかにもな陽射しのかよった夏日である。あるいは真夏日なのか。洗面所で身だしなみをしたあと先に風呂を洗い、それから食事。コンビニのものらしきチキンやナスやインゲン豆がこちら分として取り分けられてあったので、それをおかずに米を食う。新聞には物理学者であると同時に俳人でもある有馬朗人という人の戦争証言。東大の総長を務めた人物らしい。勤労動員で工場の旋盤を扱ったが、その機械がすべて米国製で単位もインチで表されていたので、中学生ながら日米の技術力の差を明確に感じた、などのエピソードが語られていた。
  • 食後、肌着を脱いで制汗シートで上半身を拭い、皿を洗ったあとにベランダの洗濯物を取りこんだ。旺盛な陽射し。タオルのみ畳んでおいてから、緑茶を持って帰室し、もう一度居間にもどって昨晩切れたティッシュなども持ってくる。コンピューターを用意するとさっそくここまで記述した。
  • 今夜はWoolf会なので、昨晩訳したTo The Lighthouseの担当部分を読み返し、ほんのすこし直してからGoogle Documentの共有ページに貼りつけておいた。それからMr. Children『Q』を流して、久しぶりに「英語」を復読。舌の先端の口内炎がもうほぼ治ってth音などを発音しても痛くないので、ようやく音読することができた。合間に歌を歌うが、歌唱でも楽器演奏でも作文でも読書でもなんでもそうなのだけれど、結局のところ根幹的なのはそれにどれだけ集中できるかということで、もうすこし詳しく言い換えれば、その行為の対象と、その行為をしている自分の心身に発生するもろもろの変化や感覚を(そしてそれら主客間の相互的な影響作用、すなわち〈意味交換〉を)どれだけ精密に感じ取れるかということに尽きるのではないかと思う。復読は三時過ぎまで。「記憶」記事のほうは面倒臭いのでやらなかった。
  • 八月四日の記事を書き、四時前に仕上げるとベッドに移って脚をほぐしつつ休んだ。四時五〇分で上階に行くと、母親はすでに帰宅している。生のキュウリに味噌をつけて食い、それから下階に帰るとMr. Childrenの"Prism"を歌いながら服を着替えた。歯を磨くと出勤路へ。蟬のノイズがかなり激しく厚くなっていてやかましく、耳をつんざくような、と言ってみても良いかもしれないと思われるほどだ。なかにカナカナが浮かび伸び出て際立つのだが、やはり蟬のなかでもこの種は声のニュアンスが全然違い、まずそもそも響きの表面がざらついていない。張りがあっていかにも叙情的であり、感情性の忍びこむ余地を大いにはらんだサウンドで、古人が「ヒグラシ」と名をつけたのもよくわかる。
  • 空は淡雲混じりのすっきりとした水色。坂を上っていけば梢に隠されながら天の彼方に膨らむ西陽が、右脇の土壁にちぎれた形で宿っていて、そのとろけるみたいな濃い茜色はほとんど泥のようである。
  • 最寄りから青梅まで移動し、駅を出て職場に向かうあいだ、裏道の向こうに立ったマンションが、表面に暖色をかけられながら青い夕空に突き上がっているのが目に入り、おのおのの色が鮮やかに対照されてくっきりと接しあったその風景はなかなか良くて、ちょっと印象派的なニュアンスを感じた。
  • この日の授業は(……)くんと(……)くんと、あとひとり誰かいたと思うのだが思い出せない。帰路のことも覚えていない。駅前の坂を下りたはずだが。そう言えば濃いオレンジ色の、ほとんど陽色(火色・燈色)の月があったか。
  • 帰宅後はウィリアム・シェイクスピア小田島雄志訳『シェイクスピア全集 マクベス』(白水社白水uブックス29、一九八三年)を少々読んだあと、さっさと食事と入浴を済ませて一〇時からWoolf会。こちらが訳読の担当だったので、'Nonsense,"というMrs Ramsayの発言から始まる段落を一文単位もしくはある程度のまとまりで区切って読み、作ってきた和訳も読み、さらに逐語的に意味を確認していく感じで進めた。前日の日記に記したとおりけっこう難しい部分で、難所も大体日記に書いたあたりだと思うので会の本篇で話されたことは省略する。全部は終わらず、"and woe betide the girl"からの段落最後の一節を来週に回すことになった。
