2020/11/4, Wed.

この詩で言及されている「照応(物)」という概念は、ボードレールの時代に実際に流通していた芸術的隠喩観を体現している。スウェーデンボルグ〔スヴェーデンボリ〕からスタール夫人まで、そしてシェリングからコンスタン司祭まで、照応(物)という考えは、「さまざまな物理的自然要素間の類似性」を説明する手段としてのみならず、「創造という至上の法則、統一性の中の多様性、多様性の中の統一性(原注11: Madame de Staël, De l'Allemagne, quoted by Antoine Adam in his edition of Les Fleurs du Mal (Paris: Garnier, 1961), p. 271.)」を開示する手段としても役立っていた。換言するなら、隠喩は〈神〉の存在証明だったのだ。

極小のものから極大のものに至るまで、自然に存在するものすべてが照応物である。なぜなら、自然世界は精神世界によって、またこの両者は〈主〉によって存在し、維持されるからである(原注12: Emanuel Swedenborg, Les Merveilles du ciel et de l'enfer (Berlin: G. J. Decker, 1782), Ⅰ, p. 64〔エマヌエル・スヴェーデンボルイ『天界と地獄 原典訳』、スヴェーデンボルイ原典翻訳委員会訳、アルカナ出版、一九八五年、八三頁〕.)。

 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、48~49; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)



  • 一度目覚めたときカーテンがオレンジ色に染まっていて、見ればまだ六時半頃だった。尿意が爆発的に膨張していた。下腹の固い重さ。どうも昨日からやたら小便が出るのだが、どういうことなのか、単純に水と茶を飲みすぎただけなのだろうか。それでともかくトイレに行って勢い良く放尿し、もどるとさすがにこれでは眠りがすくないからと布団に入って目を閉じた。なかなか訪れがなかったのでもう起きてしまってあとでまた眠ろうかとも思ったのだが、じきになんとか寝ついたらしい。それで次に覚めたのが一時一〇分で、その間一度も現世にもどった記憶がなく、なぜこんなにもすやすや眠ってしまったのか納得が行かない。今日はいつもどおり五時過ぎから労働だし、帰ればWoolf会もあるのに、こんなに休んでしまっては猶予がないではないか。だがまあ消灯をはやめるという目標はほんのすこしずつながら達成できているし、日記もわりあい勤勉に取り組めているので悪くはない。
  • 天気は雲のない、ローラーで青く塗られた紙のような快晴だった。上階に行ってもろもろ済ませると食事。煮込み素麺である。新聞の二面にはウィーンで銃撃テロとの報。この事件は昨日もどこかのタイミングでテレビで目にした覚えがある。武装したグループが繁華街の六か所で銃撃し、たしか四人死亡と書かれてあったか。犯人側もひとりが死亡したがほかは逃走したと言い、しかし全部で何人いたのかは記されていなかった。死亡した下手人はシリアへの渡航歴があるとかで、ISISの信奉者ではないかとのことらしい。フランスを端緒としてまた危うい状況になってきている印象を覚える。それにはやはり例の「シャルリー・エブド」の風刺画再掲載が発端だったのではないかと、あれが引き金を引いたのではないかと、どうしても思ってしまうのだけれどそれは拙速な判断だろうか? すくなくともけっこうな程度、寄与しているのではないかと思うのだが。いずれにしてもここにさらに、コロナウイルスの再流行と外出禁止措置が加わるわけで、政情と人心の不安定化は甚だしい。
  • その他国際面にはアフガニスタンの大学(カブール大学?)でやはりISISがテロを起こしたという報や、北朝鮮コロナウイルス対策を怠った高官を罰する新たな罪状(最高刑は死刑)を創設したとの由など。食後は皿と風呂を洗ってから洗濯物を入れる。すがすがしい晴天なのでベランダの陽だまりにしゃがみこんで取ったものをたたんだが、すでに二時で太陽はもうかなり西に寄っているし、時節柄下降しようとする気温に打ち勝つほどの威力もないようで、晩秋の気をいくらか中和する程度の温もりが肌に触れるばかり、しかしそれがかえって清らかで、川の浅瀬みたいな大気の質感だった。風も吹くというほどの動きは起こらず、梅や柚子の梢が息継ぎみたいにわずか揺らぐだけだ。まもなく太陽は林の上端にかかって、日向も弱く散ってしまった。
  • 緑茶を用意して帰室。コンピューターを調えてLINEをひらくと、(……)からメッセージ。その場で返信しておき、今日もFISHMANS『Oh! Mountain』とともにウェブをちょっと覗いてから日記へ。はじめた時点ですでに三時だったし、今日のことをここまで書けば三時半は越えるわけで、困ったものだ。出勤前に昨日の日記も完成させたいのだが、今日はそれを諦めて脹脛をほぐすほうを取る。
