2020/11/25, Wed.

 読者はこうした一連の前置きに付き合わされるにつれ、盗まれた手紙という主題の繰り延べがいかに伝染的になりうるか、ということに気づき始めるかもしれない。しかし、これら三つのテクストをどのように提示するかという問題はさらに深刻である。というのも、それぞれのテクストはみずからと同時に他のテクストも提示し、どのようなテクストの「提示」にも潜在する謬見〔fallacies〕を明白に曝け出すからだ。そうした謬見が、避けられないだけでなく、あらゆる読解行為の構成要素である[﹅7]ということは――これもまた、各々のテクストによって証明されている――いくらか慰めになるだろう。概して言えば回避不能だが、生じた不公正は、その細部をいつでも修正できると思えるからである。この議論を続行する理由もまさにそこにある。
 全体を引用するには長過ぎるテクストを読者にどう提示するかということが、長いあいだ、文学批評の根底的問題の一つであり続けてきた。何とかしてテクストの短縮版を示さなければならないとすれば、絶えず想起される解決法は二つ、すなわち、要約と引用である。これらの戦法が別々に用いられることはまずありえないが、それらを明確にどう結びつけ、並び換えるかが、それによって生み出される批評的物語の「プロット」を大方決定づけてしまう。(……)
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、195; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 九時台に覚めたが例によって離床できず。まぶたをひらき続けようと努力したものの、力が足りなかった。今日の天気は昨日と同様の一面白い曇りだが、昨日よりもやや明るさがふくまれているような気がする。一一時二〇分に起床した。滞在はちょうど七時間ほどなので悪くはない。急須と湯呑みなどを持って階を上がり、母親に挨拶してルーティンを済ませる。前日のカレーのわずかな余りを使ってカレーうどんをつくっておいてくれたので、自作の味噌汁とともにそれを温めて卓へ。新聞は安倍晋三周りの資金スキャンダル。どうでも良い。ドナルド・トランプが政権移行の準備を認めたとも。組織の名を忘れたのだが、政権移行を一般的に管轄する部門のエミリー・マーフィーという長官に作業をすすめるよう「勧告した」とツイートしたらしい。何を言ってんねん、という感じ。ドナルド・トランプの単なるわがままで準備が差し止められていたのに、その点については何の釈明もなく「勧告した」などと偉ぶった言葉遣いをして良いと思っているのか。「国家の利益を最優先した」とも述べたらしいが(これでバイデンも安全保障上の機密情報にアクセスできるようになったからだ)、それなら最初から素直に引き継いでおけば良かったのではないのか。法廷闘争は勝手にやれば良いが、政権移行の妨げに関してはアメリカ優先ならぬ完全な自分優先で駄々をこねて迷惑をかけていただけだろう。しかも今回の「勧告」も、記事の記述から判断するに、マーフィー氏がバイデンを正式に認める書簡をバイデン側に送ったのを受けて取られた措置のようだ。つまり、ドナルド・トランプが敗北を認めずごちゃごちゃ言っているのでマーフィー氏は正式な決定を下せずに困っていたのだと思うが、法廷闘争の見通しなど状況の進展を勘案し、トランプ側の意向を振り切って作業に乗り出したので、ドナルド・トランプもそれを認めざるを得なくなったという流れだとこちらは理解している。もしそれが正しいとすれば、ドナルド・トランプの立場は単なる追認である。だからせめて、「勧告した」などという権力的な言葉を使わず、「是認した」とか「承認した」とか言うのが筋だった。国家の統治者は言語を正確に用いなければならない。
