2021/2/2, Tue.

 彼の不安はときおりとても強くなる――一日中ものを書いたあとの夜は、恐怖のようなものにまでなったりする――。それは、自分が二重の言述を生みだしていると感じることからきていた。方法が、いわば目的を超えてしまっているのだ。というのは、彼の言述の目的は真実を言うことではないのに、ところがその言述が断定的になっているのである。
 (これは、非常に早い時期から彼が感じた困惑であり、今もそれをしずめようと努力している――さもなければ書くことをやめねばならないだろうから――。断定的なのは言語のほうであって、彼ではない、と考えるようにしている。それぞれの文に不確実性をしめす結びの句をなにか付け加えたりすることなど、なんとくだらない解決策かと、みなも同意してくれることであろう。あたかも言語から生じた何かによって、言語を動揺させることができるかのようではないか、と。)

 (おなじ思いから、彼は自分がなにかを書くたびに、それが友人のひとりを――けっして同じ友人ではなく、いつも違う友人を――傷つけるのではないかと思ってしまう。)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、57; 「真実と断定(Verité et assertion)」)



  • 「彼の言述の目的は真実を言うことではないのに、ところがその言述が断定的になっている」「あたかも言語から生じた何かによって、言語を動揺させることができるかのようではないか」
  • 一一時過ぎに覚醒。晴天。夢をふたつ見たはず。ひとつはもっとはやい段階で覚めたときにおぼえていたもので、(……)さんと、彼の友人である(……)さん(こちらは彼に会ったことはない)と三人で旅行か何かに行っていたようなもの。旅行に行っていたというのは記憶違いかもしれないが、一室で床に座りこんで駄弁っているようなシーンがかすかに思い起こされる。もうひとつは一一時過ぎの覚醒の際に見たものだが、これがしかし覚めた直後から完全に失われてしまい、具体的な内容は何ひとつ思い出せなかった。ただ、何かあまり良くはない感触の夢を見た、というぼんやりとした手触りだけが残っていた。寝床でしばらくごろごろと、頭を左右に転がしたりしながら想起を待ったが、訪れず。一一時四五分に起床。今日はなんとなく瞑想は省いた。
  • 上階へ。母親に挨拶。ホタテご飯だと言う。洗面所に入ってうがいをしているあいだ、来客があり、母親が対応していた。その間、父親はその脇で、玄関のトイレに入っていたようだ。あとで聞いたところでは、最寄り駅そばの線路上に木が覆いかぶさるような感じになっていて、先日「火事」があったとかで(洗面所から客人の男性が話すのを断片的に聞いていたところ、たしかに「火事」という語を使っていたと思うのだが)ちょっと騒動が持ち上がり、それを処理する、とかいう話らしい。ただ、客人の素性もこちらは聞かなかったのでわからないのだが、なぜそれを、(……)であるとはいえわざわざ我が家まで知らせに来たのかもよくわからない。普通にJRとか役所とか関係各者とか近隣住民などと話し合ってやれば良いと思うのだが。そして実際、そういう感じですすんでいるような話の感触だったのだが。一応、地域代表ということで報告に来たのだろうか。トイレから出た父親も話を聞いて、困惑気味というか、こっちに言われても、みたいな反応をしていた。
  • 食事と新聞。一一面あたりに村田沙耶香と宇佐見りんの対談が載っていたのでそれから読んだ。村田沙耶香の評価によれば、宇佐見りんは言葉に対する真摯さがすごいとのことで、SNSで流通しているような、軽く何気ない言葉を使っているようでも、すべての言葉に神経と細胞がそなわっているのがわかる、とのことだった。宇佐見は、本人の言によれば、中上健次が好きで彼の作品ばかりよく読んでしまうとのこと。彼の作品に感じる「境地」みたいなものに到達したいな、と思うことがあると。