  • 零時半くらいから二次会というか雑談に入った。最初のうちは方言の話題が長く続いた覚えがある。MUさんは関西(神戸かその近くだったか?)出身、Jさんは宮崎出身で、いわゆる方言を使っているときといわゆる標準語を使っているときの意識の違いとか、言葉自体の持つニュアンスの差異などについて話されたのだった。MUさんの地元などでは標準語は男らしくないと捉えられ、標準語を喋っているやつなんぞは女々しい野郎だ、裏切り者だ、みたいな意識が強いと言う。こちらは生まれてから三〇年間ずっと東京都は青梅市の実家に暮らしてきている寄生的粘菌なのでいままでいわゆる方言に接する機会もさほど多くはなく、だから方言と標準語のあいだの齟齬みたいなことについて感じたり考えたりしたことがまるでなかったのだが、MUさんの話など聞く限り、(地域にもよるのだろうけれど)方言自体にわりと男性的なニュアンスが含まれることがあるようだ。彼の地元などではそのように喋る言葉によって仲間意識を強化するホモソーシャルな共同体が見られるようで、これは近代人たちがいわゆるNation Stateを作った際に取り入れた原理と(規模は小さいものの)おなじことだろう。標準語というものは方言と比べたときに女性らしさのような感触がいくらか出るらしく、その点はJさんも同様のことを言っていたと思う。彼女は宮崎から東京に来て標準語を喋るようになると、「女性」としての自分を意識せずにはいられなくなり、いかにも女性らしい女性を行儀良く演じているような感覚を覚えたというようなことを話していた。それがかえって楽しかったりもすると明かしてもいたけれど、とは言え一方ではやはりある程度の違和感は体験しただろうし、それによって精神の形態がいくらか変化したということもあるだろう。
  • 方言の話は女性の言葉の話とも繋がり、それはWoolfを訳すときに女性(いまのところはMrs Ramsay)の台詞をどうするかという問題とも当然繋がっていたのだが、たとえば「~だわ」とか「~かしら」みたいな、女性としてのステレオタイプ的な口調はどこから来たの? みたいな疑問が提出されて、Jさんがそれに答えてくれた。彼女によればそういう言葉遣いはもともと明治だか大正期あたりの女学生の言葉が発祥らしく、女学生の口調というのは当時は貴族や上流層の言葉と対比される形で粗野なものだと捉えられていたと言う。それが戦時あたりは逆に肯定的に捉えられるようになり、戦後も女言葉一般として残り、定着していったとかいう話だ(このあたりの詳しい経緯はよく理解していないのだが)。Jさんは岩波新書の一冊でそのへんの事情を読んだらしく、Sさんもおなじ本を持っていて紹介してくれたが、当該著作を忘れてしまったところ、いま検索した限りではこれはたぶん中村桃子『女ことばと日本語』という本だったと思う。女学生の言葉に対して、Kさんによれば山の手言葉というものがあったらしく、それは上で言うところの上流層の言葉ということだろうが、Kさんは大学の(遥か昔の)卒業生である老女と会って話す機会があったところ、その人は自然にそういう言葉遣いをしていたと言う。つまり、「~でいらっしゃいますでしょ?」とかいう感じらしい。
  • 上記の話のなかで興味を覚えるのはやはり言語そのものにそなわる権力性・権威性の性質や、諸言語のあいだの権力的緊張関係、また「女言葉」一般が形成されていくにあたってのとりわけ戦時から戦後にかけてのこまかな経緯あたりだ。
