現代における死の零落について、ミシェル・フーコーは、政治用語を使ってひとつの説明を提示している。それは死の零落を近代における権力の変容に結びつけるものである。領土の主権という伝統的な姿のもとでは、権力は、その本質において生殺与奪の権利として定義される。しかし、こうした権利は、なによりも死の側で行使され、生には、殺す権利を差し控えることとして、間接的にしかかかわらないという意味では、本質的に非対称的である。このため、フーコーは、死なせながら生きるがままにしておく[﹅17]という定式によって主権を特徴づける。十七世紀以降、ポリツァイ〔治安統治〕の学の誕生とともに、臣民の生命と健康への配慮が国家のメカニズムと計算においてしだいに重要な地位を占めるようになると、主権的権力はフーコーが「生権力(bio-pouvoir)」と呼ぶものへとしだいに変容していく。死なせながら生きるがままにしておく古い権利は、それとは逆の姿に席をゆずる。その逆の姿が近代の生政治[ビオポリティック](biopolitique)を定義するのであって、それは生かしながら死ぬがままにしておく[﹅16]という定式によってあらわされる。
主権において、死は、君主の絶対権力がもっとも顕著にあらわとなっていた地点だったのにたいして、今ではその反対に、死は、個人がいかなる権力をも逃れて、自分自身のもとに戻り、いわば自分のもっとも私的な部分のうちに閉じこもる契機となる。(Foucault, M., Il faut défendre la société, Gallimard-Seuil, Paris 1997., p.221)
こうして、死はしだいに降格していく。死は、個人や家族だけでなく、ある意味では集団全体が参加した公的な儀式の性格を失い、隠すべきもの、私的な恥のようなものとなる。
(ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、109~110)
- 一二時に覚醒。今日も忽然と覚めた感じがあったのだが、寝床にとどまっているあいだに、何らかの夢を見たような手触りが非常に薄く蘇ってきた。しかし内容は何ひとつ思い出せず。一二時半を近くして起き、上階へ行くと炒め物だったか何かと米で食事。新聞の書評面では田中和生という文芸評論家の人が瀬戸内寂聴の『いのち』を取り上げていた。河野多恵子と大庭みな子を中心に文芸界隈の人々のエピソードをふんだんに盛りこんだ自伝的もしくは私小説的作品らしいのだが、河野多恵子というのは蓮實重彦が女性の作家のなかでもっとも高く評価していた人ではなかったか? そういうわけでわりと気になる。
- 帰室後は、以前Uくんに教えてもらったものだが、富田章夫という古代ギリシアの研究者の人が個人的に文献を訳したりして情報を集積した「Barbaroi!」というページを読む気になってアクセスし、素直に上から順番に見ていこうというわけでクセノフォンの『酒宴』をひらいた。この人は鹿野武一関連資料のページも作っているようで、そちらのほうも非常に気になる。
- 「Barbaroi!」: Xenophon「酒宴(Symposion)」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/symposion.html)
ここで何が出来したかにすぐに気づいた人は、こう考えたことであろう、――美は自然本性的に(physei)一種王者的なものである、とりわけ、このときのアウトリュコスがまさにそうであるが、羞恥(aidos)と慎み(sophrosyne)を伴ってそれを所有する場合はそうである、と。(……)
(第1章、[8])*
(……)カッリアスも、「どうしたんだ」と言った、「おお、ピリッポス。痛みがおまえにとりついたのではあるまいね?」。すると相手はうめきながら云った、「ゼウスにかけて、そのとおり」と謂った、「おお、カッリアス、それも大きいやつが。というのは、人間界から笑いが滅びたので、わたしのすることもなくなったのです。つまり、以前は、わたしが食事に呼ばれた所以は、いっしょにいる人たちがわたしのおかげで笑って、好機嫌になるためでした。ところが今は、ひとがわたしを呼ぶのは、はたして何のためでしょうか? わたしとしては、真面目になるのは不死となるのと同じくらいできっこないし、さりとて、お呼ばれのお返しに誰がわたしを呼んでくれるでしょう、わたしの家に食事をもたらしてくるきっかけを思いつきもしないってことは、みなさんご存じのとおりだし」。
(第1章、[15])*
[8]これに続いて、この娘のために別の少女が笛を吹き、側に立っていた少年が踊り子のために輪を12まで手渡した。少女は受けとると、踊りながら同時に、ぐるぐる回る輪を投げ上げた、どれくらいの高さまで投げ上げれば、リズムに合わせてそれを受けとることができるか距離を測りながら。
[9]するとソークラテースが云った。「他にも多くの事柄においてそうだが、諸君、この少女がすることでも、女の自然本性は男のそれと少しも違わない、ただ、知力(gnome)と体力(ischys)に欠けるだけだということは明らかだ。だから、もしもあなたがたの中で妻を持っている人は、彼女に知識しておいて欲しいと思うことは、思いきって何でも教えるがいい」
[10]するとアンティステネースが、「それなら、どうしてなんですか」と謂った、「おお、ソークラテース、そうと認識していながら、あなたはクサンティッペーを教育しようともせず、現在の女たちの中で、いや、わたしの思うに、過去・未来の女たちの中でも、最も難しい女を妻としておられるのは?」