村田沙耶香は、小説家というのは不気味で罪深い存在だと思うと言い、自分は感情がちょっと壊れていて、と触れながら、コロナウイルスのニュースにものすごく不安になることもあれば、一方で、こういう状況において「実験体」としての人間の動きを見ているような意識もあると述べていた。小説家が「不気味」な存在である、もしくはあるべきだというのはわりと同意だけれど、「罪深い」とまで言ってしまって良いのかはわからない。危機的状況など、一定の特殊な状況においてある種の「実験体」のようにして人間を観察するという認識や心の働きは、「小説家」としては何も不思議なものではなく、むしろ当然の機能だと思う。ただ、その「実験体」のなかにみずから立ち入り混ざっていき、自分自身をも「実験体」にするか否か(できるか否か)、という点はそこそこ大きな問題かもしれない。そういう話を受けて宇佐見りんは、ものを書くことが常に誰かを傷つける可能性があるということには意識的でありたい、というようなことを言っていた。誰かが読んで良かったと思った文章が、ほかのひとを傷つけることがあるということに、と。また、SNS上で彼女の作品に向けられた感想評価のなかに、宇佐見りんは「肉体の責任を書いている」というものがあったらしく、これは、詳細な意味の内実は知れないものの、けっこうすばらしい評言 = 表現なのではないかと思った。宇佐見りんも、そう言われてとても嬉しかったと漏らしていたが、たしかにこう言われたらけっこう嬉しいのではないかと思う。
  • ほか、一面の、ミャンマーで起こったクーデターの件。アウンサン・スー・チーは拘束、彼女以外のNLD幹部も多数拘束され、大統領もNLDのひとだったから拘束され、軍の総司令官みたいなトップのひとが現時点では権限を掌握しており、副大統領はもともと軍方面のひとだったからそのひとが暫定的に大統領になっているらしい。軍部は、昨年一一月の選挙(上下院で六六四議席だかのうち、NLDが三九四を獲得した)に不正があったと主張しており、その調査をするために非常事態宣言を発したという言い分のようだ。期間は一年。調査を終えたら再選挙をおこない、その結果に応じて一年後までに政権を移行する、と言っているらしい。今回の動きはこちらなど完全に寝耳に水という感じで、事前の兆候を何も知らなかったが、もともと一月二七日だかに、軍司令官だかがクーデター的な行動を取るかもしれない(憲法を修正するかもしれない、と言ったのだったか?)とほのめかしていたらしく、それを受けて国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、民主的におこなわれた選挙の結果を尊重するようもとめる、という声明を出し、欧州各国も軍部の動きを牽制するような発言をそれぞれ提示していたらしい。この情報はたしか昨日の夕刊に書いてあった。
  • 皿洗い。そして風呂も洗う。緑茶を注いでいると、食事を終えて弁当づくりの番組をながめていた父親が立ち上がり、のろのろとした足取りで台所まで食器を運んだので、こちらが洗っておいた。流し台の前に立ちながら、カウンターを通して、テーブルの端に置かれた湯呑みから湯気が発生するのが見えるのだけれど、その少々濁った白灰色の湯気の発生の仕方と千変万化的な動きと空間上に描き刻まれてはすぐさま消えていく色合いというか存在性みたいなものが印象深く、そこだけ断片的にべつの空間になっているというか、その色の部分だけ空間が加工編集されているようなつくりものの感があり、皿を洗いながらおりおりながめていた。ゲオルク・ビューヒナーは『レンツ』のなかで、「……つくられたものが生命を持っているという感じは、美醜の判断の上に立つものであり、芸術的な事柄における唯一の基準である……」とレンツに言わせているらしいが(飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)、110; 「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」)、これと逆の印象深さもおりおり発生しうるように思われる。