2020/11/8, Sun.

 換言するなら、散文詩と韻文詩のあいだの切断・修正作用は双方向に[﹅4]際限なく働いている。二つのテクストの各々が、他方の口実、すなわち前 - テクスト〔pre-text〕なのだ。いずれのテクストも他方に対する優先性を主張できない。つまり、〔切断・修正の〕「原材料〔raw material〕」は常に、すでに切断されたテクストなのだ。だが、この相互的修正は対称的な性格のものではない。韻文詩から排除されるものが文化的コードの不均質な多様性であるとするなら、散文詩の際限なき包摂性は、まさにその排除動作自体を包摂するまでに拡張してしまう。だが、包摂性の排除を包摂することは、内部と外部の境界、詩的空間という範囲そのものを消し去るか、問いただすことにほかならない。結局のところ、散文詩はそうすることで、詩に対する己の内在性(「詩」)ばかりか、外在性(「散文」)をも問いただしている。詩に対して内在的に外在する――すなわち、詩〔韻文詩〕を反復すると同時に、それから遠ざかる――散文詩は、去勢とフェティッシュ化、価値の引き上げと引き下げ、抑圧と転覆が同時に対立し、そうした対立自体を切り崩すような場と化しているのだ。したがって、詩〔韻文詩〕とは「別もの」でも「同じもの」でもない散文詩は、まさにその分身[﹅2]〔double〕にほかならない。みずからの分割空間、「別の段階」としての、二重=分身〔double〕空間。そこでは、詩によって抑圧されてしまったものが、奇妙な親密さを呈する不気味な形象内に止めどなく回帰する。そして、詩、言語的フェティッシュ、「石の夢」――〈騎士団長[﹅4]〉〔モリエールの『ドン・ジュアン』に登場する石像の人物〕の彫像であれ、大理石の眼をもつ非情な〈ヴィーナス〉であれ――が、〈他なるもの〉、すなわち、己の境界を画定できないという事態から生じるものを出発点に、突如語り始めるのである。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、77~78; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)