  • 尿意も含めてからだの感覚がどうも妙なので、油断せず慎重に行こうというわけで久しぶりに服薬しておいた。精神的に不安や緊張はないのだが肉体そのものが何か不安定になっているような感じか。記録によれば前回服薬したのは一〇月八日らしいのでほぼ一か月ぶりとなる。まあもう寛解もしくは完治は近いだろう。というか体感的にはすでにそうで、あとは薬と完全におさらばできればというわけだ。
  • そういえば(……)から聖書が届いていた。彼は「エホバの証人」に属しており、高校のときにはたしかビックカメラの上層の店だったと思うがサイゼリアで進化論に関してちょっと話すなどもしたものだ(いまはどうだか知らないが、彼はいわゆる進化論を信じていないと言っていた)。あといわゆる千年王国論的な世界観を信じているとも言っていた記憶があるが、日本人としてはたぶん珍しいタイプなのだろう(事情を特に知らないが、普通に家庭がもともと「エホバの証人」の会員だったのだろうか?)。送られてきた聖書は「新世界訳」というもので、いったいどういった代物なのか知れないが、いま検索したところでは「エホバの証人」が運営する「ものみの塔聖書冊子協会」がみずから訳したもので、Wikipediaによれば学術的観点からは色々批判もあるようだ。まあそりゃそうか、という感じだが、そう言われると読むのもなんかなあという気もしてくる。せっかくもらったので、一応取っておこうとは思うが。
  • 書見。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。「女」についてのステレオタイプ的イメージがおりおり出てくるので、一応ページをメモしておいた。あと、スタヴローギンの神秘性というか超(非) - 自然性というか、一般性を大きく超えた〈度外れ〉的な性質についても。
  • 四時半まで読み、それから調身。脹脛を揉んだことで身体感覚はだいぶまとまっていた。身体の基盤的コンディションを全体として調えるためには、脹脛(を中心に脚)をほぐす以上のものはない。これを毎日、というか疲れたらその都度やっておけば間違いない。普通に手で揉んでも良いのだろうが、寝床に仰向けになって膝で刺激するやり方が楽だし、こうすると背中のほうにも微動が伝わって上半身もわりと軽くなる。時間もなかったし、柔軟は一〇分ほどでみじかく済ませた。
  • それから身支度を済ませ、「英語」ノートの音読を一〇分だけ行うと五時を回って上へ。テレビは米大統領選を報じており、ドナルド・トランプが何やら演説していて、また例の根拠不明なBoastingを繰り広げている様子だった。靴下を履きつつ下部に映し出される開票結果を見るに、ドナルド・トランプがリードする州もあるようだが、いまのところの選挙人全体ではバイデンがまさっているようだった。二二一対二一二とか出ていたと思う。それにしても、最寄り駅でメモしているときに思い出したのだけれど、昨日か一昨日くらいの新聞の一面にドナルド・トランプジョー・バイデン双方の写真が並べられていて、おのおのの陣営の色の帽子を二人ともかぶっていたのだが、そういうキャップスタイルを取った姿を見るにどちらもいかにも老人だなという印象を持ってしまって、うーん、と思ったのだった。
  • 父親は台所でジャガイモか何かの皮剝きをしていた。ユースキンを左手の指に塗ってから玄関に出ようとすると、父親が今日は何時までかと訊いてくるので、九時半の電車で帰りたいと言っておいた。家を出ると空気はかなり冷たく、コートを着ても良いくらいだった。薄暗いなかを歩いていくと(……)さんが戸口から出てきて階段を下りるのが見え、車庫の入り口に立ってボタンを押したらしくシャッターが閉まっていくところに挨拶をかけたのだが、その返答がずいぶん元気のないもので、なんと言ったのか聞こえなかった。にわかに冷えこんだこの気候にやられて弱っているのか、ラフな格好を見られて気後れしたのか(といって暗かったのでよく見えたわけでない)、この婦人は犬の散歩に出くわしたときなどむしろあちらから何だかんだ声をかけてくるくらいだったのでその活気のなさが意外であり、最近見なかったけれどもしかして知らないうちに病気でもしたのかなと思った。
  • 制服姿の女子高生などとすれ違うものの、もちろん誰も顔は見えない。小公園の桜の樹も街灯の後ろで寒々しく裸になって、枝の手を露わにひろげて宙に刻んでいる。坂道を上りながら心身の感覚を見たが、やはりよくまとまっており、いくらか高まってくる鼓動や呼吸に対してそれを受け止め返す弾力的抵抗力(いわゆるresilience)みたいなものがそなわっている。したがって昨日一昨日あたりと違って苦しいというほどの感じもない。
  • 最寄り駅の階段通路を行きながら空を見上げれば北西地帯は和紙の色味で、黒ずんだ縹色とでも言うべき謙譲な青さが残って見て取られるその上に、ちらちらちぎれた孤立的な雲影が数個、一六分音符の断片性で停まっている。向きを変えてホームへと下りながら右手を見やれば、南の空にはもはや青さは滴も見られず、全篇沈んだその薄黒さが慎ましやかな家たちに上から押しかかるようななだれかかるような感じだ。