生命 = 自然を見たときに、それがきわめて精巧なつくりものとして映るということ。ただ、これも結局はビューヒナー = レンツの言っている言葉に回収される印象で、つまり、生命 = 自然を見ると、それがときにあまりにも精緻にできたつくりもののように見えるが、でも実際にはそれは人工物ではなくて生命を持っている自然なんだよなあ、という風に、往復的な認識の動きによって生命 = 自然性が回帰する、ということ。ただ、いま「生命」と「自然」を同視化して考えてしまったが、ここで例になったような湯気のごとき物理現象はもともと「生命」を持っているとは言えないので、それはむしろ(神によって)「つくられたもの」のほうに属するのかもしれない。だとすれば、こちらが得た印象はむしろストレートにビューヒナー = レンツの言葉に合致するのかもしれないが、しかしここでビューヒナー = レンツが言っていることは、「美醜の判断」とか「芸術的な事柄」とかいう言葉から判断する限り、直接的には人間による芸術的領域の活動を対象にしたもののはずなので、神まで持ち出すとたぶん話をひろげすぎてしまうだろう。
  • 緑茶を持って帰室。飲みながらNotionを用意。そして、前夜はクソ疲れていたにもかかわらず、なぜか脚がけっこう軽くて感触がこごっておらず、椅子に座っていても大丈夫そうだったので、今日のことをまず記述した。ここまで記すとだいたい一時間が経って二時前。今日中にここ数日の文章を終わらせて、記述を現在に追いつけることを目指す。
  • 洗濯物を入れに上階に行った。新聞の天気予報によれば今日は最高気温が一七度だとかいい、実際、ベランダに出ても光の厚みと熱がここ最近では一番強く、肌に気持ち良く、ほとんど春の陽気だった。それなので洗濯物を取りこんだあと、日向に包まれたなかで体操をしたり、座りこんでストレッチをおこなったりした。風はおりおり走ってけっこう勢いが良く、周囲の風景をざわめかせるし、おそらくあれも風が周辺の木々の壁に当たりながら水の上を吹き抜ける響きだったのではないかと思うが、家並みの先の川のほうからも、何かの機械を駆動させているかのような音響が渡ってきた。梅の木に、鳴き声を散らしながらヒヨドリが飛んできた。枝の交錯のなかにとまったあとは声を発せず、鳥類特有の段階的かつ切断的な動きで頭を動かしながらあたりを見ているばかり、隣家のほうからはべつのヒヨドリの鳴く声が聞こえてきたがそれにこたえもせず、しばらく黙っていると突然飛び立ち、空間の奥に飛んでいくかと思いきや縦に旋回しながら引き返してきて、先ほどよりも低い位置の枝にふたたびとまり、そこで頭をやたら前後に動かしていたのでおそらく餌を食べていたようだが、虫などいるのだろうか? いたとして、その姿か気配を察知して、それを食べるために一度梢から出て、枝々の網の隙間を通ってあやまたずそれを狙い移ったのだろうか。枝にはもう無数に淡紅色の蕾が添えられているが、枝本体は地味な灰色で、ただいまは空間に光がかよっているから、細い枝でも太陽のほうを向いている面は白っぽく磨かれており、もう片面は蔭を塗られている。空は無雲、唯一西の低みにのみ、ほんの小さな、屑のようなはぐれ雲が放浪者として浮かんでいた。
  • 日向ぼっこをしているとなぜかギターを弾きたくなったので、洗濯物を片づけたあとは下階で隣室に入り、ギターをいじった。ほぼAブルースをやっていただけ。アコギを買って以来、だいたいブルースを適当に弾くだけのことしかやっていないし、そう頻繁に弾いてもいないが、なんだかんだで続けていれば多少は馴染んでくるもので、以前よりも音使いがそこそこさまになっているように自分では思うし、音に対する感覚もいくらかは養われたと思う。本当はなんでも良いので弾き語りをやりたいのだが、しかしコードを取ったりうまい伴奏を考えたり歌いながらの演奏を練習したりするのが面倒臭くて一向にやりはじめないでいる。
