2020/11/7, Sat.

 このように、常套句的な花(黒いチューリップ、青いダリア)から常套句的な国(〈宝〉の国)に、故郷の港である「おまえ」から異国の岸辺である「おまえ」に向かうこの詩的な旅は、すべてがおなじみのクリシェの範囲内で行われている。つまり、修辞的な移動は、事実上、共通の場=常套句を決して離れてはいない。しかしながら、こうした共通の場=常套句(それはまさに、すべてのもの[﹅6]と普遍的=一般的に等価である)は、同時にまた、奇妙なほど異質である。それにそなわる魅力は、なじみのない「見知らぬ国」の魅力なのだ。だが、逆説的にも、この旅を動機づけている「見知らぬ[﹅4]国に寄せるあのノスタルジア[﹅6]」は、まったく新しいものへの憧憬ではなく、回帰[﹅2]への誘い、「立ち返り=繰り返し〔revenez-y〕」への呼びかけが有する魅惑なのである。

……すべてのものから、すべての隅から、抽出の隙間からも布地の襞からも、不可思議な薫りが、住居の魂とも言うべきスマトラの反魂香[﹅3]〔revenez-y〕が、洩れ出でて来る。
 真に〈宝〉の国、と私はおまえに言った。……(強調はボードレール

ボードレールの強調体(「反魂香[﹅3]〔revenez-y〕」)が示すように、別のテクスト――〈他(者)の〉テクスト――を源泉とするこの回帰への誘いは、なじみのあるものをなじみのないものとして呼び表している。「〈西洋〉における〈東洋〉と……呼ぶこともできる」この国への旅が、ここでは遠くにあるユートピアのようなものの探求ではなく、あらゆる回帰や反復に方向を与える(方向を失わせる)もの、換言するなら、この旅の意味[﹅2]〔sense〕――あるいは方向――そのものを転覆させるものの追求と化しているのだ。(デュマがまさに、彼のユートピア的な黒いチューリップを「フランスの伝承にある白ツグミ」や「ホラティウスの黒い白鳥」と比べながら、示唆しているように)、どこにもない国=ユートピア〔u-topia〕――非 - 場〔non-place〕――と共通の場=常套句が究極的に区別不能だとすれば、その理由は実際に到達しえないユートピア的な場所、この上なく未知な場所は、遠くにある神秘的な国のようなものではなく、人[﹅]〔on〕が今いる場所だから、でしかありえない。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、64~65; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)