  • 言語における男性性・女性性みたいなテーマに接して思い出したのだが、蓮實重彦がどこかで、言文一致のころに樋口一葉がもうすこし力を持って日本語の(書き言葉の)スタンダードになっていたら現状の日本語(の書き言葉)も変わっていただろうみたいなことを述べていた覚えがあったので、蓮實重彦の名前は出さずにそういうことを聞いたことがあると口にした。たしか八〇年代から九〇年代あたりの対談のどれかか、あるいは『随想』のなかで触れていた気がする。というわけでいま書抜き記録を調べてみたのだが、しかしそのものずばりという記述は見当たらず、『随想』のなかに関連事項として以下のような文章が見つかるのみだった。もうすこし詳細に述べていたような気がするのだが。『魂の唯物論的な擁護のために』のなかに金井美恵子渡部直己などによるインタビューが収録されていて、そのなかで言語とセクシュアリティの話をしていたはずなので、そのあたりで触れていたのかもしれないが、書き抜いてはいないようだ。

 樋口一葉を改めて読み直したのは、八〇年代に、雑誌『季刊思潮』の編集責任者だった柄谷行人氏と浅田彰氏を中心として明治以降の批評の問題を考えようとしていたとき、小林秀雄中村光夫の両氏はいうまでもなく、江藤淳氏や吉本隆明氏を含めて、一葉の散文をほとんど読みこめてはおらず、その理論的な言説に彼女の歴史的な意義を取りこめていないし、また取りこもうとさえしていないことに気づいたからである。研究書はあれこれあるが、批評にとっての樋口一葉は、ほとんど未開拓の地平をかたちづくっている。
 そう思って読み進めて行くうちに、「言文一致」とは異なる文学的な近代性のありかが見えて来る。それは、まだ存在すらしていない「散文の危機」――この概念については第八章で詳しく論じている――ともいうべきものとあらかじめ遭遇してしまった作家の自己瓦解ともいうべき事態にほかならない。結核で夭折したといわれる彼女は、当人にとってのものではないはずの「散文の危機」をみずからの身に招きよせながら、文字通り書くことによって死ぬしかない存在だったのである。近代の小説は、言葉が何かを表象しうるという作家の思いこみを排したところにしか成立しえない逆説的な試みにほかならず、それはいわゆるリアリズムとは無縁のもので、そこには表象することのない文章が言語として露呈されている。一葉は、ほとんど意識することもなく、その露呈された言語と触れあいながら書くことを苛酷に実践しつくしたのだから、若くしてこの世を去らざるをえなかったとさえいえるかと思う。
 (蓮實重彦『随想』新潮社、2010年、199~200; 「12 「中秋の名月」が、十三夜と蒸気機関車と人力車の記憶をよみがえらせた夕暮れについて」)

  • こちらは四時で通話を離脱したのだが、たしかUくんとJさんとSさんが残って、その後もたぶん多少雑談が続いたのだと思う。色々と興味深い話題はあったはずで、メモも断片的な単語の形で取られてあるものの、それを見ても詳細が思い出せないのでこまかくは書けない。ひとつには美味い飯の話があって、Uくんはこの日だったかこの前日だったかそれとも数日前と言っていたか忘れたが、ともかくいままで食べた炒飯のなかで一番美味い品を食べたと言い、というか炒飯に限らず人生で食った食べ物のなかで一番美味かったかもしれないらしいのだけれど、それが代々木上原にある白龍という店のチャーシュー炒飯だと言う。ぜひとも食べてみたいものだ。値段も七〇〇円だというから全然高くない。
  • (……)
  • (……)