  • 食後、皿や風呂を洗い、緑茶を持って下階へ。窓外からは、自転車のブレーキを一瞬つかんでキッと鳴らすようなかん高い鳥の声が立っているのだが、あれがもしかしてモズの高鳴きというやつなのか? 違うか? すこし前の新聞で、一面にある編集手帳みたいな小欄にそれが取り上げられていて、そこではじめてそういう時季的要素があると知ったのだが。天気は曇りなので背後から染み入る薄明かりのなか、室内には影も淡くひらひら生まれて、ぬるいような色調。今日で一一月二二日から二四日までを投稿し、溜まっていた日記を完全に片づけてしまいたい。しかし加えてWoolf会のためにTo The Lighthouseの翻訳もしなければならない。さらに出勤までにアイロン掛けもしておきたいのだが、果たしてそれらすべてできるかどうか。
  • そういえば、昨晩眠りを待っているあいだに、「砂漠には絶望はないひとは皆おのれの死者を太陽に見る」という一首をつくった。
  • 二時台後半で一一月二四日まで日記を仕上げ、投稿すればいま三時直前。これでなんとか、ようやくひとまずは生の現時点に追いつくことができたので、あとは日々の記述を維持しつつ、数か月前の未完了記事をだんだん潰していくだけだ。良かった良かった。
  • 「ゲットーの歴史は深い人類が他を知ったときの心が起源」という一首をつくった。
  • To The Lighthouseの翻訳をしなければならないのだが、まずはからだをほぐすことが何よりも肝要というわけでベッドに転がった。読むのは徳永恂ではなく、今日のWoolf会で扱うと思われる『イギリス名詩選』の二篇目、'Care-Charmer Sleep, son of the sable Night'(Samuel Daniel)である。前回のEdmund Spenserは古語もふんだんに使われて語順も操作されており難しかったが、今回の詩はさほど読みにくいものではない。古語はないし、語順が変わっているのもごく一部だけだ。二連目のLet the day be time enough ~とか、Let waking eyes suffice to wail ~とかがやや意味を取りづらいが、訳文を参考に考えれば問題はない。紙の辞書を寝床に持ちこんでめくりながら確認した。
  • ついでに四篇目の途中まで読んでおき、脚をほぐすのに満足すると起き上がって、上階に行くとトイレのなかで短歌を考えながら放尿、それから台所に入って味噌汁のわずかな余りを火にかけた。待っているあいだは左右に開脚して腰を落とし、下半身や肩の筋をやわらげる。味噌汁を椀に注ぎランチパック(ツナマヨネーズ)と一緒に持ち帰ると、腹を満たしながらTo The Lighthouseを翻訳した。recoup her for her unnecessary expense of emotionに悩んでいたのだが、そのexpenseを「感情を高ぶらせる」という訳でひとまず解決すると、あとはそれほど手間はかからず、二〇分で以下の段落が片づいた。本当はもう一段落担当だったのだが、四時半に至ってしまったし、今日はここまでで勘弁してもらうことに。

 They had ceased to talk; that was the explanation. Falling in one second from the tension which had gripped her to the other extreme which, as if to recoup her for her unnecessary expense of emotion, was cool, amused, and even faintly malicious, she concluded that poor Charles Tansley had been shed. That was of little account to her. If her husband required sacrifices (and indeed he did) she cheerfully offered up to him Charles Tansley, who had snubbed her little boy.