  • 三時半まで。そこから書見。ポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)。ジャック・デリダが『グラマトロジーについて』でやっているルソー論を読み、言語の比喩的本性にかんするルソーの考察を踏まえて、デリダはルソーが(ルソーの言語が)、みずからが誤読されるだろうという可能性を明確に認識しており、それどころか主張さえしていることに気づいていないのではないか、これまでの批評家たちが積み上げてきたルソーに対する「誤読」の伝統は、ルソー本人の言語のなかにすでに織りこまれ、予告されているのではないかと述べる、みたいな感じ。相変わらず細部にかんしてはよくわからないのだが、内容としても面白いし、おりおり啓発的な文言も多くあって、場所によってはほとんど切れ目なくどの段落も書き抜くような感じになる。この本におさめられた論考のなかでも、分量から言っても熱量から言ってもあきらかに白眉で、すさまじく勉強になる、という感じ。ただ、このド・マンの本を読んできて感じるのは、著作全体としてもすさまじく勉強になるのだけれど、あくまで「勉強になる」という感覚で、ある種の小説作品に触れる(触れられる)ときのような官能性や味わいめいたニュアンスをおぼえないということだ。それはひとつには、批評と小説とではやはり違うということなのかもしれないが、どちらかと言うとこちらのうちに、批評作品を文学として(もしくは音楽として)感得する能力がまだまだ養われていないということのような気がする。
  • 読書中は、昨晩風呂のなかで考えた方針にしたがって読書ノートを運用した。すなわち、おりおり気になった文言を手書きで写しておくのだが、まあ一応、普通にそういうやり方でやっていくことは可能だ。ただ、ベッド縁に座りながらやれば姿勢の問題で腰が痛くなるし、仰向けに転がってやると今度は、本をひらいたままにしておけないから、ページを見て、本を置いてノートにちょっと文字を書き、また書を取り上げて文を見て置くとまた書き、という感じになってけっこう面倒臭いが。しかしいまのところはまたこの方式でやっていく。
  • 五時過ぎで上階へ。夕食にやることはさしてない。それなので先にアイロン掛け。テレビはニュース。大坂なおみの活躍など。CMを見てても思うが、テレビという領域は、だいたい偉大さの称賛と演出的な輝かしさの提示で成り立っている。つまり、ヒロイズムの物語で成り立っている。すべてのヒロイズムを警戒し、理想的には拒否・拒絶したいのがこちらの性分である。しかし、こちらにもこちらのヒロイズムがあるわけだし、またヒロイズムの拒絶は裏返しになったもうひとつのヒロイズムでしかないということも容易に導き出される論理だ。そこでどうするのか? というのが不明で、ロラン・バルト的に行けば戯れとはぐらかしでもって脱臼させ出し抜くのだ、ということにはなるが、これもいまやひとつの紋切型だろうし、また具体的な適用方法と応用の詳細な内実もよくわからない。ヒロイズムにかんしては、ローベルト・ヴァルザーにおいてそれを考えてみたい気はしているのだが。それはそれとして、大坂なおみがコート上を走り回り肉体を躍動させているのを見ながら思ったのだけれど、やはりああいうスポーツ選手の肉体性というのは羨ましいというか、彼らが運動しているときに感じている肉体の感覚をこちらも多少は感じてみたいなあとは思う。それにはむろん、実際に何かの運動をはじめ、続け、訓練しなければならないわけだが。彼らは自身の肉体を音楽のようなものとして感じているのではないのだろうか。楽器演奏に卓越した演奏家とアスリートとは、肉体とそこから生まれるパフォーマンスに対してはそう違わない位置にいるのではないだろうか。
