2021/1/24, Sun.

 「イマジネール」について、バルトは一九七一年につぎのように語っている。「イマジネールとは、内的表象の総体として(一般的な意味である)、あるいはイメージの欠在の領域として(バシュラールやテマティック批評にみられる意味である)、あるいは[…]主体が自分自身にたいしていだく見誤りとして(ジャック・ラカンの語の意味である)、理解することができる」(『サド、フーリエロヨラ』、六九ページ)。本書でも「〈イマジネール〉は、一九六三年には、漠然とバシュラール的な語にすぎないが、一九七〇年になるとこのとおり洗礼しなおされて、全面的にラカン的な〈想像界〉の意味に移行している(歪曲さえされている)」と述べている(「大げさな語のやわらかさ」の断章より)。ジャック・ラカンの言う「想像界」とは、眼前の他者(鏡像や母親)によって自己のイメージを形成してゆく同一化の領域のことであるが、バルトは自分でも「歪曲」と言っているように、かなり自由に意味を広げて〈イマジネール〉の語を用いており、ときには「ナルシシズム」に近い意味で使われることもある。「わたしが『わたし』と言うたびに、自分がイマジネールのなかにいると確信することができる」(「ロラン・バルトのための二〇のキーワード」)、「イマジネールとは、イメージを全面的に想定することであり、動物にも存在している」(本書「想像界」の断章)、「自分のものとしてわたしに属するもの、それは〈わたしの〉イマジネールであり、〈わたしの〉幻想である」(本書「退行」)、など。このように多様に用いられる〈イマジネール〉の語は、「想像界」だけでなく「想像的なもの」「想像的領域」「イメージの世界」など、さまざまな訳語が必要となるであろう。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、275~276; 訳注1)