 男たちは会話をやめていた。そのせいで波の音が恐ろしく迫ってきたのだった。一瞬だけ彼女を掌握していた緊張感から解放されると、夫人はまったく反対の状態に急降下し、不必要に感情を高ぶらせてしまったのでその埋め合わせをしようとでもいうように、冷淡に、かつ面白半分に、かすかな悪意さえこめながら、哀れなチャールズ・タンズリーが追い払われたんでしょうね、と断定した。まるでどうでもいいことだった。夫がいけにえを欲するのだったら(そして実際、そうだったのだが)、喜んでささげましょう、チャールズ・タンズリーを。だってこの子をあんなにいじめてくれたんだから。

  • 上を書き足すと四時四五分。身支度へ。洗面所に行って歯ブラシをくわえ、もどってくると自室ではなく隣の兄の部屋の戸をひらいた。母親がそこにいるのを感知していたのだ。日も暮れてきて暗いなかで布団にくるまりながらスマートフォンを見ていたので明かりを点し、歯ブラシを動かしながらもう行くよと言えば送ってこうかと来る。そうだなあとちょっと考え、音読などもできればやりたいしそうするかと決めると、じゃあ五時半前、と告げて自室にもどった。歯磨きをするあいだというのはなんとなく手持ち無沙汰で、歯磨きだけを集中して行うという気にはならず、何かしら同時にやることを求めてしまう。たいていは本を読むかコンピューターで何か見るかしているのだが、このときは日記の読み返しをしようと思い立った。それで2019/9/5, Thu. をひらいて大雑把に読みはじめたところ、途中で、そうかEvernoteではなくブログのほうで読んでついでに検閲処理もすれば良いのだと思い当たった。個人の特定につながりそうな情報をより厳しく検閲して面倒臭い事態に陥るのを防ぐという方針を先日表明したところだが、過去の日記は読み返すついでにそれを施してしまえば楽である。そういうわけであまり読み飛ばさずきちんと文章を追い、イニシャルになっていた人名や地元の地域名など隠匿した。それで口をゆすいでくると着替え。FISHMANS "なんてったの"を流し、着替える前に歌いながら腰をひねって肉を少々やわらげるとベスト姿に転じ、次に"いかれたBABY"を歌いながらバッグにものを入れた。そうしてまたここまで日記を書き継ぐと五時二〇分なので、もう出発するようである。ちょっと時間を過ごしたらいちいちその都度書き足す、という風にできれば手っ取り早いし情報量も充実する。
  • 上階へ。もう行こうと母親に言う。トイレに寄ってから台所に入ると何か焦げたようなにおいがしていたが、それはオーブントースターでエリンギを焼いていたからだ。コンロの火とストーブを消して先に外へ。軒下から路面を見下ろすに湿った痕が窺われるので、知らぬ間に日中降ったのかそれとも昨夜の名残かと思ったが、道に出て光を見ればそのなかに粒が映っているので、かすかだがいま降っているのだとわかった。光というのは隣家の車庫に点いていたもので、(……)さんの姿があったので車の向こうにしゃがみこんだところに近づいていき、こんばんはと声をかけた。これから、と来るので肯定する。おばさんはどうですかとたずねると、体調は良いとのことだったので良いことだ。あのー、あれですよねえ、来月で……誕生日ですよねえ、と振れば、(……)の祝いをしようと思っていると。こっちのほうが先に死んじまいそうだよと(……)さんは笑うので、すごいですよほんとに、とこちらも笑いを和して、元気なようなら良かったです、じゃあどうも、と会話を終えた。その頃には母親も戸口に出てきており、下りて車を発進させるのをこちらは道端で待ちもうける。膨らむライトのまばゆさのなかに雨線が視認される。車が出ると後部に乗り、すると席上に大きな酒の瓶がいくつか入った袋があったので足もとにどかした。父親が呑んだものだろう。一〇円くらいにしかならないだろうが、どこだかに売りに行くと言う。後部座席もシートベルトを締めないと駄目だと言うので背後の帯に手を伸ばして引き出し、セットした。
  • そうして発車。ラジオからはクソみたいなヒップホップが流れ出していた。このあいだ(……)くんに聞かせてもらったものと比べると、色気とか味とか、要するにニュアンスの類が全然なくて、サウンドとしても驚くほどに平板で退屈だったし、ラップもなんだかだらしないような調子に感じられた。英語だったのだが、英語圏の人というよりは日本人が喋っているような印象だった。ただこの点は確かでない。街道に出るとフロントガラスに対向車のライトが入りこんできてガラスに押印され、すべって出ていくあいだその光のなかだけちらちらと、雨粒が打っているさまがあらわになって、内部が流動的にかき乱される輪状の花が咲いたようである。