  • このときではなくもうすこしあとだったように思うが、ニュースで、どこかの土地で火事によって家が焼け、逃げ遅れたその家の住民が二人、高齢の親と息子という話だったはずだが、遺体で発見されたという事件が流れ、それを見た母親が、自分で火をつけたってこともあるかもね、と漏らした。たしか遺体はすくなくとも片方が玄関あたりで見つかったとか言っていた気がして、とすれば逃げようという意志はあったはずだから、自殺や心中の可能性は低いように思うが、母親はそういう思考がよぎるくらいにはみずからの老い先を不安に感じているらしい。へらへら笑いながらではあるものの、どうする、将来二人になって、追いこまれて火をつけるしかないってなったら、とか訊いてくるので、とりあえずは行政に頼ればいいんじゃないと返した。どうやら父親は先に死ぬ想定になっているらしく、またこちらがずっとともに暮らしているつもりでもあるらしいが、こちらにその気はない。とはいえ、介護などが必要な事態になったら、兄はみずからで家庭をつくっているわけだから、金銭面は兄に頼れるかもしれないが、実際に世話をするような、肉体的労働としての側面はこちらが担当するようだろう。となれば母親の面倒を見ながらともに暮らすことになる可能性もあるにはある。仮に追いこまれて死ぬことになったとしても、家に火をつけるのは周り近所に迷惑だから普通にべつの方法で死んだほうが良いと思うが、まあでも、過疎地の農村に行けば家とかもらえるんじゃない、そこで農業やればとりあえず死にはしないでしょ、と適当に言っておいた。農業は農業でとても大変に決まっているが、しかしみずから野菜をつくってそれを食えれば、ひとまず死にはしないだろう。
  • 夕食にはメカジキをネギやエリンギとともにソテーした。これが、味付けはともかくとしても、火の通し加減、加熱の仕方としては完璧と言うほかないほどに成功し、できあがった魚の身はめちゃくちゃふわりとしていて柔らかい舌触りの肉になった。なぜそんなにうまく行ったのかわからない。べつに完璧にうまくつくろうなどという意識はすこしもなく、ただ普通に、開脚などのストレッチをしながら漫然と熱していただけだ。できるともう食事。
  • 七時二〇分から八時まで調身している。書見しながら足裏や脹脛や背をほぐすことにくわえて、柔軟の時間もやはりそれとして取ったほうが良い。あまり力を入れず、肉への負担を高くしないほうが良い。軽い状態で、ゆったり停まり、筋や筋肉が徐々に、おのずから和らいでいくのを待つのが良い。
  • 八時から九時まで一時間、音読をすることができた。「記憶」が四〇分、「英語」が二〇分。言葉を、口に出して、ゆっくりとひとつひとつ、声として発生させ読んでいくというおこないは、圧倒的に大切なものである。毎日、そのようなかたちで言葉(それは必ずしも文学と呼ばれる文章の言葉でなくても良い)に触れ、それを取り入れ、ある意味で言葉に対していたわりを向け、彼らをひとつひとつ拾うことは、圧倒的に大切なおこないである。
  • 入浴。風呂に入る前、洗面所で裸になったときに、みずからの裸体を鏡に見たのだけれど、これが、もちろん自認してはいたがあらためて見てみるとあまりにも薄いからだで、つまり前後の幅、腹と背のあいだの厚みが我ながら本当に薄く、これはさすがにもうすこし肉をつけたほうが良いのではないかと思った。とはいえ、ひとまずは筋肉を鍛えるよりも恒常的に柔らかい状態に保つという習慣を確立するのが先決で、その基盤的コンディションが持続的に高い水準で調うようになったら、多少トレーニングめいた方向にも移っていきたいと考えているが。もし肉をもっとつけたいなら、普通にもっとたくさんものを食べてエネルギーを多く取り入れないといけないだろう。
  • 風呂のなかでは静止。風呂はもうほぼ瞑想の時間にしたい。上がると一〇時過ぎからまた日記。前日分まで仕上げることに成功。よろしい。基本的にはその日のうちに前日の記述を仕上げること、これを定かな原則として実現させたい。遅れたとしてもせいぜいもう一日分、つまり当日から二日後までには記述を完成させる、という習慣を続けられるようにしたい。
  • その後はだらだらしたり、この日のことを綴ったり。当日のことも、できれば、寝床に就く時点で、そのすこし前くらいまでもう記述してあって、翌日にほんのすこしだけ書き足せばもう完成、という風にできればとても良い。そこまで十分にやるのはなかなか難しいだろうが。三時直前からド・マンを読みすすめて、三時三五分に消灯。翌日は一一時から勤務だったので、八時半に鳴るようアラームを設定しておいた。