  • 一二時二五分ごろまで起き上がれなかった。滞在は八時間弱。もうすこし短くしたかったのだが。やはり就寝前に休身の時間をもういくらか取らないと駄目だろうか。携帯を見ると職場からシフト提出期限(今日の一三時)を知らせるメールが届いていたので、ぎりぎりのところで返信した。(……)がはじまって授業数は増えるはずだが、できれば先月今月とおなじくらいのペースでと要望しておく。
  • ゴミ箱や急須など持って上へ。母親は眼医者から帰ってきたところらしい。うどんを煮込んでくれていた。煮込みうどんは最高の食物である。ゴミを始末し、洗面所で髪を整え、食事。テレビは『メレンゲの気持ち』。新井恵理那とかいったかアナウンサーらしき人が出演していて、マットの上でボールか何か使って肩甲骨やら尻やら足裏やらを刺激してほぐしていたが、これは身体調整上正しい行いである。ほか、伊藤なんとかいう二六歳の女優らしき人。新聞は相変わらず米大統領選。ジョージアとどこかではドナルド・トランプ側が提出していた訴えが一部却下されたと。ネバダ州だかでも、ドナルド・トランプ側は転出者による不正投票があったとか主張しているらしいのだが、選管当局者はそのような事態は起こっていないと否定しているとのこと。投票所周辺にはドナルド・トランプ支持者が押しかけて、「左翼は選挙を盗むな」とか叫んでいるらしく、それに対抗してバイデン支持者も集まって民主主義の根幹を守れと呼びかけているようだ。両派の声がひとりずつ紹介されていたが、ドナルド・トランプ支持の側は、郵便投票で不正が行われているに違いないと断言していて、いったいどこからそれを判断したのだろうかというのがよくわからない。ドナルド・トランプの言っていることを唯々諾々と鵜呑みにしているようにしか思えないのだが。もしそうだとするならば、つまりトランプの言っていることはなんでも正しいと彼らが思っているのだとしたら、これは教祖 - 信者の関係であって、密着的(癒着的)な政治的宗教の一形態ということになるだろう。ドナルド・トランプが教祖になれてしまったという点、彼に対する大規模で広範な(「判断」とか「評価」ではなく)「信」が成立してしまったという点に、いまのアメリカ合衆国の歪みがあるのだろうと思う。
  • 食後、風呂を洗って緑茶を用意し、帰室。コンピューターを準備するとFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだし、さっそく日記に取り組んだ。昨日のことはわずかに足したのみで完成し、今日の分もここまで書けば二時前。一一月四日以降をいくらか進めたい。四日、五日を綴って現在に追いつくことができれば、一〇月二五日以降を進めることができ、そこの空白も埋め終えたらいよいよ七月ごろにもどってメモにもとづきながら溜まっている日々を解消していくことになる。一時は営みの破綻も危ぶまれたが、なんとか現在地点に追いつきながら日々を書いていくことを取り戻せそうな目処が立ってきた。
  • それから一一月四日の記述を進めたものの、Woolf会の記録がてらTo The Lighthouseの気になった部分について綴るだけに終わってしまった。Google Documentで共有されている「『灯台へ』ノート」のほうにも日記を書くついでに多少の記録をつけておいた。もはや会でも参照も利用されていないし、見ている人もいないのではないかとは思うのだが、どうせ日記にも書くわけだし、そのついでに一応しこしこ作成しておこうとは思っている。だいたいどんな物事であっても、とりあえず記録をつけるということを無条件的に肯定する性癖なのだ。この先、会が一年二年と続いて蓄積されていったあと誰かが見返したときに、我々はこれだけの文を読み、これだけのことを考え話し合ってきたぞという時間と取り組みの層を一抹感じるよすがとなれば良い。ただ、このとき三時半まで書いたその時間内ではノートの記録は終わらなかった。Woolf会の記述に関しても、書けたのは本篇のみでTo The Lighthouseを離れたその後の会話には入れていない。もっとも、メモをつけておらずあまり覚えてもいないのでそれほど書くことはないように思うが、それはまた明日以降だ。
  • 日記のあとはベッドで休身兼読書。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。二八八ページからはじめて三四〇ページまで。サスペンスが高まってきている。謎の中心、真相が近く迫っており、まもなくさまざまな事件や人間関係がどのように関連しているのかが明らかになり、そこにおけるニコライ・スタヴローギンの役割が判明するだろうという感じがある。しかしその直前で中断。ドストエフスキーはやはり会話もしくは台詞がひとつの肝というか、面白い要素なのかなと思った。狂言回し、というのだろうか、喋りに勢いと熱量がこもっているキャラクターが何人かいる。このとき読んだなかではレビャートキン大尉がそれで、この人は飲んだくれで、精神がちょっとおかしくなっている妹を鞭で打って虐待しているらしく、いかにも無教養そうで胡乱げな人物なのだが、そのくせ何やら珍妙な詩を読んで披露したり、胡散臭い抽象論理を振り回したりしてちょっと面白い。リプーチンという小役人もそうなのだけれど、こういう卑俗そうでいけすかないような人々がかなり生き生きと動いて喋っている感じがある(ロシア文学って全般的・伝統的にけっこうそういう感じなのかもしれないが)。いけすかないけれど何か憎めないというのでなく、いけすかなさやいやらしさはわりとそのままでしかし躍動的に、鮮やかに映し出されているような印象だ。
  • 四時五〇分まで書見。(……)食事へ。うどんの残りを食う。煮込みうどんは最高の食物である。だが、食べる前にまずアイロン掛けを行ったのだった。正面、南窓の先では山際に薄衣めいた雲が湧いて縁取るように横に伸びており、その上は晴れているのだが雲の場とあまり見分けがつかないような色の淡さで、西陽の感触はどこにもない。アイロン掛けののちエネルギーを補給すると下階に帰って歯磨き・着替え・身支度を済ませた。いつでも出発できる状態を整えておいてから、隣室にコンピューターを持っていって通話。
  • (……)