  • 信号や街灯の緑と白の明かりが球体として行く手の道々、正面のガラスに画された空間のなかで暗さを背景としててんでに浮かんでおり、魔法で生み出されたエネルギー球のようなイメージを覚える。細道へと折れて図書館へ。本を返してきてほしいということだったのだ。何冊かが入ったきれの袋を持って降り、すでに閉館後で正門は閉まっているので脇の小さな入口を通り、館の前へと歩きながら左方の駐車場に目を振ると、敷地の向こうがあらわに見えるのに引っかかり、木が伐られたらしいと即座に気づいた。以前は敷地を縁から囲むようにして木々が生えており、夏などセミどもがミンミンミンミン騒いでいた記憶があるのだが、それらの木が伐られたというかすべて跡形もなく消え去っていた。ブックポストに本を入れておくと車にもどり、雨が多少降っていたがもうここから歩いていくと告げてバッグを取り、母親と別れた。
  • 角の元天麩羅屋のあたりで香ばしい料理のにおいを嗅いだ。雨は光を見なければ視認できない程度の降り方だけれど確かに降っており、顔に冷たいというほどですらないがスーツとバッグが水気を帯びていく。コンビニの前に男子高校生が一〇人以上もまとまってたむろしていた。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • あとそうだ、忘れるところだったがこの日の勤務中には特筆するべきことがあった。毎授業の開始時に講師のひとりが号令をして連絡事項を伝えるとともに区切りをつくっているのだが、この日はこちらがやる番になっていたので室の中心あたりに立って始めたところ、急に緊張感が高まってきたのだ。それで胃のほうから何かがせり上がってくるような、もしくは逆に喉がからだの奥のほうへと引っ張られ巻きこまれていくような感じと言うべきなのかもしれないが、どちらにせよ喉のあたりが詰まる例の感覚がおとずれてきて、言葉を発するのが辛くなったので、動揺を悟られないように苦心しながら大雑把に省略してなんとか体裁をつけたのだった。その後、自分の区画に行って授業をするあいだも、生徒と向かい合って話していても緊張が膨らんでくるときがあったので、念のために飲んでおくかとロッカーから財布を取り出して、長いこと入れてあったロラゼパムを一錠、水もなしにそのまま服用した。ロラゼパムは二〇一八年の夏頃だかに飲まなくなったので(症状が不安ではなく鬱的な無気力無感情に移っていたからだ)、二年と半年くらい空けて久しぶりに飲んだのだけれど、それだけ間が空いているとやはり効くようで、なかなか良い感じに心身が収まってそのあとは何も問題なかった。なぜこのタイミングでこのような緊張が再発したのかはわからない。そもそもこちらは人間たちの前に立って言葉を発するなどということは大の苦手であり、だから(……)さんにもおりおり、さりげなく、号令やりたくないっすわ、と口にしていたのだけれど、それでもいざやるとなればいままでは問題なくこなせていたのだ。要因として思いつく可能性は、この日は茶を飲んであまり間がなかったのでカフェインが強くキマっていたか、常態的な夜ふかしのせいでいわゆる自律神経が狂ったか、こちらの無意識が労働を忌避するあまりついに反乱を起こしたかの三つくらいだ。二〇一七年末から一八年初頭にかけて頭が狂ったときにも発端は勤務中に起こった久方ぶりの発作的不安だったので、これもまた変調の兆しではないかという警戒は当然働く。ただ、昔のそれに比べれば緊張の度合いはよほど軽かったというか、主観的感覚としては「不安」にすら至らず「緊張」のレベルにとどまる程度のものだったので、大したことにはなるまいと高をくくっているし、大したことになってもとりあえず死ななければ問題はない。抗鬱剤の類、すなわちSSRIであるセルトラリンは一一月四日に飲んだのが最後で、たぶんこれはもう飲まなくて大丈夫だと思うのだが、今回みたいな事態のためにロラゼパムを一〇錠くらい頓服用としてもらっておこうかなと思った。医者ももう行かなくて大丈夫だろうと思っていたので、いずれ菓子でも持って最後の挨拶だけしに行こうと考えていたのだが、そのときにロラゼパムを処方してもらえば良いだろう。
  • 雨はやんでいた。駅に入り、ベンチに座って手帳にメモ書き。マフラーを巻いていればまだどうということもない気候だ。電車に乗って最寄りに行き、降りるとやはりベンゾジアゼピン抗不安薬が効いていて、恍惚とか酩酊までは行かないが身体が良い感じに重く、めちゃくちゃゆっくりとした歩みで帰路をたどる。頭のなかもかなり静まっていた。こちらの頭のなかには基本的に常に何かしらの言葉か音楽かイメージが蠢いているのだけれど、その動きが弱くなったというか、見えづらく、遠くに行ったような感じで、意識野がやたら明晰だった。