  • 起きて居間に上がると、雨がやや降っていて、視認は視線を固めないと難しいが、窓の外の空中が微振動していた。
  • 新聞。米大統領選にかんしてTwitterなどで大規模に拡散された日本語の投稿のうち、誤情報と認定されたものをひろめている投稿か、あるいは根拠が不明瞭な不正選挙の主張が多数だったとの話題。四割くらいがそういったもので、くわえて三割が不正を前提とした投稿であり、結果的に合わせて七割が選挙が不正だという認識を支持するものだったと言う。調査期間はたしか一一月四日からの一週間だったか。データ集計の基準は、二〇〇〇回以上リツイートされたものだったと思う。数はたしか一八六ほど。七割以外の残りの一三パーセントほどは単にドナルド・トランプを支持する類の内容だったとあったから、つまりジョー・バイデンを支持する種類の投稿はこれらと同じ程度の規模で拡散することはまったくなかったか、ほぼなかったということだろう。一二月四日の時点で再調査したらしいのだが、そのときも結果はほぼ同様だったと言う。
  • 飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)を読み終えた。次に何を読もうかなと迷って、ミシェル・フーコーにそろそろ手を出してしまい、『狂気の歴史』でも読むか、あるいはバルトか、ショアー関連も読みたい、それか古井由吉の『詩への小路』か、ベンヤミンも良い、などと積んである本たちを見ながら考えたのだが、なんとなく思想系の方面が読みたいような気はしていた。いま、『白鯨』、ツェランと来ていて、やはり小説・詩・それ以外のローテーションでまわしたいような気はする。しかし、そう思っていても、どうせ忠実には守らない。ともかく批評か思想かそういう系かなと見ていると、ポール・ド・マンに意識が行って、読んでみるか、と思い、積み上げられている本たちを慎重にどかし、合間で埃も払いながら、ポール・ド・マン関連の本を移動させておいた。本人の『盲目と洞察』、『読むことのアレゴリー』、それに土田知則の解説書。あと、このとき移動させるのを忘れたけれど、平凡社ライブラリーの『美学イデオロギー』もある。ポール・ド・マンを選んだというのは、やはり、言語を読むということはどういうことなのか、ということを理解したかったり、あるいは実際に言語を読んでいる優れた例を見てそこから触れ方を学びたい、という関心から来た選択なのだろう。それで、『盲目と洞察』と『読むことのアレゴリー』のどちらにしようかと迷って、後者のほうがプルーストとかリルケとか実作を論じているもので、すなわち作家のテクストに直接赴いているものなので、そちらのほうが良いかなとも思ったのだけれど、ここは発表順に行くか、というわけで、一九七一年に刊行された『盲目と洞察』を選んだ。それで五時過ぎまで書見。
  • 夕食調理中のことは忘れた。アイロンも掛けたはず。
  • 夕食時は、新聞日曜版の薄いほうから、平田篤胤についての記事を読んだ。ニッポン絵ときなんとか、みたいなシリーズ名だった気がする。「七生舞の図」というものが紹介されており、これは平田篤胤が仙境に行ったと語る少年寅吉から話を聞き取り、その口述をもとにして絵師に描かせたものだと言う。いくらか青がふくまれた感じの、青銅的な緑の衣装に身をつつんだひとびと(仙境ということはたぶんみな仙人なのだろうが)が、真ん中に立てた柱のまわりを囲んで演舞している図で、たしかになんかちょっと異なものを感じさせるような雰囲気をおぼえた。国立民俗博物館だったか、そんなような名前の施設が所蔵しているらしい。平田篤胤は「仙境異聞」とかいう著作に「七生舞の記」として寅吉のことを記しているという。寅吉が天狗にさらわれて仙境に行ったのは七歳のとき、そこから帰ってきて平田篤胤が聞き取りをした一八二〇年の時点では一五歳だった。さらわれたのは常陸国の岩間山、現茨城県愛宕山だと言い、記者が行ってみたところでは標高三〇〇メートルほどの小さな「近所の山」なのでやや拍子抜けしたようだが、山頂には愛宕神社とともにその裏に飯綱神社というものがあり、そこに天狗をまつる石だか像だか祠だか忘れたがそういったものがいまもあるらしい。この山は江戸時代には修験者が修行していた地で、成田山を越える参拝客が集まっていたとのこと。ただ明治になって神仏分離もしくは廃仏毀釈の動きが高まるとともにその地の修験道も廃れたわけだが、平田篤胤の死後に門下の連中が排仏の趨勢にいくらかなりとも影響をあたえたことを考えると複雑な気分を禁じえないと筆者は漏らしていた。記事の最後には少年寅吉のその後についても触れられていたのだが、長じてのちは銚子で医業に従事していたと知らせる一九二五年の雑誌記事があると言う。それによれば、寅吉は五五歳のとき、ということはすなわち一八六〇年のことだと思うが、自分が死んだあとは薬湯をはじめてほしいと言い残して仙境へと旅立った、と言う。「仙境へと旅立った」! これはすごい。なんだろうか、このすごい感じは。これが小説であり、世界であり、歴史だ、という感じがする。で、銚子には実際、天狗湯みたいな名前の湯屋があって、寅吉の孫が店主をつとめていたというが、一九三〇年代か四〇年代にはすでになくなっていたとのことだ。
  • 平田篤胤柳田國男にも影響をあたえた人物だが戦後はその国粋主義的な思想に対する評判が悪く、あまり顧みられなくなったらしい。本居宣長を大きな起点として、その後の国学や水戸学や一八八〇年代あたりの日本主義とか、大まかに言って近代日本ナショナリズムに至る流れの詳細と、本居宣長以前の系譜をともに学ばねばならないとは以前から思っている。国粋主義などというものはこちらの好みではまったくないが、本居宣長あたりはともかくとしても、一八四三年に死んだ平田篤胤や、明治に入って以降の連中が西洋世界の圧倒的な、ほぼ暴虐的な影響力と直面して、それとどのように対峙し、どのような危機感をおぼえ、どのように対処しようとしたのかを知ることはきわめて重要なことだろう。
  • あと、記事の最後の余白もしくは余談として、チェスタトンの「死者の民主主義」という観念が紹介されており、「いま生きている者のみで投票権を独占しようなどというのは、生者の傲慢な寡頭政治でしかない」みたいな言葉が記されており、新聞を持ってきていないので引用を一字一句そのまま正確にできていないが、これはちょっとすごい言葉ではないかと思った。ぱっと見ではそんなに大したものではないかもしれず、考え方としてはわりとありがちですらあるかもしれないが、該当の言葉を読んだそのときには、ここには何かしらの鋭さが、苛烈とすら言っても良いほどの強さみたいなものが含まれているのではないかと思った。
  • あと、平田篤胤の思想として、「顕世(うつしよ)」と「幽世(かくりよ)」というワードが一瞬だけ出てきていた。それを見ながらちょっと思ったのだけれど、「うつしよ」をそのまま読むなら、「うつしている世」という転化的理解が可能だろう。「うつしよ」とは現代語だとおそらく「現し世」と書くはずで、「現(うつつ)」にも流れるわけだが、つまりはこの現実の世界、顕在化し、あらわれている世界のことだろう。ただそれに「うつし」(うつす)という言葉が使われているというのは、もしかしてこの現実世界は、なにものか(西洋世界の観念だと、それが超越者たる神ということに、どうしたってなるだろう)が「うつしている(映している)世」というとらえ方があったのだろうか? という仮説が思い浮かんだのだった。要するに、「うつつ」(現)という言葉と、「うつす」「うつる」(写・映)という言葉とは、語源的におなじところから来ているのか? という疑問を得たということ。しかし当然、答えは知らない。「かくりよ」の「かくり」はもちろん「隠れている」ということだと思うが、その意を「幽」の字であらわすのも良い。
  • 食後は日記や音読。そうして八時から通話。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そのあと、兄への返信メールを作成。この夜はそれで大方尽きたはず。やたら長く書き、以下のように送った。(……)さんがこちらの返信に対してまた送ってきてくれて、それにまだ(一月二七日零時現在)返していないので、そちらも書かなければならない。

(……)

  • 飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)から。
  • 12: 「僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない」(「死のフーガ」)
  • 17: 「僕らは眠る、貝の中の葡萄酒のように」(「光冠 [コロナ] 」)
  • 24: 「夏のように不当に存在する言葉」(「夜ごとゆがむ」)
  • 32: 「カワセミが潜るとき、/秒刻が唸りを立てる――」(「声たち」)