  • あとはUくんのオンライン家庭教師の話。彼は(……)インターネットで支援者を見つけ、一緒に本を読んだりざっくばらんに思想や政治などの話をしたりすることで金を得ているのだが、なんでも当人によれば(……)の老人ホームでいま彼の存在が「流行」しているのだと言う。まずたぶんひとりの老女がUくんの顧客になり、こういうことをやっていてと仲間に話した結果、それじゃあ自分も、みたいな感じで何人かに広がっていったのだと思うのだけれど、その女性は満州帰りの人で、その際のエピソードをUくんに話してくれた。いわく、その女性は朝焼けが怖いというのだが、それは日本軍に追い出されるような形で満州を逃れ難破船みたいなものに乗って海を漂っていたとき、四方をすべて果てまで続く海面に囲まれた状態で目にした朝焼けが恐ろしくて、その恐怖が(多少淡くなってはいるのだと思うけれど)いまになってもずっと続いているということだった。だから彼女は、海が見える部屋には住めないらしい。これはなかなかすごいエピソードで、それだけでもう小説ですねとこちらは受けたし、また、古井由吉が作品中に書いていたものだが空襲の明朝の禍々しいほどに赤く巨大な太陽と、時間も状況も意味合いもまったく違うがレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』のなかに記していた一場面――ブラジル行きの船に乗っているあいだ、彼は甲板から空を眺めて雲の変化やそれと太陽との交合を観察し続けていたらしいのだが、その描写が八ページくらいずっと続く箇所があるのだ――のことを思い出しもした。古井はこの夜明けの太陽をたぶんいくつかの作品に書きこんでいると思うのだが、書抜きを見返してみた限りでは以下の記述しか見つからなかった。たしか冬の朝のように禍々しく巨大な太陽、みたいな言い方をしていた気がするのだが。レヴィ=ストロースのほうは阿呆みたいにクソ長いので一部しか引かない。

 空は黄味をふくんだ暗色に閉ざされて、明けたともつかず、地表から白み出す。それにつれて道の両側の煙の中から残骸がつぎつぎに、集まって来るように現われる。黒く焦げた柱が大小さまざまな得体の知れぬ杭のように立ちあがる。頭[かしら]を焼かれた樹が手先の欠けた腕を天へ伸べて、焼跡をさまよう人影に見える。まれに難を免れた家屋の、無事のたたずまいがなまじ、まがまがしい。さらに明けてくる中を歩くうちに、つい未明に焼け落ちたばかりの瓦礫の原が、もう十年も二十年も昔からそのままにひろがっていたかのように、昨日までのことが遠くへ断たれる。家へ向かうこの歩みだけが昨日を繫ぐ。急いではならない。急ぐほどに道は遠くなる。急いで踰[こ]えられるような距離ではない。時間も空間も永遠の相を剝いている。歩調を乱してもならない。立ち停まるのはまして危い。足を停めてあたりを見まわしたら最後、魂が振れて、昨日と今日との間にぽっかりとあいた宙に迷い出し、妻子の安否も忘れることになりかねない。
 血の赤さの太陽がいきなり行く手の中空に掛かった時には、ただ今の今を踏む足取りになっている。焦げた柱も樹木も、崩れた壁も赤い光を受けて、やわらかな影を流している。変わり果てた姿ながら、静かに明けた早朝の雰囲気に変わりない。長閑だ、狂ったように長閑だ、とつぶやいては、その声の長閑さをまた狂ったように感じる。先のことは見えず、過ぎたことは過ぎたところから消える。それでも何歩目かごとに、運命がそこで定まる境目へ踏みこむような、この一歩に妻子の安否が掛かっているような、空恐ろしさが膝頭から走り股間に迫る。乳の匂いが鼻の奥へのぼる。戦慄となりかかるものを爪先からそっと抜いて、置いて行く。つれて背が平らかに、まるで寛いでいるかのようになる。
 (古井由吉『白暗淵』講談社、二〇〇七年、19~20; 「朝の男」)

     *

 十七時四十分、空は西の方で、一つの込み入った構築物に乱雑に塞がれているように見えた。その構築物の下側は完全に水平だった。まるで水平線の上方に、或る理解しがたい浮力が働いたために、いやむしろ、目に見えない厚い水晶板が挿入されたために、海の一部が引き剝がされでもしたかのようだった。頂きには、不安定な堆積、膨れ面をしたピラミッド、凍りついた沸騰が、何か転倒された重力とでもいったものの作用で天頂に向かって懸かり、垂れ、雲の姿を装った刳形[くりかた]といった趣きを呈していた。しかし、雲が光沢を帯び、木を刻んで金泥を塗った浮彫りを想起させていた限りでは、刳形に似ていたのはむしろ雲の方かも知れなかった。この太陽を隠蔽した乱雑な堆積物は、時折閃光を発しながら暗い色調を帯びて次第に背景から浮き上がって行き、そのあいだ、堆積物の上部で火花が飛び交っていた。