  • 帰宅するとすでに九時五〇分ごろだったので、Woolf会にはむろん間に合わない。室に帰るとコンピューターを点け、LINEに遅れる旨を投稿しておき、食事に行った。牛肉の炒め物や天麩羅をおかずにして米を食う。そのほか大根の味噌汁など。テレビは『家、ついて行ってイイですか?』を映しており、元祖デコトラ野郎だとかいう男性が登場した。映画『トラック野郎』に自分のデコトラが使われたと言い、菅原文太と話もしたとのこと。本人曰く、当時も何人かトラックをデコレーションしている人間はいたが、自分ほど本格的に徹底的にやったのははじめてだったと言う。彼の家まで三時間くらいトラックに乗ってスタッフがついていき、来し方の話を聞くわけだけれど、トラックは一六台くらい持っていたようだし、三年前に建てた家も見るからに金持ちのものだったので、たぶんトラック会社の社長だったのではないか。ただ最初から富裕だったわけでなく、一九で結婚して子もできたものの離婚、子どもたちは別れるときにお父さんのほうに行くと言うから引き取り、トラックの仕事だったから家にもおれず子らを連れて移動し、車のなかで寝泊まりしつつ子どもの服はガソリンスタンドの人目につかないところで洗って、と苦労しながらひとりで二人を育て上げ(途中から実母が孫を引き受けて世話をしてくれたらしいが)、生もそこそこ押し詰まってきたいま良い人を見つけて再婚し、終の棲家というわけで(本人は「最後の城」と言っていたと思う)この家を建てたとのことだった。大した人だ。人柄としてもかなり気っ風の良い感じで、男性的ではあるものの気さくで圧迫感がなく、礼儀も正しくて粗野なところが見られなかった。
  • 食事を終えて一〇時半頃、兄の部屋でZOOMに接続。いつものことだが本篇の前に雑談があって、国民投票法改正案が審議入りする件について(……)くんが話した。安倍晋三のスキャンダルで世が騒いでいるあいだにしれっと通すという魂胆だろうが、関心が集まれば集まったでスキャンダルの印象が薄くなると、両面の目論見があるのではないかとのこと。国会前では反対のデモも行われていると言う。改正案はともかくとしても、CM広告を規制しないと資本とマンパワーを圧倒的にそなえている与党側の情報宣伝がまさることは明白で、目立った者勝ちの状況になってしまうということも話された。
  • 今回のTo The Lighthouseの範囲は以下。

 (……)so that the monotonous fall of the waves on the beach, which for the most part beat a measured and soothing tattoo to her thoughts and seemed consolingly to repeat over and over again as she sat with the children the words of some old cradle song, murmured by nature, "I am guarding you — I am your support," but at other times suddenly and unexpectedly, especially when her mind raised itself slightly from the task actually in hand, had no such kindly meaning, but like a ghostly roll of drums remorselessly beat the measure of life, made one think of the destruction of the island and its engulfment in the sea, and warned her whose day had slipped past in one quick doing after another that it was all ephemeral as a rainbow — this sound which had been obscured and concealed under the other sounds suddenly thundered hollow in her ears and made her look up with an impulse of terror.