  • (……)こちらが日記を書くのも書くこと自体が目的であり(というかそもそも「手段(過程)/目的(結果・成果)」の二分法がそこにおいては第一段階としてあらわれないので、「書くこと自体が目的」というのも正確ではなく、ただ書く、というだけなのだが)、この営みにおける最終的な目標というのは、死ぬまで書き続けるというその一事に尽きるのだ。もちろんその行動や営みはなんらかの成果を生み、なんらかの意味を持つはずだが、その可能性があらかじめ明確に限定され、特定され、想定されて目的として据えられているわけではなく、あくまで無動機・無目的な行動が先立って起動したそのあとに結果としてなんらかの可能性が現実化(現在化)するという順序である。本当にこういう行為のあり方が可能なのか? 自分は本当にこのような論理で動いているのか? という点に多少の疑問を覚えないでもなく、たぶん実態はもうすこし複雑なのだと思うけれど、ひとまずそのように考えてはいる。(……)
  • (……)
  • 母親が雨が降ってきたよと言ったが、玄関を出て軒下から宙に手を差しかけてみると、特に触れてくるものはなかった。先日駅に傘を忘れて紛失したということを言っておき、夜道へ。雲に覆われて星も映らない空だったと思うが、天気のわりに寒さがなくてちょうど良いような空気感だった。坂道では虫の音が一条、木の間の奥から常に寄り添うてきて、雨も風もないのに頭上からは頻々と音が立ち、葉っぱやら木の実やらが梢を透かしておのずから落ちてくる。
  • 最寄り駅で無人のホームのベンチに就いて手帳に書付けしていると、金色っぽい髪の若い男性がやってきて隣に座った。たぶんスマートフォンで動画か音源か再生していたのだと思うが、こちらには特に面白く感じられない打ちこみ型の、あれがEDMというやつなのかなんかそういう雰囲気の音楽が流れていた。じきに電車が来たので乗車。若者は友人と待ち合わせていたようで、電車内で合流してなんとか話していた。車両内にはこの時刻でも意外と傍らに大きなザックを置いた山帰りの姿が多い。(……)に着くと客が捌けたあとに座り、すこしだけメモを書き足してから出口に向かった。なぜかわからんが、家にいるあいだにも済ませたにもかかわらずまたしても尿意が湧いており、改札前の多目的トイレに寄ることになった。ボタンを押して横にひらいた扉をくぐると、途端になんとも言いがたいにおいが鼻に触れてくる。あれはなんなのか、やはり小便や体液や汚物のにおいが空間にこびりついたものなのか、何かを炙ったような風にも感じる、雑味あふれる便所の臭気だ。
  • そうして職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 駅に入って電車に乗り、到着を待つあいだはたしか瞑目して停まっていたはずだ。帰り道は非常に静かだった。坂道を下っても虫の音はどれも遠く、せいぜい二、三匹が互いに空間的距離をひろく挟みながらかすかに鳴いてくるのみで、こちらの靴音のほうが大きく立って声を消してしまうくらいだし、足が葉っぱを擦る音も高く響く。気温は往路とおなじく意外と高めのようで爽やかさすら感じる清涼さにとどまっており、寒い冷たいという感覚は生まれず、顔は涼しいけれど服に覆われた胸やら腹やらに伝わってくるものはなくて端的にちょうど良い。
  • 帰り着くと零時近くまで休んでから食事。天麩羅などを温めて用意していると父親も帰ってきた。今日は(……)で話し合い兼飲み会だったようである。母親があまり良い顔をせず酒臭いとか漏らしているのに、また人間の愚かさを目にしなくてはならないかなと幾分身構えたものの、父親はすぐに風呂に行ったので事なきに終わってくれた。テレビは録画したもののはずだが『出没!アド街ック天国』を映しており、この日の舞台は小平。そちらにはあまり目を向けず、新聞を読みながらものを食ったと思うのだが、何を読んだのかは特に覚えていない。食後は父親と入れ替わりに入浴し、湯のなかで目を閉ざして休み、出るとねぐらに帰って茶を飲んだ。
  • 明日が日曜日だからと多少気の緩んだところがあったのだろう、長く休憩して二時に至ってしまったものの、そこから書抜きと日記作成をわずかばかり進めることができた。と言って、新聞記事はひとつしか写していない。新聞の書抜きも溜まっていくばかりなので、写しておく情報をもうすこし限定しなければならないだろう。時事的な事柄はインターネットでもすぐに見られるのだし思い切って捨象して、自分がはじめて知った(歴史的・法的・文化的・科学的などもろもろの)知識情報に絞るべきか? とも思うのだけれど、しかしその基準で新聞記事を写しておく意味ある? という疑問も感じないでもない。後世の人間が見たり(一応、こちらの日記や種々のデータは、数百年か千年か一万年くらいあとの人間が現在の社会生活を研究する際の歴史的資料になると思っているのだが)、そこまで行かなくとも数十年後くらいに自分か誰かが読んだときに役立ったり面白かったりするのはやはり時々の最新の時事ではないかとも思う。とはいえ、のちの人間の利益や利便や楽しみを第一に考慮して書いてやる義理もないので、やはり自分優先で無理なく継続していける方策やバランスを探る必要があるだろう。
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、書抜き。234: 「だが私は虜囚状態から戻ってきて三ヵ月しかたってなく、苦しい人生を送っていた。この目で見て、耐え忍んだことがまだ心の中で生々しく燃えていた。生者よりも死者に近く、人間であることに罪があると感じていた。なぜならアウシュヴィッツを作ったのは人間で、アウシュヴィッツが何百万人という人たちを呑みこんでしまったからだ。(……)私は短い血まみれの詩を書き、声に出したり、文章で、めまいのするような事々を語った。そうすることで徐々に本が生まれ出た。私は書くことで短い平安を得て、また人間になったと感じた。殉教者でも、卑劣漢でも、聖人でもなく、みなと同じで、家庭を営み、過去よりも未来を見る人間になったと思った」
  • 就寝前にドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)をすこしだけ進行。四時三四分に消灯できた。前夜と変わらないのだが(正確には一分だけはやまっているが)、遅くならなかっただけひとまず良い。


・読み書き
 13:29 - 15:35 = 2時間6分(2020/11/6, Fri. / 2020/11/7, Sat. / 2020/11/4, Wed.)
 15:40 - 16:50 = 1時間10分(ドストエフスキー: 288 - 340)
 26:21 - 26:40 = 19分(レーヴィ)
 26:41 - 26:50 = 9分(新聞)
 26:50 - 27:30 = 40分(2020/11/7, Sat.)
 27:31 - 27:39 = 8分(2019/9/2, Mon.)
 28:12 - 28:34 = 22分(ドストエフスキー: 340 - 350)
 計: 4時間54分

・音楽