  • 電車に乗って(……)まで行き、客が出ていったあとに座ってちょっとメモを取ってから職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 九時半の電車に乗れるように退勤。帰路のことはさして覚えていないが、家までの直線路をたどりながら、月をたびたび見上げて眺めていたようだ。この夜はたしか前日と違って雲もほとんどなく、月はまっさらな下地の上に嵌めこまれたボタンのようにはっきりとくっきりと画されながら光っていたのだと思う。ボタンの比喩のほかには、霊体というか精神体というか精霊体というか、ある種の観念的存在が寄り集まって形成された集合体のようなイメージも受けた。ありがちな印象だ。藤原カムイロトの紋章』の終盤で、異魔神が人々の魂を集めて(「げっこう」という呪文によって)月を生み出していたのを思い出す。
  • 帰宅後は食事を済ませたのち、一〇時半ごろからWoolf会。この日の箇所は以下。

 There he stood in the parlour of the poky little house where she had taken him, waiting for her, while she went upstairs a moment to see a woman. He heard her quick step above; heard her voice cheerful, then low; looked at the mats, tea-caddies, glass shades; waited quite impatiently; looked forward eagerly to the walk home; determined to carry her bag; then heard her come out; shut a door; say they must keep the windows open and the doors shut, ask at the house for anything they wanted (she must be talking to a child), when, suddenly, in she came, stood for a moment silent (as if she had been pretending up there, and for a moment let herself be now), stood quite motionless for a moment against a picture of Queen Victoria wearing the blue ribbon of the Garter; when all at once he realised that it was this: it was this — she was the most beautiful person he had ever seen.
 With stars in her eyes and veils in her hair, with cyclamen and wild violets — what nonsense was he thinking? She was fifty at least; she had eight children. Stepping through fields of flowers and taking to her breast buds that had broken and lambs that had fallen; with the stars in her eyes and the wind in her hair — He took her bag [版によっては、”He had hold of her bag”.].
 "Good-bye, Elsie," she said, and they walked up the street, she holding her parasol erect and walking as if she expected to meet someone round the corner, while for the first time in his life Charles Tansley felt an extraordinary pride; a man digging in a drain stopped digging and looked at her; let his arm fall down and looked at her; [版によっては後出の”for the first time in his life”がここにある] Charles Tansley felt an extraordinary pride; felt the wind and the cyclamen and the violets for he was walking with a beautiful woman for the first time in his life. He had hold of her bag.