 (……六段落省略……)
 十七時四十五分、第一段階の下絵が描かれた。太陽はすでに傾き、しかしまだ水平線に触れてはいなかった。雲の構築物の下側に現われた瞬間、太陽は卵黄のように崩れ、まだ懸かったまま離れきっていない形象を光で汚すかに見えた。この輝きの横溢は、すぐ隠遁に席を譲る。日輪の周辺は輝きを失い、大洋の上限と雲の下限とを隔てているこの虚空の中に、ついに今しがたまでは眩しくてそれと見分けられなかった蒸気の山脈が、今では尖った暗い姿を横たえているのが認められた。それと共に、初めは平たかったこの山脈が体積を増していった。堅く黒い微粒の数々がさ迷っていたが、それは、水平線から空へ向かって緩やかに上昇して行く赤っぽい巨大な板――それは色彩の段階の始まりを告げていた――を過[よぎ]っての、意味のない移動であった。
 少しずつ、夕暮の深い構築が折り畳まれて行った。一日じゅう西の空を占めていた塊りは、金属質の一枚の薄板に圧[お]し延ばされてしまったように見えたが、この薄板を背後から照らしていたのは、初め金色で、次いで朱色になり、さらに桜桃色になった一つの火であった。すでにこの火は、徐々に消え去りつつあった捩[よじ]れた雲を、溶かし、磨き、そして小片の渦巻きの中に取り上げようとしていた。
 無数の蒸気の網が空中に生まれた。これらの網は、あらゆる方向に向かって――水平にも斜めにも垂直にも、そして渦巻形にさえも――張られているように見えた。太陽の光線は、傾くにつれて(丁度、絃楽器の弓が倒れたり立ったりしながら、様々な絃に触れるように)、蒸気の網の一つ一つを、その各々が気紛れに専有しているかのように思われる色調で光らせた。光る番が来ると各々の網は、糸状のガラスの明晰さと、的確さと、脆い堅さとを示した。一方で、少しずつ網は溶解して行ったが、それはまるで、隈なく炎に満たされた空中に曝されていたために網の材質が過熱し、色は暗くなり、個々の区別が失われて薄い布に似た拡がりになって行くかのようであった。この拡がりはだんだん薄くなって視界から消えたが、代わって、それまで隠されていた、編まれたばかりの新しい網が見えるようになった。最後にはもう、曖昧な、互いに入り混った幾つかの色調しか存在していないように見えた。こうして、グラスの中で初め重なり合っていた、色も密度も異なる幾つかの液体は、見たところ動かないままでいながら、徐々に混り合い始めるのである。
 (クロード・レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ』中公クラシックス、二〇〇一年、100~103; 「7 日没」)

  • で、その女性の娘さんが(……)の研究などをやっていた人で、この人もUくんの顧客となっており、だから母娘で彼を支援してくれているわけだ。俺もパトロンほしい。娘さんはもちろん文学を研究していたわけなのでそちらに造詣が深いのだと思うが、母親のほうも教養がすごいとUくんは言って、プルーストとか普通に読んでいるらしい。金をもらえるかどうかは置いても、なんかそういう風に誰かとひとつの本を定期的に、ずっと一緒に読んでいくというのはとても面白そうだと思うし、こちらもやってみたいものだ。


・読み書き
 13:58 - 14:08 = 10分(日記: 8月5日)
 14:38 - 15:12 = 34分(英語)
 15:14 - 15:54 = 40分(日記: 8月4日)
 20:38 - 21:02 = 24分(シェイクスピア: 39 - 55)
 28:31 - 29:21 = 50分(柄谷: 67 - 76)
 計: 2時間38分

・音楽