「それはね」と彼が言った、「わたしは眼にするからですよ、――騎士になりたいと望む者たちも、聞き分けのよい馬たちではなく、気性の荒い馬たちを所有するのを。それは、こういう馬たちを手なずけることができたら、ほかの馬なんて扱うのは容易だと彼らはみなしているからです。だからわたしも、人間たちを扱いこれと交わることを望んでいるから、あの女を所有しているのです、この女を我慢できれば、ほかにはどんな人間たちといっしょになろうと、容易だと承知しているから」
(第2章、[8]~[10])
- その後はFISHMANS『Oh! Mountain』の終盤を歌ってしまう。そのまま"いかれたBABY"のスタジオ版とか、"Walkin'"とか"なんてったの"とか、ベスト盤に入っている"頼りない天使(Prototype Mix)"とか"あの娘が眠ってる(p.w.m. ver.)"とか色々流して歌いながら身体を多少動かした。FISHMANSの曲をアコギで弾き語れるようになりたいとは思うが、その形式でうまくやるにはかなり難しいタイプの音楽ではあるだろう。それからceroやSuchmosも歌って久しぶりにたっぷり声を出すと、ベッドに寝転がってだらだらした。脹脛をほぐしながら五時過ぎまで。
- 上階に上がって便所。もうそろそろ夏も完全に終わる頃だろうし、今日は晴れてもいないのに、ツクツクホウシがまだけっこう鳴き騒いでいるのが聞こえてきた。居間にもどるとアイロン掛けをする。そのあいだテレビに映っているのは相撲。力士のからだを横から改めて見ると、当たり前だが腹がめちゃくちゃ大きく前に膨れ上がって突き出していて、あれもすごい肉体のあり方だなと思う。解説は北の富士勝昭という人と舞の海。距離はもちろん離しているが、観客席にはマスクをつけた人々の姿が結構あった。相撲という競技もきちんと学んでじっくり見れば面白いのだろう。
- アイロン掛けを終えると室に帰ってまたベッドでだらだらし、七時を越えると食事。おかずはサバや、ナスと肉の炒め物など。やはりひとりで自室で食事したほうが良いかもしれないなと思った。新聞を読みたいけれどテレビは点いているし、父親はタブレットでべつの番組を見ながら大きな声で独り言を漏らして鬱陶しいし、今日は特になかったが両親が馬鹿げた言動を交わすのを見聞きするのも不快である。勤務後の遅い時間に静かな居間でひとり黙然とものを食うときのほうがよほど落ち着く。自分ひとりの部屋がない生活はやはり自分には無理だろうなと思う。結婚した夫婦とかはあまり個々の自室というものを持たないイメージがあって、我が家にもないし、K夫妻の宅にもないと思うのだが、それでみんなやっていけるのだろうか。
- 部屋にもどってくると一年前の日記。2019/8/6, Tue.。「フランス人の九九%ってのは、いってみれば中程度の馬鹿ですよね」という見下しきった発言をまったく躊躇なく言ってのける蓮實重彦のふてぶてしさに笑える。
蓮實 そうなんですけどね。フーコーがやっぱりフランスが最も上質な部分において生産しうる人かというと、これ、正直いってぼくはいまだによくわかりませんけれども、〈新哲学派〉みたいなものが出てくるってことは、これ、よくわかっちゃうんですね。つまり教育制度のうえからいっても、社会制度のうえからいっても、官僚組織のうえでは国立行政学院がいま手に権力を握ってるから、「エナ」がやってることを高等専門学校、つまりエコール・ノルマルが非官僚的な組織のうえでやろうとしてるんでしょう。政治体制の面で「エナ」のやってるフランス支配みたいなものを、文化の面で「ノルマル」がやる。――フランス人の九九%ってのは、いってみれば中程度の馬鹿ですよね。中程度の馬鹿に向って、中程度の馬鹿よりはいささか利巧な一%ほどの連中がなんかものを言えば、制度の強化はともかくとして温存ぐらいはできる。たとえばレヴィにしても彼の文体というのは、さっきぼくはある種のオマージュをこめて、フランソワーズ・サガン的と言ったけれども、中程度の馬鹿には快い文章になってるわけですよ。そしてまた旧左翼というか、いにしえサルトルのところにいて、そこから飛び出したジャン・コーなんていう転向右翼が、最近の若い連中はほんとに文体に苦心してかわいらしい、なかなか立派な連中だっていうようなことを言ってからかってるところもあるんだけれども、たしかに文章の面でフランスのいわゆる一般の人が書く文章よりもはるかに魅力的だってことはある。そんな種類の連中をフランスは年に数十人ずつ生産しうる国だという点は、これはよくわかるし、さっきのトロイア的包囲状況の悪化につれて彼らがフランシオン神話を強化する方向で結束するというのもわかるんですけど、ところがフーコーみたいな人の存在ってのはなお現象としてぼくには不思議ですね。どれほどフーコーがすごいかというのを、実はぼく自身あんまり言ってなくて、猿みたいにすごいということしか口にしえないわけだけれども、そんな猿みたいなフーコーが出てきちゃうってのは、やっぱり非常に閉ざされたどうしようもない時代にフランスがさしかかってるのか。たとえばラシーヌが出てくるにしても、あの時代というのもどうしようもない時代なわけですよね。政治的にいっても文化的にいっても。どうしようもないというのは、少しものが見えている人たちは絶望的たらざるをえないような時代で、いま少しものが見えているような人は、その絶望に自分を埋めこむこともできないほどもっともっと絶望的にならざるをえない。つまり、誰も猿の出現なんか待望してはいないわけ。みんな「フランス論」を読んで程よく満足しているのだから。そこへ期待されざる不可解な過剰として身元不明の猿がけたたましく登場するというんだからやっぱりぼくにはわかりませんね。ただわかるのは、現在のフランスの感性的な鈍感さ、というか頽廃の蔓延ぶりってことだけで、さっきちょっと話の出たサルトルの映画ってのも、ぼくは、あれは実はもうほんとに吐き気がして、十五分で出てきてしまったんです。