 (……)そうして、浜辺に打ち寄せる波の単調な音だけが聞こえていた。その波音は、たいていは控え目に心を和らげるリズムを奏で、夫人が子どもたちとすわっていると、「守ってあげるよ、支えてあげるよ」と自然の歌う古い子守歌のようにも響くのだが、また別の時、たとえば夫人が何かの仕事からふとわれにかえった時などは、そんな優しい調子ではなく、激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ、この島もやがては崩れ海に没し去ることを教えるとともに、あれこれ仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもするのだった。そして今、普段はほかの音にまぎれ、隠されているこの波音が、突然夫人の耳に大きくうつろに響きわたり、恐怖に駆られて思わず彼女は目を上げた。
 (岩波文庫、29~30)

  • またやたら長くてわかりづらい記述だが、構造としては前回、すなわちこの段落の前半分とおなじような形で、the monotonous fall of the wavesにwhichで導かれた修飾節をひたすらに重ねつらねていき、主動詞を置かないままにダッシュを挟んで、波音をthis soundとあらためて言い換えて文を閉じる、という方式だ。あとは修飾節内のwhichに対応する動詞を見極められればどうにかなる。whichを受ける動詞は、beat (a measured and soothing tattoo)、seemed、had(no such kindly meaning)、beat(the measure of life)、made、warnedである。あとは合間にその下位節の動詞がおりおり差し挟まっている。
  • あとこちらが珍しく思ったのは、"warned her whose day had slipped past in one quick doing after another that it was all ephemeral as a rainbow"の部分で、ここはherという代名詞にwhoseの修飾が付与されている。代名詞に関係詞節を、しかも限定用法でつけるというのはあまり見ない気がするのだが。
  • あとはthis sound(……)thundered hollow in her earsも、意味としては良いのだけれど文法的関係はよくわからない。hollowが副詞的な意味合いになっているはずだが、通常hollowに副詞の用法はない。補語的な使い方なのではないかと(……)くんが言ったが、たしかにそう理解するのが良さそうだ。
  • 内容面としては、夫人が話し声やさまざまな物音や波の響きに耳を傾けているこの段落はかなり感覚的に研ぎ澄まされたような、日常的にはあまりないであろう知覚様態を描いており、耳に入る音をことごとく拾ってそこから意味やイメージを大きく膨らませていくこの意識のあり方は、ジョン・ケージ的な趣があると言っても良い気がする。瞑想を習慣的に訓練して、感覚的センサーを高めた状態で外に出たときの意識をめちゃくちゃ丁寧に記述すると、わりとこういう感じになるというのはわかる。詩人とか作家とかはけっこうみんなこういう風に物事を感知していると思うのだけれど、ただWoolfのこの描写の場合は、みずから能動的に意味情報を拾いに行くというよりは向こうから勝手にどんどん流れこんできてしまうという感じが強い。そして、自分のなかに入りこんできた聴覚情報が心理や精神にかなり直接的に作用してイメージや感情を生起させている。だから、(……)くんが統合失調症的な感じと言っていたけれど、自他の境が淡く、弱くなっているような雰囲気はたしかにある気がする。
  • 本篇はそんなところ。今日は『イギリス名詩選』は読まなかった。To The Lighthouseのあとは音楽や漫画や教育の話題など。(……)くんが塾講師をやっていたときにどんな話をしていたかなどを聞く。国語で文章を読むにしてもけっこう精読というか、書いてあることを徹底的に具体例に噛み砕いて理解させたり、あとは余談としてもろもろの哲学者の話とかしていたらしいので、そういう風にできれば面白いんだけどなあと思う。集団授業だとむしろそういうことがやりやすいのかもしれないが、個別指導だと難しい。しかしこちらも、知識とか受験とかうっちゃって、もう余談をするために塾に行くような意識で働こうかなと思った。