  • 意味を取るにあたって極度に難しいほどの記述はないと思う。こちらが気になったのは、"then heard her come out; shut a door; say they must keep the windows open and the doors shut, ask at the house for anything they wanted (she must be talking to a child)"の部分で、ここはCharles Tansley heard her + 原形不定詞(というものだったと思うのだが、この動詞の原形がなぜ「不定詞」のくくりで呼ばれるのか、こちらはいまだに理解していない)の構文がセミコロンを挟みながら続いているわけだが、その後半、askの扱いである。これはsayの目的部となる節の中身で、要するにMrs Ramsayが部屋のなかの人(本文では子どもらしいと推測されている)に向かって呼びかけている内容を記した部分なのだけれど、文法的に順当に考えればこのaskはその前のthey mustに連なって、keepと等位になっていると捉えられるだろう。ただ意味合いを考えるにこの部分は"talking to a child"の箇所なので、"they must"(直接話法に置き換えるなら"you must")と言っているというよりは、命令法としてask at ~とそのまま言っているような感じが強い。要するに、間接話法の形式のなかで、この"ask at ~"のところだけが直接話法の命令文として台詞的になっているような感覚を覚えるということだ。もしそうだとするとこれはいわゆる自由間接話法のバリエーションのひとつというか、直接/間接の境を曖昧にするその性質があらわれた箇所ということになるのかもしれない。
  • "when all at once he realised that it was this: it was this"のところは、岩波文庫の訳では「その時突然、これだ、これこそが夫人の秘密なんだ、とタンズリーは気がついた」とちょっと突っこんだ訳になっているが、まあ普通に「これだ」と繰り返す感じでも良いのではないかと思う。"it was this"の"it"はたぶん天気とか時間を指す場合とある種似たような感じで、何か漠然とした主語を示していると思われるので、実質上残るのは"this"の語になるわけだろう。その"this"というのは、目の前に立ち止まって一息つきながら一瞬装いを取り払って「素」を見せた夫人の姿を(直接的には)指しているはずだ。岩波文庫は、この「素」の姿こそが夫人の本当の姿、いわば彼女の真実だとタンズリーが解釈し、そこにこれまでにない美しさを感じた、という理解にもとづいているわけだろう。したがってその場合、"it was this"の"it"の内容はMrs Ramsayの真実の姿とか、彼女の美の本質、というくらいの意味合いになるのではないか。
  • 最後の段落の"she holding her parasol erect and walking as if she expected to meet someone round the corner"は、この外出のはじめ、町に向かって二人が歩き出した当初に記された"Holding her black parasol very erect, and moving with an indescribable air of expectation as if she were going to meet someone round the corner"の反復である。ここで夫人がそういう様子を取っていることの意味については、expectの意味を「期待」と考えるか、「予期・予想」くらいのもうすこしニュートラルなニュアンスに収めるかで多少変わってくるだろう。parasolをerectな状態に保ちながら(これが日傘をまっすぐ立てて差しているということなのか、それとも閉じた状態で杖のように携えながら歩いているということなのかわからないのだが、「夫人(婦人)」としての典型的なイメージからすると前者が似つかわしいのだろう)誰かに会うことをexpectするかのように歩むというのは、夫人の几帳面さというか神経質さというか、外面を隙なく整えておくような性質をあらわしているともひとつには考えられる。いつ誰に会っても良いように、きちんとしたたたずまいを保っておく心がけ、ということだ。その場合、expectは「期待」に胸を温めているというよりは「予期する」という程度のニュアンスに寄ってくるだろう。ただ、一度目の記述を見ると、expectの意味はそこでは"moving with an indescribable air of expectation"として提示されており、「いわくいいがたいexpectationの雰囲気」という語の組み合わせからすると「期待」の意で取ったほうが調和するように思われる。したがって、二度目の記述の解釈には二通りの方向が考えられることになる。ひとつは、最初の「期待」の意味をそのまま忠実に反復したと捉えるものであり、もうひとつは、一度目とほぼおなじ表現でありながらexpectの意味を微妙にずらして「予期・予想」に脱色化(中性化)していると捉えるものである。べつにどちらでも良いのだけれど、こちら個人としては「期待」のニュアンスを汲んだほうが、夫人の像が明るく、鮮やかで、より自信に満ちた魅力的なものになるような気がして好きである。いずれにしてもこのイメージはおそらく典型的な「貴婦人」の像に連なるもので(プルーストなどによく出てくるものとだいたいおなじ類だと思う)、高貴な女性のそばに仕える騎士のように彼女を崇め、額づいて荷物持ちをする(ことに誇りさえ感じる)Charles Tansley、という構図を強調しているわけだろう。