  • 一二時ごろになって覚醒。中途で覚めた記憶はない。もうすこし短く済ませたいところではあるが、睡眠の質自体は向上しているのかもしれない。寝床にとどまって呼吸をしたり、こめかみを指圧したり、窓の向こうで空を埋める雲が流れていくのを眺めたりした。雲はところどころでひび割れて複雑な形を構成しながらもひろく敷かれており、隙間に覗く空の青は濃い。それが全体としてゆっくり着実に推移していくさまを見上げていると、うまく言い表せないがなんというか現実感や存在感が揺らぐような感じがした。自分がいま生きているという事実そのものがちょっと疑わしくなるというか。
  • それで一向に起き上がらずけっこう余計に滞在してしまい、離床したのは一二時四〇分ごろ。ゴミ箱やティッシュの空箱や急須など持って上へ。母親に挨拶してもろもろ済ませると、昨日の天麩羅や鍋の残りなどで食事。テレビは『のど自慢』。新聞からは国際面を少々読む。米ペンシルベニア州の情勢を伝える記事のほか、エチオピアが内戦の危機という報道。エチオピアという国は八〇くらいの民族で構成されている多民族国家で、各州はその地域の民族が主に統治していることが多いようなのだが、そのなかでティグレ人という一派が中央政府と対立していると言う。ティグレ人組織は一九九一年だったかに当時の社会主義政権を打倒するのに活躍したという経緯から旧政権で有力な地位を占めていたようなのだが、現首相であるなんとかいう人(アブーみたいな名前)が中央集権型の挙国一致的な政権をつくった際に、自治権が削減されるのを危惧して反対もしくは拒否したとか。現首相の人は昨年だったかに隣国エリトリアとの関係を改善したことでノーベル平和賞を受けたのだが、そのときにティグレ人の領域が無断で割譲されたと言ってティグレ側は反発しているらしい。
  • テレビはその後、『パネルクイズ アタック25』に。歌手・アーティスト大会。演歌系の歌手二人と、アクロバティックグループの若い男性と、クロマティックハーモニカ奏者の女性。クロマティックハーモニカといえばやはりToots Thielemansである。ただこのとき女性が吹いていたハーモニカは、Thielemansが使っていたようなものや通常のハーモニカよりもかなり大きいサイズのものだった。音域がひろいタイプの楽器なのだろうか。アクロバティックグループというのは名前は忘れたが名古屋中心に活動していると言っていたと思う。このとき出ていたのはたしか神田直人みたいな名前の人で、いかにも爽やかなジャニーズ系といった感じの雰囲気で、ボタンを押してクイズに解答する際、一息置くというか息をきちんと吸って口を大きくひらき、明るくはきはきとした調子で言葉を発することを常態としていて、なるほど好青年という感じだなと思った。
  • 食後、皿と風呂を洗って緑茶とともに帰室。Evernote日課記録をつけると今日のノートも作成し、一服しながらしばらくウェブを回ったのち、日記。今日のことをまず記述した。(……)そのほかに特に決まっていることはないので、日記の記述や『悪霊』を読み進めることになるべく時間を使いたい。
  • 三時ごろから四時過ぎまで前日のことを記述。(……)そうして軽く運動をした。FISHMANSの曲を色々流して歌いながらストレッチを行う。今日は久しぶりにダンベルも持った。そのあと五時前からベッドに転がって書見。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)を進める。愁嘆場というか、ごたごたした会話ややりとりの場面が引き続き、ステパン氏の息子であるピョートルがまた確信的にあっけらかんと、意に介さずに父親を貶めるような秘密の情報をぺらぺら喋りちらかしてみせて、なかなかいやらしい人物である。それにしてもこいつらみんな本当によく喋るなあという感じ。ただそのなかで唯一黙りこくってほとんど何の動きも見せずにいたシャートフが最後になって突如として立ち上がり、ニコライ・スタヴローギンの頬を拳固で殴って流血させたまま去っていく。スタヴローギンとレビャートキナ嬢との関係が(ピョートルの語る話で、どこまで真実なのかちょっと疑わしいような印象もあるが)明らかになったと思いきや、今度はシャートフとスタヴローギンのあいだになんらかの確執があるらしいと判明するわけだ。おそらくはシャートフの妹であるダーリヤがそこに関係しているのだろうと推測されるものの、ことの中核はまだ不明で、したがってそれと相同的に、シャートフがスタヴローギンを殴った際の両者の表情や身振りや反応の意味合い、すなわちその奥にどのような思いや感情が潜んでいるのかということもまだ詳しくは(本質的なところは)わからない。心理の内実が事件の内実と直結しており、後者が明るみに出るとともに遡及的に(あるいは語り直しによって)前者も判明する、という仕組みになっているのだろうと思う。語り手である「私」はこの小説で語られる事柄が全部終わった時点から回顧しているようなので、当然すべての真相をすでに知っているはずだが、物語の現在時点ではこまかな部分までは通じておらず、目の前で起こることの意味を困惑気味に推測しながら追いかけるほかはなかった。読者も、「知っている」主体となった語り手から多少の補足やほのめかしを与えられながらも、基本的には出来事の渦中にあった「私」の立場に同一化して、謎を提示されながらことの成り行きを追うしかない。物語技法としては常套的なやり口だと言って良いだろう。
  • 六時前に至って上階へ。まだ食事の支度がなされていなかったので、台所に立ってシシトウを切り、豚肉と炒める。ほか、餃子を焼いたり煮込みうどんを作ったり。ハヤトウリも油揚げや竹輪とともに煮物にされた。煮込みうどんをこしらえ終えると両親を差し置いてさっさと膳を用意し、食事に入った。新聞から、比々絵里子という名前だったと思うが、国連食糧農業機関(FAO)でそれなりの地位を務めているらしい人へのフードロスについてのインタビューを読む。あとは昼間にも瞥見したが書評欄。『あの日、ジュバは戦場だった』という本や、上島春彦(という名前だったと思うが)という人の『鈴木清順論』など。後者の評者は鈴木洋仁という東洋大学社会学助手の人で、記事によればこの本はきわめて充実したとてつもない偉業らしい。作品社から出た書物だが、たしかに値段も一万円と書かれてあった。著者の上島という人は赤狩りとハリウッド業界についても研究して世界的な仕事をしたと言う。そのほか苅部直マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』の続篇を取り上げていた。『侍女の物語』はそのものを読んだことはないが、ほかの英文記事のなかで触れられていたことがある。ギリアデ、みたいな名前の国だか世界を舞台にしたディストピアものだったはず。
  • 上で「比々絵里子」としたのは間違いで、日比絵里子だった。上島春彦は正しい。名字は「かみじま」と読むようだ。
  • 食事を終えると皿を洗って片づけ、「デメル」のクッキーと緑茶を持って帰室。クッキーを食うとJ.J. Cale『Naturally』を流してまた今日の日記に取り組んだ。J.J. Caleという人はEric Claptonがリスペクトしていた人物で、共に組んだ作品も出していたはず。地元の図書館で借りて以来めちゃくちゃ久しぶりに流したが、いわゆるレイドバックした雰囲気というやつなのか、相当に力が抜けたような、訥々としたような歌いぶりで、ここまで力まずにやりながらもそれでヘナヘナに崩れず堂々と形になるというのはちょっとすごいなと思った。ギタープレイも悪くなく燻し銀的に歌っている。それが終わると続いてIstvan Kertesz & London Symphony OrchestraDvorak: Symphony No. 8 & Symphony No. 9』を掛け、ここまで綴って八時過ぎ。
  • さらに前日、一一月七日の記事を書き足した。そうして八時四〇分ごろ湯を浴びに。こめかみをほぐしたりしながら浸かってからだを清め、(……)
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  • 零時を越えて自室にもどってからはだらだらしたり日記を書いたり書抜きをしたり。EaglesHotel California』をどこかのタイミングで流したが、#4 "Wasted Time"まで聞いた限り、たしかにこのアルバムは名盤と言って良い質を持っているのだろうなとあらためて思った。楽曲がそれぞれくっきりと際立っている感じがある。三曲目のタイトルである"Life In The Fast Lane"なんていうフレーズはけっこう好きだ。英語のこういう言い回しは、どこがどうというのはわからないがなんとなく日本語にはない格好良さがある気がするし、こういうフレーズを日本語にうまく訳したとしてもその格好良さはたぶん消えてしまうのだろうと思う。
  • 四時二〇分に消灯することができたのだが、その前の時間はなぜか作歌の回路が働いて以下の文言をこしらえることになった。あまり質は考えず、こねくり回さず、つまり最適・最善を求めず、なんとなく浮かんできたものをゆるく採用した部分が多い。