  • (……)漫画の話をしているときに(……)くんが『Blue Giant』に触れてエピソードを紹介してくれたのだが、やはり面白い作品のようだ。GiantはたぶんGiant Stepsから来ているのだろうというところからJohn Coltraneに話が及んで、Coltraneのことを考えるといつもあいつどんだけ努力したんだよと思って、人間の力ってすげえなあとなります、五六年から五九年の三年間でめちゃくちゃ進化してますよと述べると、その音源を聞きましょうということになった。それで(……)くんに画面共有してもらい、Miles Davis QuintetRelaxin'』の"If I Were A Bell"と『Giant Steps』の表題曲とを続けて流してもらったのだが(ZOOMは画面共有をして音楽を流すと通話している全員にそれが聞こえる)、久しぶりに聞いたけれどやっぱりすごいなと思った。
  • そのあと何かの話が差し挟まれたのち、三時が近かったので、最後に一九六一年のBill Evans Trioの"All Of You (take 1)"を流してもらって三人で聞いたのだが、(……)くんはあまりピンとこなかったようだ。こちらがめちゃくちゃすごいと断言している理由がわからないようで、これの良い基準はなんですかとたずねられたので、あらためて訊かれるとなかなか説明しづらいのだけれど、やはりとにかくすさまじく複雑な秩序が成り立っているみたいなことを言うとともに、Scott LaFaroの狂ったような多動性と、Bill Evansの迷いやよどみの一瞬もない不動性についてちょっと触れた。(……)さんは良かったですと言い、ベースがピアノみたいな、とも漏らしていた。(……)くんもやはり、ベースが目立ちすぎ、動きすぎかなと思いましたと言っていたと思う。(……)くんはBill Evansでは『From Left To Right』が一番好きらしく、その冒頭(たしか"What Are You Doing The Rest Of Your Life"だったと思う)を聞いたのだが、彼の言うとおり映画音楽的な色合いが強いメロウな音楽になっていた。ストリングスも入っているのだけれど、全体のアレンジもEvansがやったのだろうか?
  • 会のあとは風呂に入り、やはり音楽を聞かなければ駄目だと思ったので、四時半に消灯する前にBill Evans Trio, "Gloria's Step (take 1, interrupted)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#2)と、Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "Here Comes The Sun"(『In Pursuit』: #1)を聞いた。しかし、その時間ではむろんもう聞いているうちに意識があやふやになってきていくらも感得できるものでない。それでも良いのだ。とにかく音楽にじっと心身を傾けるという時間を、一日のなかで一曲分だけであっても取らなければならない。


・読み書き
 12:48 - 13:23 = 35分(2020/11/25, Wed.)
 13:24 - 14:03 = 39分(2020/11/23, Mon.; 完成)
 14:03 - 14:43 = 40分(2020/11/24, Tue.; 完成)
 14:54 - 15:02 = 8分(2020/11/25, Wed.)
 15:05 - 15:55 = 50分(平井)
 16:06 - 16:26 = 20分(Woolf)
 16:31 - 16:45 = 14分(2020/11/25, Wed.)
 16:48 - 17:00 = 12分(過去の日記)
 17:08 - 17:20 = 12分(2020/11/25, Wed.)
 計: 3時間50分

  • 2020/11/25, Wed. / 2020/11/23, Mon.(完成) / 2020/11/24, Tue.(完成)
  • 平井正穂編『イギリス名詩選』: 28 - 33
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994): 12/L18 - 25(翻訳)
  • 2019/9/5, Thu.

・音楽
 28:15 - 28:28 = 13分(Evans Trio / van Ruller & van den Brink)

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Bill Evans Trio, "Gloria's Step (take 1, interrupted)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#2)
  • Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "Here Comes The Sun"(『In Pursuit』: #1)