Tansleyの側ではMrs Ramsayに対する思慕というか、憧憬や崇敬の念(それを即座に恋愛感情と同一視することは短絡である)を妄想的にいや増し強めているにもかかわらず、このあと二章に移るとごく短い記述によってその思いが打ち砕かれるさまが露わになる、という趣向だ。そこで夫人は、Tansleyのことを、"Odious little man"と言っているわけだから。テーマ的にはここでの夫人の肖像は、以前にあった"Indeed, she had the whole of the other sex under her protection; for reasons she could not explain, for their chivalry and valour, for the fact that they negotiated treaties, ruled India, controlled finance; finally for an attitude towards herself which no woman could fail to feel or to find agreeable, something trustful, childlike, reverential, which an old woman could take from a young man without loss of dignity, and woe betide the girl — pray heaven it was none of her daughters! — who did not feel the worth of it, and all that it implied, to the marrow of her bones"の記述と繋がってくるだろう。こちらがつくった当該箇所の試訳を示しておくと、「実際、彼女には、自分と異なるもうひとつの性に属するすべての人々をまるごと護り、みずからのもとに包みこんでしまうようなところがあるのだった。何がそうさせるのか彼女にもうまく説明はできなかったが、おそらく彼らのそなえている騎士道的な礼節や勇敢さ、あるいは彼らが条約交渉を担ったりインドを統治したり、国家財政を管理したりしているという事実が理由のひとつではあるのだろう。しかし結局のところそれはきっと、彼女自身に寄せられるある態度、女性なら誰でも好ましく [agreeable] 感じずにはいられないような、信頼のこもった、子どもみたいに純真で敬意に満ちた態度によるもので、年配の女性が若い男性からそういった好意を受け取っても、決して品格を損なうことにはならないのだ。だから、その価値とそれが意味するものすべてを骨の髄まで感じ取れないような娘には――どうか、我が娘たちのなかにはそんな女の子がいませんように!――災いあれ」となる。
  • その他本篇以降に話したこととしては、芸術的・美学的観点からの固有性の追求というか、ある種の純粋体験みたいなものを目指して生きる態度と、実効的変革を求める政治的実践との齟齬もしくはそのあいだをどのように架橋するのか? というような話題があり、この点(……)くんと話してこちらの考えも少々述べたのだけれど、詳述は面倒臭いし思考もあまりまとまっていないので割愛する。短く触れておけば、状況や場面や瞬間の固有性すなわち意味 - 力の配置を的確に認識することでそのネットワークをより良く組み替えていくように介入することができるという理屈なのだが、しかしこれはあくまで理屈に過ぎず、まず充分に正確な認識が可能かどうか、またどこまで認識すれば「充分に正確」なのかよくわからないし、また認識が正確だとしてそこから実践的行為に移行していけるかも疑問だ。そのときのまさしく固有の状況が行為を許さないとか、許すとしても不十分な行為の余地しか与えないということは往々にしてあるだろう。そしてそのあたりこちらには実践的な「状況」の経験が圧倒的にすくないと思うし、いわゆる場慣れがないから、理屈を具体的な例証によって肉付けすることができない。またそもそも、純粋体験というか絶対的差異への接触みたいなものと、固有性としての意味 - 力の配置の認識とはべつの事柄ではないか? という気もする。前者への志向性がなければ後者は望めないし、前者への接近の中途に後者があるのではないかとは思うのだが。
  • そうした話を受けて、(……)くんがトイレかどこかに行っていたあいだに(……)さんが『パピチャ』という映画を紹介して内容を説明してくれた(ムーニア・メドゥール監督『パピチャ 未来へのランウェイ』)。アルジェリアの内戦におけるきわめて複雑な状況を女性の視点から描出した作品らしく、イスラーム原理主義によるテロリズムなども扱われるようなのだが、それを含めてどの勢力を一方的・一義的に断罪することもできないし、かと言ってまた確実に擁護することもできないみたいな、まさしく現実的と言うべき世界を映し出すことに成功している、というような評価だったと思う。(……)さんとしてはそういう感じでこまかなディテールも盛りこまれた批評的な作品だと見なしているようなのだが、世評はどうもそうではなくてテロリズムとの闘いを描いた感動作、みたいな方向に流れがちらしく、(……)さんはその点不満な様子だった。
  • 話しているうちにいつの間にか三時過ぎになっていた(……)。しかしこちらはさすがにそろそろ風呂に入らなければと思ったのでそのように申し出て、挨拶と礼を交わして通話を去った。入浴後はもうたぶん四時前くらいになっていたと思う。ドストエフスキーを読んで四時四〇分に消灯している。


・読み書き
 15:02 - 15:37 = 35分(2020/11/4, Wed.)
 15:38 - 16:31 = 53分(ドストエフスキー: 70 - 88)
 16:58 - 17:08 = 10分(英語)
 28:10 - 28:40 = 30分(ドストエフスキー: 100)
 計: 2時間8分

・音楽