(渡辺守章『フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、300~302; 渡辺守章+豊崎光一+蓮實重彦「猿とデリディエンヌ」)
- 2019/8/6, Tue.はモスクワに向けて家を発ち、成田のホテルに着いて三〇〇〇円の海鮮丼を食っている。馬鹿げた料金だ。この世の仕組みはおかしい。はやく貨幣経済を超越したユートピアをつくろう。マルクスの思想ならびにその後のマルクス主義・(そしてそれ以前のものも含めた)社会主義・共産主義の(実践と理論両面での)試みを誰かがアップデートしなければならない。
- Kenny Dorham『The Complete 'Round About Midnight At The Cafe Bohemia』を流しつつ今日の日記を書き出し、九時前で風呂へ。今日も湯のなかで静止したが、やはり眠くなってしまう。
- 部屋に帰ると今日と昨日の日記。2020/9/12, Sat.を完成させると投稿し、そのあと隣室に入ってアコギをいじった。右足にギターを乗せたほうが良いのか、それとも左足のほうが良いのか、弾くときの姿勢が一向に固まらない。左足に乗せると響きを感じやすく、また左手首の負担も減るようだが、腰の右側がだんだん疲れてくる。かといって右足に乗せても腰が疲れるのには変わりないし、当たり前だが楽器を弾くというのもきわめて身体的な行いだということを実感する。つまり、腕と手と指だけの問題ではなく、全身的な、あるいはそれが言いすぎだとしても少なくともからだのその他の部分にも密に関わってくる問題だということだ。戯れに満足すると目の前の兄の机にEric Claptonのブルース曲を集めたスコアがあったのでちょっと覗いた。"Before You Accuse Me"なんか見て、やっぱりまずはこのへんのブルースから弾き語れるようになろうかなと思った。『Unplugged』のなかでアコギでのブルースをいくらかやっているようなので、とりあえずそれを聞いてみるかというわけで自室にもどると、Amazon MusicでClaptonの作品を検索し、『Unplugged』と『Slowhand(35th Anniversary Super Deluxe)』、それに『Me And Mr. Johnson』や『Blues』をメモに追加しておいた。『From The Cradle』もブルース集だが、これはすでにコンピューターに入っている。あとJohn Mayall & The Bluesbreakers feat. Eric Clapton and Mick Taylor『70th Birthday Concert』というのもあったのでこれも記録しておき、そこからさらに「70th Birthday Concert」で検索するとDuke Ellingtonにもそういうアルバムがあることが判明し、そんなのあるのかと思ってこれも当然追加。ほか、湯浅譲二の音楽を取り上げたIchiro Nodaira(野平一郎), Keizo Mizoiri(溝入敬三), Kenichiro Yasuda(安田謙一郎), Dogen Kinowaki(木ノ脇道元)『Joji Yuasa's The 70th Birthday Concert Live 1999』と、Adrian Boult / Eileen Joyce / London Philharmonic Orchestra『John Ireland: 70th Birthday Concert』というのもメモしておいた。John Irelandという作曲家ははじめて名を知ったというか、正確には以前どこかで目にしたような気もするが、明確に認識したのはこれがはじめてだ。
- そのあとはインターネットで漫画の情報を収集したりしながらただひたすら爆発的に、膨張的に怠け続けて、六時に至ってようやく就寝。
・読み書き
14:05 - 14:38 = 33分(Xenophon)
20:05 - 20:51 = 46分(2019/8/5, Mon. / 2019/8/6, Tue. / 2020/9/13, Sun.)
21:36 - 23:10 = 1時間34分(2020/9/13, Sun. / 2020/9/12, Sat.)
計: 2時間53分
- 「Barbaroi!」: Xenophon「酒宴(Symposion)」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/symposion.html): 第2章まで。
- 2019/8/5, Mon. / 2019/8/6, Tue.
- 作文: 2020/9/13, Sun. / 2020/9/12, Sat.
・音楽
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- Kenny Dorham『The Complete 'Round About Midnight At The Cafe Bohemia』