 守護霊に絶交されて夜を徹す野良猫じみたゴミ箱の俺

 秒針を見つめ続けて石と化し夢を越えればあのひとの街

 石女の腹に宿ったみなし児を神さまみたく崇める愚民

 濃緑の海よ霧成せ大切な記憶が二度と盗まれぬように

 ばらばらの手足を縫ってこしらえた偽の道化のさみしい涙

 まぼろし貴種流離譚のヒーローに憧れたまま天寿を終えた

 沈黙を強いられることに慣れすぎた囚人たちの声を聞く夜

 曙が凍りつくまで生きるにはあなたを何度失えば良い

 激痛も窒息もただ飲み干して星はとまらず死ぬまで動く

 無限からこの刹那までひとっ飛び神は時間だ盗賊に似た


・読み書き
 14:22 - 14:58 = 36分(2020/11/8, Sun.)
 14:58 - 16:13 = 1時間15分(2020/11/7, Sat.)
 16:47 - 17:57 = 1時間10分(ドストエフスキー: 350 - 396)
 19:19 - 20:06 = 47分(2020/11/8, Sun.)
 20:06 - 20:39 = 33分(2020/11/7, Sat.)
 25:26 - 26:14 = 48分(2020/11/7, Sat.)
 26:53 - 27:11 = 18分(レーヴィ)
 計: 5時間27分

・音楽